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千夜十夜物語

先生と憂鬱

作者: 穹向 水透

22作目です。そろそろ、新学期シーズンですね。憂鬱です。

       1


 僕、佐中鏡冴(さなか きょうご)は大学を卒業し、教師の道に進んだ。高校時代に決めていたことを漸く実行に移すことが可能になったのだ。これまでを真面目に生きてきたことが功を奏して、教師の道に立つことは容易かった。そして、紆余曲折を経て、自分の通っていた高校に採用してもらった。これだけでも、普通は喜ばしいことだろう。だが、僕にとって、これは当然のことであり、通過点に過ぎず、ゴールはまだまだ遠いように感じていた。

「今日からお世話になります、佐中鏡冴です」と新任式で簡単に挨拶をする。少し、機械的になっていたかもしれない。というのも、壇上の僕は緊張などしておらず、意識は風景の分析にのみ働いていた。見知った顔の教師が何人かいるが、彼らと縁があろうとなかろうと、僕には一向に関係がない。仕事上、摩擦を作らないように、と意識するだけの雑多な人々。結局なところ、僕の探し人は新任式にはいなかった。まぁ、これは予想の範疇で、寧ろ当然だろうと思った。それでも、探してしまったのは、逸る気持ちが制御不可能に近くなっているということなのだろう。

 新任式が終わり、生徒は半日で帰宅した。僕は何処のクラスの担任でも副担任でもない。自由度が高くて助かる。

 年度初めの会議があって、それに参加したが、僕の探し人はいなかった。しかし、これも予想の範疇だ。このような少なからず社交的な場に顔を出すような人間ではない。会議の話は要点だけを聞き取り、終わった瞬間に職員室を出た。後ろから、何処へ飲みに行くだの何だのと取り留めのない内容が聞こえてくるが、僕には関係のない話だった。きっと、無愛想な新人だと思われているだろう。僕が高校時代からいる職員ならば、僕の人間性を一ミリ程度は把握している筈だ。それはあまりに期待し過ぎだろうか。思えば、真面目に進み過ぎたのかもしれない、とそんなことが泡のように浮かんで弾けた。

 二階の職員室から、四階の資料室へ。生徒も職員も滅多に訪れない、校舎の中でも秘境的扱いの場所だ。ドアの磨りガラス越しの光を確認して、三回、ノックする。「はい」と中から聞き慣れた声がした。僕は勢いよく、しかし、静かにドアを開いた。

 部屋の主は僕の方を見ないで、棚の上のポットに眼を向けている。

 変わってない。

 何処も、何ひとつも。

「お久し振りです」

 僕がそう言うと、部屋の主はこちらを見た。眼鏡の奥にぼんやりと鋭い眼が見える。彼はポットを手に取り、書棚からカップを二個出して、優雅に注いだ。そして、言った。

「こちらへ座りなさい」

 僕は尾を振り回す犬の如き上機嫌で、彼の手が示す先に腰を下ろした。あまり人が座っていないと予測されるソファだ。

 カップが僕の前にコトンと置かれる。中身はわかる。ジャスミンティーに違いない。

「まず、久しい、と言ったね。ああ、確かに久しいね。私は君を憶えているよ。稀な生徒だった。しかし、わかるね? 私がどういう人間か」

「はい。名前を憶えていない、と」

「その通りだ。物を識別するためだけにある名前という制度が私は嫌いだ。しかし、ないと不便だ。これには残念ながら屈するしかない。さて、名乗ってくれ、私の授業の最前列に座っていた君の名を」

「僕は、佐中です。佐中鏡冴です」

 彼は少し考えているようだった。だが、すぐに言った。

「うん、思い出した。久しいね、佐中くん。元気かい?」

「はい。伊奈伽(いなが)先生こそ、お元気そうで何よりです」

「そうだね。そもそも、使う機会がない身体だ。いっそ、サイボーグにでもしたら効率的なのだが。彼らならば、AIとは違って、人心を平均レベルで理解してくれるだろう」

 伊奈伽(ひじり)は微笑んだ。

「こんな学校へ何をしに戻って来たのかね? 私には魅力が少しもわからないのだがね」

「それは、先生に会うためですよ」

「ほう。すると、君はあれか。私が最後に出した問いの答えを抱えてやって来たということか。それは律儀なことだ」

「ええ。まだ、言わないでも?」

「ああ、構わんよ。いつでもね」

 僕はジャスミンティーに口を付けた。少し熱過ぎるように思われたが、先生は慣れているのか、ぐびぐびと飲んでいく。「Quaff off(一 気 飲 み)」というイディオムを思い出したが、何ら意味はない。

