冬将軍の雪の花
吹雪の中で、凍えて命の灯が消えそうなときに、冬将軍は現れます。
そして、死ぬ前に望みを叶えてくれるのです。
そうして凍えた魂が、温もりを取り戻したときに、温かい風で冥途に送るのです。
あ~~あ、あ。
雪が降ってきた。
小学校の5年になる美夏《みか>がつぶやいた。
誰も居ない夜の公園で、一人ブランコに乗っていた。
公園の横を通る大人と、目が合うとギョッとされる。
幽霊か何かと、思われているんだろうな。
白い息を吐き、寒くなってきたので立ち漕ぎをする。
ちょっと一心不乱に、漕ぎまくる。
しゃがんで、体重を乗せて立ち上がる。
高く高く、ブランコは上がる。
普段は見えない風景、遠くまで見える。
少し小高い場所にある公園を取り巻く木々を抜けて、町の向こう側まで。
町には明かりが灯り、その向こうには海があるが、今は真っ暗だ。
時折、漁船の灯りが見えるときがある。
もっと強く漕いで、空を仰ぎ見た。
いつもは暗闇だけれど今夜は雲があるので、少しだけ明るい。
暗い灰色の空から、白い雪がゆっくり降りてくる。
人気はなくなり雪で音も消され、世界は自分だけになった。
いや、もともと一人だけの世界だった。
お母さんが、彼氏を連れてきているから家には帰れない。
学校も行かなくなっていた。
お母さんが、臨海学校のお金を払えなかったのが切っ掛けだ。
給食費も無駄だから、払わない。
もう行くんじゃない。って言われた。
生活保護に入っているから、学校にも行けるはずなのにな。
なんで、そんなにお金がないんだろう。
ああ、お母さんがお酒飲んで、パチンコ屋に行っちゃうからか。
お母さんは、多分ダメ人間だ。
でも、私が働きだしたら、きっと喜んでくれるだろう。
お母さん。
私が働いて、お金を渡したら、喜んでくれる?
早く大人にならなきゃな。
今じゃあ、バイトだって出来ない。
お花の一輪も買えない。
ガーベラは一本でも華やかだから、一本だけ買ってきた時に、お母さんが喜んでくれたな。
お酒の空きビンが一輪挿しになって、数日は部屋の中まで明るくなった。
寒い事、お腹が空いたことから、頭を切り替えるために、将来のことを考えた。
洋服のデザイナーになりたいな。
友達の洋服のコディネートゲームとか結構得意。
ゲーム機は持ってないけれど、私は上手いから、周りが貸してくれて皆で盛り上がったりする。
でも本当は、洋服をデザインから作りたいな。
普段、着れる服とか少ないけれど、小さくなったら百円均一の店でレースや布を買って、お母さんのミシンで縫うこともある。
穴とか開いてもアップリケで隠したり、裾が擦り切れても布を追加したりしている。
お母さんは裁縫は苦手だったけれど、昔は袋とか作ってくれた。
丸い底のきんちゃく袋や取っ手の付いた袋は、お母さん一人では作れなくて私も手伝った。
凄いねって、喜んでくれた。
ミシンの使い方は、それ以降すぐ覚えたので、運動会で着る法被とか、自分で作るようになった。
お金は三日に一度、テーブルに千円が置いてある。
ご飯代だけれど、お釣りを集めておいて布を買ったりした。
今は、スカートとかは自分で作れる。
ブラウスとかも、作れるようになりたいな。
そう。ミシンが大好き。
あの振動も心地良い。
お母さんが、私のために一生懸命に、ミシンと格闘していたのを思い出す。
お母さんは、ミシンの下糸を入れるのが下手で、しょっちゅう縫い目がくちゃくちゃになっていた。
隣で私がその縫い目を解いて、平らに直すの。
お母さんは、
「もう、やんなっちゃう」
って言いながらも笑っていた。
あの時は、お母さんは、私のことが好きだったはず。
なんで、母さんは怒りっぽくなったのかしら。
私のことが嫌いになちゃったのかな。
夕方に彼氏が来た時、お母さんは嬉しそうだった。
あんな笑顔、私には、してくれなくなった。
泣きそうになるのを堪えて、グンと力強くブランコを漕いだ。
雪で、足が滑った。
あっ!!!
