甲斐国編・第九話
甲斐国編、第九話投稿します。
今回は天下人登場の話になります。
天文二十二年(1553年)十二月、遠江国、頭陀寺城、木下藤吉郎――
最近、憂鬱だ。
俺が殿に仕えてから、もう一年になる。
殿は良い御方だ。俺が百姓の出であるにも関わらず、優しく接してくれる。そして決して出自を理由に差別したりしない。その上、槍を使えば達人と言われた御父君から手ほどきを受けただけの事はある実力をお持ちの御方なのだ。このような御方、滅多に出会えるものではない。
それなのに憂鬱なのは、周りとの人間関係の悪化だ。
一言で言えば、俺は嫉妬されている。新参者の百姓風情が殿に……という訳だ。確かに俺は殿に喜んで貰いたくて必死に働いた。それのどこが悪いんだ!やっかむなら、お前らだってそれぐらい働けば良いだろうが!
「おい、藤吉郎、殿がお呼びだ」
慌てて駆け足で殿のおられる部屋へと向かう。後ろからやっかむ声が聞こえてきたが、そのような下らん事はどうでも良い。
「殿、木下で御座います」
「うむ、入れ」
中に入ると、殿が一人でおられた。何か文を読んでいたらしい。ただ笑顔である事から吉報なのだろうと思った。
遠江国の国人衆である松下嘉兵衛之綱様。御齢だけで言うなら、俺と同じ十六歳。
だが腕っぷしの弱い俺とは雲泥の差がある。戦に強く、家臣に優しい。完全無欠とは、このような御方の事を言うのだろうな。
「藤吉郎、其方、辛くはないか?」
「な、何を仰せに」
「さすがに気付いている。其方は働き者だ、だがそれを妬む者もいる。恥ずかしいばかりだ。其方を妬む前に、もっと真面目に働くべきだと言うのに……」
頭を振り、溜め息を吐かれる。
何故、殿がこのような事で悩まれなければならんのか。殿が悩むべき理由は何処にも無いというのに!
「のう藤吉郎。其方さえ良ければ、心機一転して励んでみる気はないか?」
「心機一転、でございますか?」
「そうだ。正直に言おう。我が松下家は今川家の陪臣である飯尾家にお仕えする陪々臣という御家であった。その今川家も今は武田家の家臣となり、結果として松下家は武田家の陪々々臣になってしまった。所領も小さく、はっきり言えば、大した御家でもない」
確かにそうだ。縁あってお仕えしたが、その時すでに今川は滅んでいたのだ。
当主である今川治部大輔義元様は東海一の弓取りと謳われる程の名将であられたそうだが、残念な事に酒で体を壊し、そこを武田家に付けこまれたと聞いている。
不意を突くとは卑怯千万という声も聞こえたというが、そもそも命の奪い合いをする時に、正々堂々も卑怯も無いと思うのだが。
いかん、今は殿の御話に集中しなければ。
「藤吉郎。御屋形様の御次男、武田二郎様が其方を欲しておられる。家臣にしたい、とな」
「……は?」
「今、申した通りだ。二郎様はお前を召し抱えたい、と仰せになられている。足軽大将待遇で俸禄は年二百貫文出すとの事だ」
言葉が無い。衝撃が大きすぎて、頭の中が真っ白だ。御屋形様の御次男が俺を欲している?一体、何がどうしてこうなった?
そもそも、俺は喧嘩もろくに出来ない、真面目に働くしか能のない百姓だぞ?読み書き計算程度ならできるが、書物だって満足に読んだこともない。せいぜい、寺にいた頃に経文を読まされた程度だ。
「で、ですが御屋形様の御次男となれば、それこそ一族代々お仕えしてきた御方や、武勇誉れ高き猛者たる御方がおられるかと……」
「それが二郎様は変わった御方なのだ。まず武田家に先代からお仕えされておられる御方は守役の小畠山城守様とそのご子息だけ。噂によれば、原美濃守様もおられるそうだが、詳しい事は俺にも分からん。後は、たまに四天王の方々や信濃の真田様、御屋形様付の山本様がお越しになられるそうだが、基本的には二郎様が自ら見つけ出し、教育を受けさせた孤児達ばかりだそうだ」
「そ、そんな事があるので御座いますか!?」
「其方が驚くのも当たり前よな。だが、どうやら事実らしい。その上な、十の頃から甲斐一国の差配を御屋形様より許されたのだそうだ。そして元・孤児達を自在に操り、今や甲斐の国は常備兵五千に直属兵二千、合計七千もの兵を年中保持する裕福な国へと変わりつつあるそうだ」
ど、どうしたらそんな事が出来るのだ!?