「君は何を教える?」

 先生が訊ねた。

「僕は、世界史を」

「ふむ。いいね。よっぽど、役に立つ」

「しかし、先生の倫理も役に立っていますよ。今の僕があるのは、先生の授業のお陰なんですから」

「では、何故、倫理を選ばなかったのかね?」

「それは、先生の株を奪うのは良くないのでは、と思いまして」

「何だ、そんなことか。それは杞憂だよ、佐中くん。最早、私は教鞭を振るったりはしない。未だにここに居座り続けて、まるで穀潰しだ。多少、環境の整った浮浪者みたいでもある」

「どうして、もう授業をしないんですか?」

「年齢だよ。どんな大男も、どんな知識人も時間には敵わない。仮にコールドスリープでもして、技術の飛躍した未来へ逃亡したとしてもだ。逃げたことに変わりはないのだから。人間が人間の技術に依拠している間は、真の永遠などは訪れないんだよ。わかるかね? それに、年齢の他にも、制度的な厄介な点が多くてね。日々の私は、近隣を散歩するか、図書室へ赴いて興味のままに時間を潰すだけなんだ。そこらの老人と何も変わらない。そう思わないかね?」 

「普通の老人は興味も衰えてますよ。自分の分析が出来ているのは、先生が若い証拠ですよ」

「若い、それが何か役に立つかい?」

「動くのに役に立ちます」

「私は動けるか、動けないかを重要視したことはない。重要なのは、考えられるかどうかだ」

「そうなると、若いと経験不足ということになるのでしょうか」

「そうなる」

 先生はジャスミンティーを注いで、啜った。

「しかし、時には例外もいる」

「例外、ですか」

「名前は忘れてしまった。だが、接してみればすぐにわかる。ああ、こいつは違う、とな。脳内をデータ化してみたいよ」

「先生もデータなんて言葉を仰るんですね」

「時代が時代だ。それに、データという言葉はタブーでも何でもない。誰も使うことを制限したりはしないのだよ」

 先生は立ち上がり、デスクへ移動した。

「仕事ですか?」

「違う。娯楽の時間だ。今から、十分ほど、いや、わからないが、ソリティアを楽しむのでね。君の行動は君次第だ。待つでも構わないし、帰るでも構わない」

 僕はジャスミンティーを飲み干して、腰を上げた。先生はパソコンの画面に眼を向けていて、僕が退室する時も、こちらを見なかった。

 やはり、変わっていない。いや、変わっている方が不思議なのか。先生のような人間は変わらない。周囲でどんなに季節が移り変わろうと、自分の季節、そもそも、そんな概念はないのだろうが、そこから動くことはない。無意識に世界から孤立している人間、それが先生なのだ。

「パノプティコンって知ってますか?」

 僕は授業の中での先生の言葉を思い出す。

「ベンサムが提唱した円形の監獄で、その形の特性上、看守全体を見ることが可能となり、また、囚人も互いの目線があるので、妙な気は起こせない、というものです。ですけど、不思議ではありませんか? 私はベンサムに訊ねてみたい。それは果たして抑制になるのでしょうか、と」

 この言葉に先生の人格が表されているように思う。他者からの視線の全ては先生に影響を与えることはなく、先生も干渉しようとはしない。仮に幾つもの目線があったとしても、先生は牢獄の扉を開けて、涼しい顔で出て行くだろう。

 僕は自動販売機でサイダーを買った。ジャスミンティーの独特な味を掻き消すためだ。同時に、熱が生じた頭を冷やす効果も期待しつつ、炭酸の刺激に喉を鳴らした。


       2


 翌日の放課後も先生を尋ねた。新学期には授業らしい授業はなく、まだ仕事もないに等しいものだった。僕がここにいる目的は先生であり、生徒との触れ合いや世話が目的ではない。これを言うと、愚直でステレオタイプな人々に怒られてしまいそうだが。

