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三日間の希望

作者: Benima

3日間の希望


土曜日


昔、足占いとやらいう記事を読んだ。そこに外反母趾の心身的な原因として「本来は送るはずの充実した人生の路線から逸脱し、ありとあらゆる可能性を台無しにした自覚から生まれる後悔感」というのが挙げられていたのをよく覚えている。定められた運命があるかどうかはともかく、絞めたての鶏の首を連想させる自分の捻じれ曲がった親指とその辺りの滑液包炎の墳丘に一瞥を投げると、足占いの一説には何かしら根拠があるように思わずにいられない。そうだ、私の人生は油汚れの反故籠とほぼ変わらない。20年以上前の私は、全く別の道を歩み、今と違うところに辿り着くはずだった。それを承知している。だが、承知していても今の私に何か出来ることはあるかと言えばそうではない。乙女の質素な寝室を取り壊して、その代わりにどこからともなくやってくる長煩いが自分専用の壮麗な閨を築き上げたら、全てが劇変する。宮殿並みの閨であり、いつまでも建築工事中なので、私は門前払いを喰らって宿無しの乞食になる。そして、このみすぼらしい乞食に残っているのは、無類の無気力と無辺際の暗がりだけだ。虚脱感、自己崩壊、虚無感、無意味といった数え切れないほど新しい一風変わった友達が次々と出来てしまう。不健全であればであるほど医学的な専門用語の神秘的な響きに病的な美しさを見出し、それを口にするだけで敬虔たる気持ちにすっぽりと包まれれる。補正具では治るどころか悪化する一方なのだ。この外反母趾と同じく心が歪んみ、有毒な雑念の鬱蒼と生い茂る廃墟となった。穢れた存在ほど老けて見えるという通説を皆信じ込んでいるようだが、私の場合は何故か違う。45歳の絶望の女王になっても、実年齢を知らない人には20代後半の女性と間違えられることがよくある。猛毒ばかり吸収していては、心は焦土と化かすものの、肉体は冷凍保存されると思うと、実に滑稽なことだ。苦々しい失望のシロップに浸ることで若やいでしまうというわけか。とは言え、23歳の誕生日を迎えた時点では私は既に死んでいるものだった。それまでの私は周囲から、有能で、前途有為の若人、大物になりそうな気立ての良い女性と思われていたらしい。ところが、あんな素晴らしき将来を嘱望されていた女は誰にもなれず、何も持っておらず、裸一貫の意地悪なおばさんになってしまうと、自分を含めて皆、幻滅する。そして、過去の栄光が目障りだけで、全てを満遍なく絶望色に塗り替えたいのは、成功者になり損ねた馬鹿者の唯一の喜びだ。あの時、23歳で息を引き取ればよかったと思う。そその後の22年間の人生には何の意味がなく、肉体は生きていても魂はもはやこの世にはないのだから。もうすることがないと分った人を生きる義務から免除してくれないこの世は絶望の揺り籠でなくて何だろう。28歳になったら、時間が止まった。完全に。いくら足掻いてももう稼働させるのは不可能だ。ミイラ化した私は年齢という概念から解放され、虚ろな日々を眺望しているだけで、歳は少しも取っていない。

奏さん(かなで)の足の親指が綺麗。すっぴん爪がその清潔感と美曲線を際立たせている。そのためか、数センチしか離れていないところにじっとしている、私の呪うべき哀れな親指の奇形が妖気しか漂わせていない。どんなマニュキュアをしてもこの醜悪なせむしの背筋を正すまい。一緒に美しいものを並べていると、この醜さを曝露するのが一層恥ずかしくなる。お互いの足と指の形を見比べている。こんな近くに座っていて、改めて妙な事に着眼した。収斂剤の常用者の顔つきを思わせるこの巨擘が邪魔でなければ、これを隠しておけば、或いは奏さんの付け根の関節が突き出ていれば、私たちの足は瓜二つと言っても過言ではない。置き換えたら、何がどこが違うのか、その持ち主にすらはっきり区別できなかっただろう。しかも奏さんは今年で23歳になったそうだ。23歳の私にもまだ同じような形の整った健康な指があったはず。多分。今となっては昔の原型が思い出せないが。

「初めて見ているわけではありませんが、実に仰天させる不思議なことですね。先輩と私の足はこんなに似ているなんて。双子ならまだ合点が行きますけれど」とこの飾り気のない美少女が話しかける。

「正直、今、全く同じことを考えていたの。確かに似ている。一つの一か所を除けばね」と私は言って問題の指を海辺の白砂の中に忍ばせる「一卵性双生児でさえ、指紋は元より、手相や耳も大なり小なり違うらしくてね」そして砂で覆い尽くされた親指が見えなくなると続けた「よし、これで完璧。酷似というよりそっくりさんそのものね」と淡い微笑を浮かべた。すると、彼女が何かを問いかけるが早いか、逞しく颯爽たる美声を後方から私たちの耳元に轟かせた「ダメだ、ダメだ。この人に生き写しだなんて、その考え方を捨てた方が賢いよ、奏ちゃん」と莉那が登場してきた。青天の霹靂の如く出没したりするのが得意な彼女だが、的確な指摘の能力も抜群だ。今回も例外ではない。正に彼女の言う通りだ。私に似ていて欲しいなんて思わない。私と類似点のあるというのは、私と同様に憂いマリネを舐めさせられるということだから。こんなに無造作に面子を潰されてやや気が滅入っていたが、負け惜しみめいたことをいうのも好きではない。それに奏さんもいつか私のようにどこまでも厭世主義者くさい虫けらになってしまうのを想像すると総毛立つほど恐ろしくなる。

「あら、莉那、いつの間にか話に割り込んじゃったのね。でも、あなたの言う通り、寧ろ私って普遍的な反面教師に打って付けと思った方がいいわね」熱砂の寝袋の形を一気に崩して、自慢そうに親指をさらけ出した「紙一重の差と言っても、これがある以上似て非なるものよね。証拠に写真を撮りましょう」と

ちゃかして何故か今まで感じたことのない安堵感を覚える。莉那は微かに苦笑し、うろんげに足を撮影している私達から目を逸らした。写真には私の左足の外反母趾と奏さんの右足は一人の人間が両足を揃えたように写っている。これを見て二人とも笑い出した。でも、私の笑いの響きの底に憂愁な色調を強めていた何かが潜んでいた。撮影が終わったら、莉那が奏さんの傍に座って、私達と同居しはじめてから何か不満点がないかと気兼ねなくあれこれ聞く。というのは、奏さんが私達の女性専用シェアハウスに引っ越ししてからちょうど一か月が経ち、この土曜日に4人で日帰り旅行に行くことに決めたから。もう一人は一緒に住んでいる恵美だが、我々3人は昔からの友人であり、莉那の起業したヴェヴデザイナ会社に勤めている。2ヶ月前までの話なら、長谷田真由美という大学の同級生と同居していた。でも、彼女は長年交際していた同期の男性と結婚したので、また別の人を探さねばならない状況になった。たまたま取引先の課長に知り合いの令嬢に当たる奏さんを紹介してもらったわけだが、莉那はシェアハウス物件を探している彼女に我が家を勧め、さらに奏さんは美術大学の卒業生で、まだどこの会社からも内定をもらっていないと聞くと、弊社で働いてみないかというのも提案した。それで、奏さんは雇用されて一人前として我々と一緒に暮らしはじめた。私はこの一か月のうちに謙虚で、純粋な人当たりの良い彼女とすっかり意気投合し、自分の妹分とさえ勝手に名付けた。今日の旅行は、本来は4人で行く予定だったが、恵美と莉那がそれぞれ自分の彼氏を誘って、かつ長谷田夫婦も加わってきたため、人数が増えてしまった。さすがに4人の遠出と8人の遠出の雰囲気は大分違う。騒々しく神経が疲れる。奏さんがこの小ぢんまりのパーティーの立役者になるはずだったが、付き添い男のいない彼女と私は明らかにこの慰安会に馴染めず、浮いていた。だから、2人とも皆の集まっているところから遠ざかって静けさを楽しみながら寛いでいたのだ。

莉那は夢の話をしている。チーズが大好物で、夢の中にも出てきたり、今夜は、イエトオストをワッフルに載せてぱくぱくと食べ放題で、全部が食べきれなくて勿体ないという有り様だったという。単なる作り話ではないか。彼女とは20年もの付き合いというのに、寝ている時に食い物に誘惑される何んという事が初耳だ。彼女はどちらかというと暴飲暴食ではない方だし。フガスやクロワッサンなどといったフランスの手作りパンに嵌っていた10年前の時代には、目を閉じてもいつもふわっと持ち上がる生地とパン酵母ばかり映っているとか話していたのは確かだ。しかし、その理由は、彼女が出来上がったものが食べたいより、調理のコツを知りたくて作る過程に打ち込んでいたからと思われる。イエトオストとという単語も私には耳新しくその意味が知らないのは私だけなのか、奏さんに通じるかどうかを直接聞きたくてむずむずしていた。でも、質問を控えた。明確な理由がないのに、彼女は目を伏せったまま動揺していると流し目を送れなくとも私は勘付いた。彼女は私達の存在を忘れたかのように砂利を凝視しながら物寂しい声で語りはじめた。