甲斐が貧しいという評判は俺も聞いている。間引きとかが当たり前だと。そんな地獄じゃなかったのか、甲斐国は!
「二郎様はお前に槍働きは望んでおられない。二郎様は政を進める為に其方を欲しておられるようだ。知恵働きを求めている、ということだろう」
「槍働きを求めていない?」
「二郎様のお傍には、そういう者達もおられるようだな。なにせ側近の中には女子もおって補佐をなされているとも聞いている。そうかと思えば、女子でありながら直属兵に志願して、配属を許された者もいるそうだ。つまり、実力さえあれば、出自も性別も一切問わぬ。と言う事だろう」
これでまだ元服前とは、末恐ろしい御方だ。そう殿が呟かれる。ああ、確かに俺も恐ろしい。俺より年下であるにも関わらず、一国の差配を任された挙句に成功させてしまう。そんな実力をお持ちとは、一体、どのような御方なのだろうか。
「実に惜しい事だ。御次男とは言え、光さえ失っていなければ御屋形様も……」
「殿、お持ち下さいませ。ひょっとして二郎様は御目が?」
「うむ。生まれついての奇形らしい。御目が開かんそうだ」
目が見えない。そのような状態で、甲斐を裕福にする事をやってのけたと言うのか!其程の才をお持ちの御方が、俺を召し抱えたい、だと?
「どうだ?藤吉郎。二郎様は年明けに駿府城へお越しになられる。その時、一緒に甲斐へ向かうと良いだろう。それに待遇も間違いなく良い。お前の才、思う存分発揮できるだろう」
天文二十三年(1554年)一月、駿河国、駿府城、武田晴信――
「これで其方も一人前だ。武田二郎信親よ」
「忝う御座います。今後も武田家の為に励んで参ります、御屋形様」
「……二郎、そこは父上で良かろう」
「なりませぬ。武田家は一枚岩でなければなりませぬ。某は兄上より下である事を示さなければなりませぬ」
駄目だ。こいつは賢いが、一度決めると梃でも動かん。確かに言いたい事は理解出来る。二郎の功績は大き過ぎる。故に二郎は太郎(武田義信)の後継ぎと言う地位を守ろうとしているのだろう。その気持ちは有難いが、いくら何でも堅過ぎるわ。
「典厩(武田信繁)。其方からもこの頑固者に言ってやってくれ」
「御屋形様、ケジメは必要にございます」
「弟のお前まで二郎に味方するのか!」
少しぐらい俺の言う事を聞いてくれても良いだろうが!
「何故だ!二人とも、小さい頃はあんなに素直だったというのに!」
「「記憶に御座いません」」
「嘘を申すな!」
チラッと家臣達を見やれば、必死に笑いを堪えておる。お前達、そんなに俺の事が面白いのか!
「太郎!何故、其方まで俺を笑うのだ!」
「いえ、父上が駄々を捏ねる所を初めて見ましたので」
「この親不孝者が!少しは父を助けぬか!」
だが太郎が手を差し伸べる気配はない。太郎は決して愚かではない。二郎が己の事を次期当主として立てている事は嫌と言うほど理解している。だからこそ、二郎の気配りを無にする事は出来ない。そう考えているのだ。
兄を支え、兄を守ろうとする弟。
弟を疑う事をせず、弟の期待に応えようとする兄。
この二人が仲良き兄弟である限り、武田家の未来は明るいと言えるだろうな。
「ああ、もう良いわ、頑固者共が。それで、二郎。甲斐の現状について報告する事があるのだろう?」
「はい。まず食糧問題は解決が見えて参りました。甲府では飢えは見られませぬ。しかしながら山奥に入ると、まだまだ、と言った所でしょうか。時折、食糧支援を行う事も御座います。ですが、甲府の噂は周辺諸国に届いているらしく、故郷を捨てた流民が逃げて参ります」
「そうか、遂にそこまで来たか」
「あとは釜無川の堤防と用水路、血吸虫対策です。堤防は年内に二割程が完成、用水路は建築準備中になります。堤防についてはこのままいけば八年以内には完成に至る目途が立って御座います」
ああ、もうすぐだ。もうすぐ甲斐は地獄から完全に解き放たれるのだ。どれほどこの日を願った事だろうか。
甲斐の民が味わい続けてきた塗炭の苦しみ。
それから解放するのが俺の願いであった。だが、それを元服したばかりの二郎が一気に推し進めたのだ。父親として息子が誇らしいわ。
「堤防の造成についても、良さそうな人材を発見できました。その者に堤防、用水路、血吸虫対策を行わせる予定で御座います」
「分かった。俺の事は気にするな。甲斐の事は其方に全て任せてある。だが何故そこまで急ぐのだ?」
「御屋形様の事で御座います。某を甲斐から移動させ、他の地を豊かにさせるのではないかと考えておりました。今なら甲斐の地は、褒美として高い価値を有します」