 先生は部屋の中にいた。後で知ったことだが、先生はこの部屋を「憂鬱」と呼んでいるらしい。

「こんにちは、先生」

「久し振りだね、えっと、佐中くん」

 これも相変わらずで、先生の挨拶は必ず「久し振り」から始まる。スパンは関係ない。例え、それが数時間、或いは数分でも関係ない。

「この中は時間の流れが停滞している」

 先生はそう言った。

 僕は周囲を見渡したが、時計はなく、窓も書棚で塞がれている。スピーカーのスイッチも切ってある。確かに時間のない空間だ。

「時間に囚われることも憂鬱だが、時間を知ることが出来ないというのも憂鬱だ。なぁ、佐中くん。我々は、時間が停滞したらどうなる?」

「止まるのでは?」

「妥当且つありきたりだね。だが、間違っていない。市井に遍くものの全てが誤りと決めつけること自体が愚かなのだ。ああ、これは私の友人のことなのだがね……。それで、問いの答えだが、時間が停滞したら、全ては朽ちる、と私は思う。どうかね?」

「それは、加速、ということですか?」

「うむ、その認識は同じだ。そう、加速だ。時間の停滞は、恰も永遠を演出するが、逆なのだよ。時間が滞れば滞るほどに、万物は死を夢見て、そちらへと走り出すのだ」

「では、先生もそうなのでしょうか?」

 僕がそう言うと、先生は両眉を少し上げた。

「なるほど。私は、この点において自己の分析を試みたことがない。そうだな、確かにそうかもしれない。停滞させることで、時間を無理に進めようとしているんだな」

 先生は一度、手を叩いた。それは、拍手と同じ意味を持ち、それを極端に短縮した結果である。つまり、先生は僕の意見を誉めてくれたのだ。態々、面倒な道を辿って来た甲斐はあったようだ。

「君は君らしくなったね」

 僕には意味がわからなかった。元から僕は僕でしかないだろう。

「在学時の君を思い返せば、生真面目な生徒だという印象が強い。だが、それは私から見れば、何処にでもいる量産型に過ぎない。テストで良い点を取ろうが、教師からの評価が高かろうが、良い大学に受かろうが、それらは個人を評価するのに不足している」

「では、どうやって評価をするのでしょう?」

「放置することだ」

 先生は即答した。

「放置、ですか」

「高校生というのは、学校や親という狭い環境下にあり、その思想、本質は滅多に押し出されず、異端として処理される傾向にある。狭苦しいコミュニティは反乱因子に目敏いからね」

「反乱因子……」

「恐らく、君も少なからず、誰かと被ることのない思想を抱えている筈だ。しかし、それを語ったことがあるかね? 思想というものは、脳に留めておくだけでは意味を為さないし、価値もないんだよ。君は、それを言葉にしたことはないだろうね」

 確かにない。

 脳内で沸き上がるイメージの数々は、大抵が不要か重複とみなされて処分される。処分されて、果たしてどうなるのだろう。

 先生はポットから薄黄緑の液体をカップに注ぎ、すぐに喉に流した。僕は持参したサイダーしか飲むものがなかった。最近、知ったのだが、自分はどうやら猫舌のようだ。先生の淹れる液体との縁が僕にはない。これから先も、そう。

「考えるだけ無駄、だと思うかね?」

「場合によるのでは?」

「では、今、私の手の上に林檎があるだろう?」

「いえ、ないと思いますが……」

「考えてみてくれ。林檎があると」

 僕は林檎の形と色を想像し、現実に嵌め込んだ。

「さて、それは無駄なことだろうか」

「時間を消費したという点では無駄なことなのでは?」

「まだ、君は全てが君ではない。考えることの全ては無駄なことではない。考えることに意味があり、考えないより、遥かに良い」

「では、例えば、空が落ちて来るんじゃないか、と考えるような、明らかな杞憂にすら意味があるんでしょうか?」

「そもそも、空が落ちてこない、と決めつける方が違うのではないか? 人間が想像できる全てのことは現実に起こり得る」

「それで得がありますか?」

「考えることの全ては得だ。例えば、大学の合格発表を見に行く時、一度は落ちた時のことを考える筈だ。それだって損ではない。実際に落ちていた場合の予防となる。私が思うに、考えることの半分は予防に注ぎ込まれている。ショックを軽減するクッションの役目だ。もちろん、期待し過ぎて、ショックを増大させる考え方もあるがね」