「食べ物か親しい人か、何か具体性のあるものが夢に出てくるというのは非常にありがたいことだと思います。私はそういう夢を見たことはありません。いや、見たこと自体はあるかもしれませんが、目を覚ました途端に忘れてしまって単に覚えていないだけ、それも有り得ることですね。私の場合は、同じ夢の絵巻物が目の前に巻き出されているのは屡々あります。確か、一か月に一回ほどという頻度です。それこそ記憶に残っていまして、臨場感も伴っております。今夜もまたもやその夢を見ました。粗筋を述べさせていただきます」と彼女は両手の指先を合わせて、固唾を飲んで興味深そうに聞いている私と莉那の承諾を得てから、躍動感に欠ける語り口で胸中を披瀝した。

「夢の内容は次の通りです。目が覚めると、草叢の中にいる自分に気が付きます。前方に晴れやかな蒼穹の反映している湖があるようです。こんな離れているところからでも水面がくっきり見えます。立ち上がって近づいてみると、岸辺に打ち上げられた貝殻を見かけます。「タカラガイか。おかしい、何でここにあるんだろう。海じゃないのに」と釈然としません。手に取って眺めると、それに施されたマヨリカ焼きらしい文様が独りでに動き出して、この湖の過去、現在、さらに未来について立体映像を通して語ってくれます。その変化と共に水面に小波が立ち、松籟のような音が聞こえてきます。「おかしい、松林などはここら辺にはない気がするけど」、とまた疑問に思わざるを得ません。そのうちに細波が一層広がっていくだろうと思いきや、もうすっかり消えてしまいました。湖とはいうものの、見る見るうちにその中央から小型のプールが浮かんできます。今度、水際にもっと近づき、素足で清い水に触れてみました。思った通り冷たくて、足を引っ込めました。しかし、それより私を驚かせたのは、湖面に自分の姿が映っていないということです。ひょっとして私の視力が落ちているせいか、水鏡に写していないように見えるのではないかと思い、身を屈めてじっくり湖水を眺めています。でも、依然として私という人間の姿が映ずる所は一つもありません。「おかしい、私ってこの世にはいないかな」、と絶望のあまり、つい悲愴な溜息をつきます。以上です」

半分眠りかけていた彼女はすっと立ち上がり、夢の続きを知りたくてもいつも途中でその辺で終わってしまうので、本当にこれ以上語ることはないと悲しげに微笑んでそっぽを向いた。私達2人とも、暫くすんなりとした華奢な背中に釘付けにされていた。莉那に私の脹脛にそっと石ころを投げ付けられると、我がに返って恐らく痙攣の発作が起きんばかりの顔をしただろう。「信じられない。信じるもんか。こんな事が現にありうるとは」と目配せを交わしてこの寒心すべき偶然の一致に当惑している。この子、この23歳の奏さんは、大学生の私が何度も繰り返しみたた夢の内容を細大漏らさず描写しているのだ。

概要的に変わらない程度に止まらず、例えばタカラガイやマヨリカ焼き、細部まで同じように展開していく夢を見ている2人の人がこの世に存在するというのか。恐ろしさといったらない。彼女は私の作り出した祖型を複製し今、見事にそれを再現しているか、私こそ知らないうちに他方の夢を盗用しているか、いずれの場合においても我々が同一の夢を分かち合っているというのは否めない事実だ。異様な静寂、しめやかな沈黙が長引いていることに耐えられなかった莉那がまとめ役を務めてみた。

「確かに滅多に聞かない奇妙きてれつな夢なんだね。特に私の見る単純なやつに比べて。そして、何度も繰り返される夢って深層心理の観点からみれば、間違いなく何か無意識からの暗示を受信してるという風に捉えてももよいだろう。でも、その暗示の意味が分からないというか、見逃してしまいがちかも。夢の中でも、3回も『おかしい』って言ったんだよね。それがヒントだと思うけど」


私が初めてあの夢について話した時に、莉那は今と違って全く別のことを言ったが、やはり20年も過ぎたというのもあって、当時の解釈が廃れたと思ってもおかしくない。奏さんはもう少し議論したいように見受けられたが、莉那は暗澹たる気分を晴らすなら今だと言わんばかりの表情で目を光らせ、何故彼氏を連れてこなかったか、彼はどういう仕事をしているのか、そういう感じの雑談を始める。奏さんは率直に全ての質問を答える。彼氏は今、28歳で、言語学校の教師の傍ら、画家として身を立てる願望を持っているとのことだ。私は耳をそばだてた。気が気でなく、ぬらりとした不安が忍び寄ってきた。横目で莉那の視線を確かめた。やはり彼女も私と同じことを案じているのを見て取った。

「なるほど。野望があるわけだね。一緒に写ってる写真なんかないかな。ちょっと、最近の画家ってどういう顔をしてるか見てみたいものだけどね」と莉那は早速尋ねる。

「ありますよ。一緒に写っている写真は、残念ながら面白くない自撮り写真だけですが、それでいいでしょうか。他に彼が描いている最中に撮影したやつも数枚あります。ちょっと待っていてください」

手に取ってそれらしいものを探している奏さんをそっと見ると、鼓動の不穏な音に打ち拉がれた。まさかと思ったら、そのまさかの悪夢が正夢となった。写真には他でもなくあの男が写っていた。実物と変わらぬほど嫌らしくすくべっぽい顔つきだ。

「何んという名前かね、この紳士は」と莉那の腹案が見え見えだった。

「吉永晃です(あきら)。恋人としてこういうのを申し上げても信じてくださらないでしょうが、本当に敏腕家で、並みならぬ画才を持っております。そうそう、父に頼んで、来週の木曜日に父のギャラリーで彼氏の絵画の数点を展示することになりましたが、宜しければお二人ともいらっしゃいませんか」と奏さんは上機嫌だ。この台詞は、どんな事情であろうが泰然自若の構えを見せる莉那まで震駭させたみたい。2人も唖然としている。だが、いつまでも唖然としていてはまずいと分って、彼女は是非とも行きたいと言葉を濁して、もし吉永さんの絵の画像がスマホに保存されているなら、今、それを見せてもらえないかなと聞く。奏さんは喜色満面で吉永流の駄作を見せた。こんなものを突き付けるのを待ち望んでいたと思うと、歯ぎしりしたくなる。私の美的センスへの冒涜でしかならないのだ、こんなものは。画才は並みならないどころか、人並みの画家のレベルにさえ達していない駄作ばかりだ。陳腐な発想、技法不足、類型的な画題、ロココ時代を代表するアントワーヌ・ヴァトーの下手な亜流。全てにおいて偉ぶる庸愚というのは明々白々なのだ。それなのにあの吉永を、アートギャラリーを経営しているお父さんに紹介して展覧会を開かせてやるなんて、何んというバカバカしい話だ。莉那も呆気に取られている。画家の彼氏の作品を見ているふりをしつつも。

「奏さん、どうして自分の描く絵をお父様に展示してもらうようにお願いしたりはしないの?」と私は口を挟んだ。

「私、そこまで才能があると思っていませんし、何しろ彼氏と違って割と裕福な家庭に生まれてお金に困っていることもありませんので、彼の要望を優先すべきだろうと思いましてね」と恥ずかしそうに解説した。しかし、その言葉は私をさらに苛立たせただけだ。

「でもね、奏さんの絵を見たところ、あなたこそ美的感覚が優れていて駿才と断言できるわよ。あなたの絵は多くの人に知ってもらわないと勿体ない。莉那にも聞いてみてはどう?」と言ったら、莉那は「そうそう。奏ちゃん、もっと自信が持てるようになればいいけど」と頷いてくれる。その時、ずっと遠くにいた残りの5人が荷物を纏めてこちらの方に向かっててきた。そろそろ帰るからこの話をやめにしておいた方が無難と薄々察していたが、この子が自作を卑下しながら、似非画家のくだらない吉永の展覧会の催しに奔走していると聞いて瞋恚に燃えてしまった。 

「吉永さんとの関係は長いの?そんなに信頼していい方なの?見せてもらった絵画は個人的な意見なのだけれど、ロココ様式の二番煎じに過ぎないのよ。まぁ、新機軸と言えば、二か所くらいは確かにあった。しかし、それは奏さんの独特な手法の踏襲だけではなくて?まさか、気付いていないとでも言わないのよね」私はますます気色ばんでいく。

「違います、先輩の勘違いです。踏襲などとんでもないことです。私の絵画からインスピレーションを受けて描いているそうです」少しためらって続けた「交際してから3ヶ月しか経っていませんが、それでも、、、、それでも、その人を心から信じています。その人は、出世なんかのために私を踏み台にするなんて、どうしてそんな酷いことを仰るのですか。いや、絶対にしないのです。絶対に。私には確実な根拠があるのです」と彼女も感情的で熱くなった。

絶対に。笑わせる。何の根拠のない「絶対に」ほど如何わしい言葉があるのだろうか。この子は彼氏を熱烈に愛しているが故に、もうめくらになり、騙されてもそれを受け入られず、さもしい吉永さんを弁解しつづけるに相違ない。何んと可哀想な情景なのだろう。皆が集まっていて、私たちの言い争いに戸惑っている。