確かにな。金山以外に、油や蜂蜜、綿花による銭という収入。
今の甲斐は十年前とは比べ物にならん。親父が見たら腰を抜かすだろうな。
それにしても二郎は聡い。ならばちょうど良い。二郎にも箔をつけさせんとな。
「二郎、俺は武田家の統治下に入った遠江を通過して、三河へ進軍する。春になる前に手勢を率いて、ここへ来い。どれほど連れてこられる?」
「精鋭二千と常備兵二千。都合四千。三千は甲斐の守りに残したく存じます」
「四千か、十分すぎるな。兵糧はこちらで用意しておく。三月半ばに四千を率いてここへ戻ってこい。三月末に進軍を開始する」
二郎は心得ました、と頭を下げて俺の命を受け入れた。それにしても即答で四千を動かすか。
甲斐を知る家臣達も、二郎の即答に目を丸くしておるな。
当然だ、甲斐は貧しかった。常備兵を雇う余裕など、一切なかった。百姓兵をタダで徴兵し、攻め込んだ先で乱取り自由。それを褒美とする事しかできなかった。率いる兵も六千程度で限界であった。それが甲斐という国だったのだ。
それが、常時七千の兵を有するとは。事実である事は分かっているが、信じられんわ。
「二郎よ、常備兵だが、俸禄はどれぐらい支払っておるのだ?」
「合計で年間三万五千貫文に御座います。兵一人辺りだと、年間五貫文に御座います。他国の三倍ほどかと。あとは中食もこちらで提供しております」
遂に家臣達からどよめきの声が上がった。当然よな、毎年三万五千貫文以上を払い、なおかつ国を破綻させないのだ。よくもまあ、そんな真似が出来たものだわ。
やはり、肝は油なのだろうな。
税以外の収入。これが大きいのだろう。
「二郎よ、もし全ての銭を兵の雇用に使えばどうなる?」
「大雑把な計算では御座いますが、一万は追加出来ます。やるつもりは御座いませぬが」
「何故だ?」
「甲斐国はまだまだ不安定に御座います。何が起きても良いように、銭の余裕は残しておきたいと存じます。実際、食料が無いという助けを求める声が上がってくる事も御座いますので」
なるほどな。民を第一に考えるか。やはり二郎の本質は治世にあるわ。
奪うよりも育てる。それが二郎の才なのであろう。
まあ良い。治世も大事だが、乱世においては軍才も大事。二郎が用意した、常備兵の質を見せて貰うとするか。
「ところで御屋形様。二つほど献策を行っても宜しいでしょうか?」
「申してみい。納得できるものならば採り入れよう」
「有難き幸せ。まず一つ目は今川時代より人質とされており、未だにこの城で寝起きを強制されている三河松平家の跡取り、竹千代殿の事です。まず竹千代殿を三河に返還する事を献策いたします」
ほう?そうきたか。人質として使え。そう来ると思っていたのだが。
それとなく周囲を見回せば、家臣達も訝し気に二郎と見ておる。やはり人質として、三河松平家を使い潰さぬ事に首を傾げているのだろうな。
「何故、人質として使わぬ?」
「無意味だからで御座います。西三河は松平一族の土地。しかし彼等は竹千代殿の家を宗家と仰ぐ分家の集合体になります。長年都合良く利用してきた今川と織田には恨みや怒りはあれど、武田にはそれほど負の念を抱えてはおらぬでしょう。竹千代殿を質としている以外、まだ何もしていないのですから」
「確かにそうだな。つまり恩を売れ、という事か」
悪くはない、西三河を労せずして手に入れられるのは有難いわ。その上で、松平には戦に出れば、褒美も与えるようにする。
さすれば、武田は織田や今川とは違うと理解するであろうし、今後も武田家に協力するようになるであろう。
奉公しても只働きを余儀なくされるのと、手柄に見合った褒美を与えられるのとでは雲泥の差があるからな。
「だが反旗を翻したらどうするのだ?」
「潰します。恩を仇で返すような馬鹿は不要で御座います。ついでに言っておけば良いでしょう。反旗を翻したければ翻せ。踏み潰してやろう、と」
「良き案よ。そこまで言われれば頑固な三河侍共もおいそれとは動けんだろうな」
それでも理解出来ぬ馬鹿は踏み潰すだけだ。実に分かりやすい。
家臣達も納得したようだ。特に典厩や勘助は満足そうに頷いている。二郎が決して甘くはないという事を察したからであろう。
「二つ目の献策になりますが、三河進軍以降の事はどのようにお考えで御座いますか?」
「そうよのう。まずは尾張だな。だが大うつけには蝮がついておる」
「織田信長という男、うつけではありませぬ。恐るべき男でしょう。蝮が策謀を得意とする名将ならば、信長は戦略に特化した名将と見受けます」
どういうことだ?二郎はどうして、そのような判断をした?