「確かに、合格発表の時は、落ちることを想定していました。寧ろ、そっちの方ばかり考えていました」

「しかし、君は受かっただろう? その時、君はどう思った?」

「物凄く、嬉しかったです」

「予防の考えに付属する最大の得は、それがプラス方向に動いた時に動くプラスの感情が著しく増大することだ。マイナスを軽減し、プラスを増大する。考えることの有益な作用だ」

 僕はサイダーを喉に流した。先生と話していると、自然と喉が渇く。先生の言葉のひとつひとつは、まるで神託のように僕を貫くのだ。

「あと、これは屁理屈かもしれないが」

 先生は指を立てた。

「この部屋は時間が停滞している。確かに身体は朽ち行くだろう。しかし、思考は留まり続ける。身体と思考は同時に存在するが、別の動きをする。故に、無駄ではないのではないか?」

「えぇ、そうかもしれませんね」

 僕は、その屁理屈を飲み込めずに、身体のみが朽ち行くという感覚のまま座っていた。


       3


 いよいよ、と言うか、当然なのだが、僕も生徒の相手をしなくてはならない。僕は世界史B担当で、二年の生徒に教える役目を任されている。別に教師になりたかったわけではないので、教えることには正直、乗り気ではない。元来、多数の人格と接することは得意ではないし、得意にしようと思ったこともない。取り敢えずは、無害無益な人間として時間を遣り過ごせばいいのだ。

 僕が教室に入ると、廊下に響いていたざわざわとした声は止んだ。数年前まで逆の目線だったと思うと不思議な感じだ。

 僕は簡単な自己紹介を淡々と(こな)して、教科書を開いた。世界史Bは先史時代からスタートだ。何故、この範囲を学ぶのか、僕は不思議でならない。受験で対策した記憶もない。チュートリアル的な役割なのだろうか。

 淡々と進めて、時々、質問を投げ掛ける。予測不能な質問の襲来は眠気防止になる、というのは僕が学んだことだ。しかし、授業で眠られるのは構わない。それは僕の人生ではないからだ。

 質問を投げ掛けると、前から二番目に座っている女子生徒が殆ど答えてしまう。名前を確認すると、水芭蕉(みずばしょう)とあった。変わった名前だな、と思った。眼がビー玉みたいな少女で、あとは、声が高く大きい。

 不意に教室の後ろのドアが開いた。人目を憚らない音量とともに現れたのは、先生だった。生徒がざわめき出す。宛ら隠者の生活を送る先生が、博物館の展示品のように珍しいのだろう。僕はざわめきを手で制してから、先生に訊ねた。

「どうしました、伊奈伽先生?」

 先生は最後列の椅子を引いて、そこに腰を下ろした。

「どうぞ、続けて。私は単なる観客のひとりだ。ほら、少年少女、古代の歴史に耳を傾けたまえ。聞き逃しては恥だぞ」

 先生は相変わらずの口調である。とても、懐かしい口調だ。

 先生は微動だにしない。彫刻のようだ。

 僕は先生の視線に半ば怯えながら、最初の授業を終えたのだった。



 その日の放課後、僕は先生を尋ねた。先生は「憂鬱」の奥の方で本を読んでいた。

「久し振りだね」と先生。

「ええ、久し振りです。えっと、今日の昼間はどうして僕を?」

「簡単に言えば、暇潰し、となるだろうか。偶には、この停滞空間から抜け出して、世界の時間感覚に身を慣らさないといけない。時差ボケしてしまうからね。それで私は散歩をするのだが、今日はあることを思い出した。実は、この僻地にも学校からの通知が来るのでね、私は君が教壇に立つことを知っていたのだよ。ふむ、あとはわかるね?」