「根拠なの?では、それはどういうことか教えてくれないかしら」と冷笑して奏さんを睥睨している。

「それは」と勇気を絞り出すように自分自身の話を促す「彼は私の婚約者なんですもの」と威厳があって答えた。会話に参加しない5人は反応しなかったが、私と莉那が「婚約者なの??」と一斉に声を張り上げた。懐かしい寒気がした。私は上目づかいに笑い崩れた。その笑いには、発狂せんばかりの女の憎悪、自嘲、絶望が埋め込まれていた。

「やれやれ、失敬したわ。でも、それが根拠になるというの?婚約なんか、絶対に利用されないことを裏付けていると信じているの?まさか。本当にそんなことを信じていると言いたいの?何んと面白い子なのでしょう」と挑発的な質問をして返事を待っていたが、なかったので、意欲が萎えた。サンダルを履きながら「3ヶ月と言ったっけ。ああ、短いわ。短すぎるわよ。吉永さんのご予定が丸出しね」と言い添えた。

「確かに短いかもしれません。しかし、少なくとも先輩との付き合いより遥かに長いとも言えます」奏さんはいよいよ本腰になったみたい。彼氏への愛情から生まれるその盲目な忠実さが気に食わなかった。この渚を私との修羅場にしてまであいつを守るつもりでいる。献身的な馬鹿女が本当に嫌いなのだ。優しい女なら尚更のことだ。

「愛する者に対して忠実でありたいという気持ちは分かるけれど、残念ながら吉永さんは奏さんの恋慕に値しないわ。第三者の立場から客観的に分析したことを言わせてもらっただけ。あなたのこと、あなたの将来をを考えているからこそ、その男を酷評しているのよ。まぁ、荒療治と思われても仕方ないけれど。分かってくれる?だって、彼はあなたをちっとも愛していないんだもん。実は彼には」と私は後もう少しであいつの素顔を暴露するところだったが、莉那にブラウスの袖を引っ張られて屏息した。一方、奏さんはせっかく称賛した彼氏が何故同居人にこんなに受けが悪いのか理解できず、激怒した。

「忠実でありたいという気持ちは分かるんですって。先輩はそんなことが分かると仰るのですか」

「一応、こっちも女なんだから、分からないことはないわ」私は本気になったらこの女の恋愛観との決闘が楽しいかもしれないと思いはじめた。

「笑わせないでください。一生、心から一人の男性にも恋をしたことのない、冷ややかな独身の女性には誰かを愛していて、誰かに忠実であることの意味が分かると真面目に仰るおつもりですか」奏さんはあらいざらい話す決意を固めた「私の将来は考えていただかなくても結構です。45歳になっても未婚で、子供もいない女性からの恋愛助言には果たして何か価値があるのでしょうか。そんな助言に従う者こそおバカさんですね。先輩と同じ運命を送ってしまいますから。社長のように重役になれたら話は別ですが、社長が拾ってあげなかったら今でもただの店員さんとして働いていらしたでしょうね、きっと。そのような女の方からはキャリアにしろ、私生活にしろアドバイスをいただく必要があるのでしょうか。先輩は何のために生きていらっしゃいますかね。自分が駄目と悟って、有能な若者に痛罵を浴びさせるために生きていらっしゃるのでしょうか。それが唯一の喜びなのでしょうか。もし、そうでしたら何んと無意味で、哀れな存在なのでしょう」

そうか。お前って負け組という事を忘れるなというわけか。黙ってばかりでは失礼だから、体裁上憤る自分を装ってみる。

「そうね、私って何のために生きているのでしょうね。あら、何もなかったっけ。生き甲斐というやつとか。まぁ、こんな美貌のためなんじゃないかしら。奏さん、恋愛を過大視してはろくなことにならないわよ。ああ、男性に尽くす女性は本当に醜くって」

彼女は「人の気持ちをからかうなんて許せない」という目付きで大声で話し続けた。

「吉永さんが私の恋慕に値しないとするならば、我々を羨望の目で見ている先輩は憫笑を買うに値する方ですね。誰にも愛されたことのない、誰も愛したことのない徒し女。社長もいつか結婚なさって先輩の元を離れていかれるでしょう。その時、もう独りぼっち。本当にお気の毒。私は先輩のように人生を無駄にしたくないのです。恐れ入れますが、ポンコツのおばんの話に耳を傾けるなんて、まっぴら御免です」

奏さんの獅子吼を聞いているうちに、こちらからは「なるほど、良家のお嬢ちゃんはようやく馬脚を現してくれたわね。実に魅力のある貴婦人なのね」とか「そうね、こんな蛮勇を振るう方の昇進が楽しみね」とか、咄嗟に何か皮肉めいたことを言い返すするだろうと思っていたが、その熱血演説が終わった瞬間に、私には反論するどころか、口を開けて言葉を発する力さえなかった。何だかくたびれた。この話にどういう風に終止符を打てばいいか、誰の顔を見ていいか、何も分からず、途方に暮れていた。そして、痩せこけた駄馬が死に際に小声でいななくがごとく、無理に笑って「社長、どうなさいます?もうお帰りになる時刻ではございませんか」としか言えず、駅の方に向いていった。


日曜日


莉那のデミオの助手席に腰を下ろすたびに、今までの人生を振り向いて、今日が最後の日かもしれないと死を覚悟する。本当のことを言うと怖いし、毎回、トラベルミンRなどの乗り物酔い止めを服用するのも面倒だ。別段、彼女はマナーを守らなかったり、強引な車線変更したりするような気性の激しい運転手というわけではない。寧ろ、その逆であり、運転にかけては自動車の妖精だ。仮に最悪の場合、交通事故に遭ってこのマツダが幽冥界の坑道を走るとしても、莉那を一向に糾弾しない。他の運転手を信頼していない。莉那だからこそ、私はこの面妖な文明の利器に同乗出来るのだ。大学卒業以来、他の運転手の乗用車に一度も乗ったことがなく、タクシーすら利用していない。それでも、シートベルトを付けると目がくらくらし、集団墓地の累々たる屍で埋もれている自分、その中に半死の状態でもごもごするいざりの人いきれに包まれている自分、無口で無表情な自分の叫び声が鼓膜を劈く。妄想に過ぎないが、何故こんなおぞましい妄想に悩まされているのかは自分にも不可解なことだ。

「奏ちゃんって本当に面白い子だね」と莉那 は朗らかな調子で話しかける「瑞々しくて、初なところもあるけど、年齢の割にはなかなか自律性があって賢い。やっぱり若いって羨ましいなぁ。そう思わない?」とポーチからリップグロスを取り出して念入りに塗っている。女性のお化粧への興味は全く分からない。特に口紅が嫌いで、付けると不愉快。

「そのべたべたした唇にキスをする恋人には同乗しないではいられないわね」と私は先ほどの質問を無視して、随分と赤らみの増した莉那の口を咎めるような視線で追って、平然と無礼な事を言う。奏さんのことなんか考えたくない。莉那もそれが分からないはずがない。昨夜、私があんなに侮辱された場面を目撃したにも関わらず今、あの子を誉め立てるなんて私への当てつけとしか思えない。

「唇はこれくらい光らせても特に問題ないよ。刺々しい言葉ばかり迸らせる口よりましだしね」とグロスをポーチにしまおうかと迷い込んだらしく、結局もう一度開けてまた塗りはじめた「それより、奏ちゃんのことをどう思ってるってこっちは聞いたんだけど」と容赦なく話を元に戻した。

奏ちゃんって、この呼び名だけで吐き気がする。あの子はどこが賢明なのか、何が自制力というのか。

「自制力があるなんてよくも、こんくだらない冗談を言ってくれるわね。あなたらしくない。愚の骨頂なのよ、昨日の一大事は。あの猪武者の攻撃の意味は分からないわ」私は目の前に浮かんでくる奏さんを白眼視している。

「それもそうだ。ああ、しかし、あの向こう見ずなとこが可愛いと思うけどね」

「可愛い?」私は聞き返した。

今時の可愛い女性ってああいう態度を取るというのか。莉那が首を縦に振るっているから、癇癪に障った。

「小学校一年生の頃、『可愛い子供立ち』というからかい歌を初めて耳にした。今、あの子について『向こう見ずなとこが可愛い』と言われて、残虐な行為を正当化するその嫌な歌を思い出したの」