「理由を申せ」
「情報元は某が召し抱えている種子島職人の伝手で御座います。昨年、信長は国友村に種子島五百丁を注文しております。加えて楽市楽座も実行に移しているとの事。今、尾張は空前の賑わいを見せていると聞き及んでおります」
「ほう?では物資で困るという事は無いか」
「はい。決して甘く見てはなりませぬ。蝮と組まれている以上、苦戦は必至かと」
確かに二郎の言う通りだ。三河は良い。
だが尾張は分裂しているとはいえ、少なくとも織田信長は油断は出来んようだな。
豊富な物資、五百丁の種子島、多くの情報、加えて蝮の介入があるのでは……
「二郎よ、其方はどうするべきだと考える?申してみよ」
「まずは真田殿に飛騨を落として戴きます。その後、我等が尾張へ侵攻するのと同時に、六角に美濃へ侵攻させます。美濃の蝮の援護なくして、織田が武田家に対抗するのは不可能。もし六角が美濃侵攻に失敗したとしても、撤退時に田畑を焼き尽くさせ、秋の収穫を台無しにさせるのです。そうすれば北・東・南は我等武田が封鎖し、西は六角が封鎖する事によって美濃全体への兵糧攻めに移行できます。仮に食料を掻き集めても、塩まではどうしようもないでしょう」
「良い考えだ。ならば、更にその策を具体的に練るのだ。あとは六角への繋ぎだが」
「今晩中に蒲生下野殿に文を用意します。後ほどご確認をお願いいたします」
良い案だ。だが……試してみるか。
「なぜ武田家だけで攻めぬ?六角には何らかの代償を払って、不破関を閉じさせればよいではないか」
「それも考えましたが、欲張りすぎは身の破滅を招くかと。六角には同盟を持ちかけ、今後は飛騨経由、北陸側から京方面へと侵攻すれば領土拡大は可能です。頭打ちにはならぬでしょう。その上で将来的な点を見越して領内の通行許可で手を打って頂きます。美濃封鎖に協力する見返りとして」
ふむ。今は六角に不審を抱かれたくない、という事か。確かに今の六角は一枚岩だ。調略が通じる相手でもない。ならば三好への盾となって貰う事も考えるか。
「良かろう、では文を用意しておくのだ。使者はこちらで用意する」
「心得ました。では某は御裏方様へご挨拶に伺います」
「待て待て、その前に其方に確認したい事がある」
軽く咳払いする。
これを忘れてはならぬ。さすがに自らの失策を認めぬ訳にはいかんからな。
「美濃守(原虎胤)は元気にしておるか?」
「声色からして、あと五十年は現役で頑張れるかと。今は常備兵や直属兵を、虎盛と一緒になって鍛えております。兵達からの評判も上々に御座います」
「そうか、ならばよい」
原美濃守虎胤。親父の代から武田家を支えてきた、鬼美濃と仇名される重要な家臣の一人だ。そんな美濃守と喧嘩になったのが、昨年の事であった。
事の発端は宗教。俺が浄土宗から日蓮宗に改宗するよう迫った事だ。以来、関係がおかしくなり始め、遂には武田家を追放される寸前にまで至った。
その事が甲斐にまで届いたのだろう。二郎から文が届いたのだ。
『美濃守殿を甲斐でお預かりします。幼い孤児達に剣を指導したり、練兵に勤しむ日々を送っていれば、暗い事を考える事も有りませぬ。なにより美濃守殿ほどの人物を他家に盗られては、武田家の弱体化、内情を知られる事にしかなりませぬ』
二郎の提案には納得できるものがあった。そこで与力扱いとして、二郎のいる躑躅ヶ崎に送ったのだ。
どうやら、上手く行ったようだ。いずれ落ち着いた所で、適当な名目をつけて美濃守を呼び戻すとしよう。
「聞きたい事は以上だ。これからも頼んだぞ」