「ええ、わかります。僕の授業はどうでしたか?」

「判定不能だよ」

 先生は即答する。

「授業の良し悪しの基準がわからない」

「わかりやすかった、とか……」

「誰にでも教えられるよ、学問なんて」

「では、川谷(かわたに)先生の授業はどうです?」

 僕は、授業がわかりにくいと評判の教師の名を挙げた。

「川谷? 誰だね、それは?」

 そもそも、ここからの話か。しかし、残念なことに、授業が壊滅的ということ以外で川谷を認識していない。つまり、説明が出来ない。

「すいません、忘れて下さい」

 先生は軽く頷いた。

「ところで、あの最前列の生徒は誰かね?」

「最前列?」

 僕は記憶を探る。

「ほら、あの何度も手を挙げていた」

「ああ、水芭蕉さんですね」

「水芭蕉? 変わった姓だね」

「下の名前は山茶花(さざんか)というそうですよ」

「名前も花なんだね。なかなかのチョイスだ」

「それで、水芭蕉さんがどうかしました?」

「いや、何でもない。少し話をしてみたいだけだよ」

 僕は驚いた。先生が誰かと話をしてみたいと言うなんて、信じられなかった。積極的に他者と関わろうとする姿勢など僕は見たことがなかった。僕は考えたが、水芭蕉山茶花に興味を持った理由がわからなかった。

「いいですよ、声を掛けておきましょう」

「そうかね。しかし、強制ではないからね。君が面倒ならそれでいいし、彼女に気がないならそれでもいい」

 やはり、多少の積極性を持とうと先生は先生のようだ。本質は揺るがないから、本質なのだ、そんな言葉が浮かんで蕩けていった。


       4


 二日後、僕は水芭蕉を先生の元に案内した。彼女はふたつ返事で承諾してくれた。僕が先生のことを知っているか、と訊ねると、彼女は首を少し傾げていた。

「この辺りは来たことがないです」

「憂鬱」の前で彼女は言った。

「学校内の秘境みたいなものだよ」

「こういう感覚は大好きです」

 水芭蕉は言った。案外、子供っぽい、少年のような人格なのだろうか。見た目も、一瞬、見ただけでは高校生だとは思えないが、果たしてそれに比例するのだろうか。

「憂鬱」に入ると、先生は奥にいて、僕らに気付いて顔をこちらに向けた。先生はソファに座るように促し、「ジャスミンティーは如何かね?」と訊ねた。猫舌の僕は断り、水芭蕉は首を縦に振った。彼女の眼が宝石のように見えるのは、彼女の好奇心が溢れている証拠だろう。この部屋のあらゆるものが奇特なのだ。

「こんにちは、水芭蕉くん」

「初めまして」と彼女は言う。そういえば、先生が授業中にやって来た時、一度も後ろを振り向いてはいない。確かに、初めまして、で間違ってはいないのだ。

「何だか、妖精みたいですね」

 彼女は先生にそう言った。

 ジャスミンティーと和菓子という少しズレた組み合わせが僕らの前に置かれる。ふと、このお菓子は誰が用意しているのだろう、と疑問に思った。先生が買い物をしてる姿は想像し難い。