莉那は相当乗り気になった「へぇ、そうなんだ。そんなに酷い歌なの?『可愛い子供たち』ってつまり風刺ということ?」

私は説明する代わりにやおら例の歌を暗誦した。

「サクジツ

可愛い子供たちは校庭で遊んでいた

ザトウムシの抜け道を横切った影

脚は一本ずつ引き裂かれて

若草の中に丸っこい胴体が転がっていた

『初々しくて、可愛くて、我が子はお茶目だね』

ホンジツ

可愛い子供たちは道端でゲームをしている

ワイヤの罠に引っかかった鳩

羽ばたいても一本の趾を無くす

一羽のちんばは黙々嗚咽している

『初々しくて、可愛くて、我が子はお茶目だね』

ミョウニチ

可愛い子供たちは広っぱで茶化す

野良猫を襲うせせら笑い

退屈しのぎにヒゲに火を付ける

身悶えした一匹の悲鳴

『初々しくて、可愛くて、我が子はお茶目だね』

以上」と我ながらいまだにすらすらとこの歌を諳んずる自分に驚いた。

「何だか覚えにくい歌だね。そんなのは、小学生が歌っていたの?しかし、残酷なやつなんだ、可愛い子供立ちって」と莉那は真剣になり、肩をすくめた。

「だから、可愛く見えるようで、可愛くないというのは世の中で普通なのよ」

「でも、奏ちゃんのことじゃないよね」

「はい、彼女は違う」とあっさり承諾してから話を進めた「しかし、我々のシェアハウスに奏さんを住ませるべきではないかった。近いうちに出ていただくように張本人に伝えてくれないかしら。昔からヒステリック、金切り声の女が苦手なんだわ」とほつれげを指に巻き付けたい強い欲望を抑えながらぼさっと半眼でバックミラーを見ている。莉那は右手でそっと膝に触れて極力、スカートのシワを伸ばそうとしている。

「このスカートは買うんじゃなかった。変形から回復が悪くて。あんたの性格と同様だね」と木綿繊維との闘いを諦めて風船の空気を抜いたような長嘆息する「あんたって本当に執念深くて根にも持ちやすい人だね。あの子、まだ子供で悪気があってあのことを言ったんじゃないよ。考えてみれば、あんたこそ調子に乗って彼女にお説教したんだから、道理で向うは逆切れなのさ。老婆心からに他らないっていうのは分かるんだけど、奏ちゃんにしてみればお節介だけだろうね。だからもうちょっと寛大になって看過してあげたらどうだい?」

怒ってはいなかったが、不公平な扱いを受けて嫌な気持ちになった。

「今は、あの子を『まだ子供』と言ったんだけれど、さっき『若い割りには賢い』とか主張したのではなくて?論理的に前後の発言が矛盾しているでしょ。あら、私の聞き違いだったかしら。しかも、根に持ちやすい人に寛大さを求めるなんて、不合理の極致なのよ」と取り敢えず予防線を張っておいた「なんであなたまであの子に味方をしているの?彼女が出ていったら新しい同居人を探すのは面倒だから?それとも、彼女が取り引き先の知り合いの愛娘だからなの?」私は少し不機嫌に最後の言葉を言った。

「両方なんだ」

「やっぱり」

「そして、それと同時にどっちでもない」と少し黙ってから莉那は口を切った「私は奏ちゃんの味方というわけじゃない。あの子を追い払っちゃったら困ると言えば困るんだけど、それよりあんたたちの仲違いが気がかりなんだ。ほら、奏ちゃんを妹分と呼んでたんじゃないの?」と莞爾として笑った。

「そんな風に呼んでいたっけ。あなたこそ老婆心が甚だしいわ」と瞼を伏せて粛々と挽歌調で語り続けた「勿論、あの子を追い払うつもりは毛頭ない。ちゃんと家賃を払ってくれさえすれば、小言なんかも言わない。でも、これ以上あんな分からず屋の面倒を見たりして、優し姉御役にうんざりよ。私にも自尊心があるんだもん。何と言ったっけ。いみじくも『ポンコツのおばん』と黄色い声で喚き散らしたのよね、あの子。7人の前でね。そして、その後、当日の夜、何もなかったかのように取り澄ました顔つきで食卓に着く。何んという厚顔無恥な小娘なのでしょう」そう言いながら微笑したが、本当は心苦しくてならなかった。物憂いに身を任せて後景にそそり立つ自分の絶望を疲れ切った無関心な眼差しで解剖している。絶望も私のつまらない世界観に目くじらを立てた。疲れ切ったのはお互い様なのだ。


「あの言葉を無視していいよ。真に受けることはないんだよね」と莉那がまた話しかけた。断定するというより心配そうに励ますという感じがした。

「ええ、勿論、気にしない」と生返事をしてこの話題に触れずに済むと思ったが、莉那はすぐさま銅鑼声で難色を示した。

「世間知らずの金持ち娘の失言に過ぎないよ。気にするんじゃないよ、本当に。気にすんな」

「仰せの通り。全然、気にしないわ」と窓越しに宵闇の絶景に心酔されて出来るだけ冷淡に答えた。でも、その冷淡さのどん底に不治の敗北感が齧りついているのが見透かされたようだ。私は何んという惨めな女優なのだろう。スピードメーターをちらっと見ると、時速24キロオーバーだと気が付いて、莉那にそれを伝えておいたが、もう手遅れだった。というのは、久しぶりに私の意気消沈を垣間見た莉那は激情に駆られていたから。滅多に怒らない彼女の不興を買うと、相手が何を言おうと聞き入れてくれない。

「環希!(たまき)あんた、一体何を考えてるんだ。駄目だよ、そんなのは。だから、言ったでしょ。あたし、あの子の味方なんかじゃなくて、あんた自身が自分のことをポンコツと思ってるんじゃないかなっていうのが心配の種なんだよ」

私の濁った、錆びた、鈍った絶望論を厭わしく思っていない莉那は誠に掛け替えのない親友だ。このような親友が傍にいる私は幸運児でなくて何だろう。彼女の言うことは正確であり、彼女の人生指南書の通りに生きていれば、多分私ですら真の果報者になったのだろう。しかるに20年以上緻密に魂に失望汁を染み込ませていた人間には、落胆感まみれの神経細胞を持つ人間には、今更この有益なアドバイスは通用するわけがない。補正具と同様に無意味な重荷でしかならない。私は23歳の時に死んだ。その時は既に全てが終わったのだ。無論、当時の私にはもう終わっているという自覚がなかった。かえって負の感情を克服することが出来る力は私には十分に備わっているという信念、意気込み、希望に聞き惚れていた。一度ならず蘇ろうとしたが、絶望の地獄は私のちっぽけな意欲より遥かに広大無辺な世界だった。勝てるわけがない。希望をご丁寧に噛み砕いて消化してくれる巨大なコンバイン。喉に引っかかって詰るということは決してない。不退転の決意を木っ端微塵に粉砕してくれる指折りのブレンダ―。絶望を直視する者にはよしんば刃向かう気力があったにせよ、勝ち目はない。ニーチェの名言を拝借すれば「深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだ」というのが正に絶望そのものだ。

 「おい、環希、聞いてんの?」

「ええ、ちゃんと聞いているわよ。ただ、この先に、トンネルの手前に覆面パートカーっぽいのが待ち伏せしていないのかと今、考えていただけ」と現にそれらしいものが停車しているのを見かけたので、話題を変えた。莉那はトンネルの方に目を向けた。

「あれか。ああ、見える見える。本当だ」とあたかも車の話に無頓着で、極めて落ち着いた、運転を億劫がるような語調で答えた。パトカーに気付いた段階ではもう遅いというのは自明の理だが、徐々に減速しながらトンネルに入った。トンネルを抜けたら、予想通り既に赤色灯を点灯したパトカーから路肩に停止を命令された。私は降りずに、そのまま座っていた。警察官とのやり取りが終わって莉那が帰ってくるのを待っている間にこの車の色名についてひたすら考えていた。横から「○○ナンバーの運転手さん、車を止めてください」と命令を受けた時に当然だが、やはり「小豆色のデミオ」とか言われなかった。この色調を何んと呼べばいいのか、意外なほど真剣にそんなことに悩んでいたので、このマツダの持ち主が帰てくるが早いか、質問した。でも、彼女はそれを説明する前にスピード違反で検挙されたことを悔やんで自責的になり、慌てて詫びを入れた。

「いや、大したことではないわ。本当に大丈夫だから、どうか気にしないで」と私はかなり面食らってしまった。しかし、彼女の懺悔はまだ終わらない。

「車を嫌がる人に対して本当に申し訳ないことをしてしまった。ごめんなさい」

自分の態度が私を怯えさせるだけだと悟ったためか、自動車に話を転換した。

「色はね、うーん、ボルドーか暗めの赤かな。まぁ、私にも分からないね。でも、正確には『ディープクリムゾンマイカ』と言われるらしいよ」莉那の元気っぷりと私の青菜に塩の気分がドタバタ喜劇を想起させた。再びシートベルトを締めて中断されたところから奏さんの話を蒸し返した。

「それはそうと、昨日のことをいちいち気に病んでいてもしょうがないんだ。あの子だって間違いなく後悔してるに決まってるよ。酷い失態を演じっちゃったからね。そのうちに謝るだろう」と莉那は相変わらず楽観的だ。その心構えに肖るに如かず。だが、私には依然として憂患から隠れる場所はないのだ。

「別に謝ってもらわなくていいのよ。そんなに怒っているわけではないし。吉永と絶交しさえすれば、許してあげるわ」

「まさか、やきもち?」と莉那は好奇心に煽られて得意げな顔をした。私の思っていることが分かっているくせに。或いは、分かっているからこそ聞いているかもしれない。

「そんなバカな。あの男には私以外に愛人が何人がいても平気よ。振られてもちっともプライドが傷つかないし、周囲からは自分の才能が理解されていないとかつまらない嘆き節を聞かされるのも懲り懲りだから、寧ろ別れたら、すっかりするわ」と私は穏やかな笑顔を見せたが、内心、卑劣な吉永に対してどっしりとした憎悪が湧き返ってきた。