「はは。では失礼させて戴きます。ゆき、案内頼む」
特例として後ろに控えていた、ゆきと呼ばれた娘が二郎の手を取り退室する。あの娘は二郎が甲斐で助け出したと聞いておるが。
「典厩。太郎。あのゆきという娘だが、二郎と仲は良いのか?」
「でございましょうな。女子ではありますが、補佐役として二郎殿も頼りにされていると聞き及んでおります」
「私は直接は知りませぬ。ですが二郎が頼りにしている事は理解出来ます」
チラッと家臣に目を向ける。誰もが二人に同意するように頷いて見せた。
「勘助、其方なら知っておるな?」
「そうですな、確かに仲は宜しゅうございます。ゆきは兄と共に二郎様に命を救われた身で御座います。それこそ二郎様の為なら命も惜しまぬでしょう。二郎様もゆきの事を妹のように可愛がっておられましたな」
「年は幾つだ?」
「十二との事です」
ふむ。例え仲が良くても正室は無理だ。出自が悪すぎる。だが側室ならば問題あるまい。
「二郎も正室を迎える前に経験を積まねばならぬ。どう思う?」
「必要な事かと」
天文二十三年(1554年)一月、駿河国、駿府城、三条の方――
「本日をもって元服致しました。御裏方様」
「二郎!母に対して、そのような他人行儀な呼び方をしないで下さい!其方は私の息子、可愛い息子なのですよ!」
二郎は私の可愛い息子だ。光を失っている為か、一際、愛おしい。そんな息子に『御裏方様』等と呼ばれて喜ぶ母がいるものか!
この子は菅公の御寵愛を受けて以来、急に大人びてしまった。もっと母として甘えてほしいというのに、あまりにも自分を律してしまっている。
ケジメをつける、その理由、私にも分からないでもないのだ。だが寂しい。息子に突き放されたようで、あまりにも寂しいのだ。
「失礼ながら申し上げます。二郎様、どうか御裏方様の御言葉、今だけで良いので受け入れて差し上げて下さいませ」
「ゆき?」
「他人に聞かれなければ宜しいかと、私は廊下で見張っております。退室の際には、お声をお掛け下さい」
ここまで二郎を案内してきた少女が、廊下に出てしまう。その光景に二郎が小さく溜め息を吐いた。
「母上、改めまして、宜しくお願いいたします」
「二郎!」
ああ、やっと母と呼んでもらえた。これほど嬉しい事は他にない。あのゆきという少女には、何か酬いてあげねば。
侍女達もゆきの心遣いに気を良くしたのか、廊下の方を満足そうに眺めている。
「ですが二郎。母の事はママと呼んではくれぬのですか?」
「さすがに勘弁して下さい。某も元服致しましたので」
「あら、寂しい事。もっと呼んでほしかったのに」
わざとらしく袖で目元を隠してみる。二郎は困ったようにしているが、恐らくは嘘泣きだと分かっているのだろう。本当に聡い子だ。
「申し訳御座いませぬ。兄上の御立場を悪くする訳には参りませぬ」
「分かっています、それより其方の顔、よく見せておくれ」
その秘めた才故に、元服前から巣立ってしまった我が子。もう少し、傍で成長を見守ってあげたかった。
「母上、甲斐より土産を持って参りました。宜しければ三郎(武田信之)達と食べて下さい」
そう言いつつ、懐から取り出したのは小さな小瓶が二つ。はて、これは?
すぐ傍に控えていた子供達も、不思議そうに小瓶を見つめている。
「これが何か分かるか?」
「触っても宜しいのですか?兄上」
「ああ、少し掌に出して舐めてみると良い。梅達も遠慮するな」
三郎の掌にトロリと金色の物体が垂れる。これは、まさか!