身体が浮いて、そのまま大の字になって地面に叩きつけられた。
雪が薄く積もっていても、痛いものは痛い。
頭もガンガンする。
上空で、ブンブンと振れているブランコを眺める。
痛い。地面が冷たい。寒い。痛い。痛い。
だから、涙が出た。
仰向けになったまま涙が出たので、耳の穴に入って気持ち悪い。
そんな事まで悲しくて泣いた。
「お母さん」
なんとなく呼んでみた。応えるものは雪のふぶく音だけ。
雪は激しくなっていた。
でも、立ち上がれなかった。
なんだか、動けなかった。
風が巻き起こり、頭上のブランコが揺れている。
凄い天気だなぁ。
ぼんやりと考えていた。
ズズ・・・・ン
ズズ・・ン
ゴウゴウと吹雪が吠え
地鳴りで公園の丘が震えた。
オウオウと白い世界が叫んでいた。
そして、現れた。
仁王像のような大きな顔が白い中からヌウっと。
しゃがみ込んで、私を見ていたのが、立ち上がったのか顔がどんどん上に上がっていく。
大きな人。
ブランコの柱が、腰までもないじゃない。
比べるものが無ければ、真っ白いこの人の大きさなんて、分からなかっただろうな。
鎧を身に着けている。
七福神の中の、鎧を着た人に似ているんだ。
あとは、仁王様とか。
神様かしら?閻魔様とか?
なら、私、死んじゃったの?
「冬将軍さまでございますよ」
「御方は冬将軍さまでありんすえ」
サワサワと女性の声で、冬将軍が来たことを告げる。
目を凝らすと、何人もの女性が巨大な鎧武者の周りを飛んでいる。
時代が色々あるのか、話す言葉や服が少し違っている。
う~ん。
雪女を引き連れた、冬将軍さまって事かしら?
天気予報で冬に、擬人化されているのは、見たことがあるけれど、本当に居たのね。
なら春一番とか、軽薄な男の人とかなのかしら。
どこかマヒした思考でクスリと笑った。
「童や。死の前に何を望む?」
見下ろす巨人が、予想していたよりも柔らかい声で言った。
そうか、私は死ぬのか。
いきなりだな。
でも、ご飯は昨日から食べてないし、寒いとかも、もう感じない。
生きるって、こんなものか。
巨人の静かな瞳。周りを飛ぶ女たちの哀れみの顔。
この女の人も、こうやって増えていったのかな。
行き場所がなくて。
そうだよね。
私が死んでも、お母さんは、お墓作れないもの。
天国にも行けないのかな?
「冥途には、風で送る」
私の心をを読んだのか、将軍様が言った。
「これらは、勝手に付いてきている。そして、凍えた者を教えてくれる。冥途には、暖かい風で送ってやろう」
何を望むって、何かを叶えようかしら?
何にしよう。
ああ、そうだ!
「まず、起こして!」
風に巻き上げられながら、身体が起き上がった。
奇麗なドレスを着たいな。
指をピンと指すと、雪が細かいレースの布になり、身体に巻き付いた。
そう、女性のドレスは、鎖骨を見せた方が奇麗。
でも、今は服を着ているから・・・
彼女の意図道りに、薄いベールになり、首から肩、腕を覆う。
そして、胸には少しだけパットを入れて、細かい花の雪の刺繍。
細いウエストは強調して背中にピリッとコルセットが付いた。
少女は、堂々と、背を伸ばした。
ドレスの裾は・・・お尻を少しふっくらさせて、ミニのふんわりプリンセスドレスも可愛いけれど、だって、私は今は雪の女王なの。
すらりとした、マーメイドラインで、裾をどこまでも長く刺繍を這わす。
短くなったスカートをドレスで隠し、真ん中から割れて足を見せる。
歩くときには、膝が奇麗に出るだろう。
小さくなって、踵をつぶして履いていた靴は、いつの間にかなくなり、小さな足にピッタリのハイヒールになった。
氷のハイヒールでも痛くないの。
ドレスが身体を覆って、持ち上げてくれているから。
ぼさぼさだった髪は、雪女の誰かが梳かしてくれた。
髪を梳かれるのは大好き。
随分前に、お母さんが、髪を梳いて、編んでくれた。
前髪も不揃いに長かったものは、奇麗に梳かれ、横に細く編み込まれながら耳の後ろの髪と一緒になった。
そして編み上げられ、髪を留めるのは、花の氷の髪飾り。
最後に、髪飾りから、長く垂れる薄いベール。
彼女が手を前にかざすと、氷の鏡が出現し、全身が映し出された。
わあ。
私、いま、すごくキレイ!