「では、なんで別れを告げようとしないの?別れたら楽になるというなら」どうやら今度こそ彼女は私の答えを推し量ることが出来なかったようだ。

「実は、そのつもりで先週の週末に会ったのだけれど、その日、あいつが普段よりさらにしょげていて、また愚痴話をしたので、ちょっとタイミングがあまり宜しくないと思って、仕方なく別の日にしようと断念せざるを得ない状態だったの」と自分の意志病弱を露出するのが恥ずかしいと感じても、顛末を話した。そして強張った表情で言い足した「でも、あれが奏さんの婚約者と知って、別れ話を切り出すのは時期尚早と見解を変えたの。我慢して別れ話を先延ばしにするしかない」

さすがに莉那は顰め面になった。

「何のためにその変な真似、その馬鹿げたやり口が必要なんだ?吉永にさようならと言ったらもう用事なし。奏ちゃんの恋人だって知っていながらも、交際をやめるつもりはないって一体どういうこと?それとも、本当は未練があって、奏ちゃんを敵に回してあの男を取り合うつもりがあるとでも言いたいのかい」

私は噴飯しないように何とか自分を抑えることは出来たが、完全には不可能だった。微かに口を歪めて熱意と強硬さに満ちた静かな声で答えた。

「違う、未練だの、撮り合う男だの、そんなことはあり得ないんじゃないの?困ったわ。親愛なる莉那にそういう風に思われたら本当に寂しくなるわ」と少し間を置いて本題に入った「私は吉永さんが嫌い。はっきり言えば彼を憎んでいる。それは嫉妬心から生まれる憎しみではない。誤解しないでほしい。吉永型の女たらしが奏さんのような純朴で、正直な女性の優しさに付け込んで、女性の愛情を上手く利用したりしながら、頂点を目指して自分の道を切り開いていく。そして、目的に達したら、見向きもせずにその女性を捨ててしまう。もう用がないんだから。心無い寄生虫なのよ、ああいう男は。相手の感情を踏みにじっても決して自分が悪いとは思わない。屁理屈をこねて全てが見捨てられた女性の勘違いとか、勝手な片思いとか、そのように物事を描き出し、王手飛車の危険を免れる。実に悪賢く要領の良い連中なのね。だから、だから、奏さんにもあの婚約者の正体を知って欲しいのよ。考えるだけで恐ろしいんじゃない?。婚約者がいるというのに、もう不倫に走っている男をどう思う?あれを大目に見ていいというの?私は許さない。何があっても図太い吉永の計画を狂わせるように全力を尽くす。今の時点で私が彼と関係を切ったらあの子はあいつってどういう人間なのか知らないまま結婚しちゃうのよ。あなただって、あの吉永が奏さんのご主人になるなんて望んでいないでしょう」と私は鋭い目付きで莉那の剣幕をじっと見つめた。やがて彼女はちょっと間延びした口調で異議を申し立てた。

「私もあの吉永さんに対して嫌悪感しか抱いていない。そして、あんたと同様に、出来るものなら奏ちゃんにあの男と結婚してほしくないんだ。でも、だからといって無理にあの2人を引き離してやろうなんて、そんな世直し作戦に同意しているんじゃない。そもそも私達に何の関係のないことなんだ。まぁ、あんたにはそれなりの理由があって、正義感が強いというのも分らないことはないけど」と莉那が話している最中に私は横槍を入れた。

「正義感が強いんですって?それって誰の話なの?正義なんかどうでもいいのよ。正義か不正義か、道徳的か不道徳的か、そんなことは知りやしない。興味の的じゃないわ。汝の欲することをなせってね」と私は歯ががたがたするほど全身が震えていたのに、痴れ笑いをするところだった。

「環希、もうたくさんだ」と莉那は怒鳴りつけて何かを言っていたみたい。しかし、私はもう耳が詰まって絶望の肥やしにむせていた。

「女たらしは一匹も残らず潰してやる。末路がどうであれ、あいつらの人生をめちゃくちゃにしてやる。私が生きている限り、あいつらの命の保証はない。吉永の思い通りにさせない。絶対にさせない。潰す。潰してやる」と連発してはいたが、体中から毒々しい憎しみが放出されている自分こそ消えれば、誰かに殺してもらえれば何といい事であろうと思った。


「環希、もういい加減にやめんか、その生霊モードを」莉那の泣きそうな声が聞こえると、やっと正気を取り戻した。酷い吐き気がしたので、駐車を停車できる所に止めてもらって、降りた。外の空気は清々しいとは決して言えないが、車内に比べて何倍も美味しくてその休息が束の間の幸せだった。また車に乗って、スマホを手にして2人にメッセージを送った。莉那は着信音を聞いて「あんたからだとつまんないけどね」と窘めた。そして、黙読してからほっとした様子でそれを読み上げた「さっき、吉永にメールで別れを告げた。直接会って話すことはない。仮に返事が来るとしても無視する。奏さんがそんな人と結婚したいというなら、好きなようにすればよい。私はもう何もしない。約束する。追伸:不快な思いをさせてしまい、ごめんなさい」

月曜日

振替休日で月曜日も休みの日となった。昨日の反動が出て、起床する力もなく、珍しく朝7時半までずっとベッドに横たわって茫然と天井を眺めていた。ところどころ漆喰が剥がれ落ちていた。剥落。まるで私の人生のように。20分後は台所に向いた。運が良くそこにはまだ誰もいなかった。でも、生姜湯を飲もうと思った途端に、莉那と奏さんの話し声が響き渡ってきた。私は会釈した程度に挨拶をして本を読み続けた。

「生姜湯は飲む?」

「ええ、いただきます。ありがとうございます」

「環希も私も好きで、よく飲む。特にこの黒砂糖入りのやつがおすすめだよ」

「そうなのですか。今までは市販の生姜入りドリンクしか飲んだことはありませんが」

この人達は本当に煩くて邪魔だ。しかも、莉那から話しかけらた。

「環希、あんた、何か食べる?」

「いや、もう豆乳ヨーグルトとバナナ一本を食べた。ありがとう」と嘘をついた。本当は食欲があって朝食を楽しみにしていたが、一刻も早く人きりになりたかったから、本を窓際に置いて急いで出かける支度をしはじめた。ちょうど解錠している時に自分の襟足の辺りで後ろから、磔にするような誰かの獰猛な視線を感じて鍵を回すのをやめた。その誰かに呼び止められるかと思いきや何もなかった。2人とも一分も黙然として佇んでいただけだ。無言のまま、一分しか続かないこの背中を通しての会話は凄絶な戦いだった。もっとも、その誰かは誰なのか、またその邪視は誰のものなのか、分かりはしない。この家にはこんなに私を憎んでいる誰かがいるとは予想もしなかった。今日は、殺意のこもったその霊的な凝塊に初めて捕まり、冷や汗が数滴垂れてきた。反射的に目を瞑ったが、安堵感を得るどころか、腹裂きの刑にし処せられたグロテスクな現場を視察させられた自分だけが瞼の裏に写っていた。奏さんにはこんなに人を死に至らしめるほどの強力な憎悪の周波数を発する力があるとはとても思えない。一昨日以来、私に対して多少、敵愾心を持っているだろう。でも、一挙に心を抜き取られたように感じさせる憎しみの波動を送るなんて彼女には無理だ。不吉な予感がした。あまりにも気味の悪いから、ドアを押して階段を駆け下りてきた。外に出ると、自分が何から遮二無二逃亡したのかを考察しながら、ドアを開けっぱなしにしたのを思い出して、莉那にそれをメールで知らせた。さらに、昨日の夕方、空に美しいうろこ雲が棚引いていたことも思い出した。俄雨が降り出すと困る。言うまでもなく、こんなに一目散に外へ飛び出したやつには傘を持っていくべきことなどは考える暇がなかった。帰ろうとも思わない。今朝、あの公園の周辺を散歩することにしたので、北千住駅の方に進路を取った。この日、出かけて、ただ一時間前後が過ぎてから、また莉那たちに出会うなんて驚いたのは元より、あの場所であのような運命に出くわすのも全く予想外のことだった。午前中に彼女たちの間で交わされた会話には、私は不在のため参加していなかった。しかし、その内容は私自身に関わっている。あの二人があのところに現れるまでの経緯はその後、莉那に教えてもらった。これから彼女に取って代わって聞いたことを逐一語っていく。

【莉那の思い出話】

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環希が窓際に置いた本の表紙を見て、「これ、やばいな、あの人はまた塞ぎ込んでるとみたい」と私は思案顔になった。

「何がやばいですか」と奏ちゃんの顔には本当は「あの人って誰のことなのかを教えてくれ」と書いてあった。しかし、立ち入った質問だと思ったらしく、遠慮しただろう。私はまずあの人のことを話した。

「環希のことさ。この本はもう絶版になってるけど、環希は鬱陶しい気持ちを払拭したい時にこれを読み返す習慣があるんだ。年に一度くらい、必ず読み返しすという頻度なんだから、もう憂鬱が第二の天性とも言えるね。何という本だと思う?」結局、聞かれたことについては一言も言わなかった。嫌になるほどにこの2人の間に共通点が多く、ちょっと試してみたいことがあった。