「甘いです、兄上!これは蜂蜜ですね!」
「ああ、母上と一緒に楽しむと良い。四郎達の分は、別に用意してあるからな」
「ありがとうございます、兄上!」
「「「ありがとうございます」」」
三郎だけでなく、梅や竹、真理も嬉しそうに舐めている。蜂蜜なんて、そうそうお目にかかる物でも無いというのに、一体、どこから手に入れたのやら。
いえ、きっとこの子の事だ。甲斐で自ら調達したのでしょうね。
頭の良いこの子なら、ミツバチの巣を探す方法を思いついたりしても不思議は無いのですから。
「片方は薬として保存しておいて下さい。大根を角切りにした物と蜂蜜を混ぜるのです。暫くすると上澄み液が出来ますから、それを飲ませて下さい。のどの痛みに効果が御座います。あとは傷薬として使うなら、そのまま塗って下さい。早く治りますよ」
「ありがとう、二郎。貴方は優しい子ね」
「私にも家族を思う心ぐらいは御座います。三郎、梅、竹、真理、暫くはこちらにいられる。明日になったら、一緒に遊ぼうな」
子供達が嬉しそうに頷きあう。やはり二郎は優しい子だ。
天文二十三年(1554年)一月、駿河国、駿府城、諏訪御寮人――
「御久しゅうございます、諏訪の方様」
「二郎殿、私達にまでご挨拶して下さり、ありがとうございます」
「どうかお気になさらず。私にとっても四郎は可愛い弟ですから」
隣に座っていた四郎が、ついに我慢できなくなったのか『兄上』と叫びながら二郎殿に飛びついてしまった。
「これ、四郎!」
「良いですよ。四郎、あまり遊んであげられなくてゴメンな」
グリグリと頭を押し付けてくる四郎を嫌がる事無く、二郎殿は四郎をあやしてくれた。弟とは言え異母弟。それでも心の底から四郎を慈しんでくれている。二郎殿は盲目故に苦労したと伺った。それだからだろうか。相手の出自に拘らないのは。
「四郎は何歳になったのかな?」
「八歳です!」
「良い返事だ。いずれ四郎にも色々教えてあげよう。四郎は何が得意だ?」
うーんと考える四郎。
あらあら、すっかり二郎殿に懐いてしまって……
「剣!剣術が得意!」
「そうか、じゃあこれは四郎へのご褒美だ。諏訪の方様と一緒に食べると良い」
差し出されたのは二つの小瓶。
はて、これは?
「蜂蜜です、一つは薬として取っておいて下さい。薬としての使う方法は、こちらの紙に書いて御座います」
「母上!蜂蜜です!」
「良かったわね、四郎。二郎殿、貴重な物を感謝致します」
「喜んで頂けて何よりで御座います。四郎、明日になったら三郎達と一緒に遊ぼうな」
他にも幾つか四郎と約束された後、二郎殿は付き添いのゆきという少女に案内されて、静かに席を立たれた。
「四郎。二郎殿のように優しい心を持ち続けるのですよ?」
「はい、母上」
天文二十三年(1554年)一月、駿河国、駿府城、松平竹千代――
「久しいな、竹千代殿」
部屋に入ってこられたのは、元服の為に駿河へお越しになられた二郎様だった。三年前、この城が武田家の支配下になって以来、色々と私の事を気に掛けて下さったお優しい御方だ。
二郎様は甲斐で一人で暮らしておられる。その為、夏と冬になると駿河までお越しになられるのだが、その度に私の所へ顔を出して下さるのだ。
一番嬉しかったのは、初めてお会いした時だ。
私には手習いの師匠がいない。雪斎禅師に学びはしたが、必死で聞き取る事だけを要求された。そして読み書きは決して教えて戴けなかったのだ。周囲から読み書きを学ぶ事すらも禁止を命じられたのだ。
悔しく、惨めな思いをした。どうして、と小五郎(酒井忠次)に泣きついた事もあった。