「さっそくだが」と先生はソファに腰を下ろしながら言った。「色々、質問したいんだ」

「はい」

「まずは、そうだね、君は虹の上を歩けると思うかね?」

 虹? 歩ける筈がないだろう。

 僕は水芭蕉の方を見た。

 彼女は先程のように眼を宝石にして答えた。

「歩けると思います。そもそも、歩けない道理が何処にありましょう? 私には信じられないのです」

 先生は頷いた。

「雲の上には城があると思うかね?」

「あります」

 彼女は即答した。

「誰も確認していないなら、ないとは完全に言い切れません」

 僕は彼女が、何らかの影響を受けやすい人物なのか、と想像した。

 先生は思慮深い人間だと信じているが、正直、質問に意味があるとは到底思えなかった。虹を歩けるか、雲の上に城があるか、それで何がわかるのだろうか。

「では、これで最後の質問だが……、君は自分をどう評価する?」

 僕には、その質問の意図さえわからなかった。前のふたつとは違って現実的な質問に聞こえた。

「わかりません」

 彼女はすぐにそう答えた。

 先生もすぐに頷いた。

「何故?」

「自分という存在に触れたことがないので、わかりません」

「よし、わかった」

 先生はそう言って、立ち上がり、カップにジャスミンティーを注いだ。湯気で先生の顔が見えなくなる。

「君は、私と似ているようだ」

「そうなんですか?」

「ああ。昔の私と同じことを言っているよ。私も、自分のことなんてわからない。自分という存在については、生きているうちに触れることなんてないんだよ」

「死んだら変わりますか?」

「死んだことがないからわからないね」

 先生は微笑んだ。

「私は、自分という存在の有無を知らない。目の前のものが全て正しいとは限らない。そして、それを確かめる術もない。実際のところは、自分なんてあってもなくても、大した変わりはないのだが、重要なのは、それの確認であって、私はそれを未だ成し遂げられていない」

「私には出来るでしょうか?」

「する必要があると思っている?」

「いいえ。自分を認識するということは、自分を世界に混在させることになります。私は私で、先生は先生というように、自分は押し止めておくべきですから」

「では、前述の質問の意図は?」

「事象が可能となって、引き起こされてしまった場合を考えました」

 先生は頷いた。この頷きを繰り返す様子も珍しい。本人の自覚していないところでの反骨精神の塊である先生にとって、他人との意見に本質的に同調することは、空が落ちる程度の確率であると思っていた。

 やはり、人は変わるのか、それとも、僕が生徒だった頃に水芭蕉のような人物がいなかったからだろうか。

 しかし、恐らく、後者だろう。

「水芭蕉くん。君は『め』から始まる単語、瞬時に何が浮かぶ?」

 あ、それは。

 僕の口が音もなく開いた。

「メメント・モリ、ですかね」

彼女はそう答えた。

「私はね、メランコリーだよ」

 先生はジャスミンティーを喉に流してから言った。



 その後、僕と水芭蕉はすぐに「憂鬱」から出ることになった。先生がソリティアに時間を潰すためだ。

「佐中先生はどう思います?」

「え?」

「『め』から始まる単語ですよ」

「ああ、それね……」

 この質問は、先生が僕たちの最後の授業で問い掛けたものだ。あの時は、正解も不正解もない問題だと思っていたが、今日、先生が答えを持っているということがわかった。

「僕は、メテオラ、かなぁ」

「いつか行ってみたいです、そこ」

 もちろん、本当は、そんな奇岩の上の修道院などではない。どうして、僕は今、本当のことを言うのを躊躇っているのだろう。

「メランコリーかぁ」

 水芭蕉が歩幅を大きくしつつ呟いた。

「どう思います?」

「え?」

「予想通りの解答でした?」

「ああ……、それね。いや、予想できなかったよ」

 実際、僕は「メランコリー」という単語は浮かばなかった。先生にとってのメランコリーは、何処にあるのだろう。あの閉鎖的な部屋の内側か外側か。もしかしたら、両方かもしれない。

「もう、六時なんですね」

「ああ、そうなの? あれ、六時ってこんなに明るかったっけ」

「二十四節気で言えば、清明が過ぎて、そろそろ穀雨ですよ」

「そうか、それもそうだね」

 万物が明るく輝く時を経て、季節は田畑を耕す頃へ。二千年もループしてきた化石のような流れ。

 なるほど。

 確かに、メランコリーだ。

 先生はきっと、自分という生命に対して、重みなど感じていない。先生は無意識に世界からの分離を試みているように見えるが、実際はもっと大きな、最早、眼に見えないほどの空間を感じていたのだろう。

 だからこそ、メランコリー。

 先生の感覚は僕とは違う。水芭蕉の方が近い感覚を持っているのだろう。あの場に置いて、僕は観測者以前の部外者だったのだ。

 僕は先生を慕っている。それだけは、確かだと信じている。けれど、これは片想いのようで、一方通行に過ぎない。そして、今、僕にはわかる。僕は先生の何を知っていて、先生に何を求めているのだろう。

 僕が傲慢だったのだ。

 社会に出て、教職に就いて、先生のように教壇に立つ人間になった。それで、僕は先生に近付けた気になっていた。

 そう、僕にはまだ早かったのだ。

 窓の外では、夕陽が半身を覗かせていた。

 メランコリーな光が下界に垂れ下がっていた。

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