「うーん、何んという題名なのでしょうね。これといった答えが思い浮かびませんが、気が沈む時、あまり楽しいものを読みたいと思いませんね。絶版以外には何かヒントを与えていただけませんか」

「ヒントか。この著書は、死に対する恐怖というか、自殺ってどんな方法であろうが実際に醜くておぞましいものなんだというのが趣旨かな。題名を当てなくていいよ。ただ、どういう内容だと思っているかということを聞いてるだけなんだ」この無駄話はますます面白くなっている。

「醜くておぞましいものですか。それじゃ、検視官か監察医の記述とかではないでしょうか」

私は微笑んだ「図星だ。まぁ、ヒントとは言え、あまりにも明瞭だったね。主に自殺遺体の検視について書かれている本のようだ。私自身は読んだことがないけど、環希の話によればこれを読んだら、死を美化する文化を嫌いになる反面、命の美しさを思い知らされるんだって。読んでも気分が晴れるわけじゃないけど、ともかく自殺の選択肢は捨てたみたいで、こっちも一安心だ」

「先輩は自殺を?」と奏ちゃんは途中で口を噤んだ。この話は貧しいと察しただろう。

「まぁ、本当に昔のことだけど、服毒自殺未遂という経験があるんだ、あの人には。確か28歳だった。当然、後遺症が残っているね」とあの頃の出来事の記憶を呼び覚ますだけで私でも気持ちが悪くなった。

「そうなのですか。そのような事があったとは。先輩はさぞ苦しい経験をされたでしょう」と静かに続けた「ひょとして、先輩の酷い車酔いはその後遺症が原因なのではないでしょうか。本当に車がお嫌いな方ですね、、、」

何を聞かれるかと思えば、後遺症のことか。本当のことを打ち明けていいかどうか少し躊躇していたが、いやしくも二人きりで話す以上は、隠し立てしない方がよい。

「いや、乗り物酔いはそのこととは何ら因果関係がない。実は環希は4歳の頃、お祖母さんが車に轢かれたのを目撃したんだ。轢き逃げ死亡事故だった。これが車が嫌いな理由だって」

奏ちゃんは顔が青ざめたかと最初は思ったが、その印象は単なる濃淡の変化による錯覚だけだった。彼女は赤面していた。

「なぜ今更こんな話をなさっているのですか」

「君にもっと環希の事を知って欲しんだから。一昨日のことも気になるし」

奏ちゃんは俯いたまま眉の輪郭に沿って指でアーチをなぞっていた。

「自分が悪いと万々承知しております。立場を弁えず、大変失礼なことをしてしまいました。あの日の夜、家に帰ってきたらすぐにお詫びしたかったのですが、先輩がいつもどなたかと一緒にいたり、何か用事が出来たりしますので、なかなかお話しする機会がありませんもので」

「なるほどな。先輩に対して謝らねばならんというわけか。思った通り。立場を弁えずだなんてそんなことばかり問題視しているね」と私は冷やかす。彼女の反応を確認した。身動きもせずにテーブルクロースを見た彼女の姿はどこかいらいらさせる所もあれば、可愛そうでもあった「ちょっと見せたいものがあるからついててこい」

台所を出て自分の部屋に彼女を通し、椅子を勧めた。押し入れからフラットファイルを取り出して「小曾納翔おそのう・しょうっていう画家がいるけど、知っているかな」と聞いた。

「ええ、その方の若い時代の作品が大好きで、インスピレーションを受けております」

「ほぉ、そんなに有名な画家だったっけ」

奏ちゃんは微笑んだ「有名というほどではありませんが、私と同じ大学の美術学部出身で、先輩に当たるというわけですね」

「なるほど」と言ったが、例の画家は誰で、どこの大学出身なのかなどを誰よりよく知っている「若い時代の作品が大好きと言うんだね。でも、後期っていうか最近のはどうだろう」

「30代以降の作品も悪くないのですが、何だか同じ鋳型にはめた着想を繰り返すだけで、あまり新鮮味が感じられない絵が多くなったような気がしますが」

意外なことだった。この子にはこんな知恵があったとは。ファイルを開けて、そこにしまってある素描、水彩画、油絵を数枚見せた。それを見れば見るほど、彼女が感銘を受けて作品を高く評価してくれた。しかも、気のせいかもしれないが技法は小曾納翔のとかなり似ていると言った。やはり賢い子なのだ。

「まぁ、似てるというのも大して驚くべきことではないな。あの画家とこの絵を描いた人は元友達で、大学時代に二人とも画家志望だったんだから」

「まさか、この絵は社長がお描きになったのですか」彼女は崇敬の目で私を見た。

「いやいや、知っての通り、一応、私も美術学部を卒業したけど、絵心がなくてね。これは環希の作品だよ」

「えっ、今、何を仰いましたか。先輩の?」さすがに彼女は動揺した「先輩は絵を描くなんて一度も見たこともありませんし、向うからもいつも、絵画鑑賞より芸術評論を読んだ方が面白いとか、画家は殆どが穀潰しとか言われているんですもの。このような才能があっても本格的に画家を目指さないなんて勿体ないことですね」

「それはちょっと違う。ここだけの話だけど、ある意味では小曾納翔が環希の絵から意匠と主題を盗作したと断言できるんだ。彼と環希の関係は一年しか続いていなかった。でも、その一年のうちに環希は彼に数え切れないほど技法のアドバイスをした上に、自分のスケッチを見せたり、将来、どのような絵を描きたいのか、何も包み隠さずに全てを話していた。全面的に彼を信じていたからね。さらに、あの二人は友人同士と言ったけど、それはちょっと語弊で、正確には環希があの画家志望者に惚れたんだ。そして、恋人のいる彼の曖昧な態度によって「きっと両想い」と勘違いしちゃって、自分が都合の良い女だけなんだと気が付いたらもう遅かったんだ。信じられない話だね。でも、一枚一枚の絵を比較してみると、誰がアイディアの本来の持ち主か、誰が剽窃者か、君ならすぐに分かるはず」

言われるがままに奏ちゃんは小曾納翔の絵画の検索で出てきたネット画像と環希の絵画を照らし合わせてみた。その表情から彼女には私の言葉を疑う余地がないと読み解いた。二人とも黙っていた。「やはりあれも見せておくべきか」と思って、紺色の封筒を彼女に手渡した。

「中には何が入っているのですか」彼女は怖気づいて顔色が悪くなった。

「これは28歳の環希があの画家に書いた恋文。もう関係を切ってから5年ほど経った時に書いたんだ。自分から送りたくないということで、私に転送を頼んだわけなんだけど、私はその手紙を保管して印刷したんだ」

「でも、どうして私に?」

私は苦笑した「前に言ったでしょ、君にもっと環希の事を知ってほしんだからって」

「しかし、先輩に内緒でこんなことをなさっても宜しいのでしょうか」

「分からない。宜しくないかもしれない。でも、あんまり良くないとしても、それを読んだら、君自身の考え方が一変して、一昨日の出来事を全く別の目で見れるようになるさ。読めというんじゃない。読みたくないなら、読まなくていいよ」

彼女は膝の上に手紙を開いて読みはじめた。


「前略ごめんください

 この文章を読んでいただくかどうかは分かりませんが、ご覧になった場合でもご返信には及びません。返事が欲しかったのは5年前のことで、さすがに今となりましては何も要らないのです。筆を執りましたのは、新しい人生に向かって今まで背負ってきた重荷から解放され、過去におさらばしたいからと思った次第です。

 この5年の間、ずっと貴男との遭遇を計り知れない不幸として見なしており、タイムスリップが出来るものなら、あの日に絶対にお目にかからないようにしたい、という風に思っておりました。本当に不運です。苦痛しかもたらしてくれなかった無意味な悪縁。何の為にあの男が私の人生に現れてきたのか、この経験から何を学べばいいのか、といくら考えましても納得のいく答えは一つたりともありませんでした。負の感情をバネにして成長しろなんてく耳にしますね。でも、それは賢い人に限る話です。言わずもがなのことですが、愚か者である私にはそれは無理です。貴男に恋をしたこともその愚かさを実証しています。では、収穫ゼロで仕方ありませんが、こんな私にもちょっと面白い話があります。この5年のうちに何が擡頭してきたかと申しますと、心を蝕む憎しみと疲弊感だけです。

そう、はっきり申し上げます。私の気持ちを平気で踏みにじった貴男が嫌い。単に「嫌い」と申しましても月並みで、どこでも見られるよな「嫌い」と思われたら困りますわ。それ以上のものをご想像くださいませ。

 あの女との肥満な幸福に浸っている貴男のような男に対して今なお、何か未練のある自分も嫌い。申すまでもなく、あの女が大嫌い。あの嫌な女に負けた自分が情けなくて、自己嫌悪が一層強くなるばかり。あの女がいなければ、本来は清らかで美しい心の持ち主の貴男がやっとその自分の輝く姿に気付くだろうと。あの女の言いなりになっていますから、貴男はあんな下品で、スケベっぽい男に変貌してしまっただろうとも。如何でしょう、こんな妄想は?馬鹿馬鹿しいですわね。私は実にうぶな馬鹿でした。