そんな境遇から解放して下さったのが二郎様だ。
私の境遇を聞き出すと、即座に御屋形様に直談判し、手習いの師匠をつけて下さった。
それだけではない。次にお会いした時には、庭訓往来と実語教の写本を戴いたのだ。
庭訓往来。文の書き方についての作法を纏めた書物。
実語教。これは道徳に関する書物であり、修養の大切さも説いている。
小五郎が申すには、どちらの書物も岡崎城では見た事が無かったそうだ。
例えばだが、いずれ御家の上に立つ私が、文一つ満足に書けなかったら、どうなるか?一言で言えば恥をかく事になる。特に御屋形様宛に書いた文が作法に外れていては、武田家家中全ての笑いものになる。呆れられるだけならまだ良い。不快を買って、御家を滅ぼされては目も当てられない。
だから、書物を戴いた時には皆で喜んだ。これで学ぶ事が出来る、と。じっくり時間をかけて学ぶ事が有難い事であると、その時になって初めて実感できたのだ。
その後も、二郎様はお会いする度に写本を譲って下さった。教養として必要な源氏物語に伊勢物語、修養の為の平家物語や太平記は、今でも皆で共有して、大事に使わせて戴いている。
書物だけではない。二郎様は私達に直接、色々な事を教えて下さった。自身の知識だけではない。甲斐を治めてみて理解した事。農業や商業、軍事における経験則。それら全てが、私達にとって、初めて知る生きた知識であった。
二郎様は私達にとっての恩人であり師匠なのだ。いや、兄のような御方だと思っている。私には兄がいない。出来る事なら、二郎様のような兄が欲しかった。
「お出迎えもせず、申し訳御座いません」
「気にされるな。それと土産を持ってきた。後で皆と楽しむと良い」
懐から、布に包まれた物を取り出された。何だろうか?
「芋飴だ。少し分けて貰ってきた」
「二郎様!?」
「ゆき、少々大袈裟だぞ。それにこれの発案者は俺だ。少しぐらいなら御屋形様も見逃して下さる」
付き添いのゆき殿が慌てておられた。芋飴は武田家が朝廷に対して、献上品としても使っておられる物だと聞く。しかも油と並ぶ専売品だ。ゆき殿が驚くのも当然だろう。
二郎様はお優しい御方なのだが、こういうお茶目な所もあるのだ。
「それとな、今日は朗報を持ってきたぞ。竹千代殿、よく我慢されたな。三河に帰る許可が下りた。人質生活は終わりだ」
「……真に御座いますか!」
「先程、御屋形様に提案してきてな、受け入れられたわ。少々、酷い言い回しをさせて貰ったがな」
そこで御屋形様とのやり取りを説明してくれたのだが、隣に控えていた酒井が小さい声で唸っていた。
小五郎の気持ちは分かる。だがそこまで見下されているからこそ、帰る事が出来るのだ。
「これは餞別だ。四書五経の写本だ」
「宜しいのですか!?」
「構わん。誰かに訊かれたら。私がくれたと言っておけ。それにな知識は大事だが、それを上手く使えねば意味が無いのだ。これより先は竹千代殿の手腕が試される事になるだろう。立場上、応援は出来なくなる、だが、頑張れよ」
いかん。目に熱い物が浮かんでくる。この御方は色々な事を教えて下さった。
この御方から御受けした多大な恩義、どれだけ年月がかかっても必ずお返ししなれば!
「で、お前のとこの問題児は大丈夫か?」
「鍋之介なら大丈夫で御座います」
「竹千代様!私は問題児ではございませぬ!」
私より五つ年下の鍋之介が不満そうに口を尖らせた。
いやいや、お前は明らかに問題児だろうに。私への忠誠心が行き過ぎて困ると小五郎も申しておるぞ?