前述の通り、負けたと申し上げましたが、それも私の空想で、幻影に過ぎないものでした。最初からは勝負何かありませんでしたからね。貴男は、思わせぶりな行動で私に無駄な希望を与えてしまいました。恐らくもう覚えていらっしゃらないでしょうね。初めてお会いした瞬間に貴男に一目惚れし、「何があろうとこの人に好きになってもらう」と決意いたしました。ですから、私の愛と熱情が全ての妨害を排除してくれるであろうと信じ込んでおり、諦めませんでした。何だかストーカー気質の匂いがしますわね。こんな女性に好かれるのは誰だって困るはず。

 ところが、一緒に時間を過ごしている間に、貴男がどれだけ自己中心的で残酷な人なのかが明らかになりました。その本性が見抜けなかった自分への絶望が次第に募ってきました。私ってあの人の精神的な愛人と絵画技法を磨くための必要な道具と同様に扱われているだけだ、とようやく悟りました。それはあの春の事でございます。お慈悲を希い、もうこれ以上、私を利用なさらぬよう、とお願い申し上げました。まぁ、勿論、この言葉こそ口にしませんでしたが、遠まわしに考えることがあるから一か月ほど一人にさせてほしいと確か申し上げました。それで、貴男は何をなさったのです?友人と自称なさった貴男。実に友人らしい姿勢を見せてくださったのですね。莉那から私が病気と聞いてもご自身からメールを一通さえくださらなかったのですが、その一か月が経つや否や、彼女に私とはもう連絡していいかどうかと尋ねただけです。褒めるべき誠意に満ちた行動ですわね。感動しちゃいました。

 回復がなかなか出来ない日々を送りながら、私はただの都合の良い女だけであり、見事に騙されてしまったことに気が付きました。気晴らしに使う消耗品のような女。考えてみれば、貴男は私のところにお越しになったのは、あの女と何かしら葛藤があった時のみです。もし、私は本当に大切な友人でしたら、貴男は私の幸せのためにご自身から私との関係を思い切って断ってくださったのでしょう。また、何のやましいことがないと仰るなら、何故私の家の訪問を隠していらっしゃったのでしょう。全部、分っているくせに相変わらず会いたいとか言ってくる男。自分の利益以外には何も重視していない男。虫が良すぎるのではなくて?貴男に全力を尽くした私のようなおバカさんを踏み台にして立派な画家になるなんて最低ですわね。所詮、自分から動くしかありませんでした。莉那を通してもう完全に絶交したいと伝えたら、貴男はお詫びを一言さえ投げかけず、ただ、「あっそ」のような反応なさったそうです。その素っ気ない態度こそが私に深い傷を残してしまいました。私は面倒な女で、機会さえあれば厄介払いしたい、と思っていらっしゃたでしょうね。女たらしにかけては実に笑裏蔵刀の達人。

 長文になりましたわね。でも、ご心配なく。もう終盤なので。憎しみとの付き合いは決して面白いものではありません。貴男に対しての憎しみ、いや、正確には自分に対する憎しみををどうやって克服すればいいのか、そのように思い悩んで色々と試してみました。感情を抑止するなり、逆に昇華するなり、他の男との交際のおかげで昔から引きずっている傷を癒すなり。しかしながら、私が弱まっている時にこそ憎しみは姿を現し、無防備な私を襲来してきます。何度も何度も同じことが繰り返されているだけです。無情な貴男を赦したいと思っても、打ちのめされた自尊心が邪魔したりします。分からず屋の貴男に対しての憤慨を撥ね除けように撥ね除けられません。何をしようとすっきりしません。その日々でした。

 一言で申せば憤死しそうでした。何の取り柄もなく、憎らしい男を好きになった自分ほどバカな女はこの世に一体どこに存在するのでしょうか。滑稽な事ですわね。本当に。何故人に愛情を注げば注ぐほど容易に利用され、損だけするのでしょう。さらに、もっと滑稽な話がありますわ。昔は、貴男の幸福をお祈りしていました。心から。そう、あんな酷い扱いを受けてもですね。今は、もうそういうくだらないことをしません。でも、だからといって生霊のように貴男を呪いもしません。善かれ悪しかれ他者の苦しみが分りもしない貴男のような無神経な男には、そういう男には、私がこの5年間、どのような地獄にいたか、弱い自分を卑しみながら血を吐いて神経をどれだけすり減らしてきたか、その哀痛の100分の1さえ想像できるはずがありません。何のために貴男に出会ったのかと長年、理解しておらずにいました。でも、この駄文を書いているうちにようやく答えを見つけました。憎しみの業火に包まれて真の絶望を知るためです。貴男は画家になりましたが、私はあれ以来、何も描いていません。と申すより描けなくなったわけです。絵の具、色鉛筆、画筆、全てを捨てました。だって私の代わりに貴男こそが私の絵を描いていらっしゃるんですもの。貴男は最愛の相手と結婚なさいましたが、私はあれ以来、男を信じられなくなりました。恋が出来ない不具になりましたもので。貴男を昇進や裕福が待っているようですが、私には一縷の望みすらありません。もはやそんなのは無用です。あってもどのように使うべきか見当も付きません。

 さて、新しい人生に向かってと申しましたのは、つまらぬ恋愛物の犠牲者から途方もない絶望の女王の称号を得ようと決心したということでございます。そしたら、貴男の名さえ思い出せなくなり、それまでの貴男との関係を清算し、全ての不幸に対して無感覚になりますわ。その業績を貴男に捧げます。

かしこ」

どうやら奏ちゃんが読み終わったようだ。彼女の横顔を見る限り、気が動転している影らしいものがなく、ただ壮美な幽愁の刻印だけが現れてきた。若い女性に似合わない厳粛な雰囲気。


「他者の人生ってこんなにまんまと盗まれるものですか。本当に造作もないことですね」彼女の優しい含み声は安心感を与えつつも、環希の顔を思い出させて私は血が凍ったような気がした。いや、比喩なんかではない。文字通りに、血行不良になり、一瞬、足の指の感覚がなくなった。しかも、思いのほか主導権を取られた。

「小曽納さんから返事は来ませんでしたか」

それを聞くと、あの手紙を読ませるべきではなかったかもしれないと尻込みしたくなった。もう無理だが。

「いや、来たらしいよ。でも、彼は環希の連絡先に送ったんだから、その中身は私にも分からない。ただ、その翌日、環希は病院に搬送されて―まぁ、服毒自殺未遂についてはもう話したね―つまり、返信を読んで相当衝撃を受けたということだ。具体的に何が書いてあったかは教えてくれなかったけど、返事が来たことを口走った」

親友と言っても、私にも環希について知らない、分からない、理解できない事が結構ある。小曽納との断絶から自殺未遂にかけてのその5年は、記憶の甘皮をこそげ落とせば、環希はこれといった異常な様子がなく、寧ろ自分には出来ないことなんてないのだという気力に溢れんばかりの典型的な自信家の仲間にだった。そして、その5年というものは、地獄そのものだったと手紙から知った瞬間に彼女の本当の姿を見た人はこの世には一人もいないのだ、と私も長い居眠りから目覚めた。環希が絵を描けなくなったのも誰も愛せなくなったのも、自己表現能力を失ったからだ。それが彼女のいう絶望なのか。

「まぁ、この話はいい。それより、一昨日、環希と同じ道を進みたくないとか言ったよね」

「それは、何も知らない私の因業でかつ軽率な行動でした。本当に私が全面的に悪くて」良心呵責に苛まれる彼女の姿は天真爛漫な全ての乙女の代表者に選定されても驚かない。あまり見慣れない清い姿。妖艶がなく、吉永さんみたいなやつには好かれるはずがないが、同性から見ればこの可憐で、篤実な人柄こそが魅力的だ。環希とは似て非なる若い娘さんだ。

「いや、責めるために言ったわけじゃない。それに、君の言った通りだ。環希は私が自分の会社に雇ってあげなかったら、恐らく今でもまだ文房具屋の店員さんだっただろう。独身で、子供もいない。一人っ子で、お父さんが彼女のガキの頃、亡くなって、お母さんも数年前に他界した。私は来年の2月に、結婚式を挙げることになっている。さらに、恵美が来年の5月に九州の実家に帰るそうだ。その意味では君の言ったことは間違っていない。それは事実の陳述だけなんだから。でも、『ポンコツのおばん』といった解釈はあくまでも個人的な解釈に過ぎない。その事実の背景に何があるのか何も知らない一昨日の君の解釈なんだね」と何だかおばさんくさいお談義を聞かせたような気がして早く結論を出した「何が言いたいかというと、君は事実を言ったことを謝るべきではなく、解釈の多様性を考えた上でその知恵を自分の人生に生かせばいいだけということだ」この世話好きなおば役に自分自身でもう辟易したが、言いたいことは最後まで言えるチャンスはもうないだろうと思って続けた「君に環希のように絶望しか感じていない人になってほしくない、異常なまでに一途な恋のせいで、華麗なる人生の代わりに焼け野原を歩いてほしくないんだ。恐らくそれこそ今の環希の唯一の願望だと思う。もし、君も同じような目に遇ったら、あの女は気が狂ってしまうだろう。勿論、謝るに越したことはない。寧ろ、それを種上げにしない方が良い判断だね」と最後の言葉と共にやっと爽快感を覚えた。