「やれやれ、このヤンチャ坊主は。手のかかる子ほど可愛いと言うが、皆も可愛いか?」
「それはもう」
「酒井様!酷う御座います!」
いかん、笑ってしまいそうだ。何とか我慢せねば、鍋之介が可哀そうだ。この子は本当に私の事を大切に思っておるのだから。
私が必死に笑いを堪える中、二郎様が小五郎に顔を向けられた。
「酒井殿、真面目な助言だ。一度、御屋形様に御目通りを願い、三河へ帰る前に竹千代殿の元服と烏帽子親を御願いするのだ。同時に名前も偏諱を一文字頂け。意味は分かるな?」
「はい。武田家への二心無き事を示す、という意味で御座いますな」
「そうだ。それがどういう状況を意味するのかは考えろ。立場上、それ以上は口にする事は許されん」
ああ、本当に二郎様はお優しい。もうすぐ武田家は西進するという事だ。それは三河に踏み入るという事。その時に武田に踏み潰されないように前もって準備しておく必要がある。
それには御屋形様から認められる事が、最も重要なのだ。
自然と頭が下がる。
「本当に、感謝しております」
「感謝は不要だ。それにこの提案が、竹千代殿にとって吉と出るか凶と出るかはまだ分からんからな。竹千代殿とこうして話をするのも、当面は無くなるだろう。竹千代殿に幸運がある事を願っておるぞ」
神仏を信じぬ。
そう公言されておられる二郎様らしい御言葉だ。
その癖、天神様の御寵愛を受けていると言われる。天神様にとっても、手のかかる子供は可愛くて仕方ないのだろうか?失礼過ぎて口には出来ぬが、正直、羨ましく思った。
天文二十三年(1554年)一月、駿河国、駿府城、木下藤吉郎――
加兵衛様が仰ったことは事実だった。
二郎様は俺を本当に召し抱えてくれた。足軽大将に命じ、俸禄も約束してくれた。それどころか、仕事の成果次第では更に出世をさせてくれるとまで言ってくれた。
咄嗟に額を床につけるまで頭を下げてしまった。
あまりに勢いが強すぎて、ゴン!という鈍い音を立ててしまったほどだ。
「ところで藤吉郎。其方の得意な物は?」
「人と話す事です。あと広く浅く、色々な事が出来ます。幼い頃は畑に出ていました。寺にいた時に読み書きを覚えました。針売りの行商の時に計算を覚えたり、駿河から尾張を旅しておりますので、地の利もある程度は把握しております」
「やはり槍働きは、正直苦手か?」
「はい。俺は肉もついてないし、背も低い。猿とよく呼ばれたもんです。そのせいか喧嘩も弱いのです」
二郎様はそうかそうかと頷いていた。しかし近くで見て分かったが、二郎様は本当に盲目なのだと分かった。お付きのゆき殿によれば、僅かに見えるらしいが普通の生活は送れないらしい。
だがそれを補うほどに知恵が凄い。元服前に甲斐一国を任されたのは事実だと聞いた時には、今更ながらに驚いたものだ。
「藤吉郎、俺は三月になれば初陣に出ねばならぬ。其方はどうする?俺に付いてくるか?それとも甲斐で出来る仕事をやってみるか?」
「どのような御仕事で御座いますか?」
「釜無川の堤防造りと、用水路の作成。あとは支城の修繕費用の見積もり算出、徴税の手伝い、そんなところか」
少し考える。思ったよりも二郎様はお忙しいようだ。これなら下手に戦に出るよりも、少しでも面倒臭い仕事を終わらせる方が力になれそうだ。
「堤防か用水路をやらせて下さい。図面があるなら監督は出来ます」
「良いだろう。なら堤防を任せる。先に派遣している者達と協力して事に当たれ」
「分かりました、お任せ下さい」
ちょっと考えている案がある。先任者と相談して、許可が出たらやらせて貰おう。
今回も拙作を読んで下さり、ありがとうございます。
という訳で、今回は豊臣秀吉&徳川家康登場回となりました。あと意外だったのは松下加兵衛さんの年齢、この人、秀吉と同い年なんですね、調べた時には驚きました。加兵衛さんの方が年が十ぐらい上なイメージがあったんですよ。
色々な作品において、殺されがちな徳川家康。やっぱり腹黒、信用できないイメージが要因なんでしょうね。人質時代に飼っていた鷹にイチャモンつけてきた相手を、偉くなってから腹切らせたりとかしてますしね。かと思えば、人質時代に仲の良かった北条氏規には親切だったりとか。良くも悪くも、相手の対応を覚えている人なんだろうな、とは思ってます。
なので、拙作では竹千代君こと徳川家康に恩を売りまくってみよう、という真逆の方針にしてみました。最初は殺すつもりだったんですけどね。
豊臣秀吉。この人は大半の作品において、主人公にスカウトされる最有力候補な気がします。やはり内政と交渉が得意、そして若い頃は苦労しているというのは、間違いなくスカウトしたくなります。松下家に仕えていた頃は、結構、嫌がらせされていたそうですしね。ただね、秀吉さん。松下家ドロップアウトするのは良いんだけど、尾張で鎧を買ってきます、と嘘ついてお金ネコババして織田家に鞍替えするのはやりすぎだと思うんですよ。
それでは長くなりましたが、今回はこの辺りで〆と致します。
次回は初陣の話。それでは、また次回も宜しくお願い致します。