奏ちゃんは封筒を返して、腕時計を見た「先輩は今、どこにいるかご存じですか」

「うん、知ってるよ。多分、そろそろ新馬場駅に着くだろうね。追いかけてみる?」

彼女はほんの少し目尻を動かして目で微笑んだ「でも、すれ違い、また社長が間違っていらっしゃる可能性もあるでしょう」

「うん、あるよ」今度、笑うのは私の番だった「どっちにしても、やってみないとこの推理が誤っているかどうか分からないままで終わっちゃうんだね。それってつまんないと思わない?」私は初めて仲人の仕事に伴うはずの楽しさを味わった。

「仰る通り、やってみましょう。先輩に会って心からお詫びとお礼の気持ちをお伝えしたいのです」

「出発よし」と言って二人とも出かけていった。

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この話は、帰路に着く途中、莉那から聞いた思い出話だ。しかし、新馬場駅で降りた時にあの二人が車に乗って私と同じく東品川公園に向かうなんて、それに勘付かずにいた。何か虫の知らせがあればいいのにといつも不平を言いたくなるが、この時に限って第六感が濁って、慈悲深い誰かに篝火を焚いてもらったりすることは滅多にない。とはいえ、この辺りの景色を見ると、41年前に起きたあの日の事しか考えられないので、目に映る全てのものが死出の旅の飛脚に見えるのは当然だ。昔、母方の実家が南品川一丁目にあり、祖母と一緒にこの辺りをよくぶらぶら歩いていた。二人とも散歩好きだった。あの日は晴天で、13時までに帰ってくるように11時に出かけた。散歩中にどんな会話をしたかは忘れてしまったが、確か祖母は装飾写本の文について何かを話していた。子供の私でもその分かりやすい説明が理解できたというのも覚えている。道路を走っている自動車は案外にも数台しかなく、静かだった。車の往来が途絶えると、先に道路の真ん中に転がっている何かが目に付いた。この距離では見分けられるのは、引き千切られた小さなタイヤのような、いびつな形をしている黒っぽい何かがあるということだけだった。もう少し歩いてみると、「猫だ」と思わず口に出して腰を抜かした。隣に並んでいた知らないお祖母さんが同じ方向を見て「あら、何て酷いんでしょう。路上で轢かれちゃったみたい。可愛そう。早く知らせなきゃ」と呟いてどこかへ行った。祖母もくれぐれも亡骸を見ないように忠告し、歩調を速めて力強く私の手を引っ張った。でも、見るんじゃないわよと言われても、もう見てしまった。だから、その場を離れても心は離れられず、あの光景に膠付けにされた。祖母についていけるように必死に小股で歩いていたが、昔は猫だったはずのあの凸凹の死骸だけが目の前にあった。哺乳類が命が尽きるのを見てはじめて、死の独特なユーモアセンスとこの世の無神経さを痛切に感じた。人自体は無関心なわけではない。死んだ猫を見て胸が詰まったり、回収などを考えたりするあのお祖母さんのような人はたくさんいる。でも、死がこの世に来て誰かを連れていくとしても、ここは何も変わらないのだ。何も。空は青く、そよ風が吹き、小鳥がぴょんぴょん跳ね飛んでいる。さらに角を曲がると、親子の笑い声が聞こえてくる。この世が極度に無関心で、人間の世界ではどんな惨劇が演じられても不動の姿勢を崩さない。一方、死こそ我々に大きな興味を持っている。また我々の印象に残るように二度と同じ形で現れない。同じ手口を使ってやってくるというのもない。そして、実に捻くれた冗談と戯れを好んでいる。私と祖母は横断歩道に近づいて渡りはじめた。どういうわけか、眩暈がして一瞬祖母の手を離して一歩後ろに下がった。祖母がそれに気づくと引き返そうとどどこからかぴかぴかと光る黒い自動車が飛び出してきて、猛スピードであっという間に横断歩道を走り抜けていった。他の車が止まって、周りから色んな人が駆けつけてきた。路上に横たわっている祖母に目を凝らして私は無意識に「猫だ」と囁いた。一人の近所の優しいおばさんが私を見かけてすぐそばにある東品川公園へ連れていって、父が来るまでずっとそこに一緒にいてくれた。私は泣いていなかった。泣きたくもなかったのだ。祖母にはもう会えないとそれとなく察知したが、この世の無関心さに匹敵するほど無感覚なもう一人の自分が目覚めた。空はやはり青い。砂場ではしゃいでいる多分、私と同じくらいの歳の子供立ちを見ていると、彼らはあの猫についても、私の祖母について見聞きせずにいる。つまり、死については何も知らないのだ。彼らにとってこの青い空はただ美しい蒼穹だけなのだ。彼らのママたちにとっても同じだろう。でも、死から洗礼を受けた私にはこの冷たい美は寧ろ人を嘲る呪わしき妖術にしか見えなかった。

 今日は祖母が亡くなった日と違って雨模様の空だ。陰鬱な雲脚を眺めると、冷酷な現実に観察されているような感じがする。ウンテイと滑り台で遊んでいる子供を見飽きて、野良猫でもここに来てくれないかと期待を寄せて30分くらい待っていた。でも、ついに一匹も姿を現してこなかった。自分の瞑想の時間も過ぎたので、おもむろに出口の方へ向かった。公園を出ると着信音が鳴らして、どうやらメールのようだ。それを読んだ。「あんたが見えるんだ。そこで待っていろ」というメッセージは莉那から来た。周りを見回したが、彼女の車も彼女らしい女性も見当たらなかった。私は先に進んだ。二通目のメールが来た。「だから、そこで待つんだって言ったじゃん。足の向きを変えてくれない?私たち、横断歩道の向う側にいるんだよ」という内容だったが、私たちとはまさかあの子も連れてきたというのはないだろう。あの子に会いたくないからこそ出かけたのだ。尾行されると思うだけで虫酸が走る。莉那の指示通りに進んでみると数メートル先に立っているあの二人の姿が見えた。看護師の白衣しか彷彿とさせない奏さんの白無垢姿が浮世離れした仄かな輝きを放っていた。彼女も私も立ち尽くした。奏さんの笑顔は今日は一際美しい。切なくなるほど美しい。私達は姉なる絶望と妹なる希望が出会う交差点に差し掛かるところだった。莉那からはメールが来た「さながら姉妹同士のようだね。あんたも白いワンピースを着ているなんて」と読んでおもてを上げるか上げないうちに奏さんの白い服に鮮血色の波紋が広がってきた。「猫だ」と私の口からただこの一つの言葉が出た。女の悲鳴じみた声が聞こえる。野次馬が集まってくる。横断中の歩行者と衝突した車の運転手が棒立ちになっている。救急車が到着する。そして、搬送中に車にはねられた若い女性は死亡する。ありふれた話だ。

莉那に何故彼女たちがあの公園まで行くことになったか、その詳細については何も尋ねなかった。問い掛けたいことすらなかった。でも、彼女は自責の念に駆られて自分の告白を誰かに聞いてもらいたかったようだ。その話が終わったら今まで黙っていた私は無色の声で言った。

「誰も悪くない。仮にそうでないとしても、もう何も変わらない。どうしても加害者の登場が必要というなら、あの運転手さんを責めればよい。しかし、この言動には何の意味があるのでしょう。何を言おうとあの子はもう戻らない」

莉那はすすり泣いていた。私は顔を背けた。そして、少し考えてからまた言った。

「私たち全員が有罪かもしれない。と同時に無罪でもある」というのが私の本音だったが、心の奥では私だけが罰すべき人間であり、この連帯責任への訴えは何の慰めを与えてくれなかった。多分、私こそ涙を流していた方が莉那にとって話しやすい環境になっただろう。でも、泣けなかった。この白いワンピースの襞を見て、私ではなく、奏さんが自分の膝を見ながらここに座るべきだった。あの子は謝りに来た。このポンコツのおばんに謝りに来たかったのだ。こめかみ辺りの血管が浮き出てきたのを感じた。自分の人生は、今にも透明になりそうなほど漂泊されたのか、血豆が破れるにつれてどんどん緋色を吸収してきたのか、真っ黒な断頭台となっているのか、私ってどのような経験を積み重ねてきたのか、何の為にこの45歳も生きていたのか、こうして不毛の自省に没頭していた。

「環希、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

何を聞かれるのかと何の推測もなしに恐る恐る頷いた。

「あの人の返事には何が書いてあったの?」

「吉永の返事には?」私はさっぱわけが分からなかった。

「いや、小曽納翔からの返事のことだよ」と莉那は少しまごついていたようだ。

「ああ、あいつの事か」と私は薄笑いを浮かべた「たった3行のメールだった。『内容は全てを受け止める。酷い目に遭わせたことを後悔しても後悔しきれない。せめて少しでも罪を償うために、今度の展覧会の主催者に僕の助手として環希を紹介させてくれ』そんなことを読まされると全てが嫌になるわね」

「何んという無神経なやつだ」と莉那は真顔になった。

しかし、私には昔の事はもうどうでもよくなった。かつての私の考えは甘かった。真の絶望というやつはこれからだ。










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