ボサボサの長い髪も、裾を繋げても短くなったスカートも、肘が穴が開き、アップリケを付けているトレーナーも、そして汚い、私も消えている。
おでこの氷のダイヤの額飾りは、雪の結晶のまま繋いでティアラにした。
髪は丹念に編み込まれて、ガーベラの髪飾り。
薄いベール。
興奮して高揚し血がさす頬と唇。
襟はスタンドでレースが上半身を覆う。
ドレスは、細かい刺繍が施されている。
イギリス王室の、御姫様が着る様な細かい刺繍よ。
でも、とても軽い。だって、私のは雪で作られているんだもの。
マーメイドラインは、もう少しお尻に肉付きを足してみる。
前の真ん中で膝からスリットが入っている。
腰に手をやり、片膝を出し、片方の肩を前に突き出す。
鏡の中の私は、とても奇麗じゃない?
「どうかしら?」
手を広げ、ステージの上のように優雅にくるりと回った。
クスクスと細波のような笑い声と、賞賛の声。
周りの女たちも笑っている。
良く見えなかったけれど、周りを取り囲む女たちも、奇麗な格好をしている。
簪がいっぱい。花魁かしら。
十二単って普段から着るものなのかな。
関係ないわね。だって、とても身体が軽いのだから。
色々な時代の女性たち。
「ふむ。美しくなったな。
良く分からんが、その姿はとても似合っている。
そのまま暖かい雪で冥途に送ってやろう」
「私も一緒に、他のお姉さんたちと、行ってはいけませんか?」
「冬を渡り歩くのだぞ。そして、冬の端に着いたら、次の冬まで眠るのだ。
春も夏も秋も見れんのだゾ。いくつかの冬の間には、この地を再び通ることもあるだろうがな」
そう。
もしかしたら、お母さんに会う時があるかもしれない。
その時に耳元で囁いたら、お母さんは気付くかしら。
冬将軍を見上げて言った。
「うふふ。こんな最近の服が混じっても良いかしら?」
「喜んで供にしよう」
冬将軍の大きな、お顔の目が細められた。
冬将軍は天気予報では、おっかないけれど、本当は優しく笑うのね。
お母さんの事が頭に浮かんだ。
私がいなくなれば、彼氏と上手くいくかな。
お金も一人分、かからなくなるしね。
そう。
その方が良いんだ。
お母さん。
悪い子の私は忘れて、良い子の私だけ思い出してね。
お母さん。
大好き。
少女は冬将軍に手を差し出した。
冬将軍は指で摘まめるくらいの小さな手を手を取った。
---------------------------------------------------------------
ゴウゴウと吹雪がアパートを揺らした。
先に気付いたのは男の方だった。
暖かい布団の中で聞いた。
「あれ?お前、子供出したままなんじゃねぇ?どっか行くとこあんのか?」
「あ、本当だ。どうしよう」
本当は、そんなに心配していなかった。
あの子は、いつだって自分で何とかしていた。
今夜だって・・・・
「俺、帰るわ。子供を凍え死にさせた、共犯者になりたかねぇもん」
「え、ちょっと、帰るって、こんなに吹雪じゃん」
女は縋るが、男は服を着始めている。
「待ってよ。今夜は一緒に居てくれるんでしょ!」
女が腕を掴み、男が邪険に振り払った。
「うるせぇよ。子供殺す女なんて、気持ち悪いだけだよ。一緒に居たくねぇよ」
「そんなぁ。あの子は大丈夫よ。どっかに居るわ」
「どっかって、どこだよ。行ける親戚の家でもあるのかよ?」
「ないけど、どこかのコンビニとかで・・・・」
「はぁっ?それ、マジやべぇやつじゃん。お前、本当に子ども死ぬよ」
さらに言い募った。
「あ~あ、嫌だ。嫌だ。キチガイ女に捕まっちった。マジ触るなよ。
俺も邪魔だって言っちったけれど、こんなに雪が降っている中で、どこに居るか分かんないって、あんた、おかしいよ。
もう、連絡もしてこないで。
子供が死んでいても、俺は関係ないから。
警察とかにも、俺の名前出さないでよね。俺、被害者なんだから」
男は既に服を着終わって、銀のアクセサリーと腕時計を身に着けた。
「え、もう12時じゃん。本当に、あんたの子供ヤベェかもな」
ほんの少し前までは、彼女の名前を優しく呼んでいたのに、もう冷たく突き放すように「あんた」を連呼している。
「じゃあな。さっさと子供を探しに行けよ。でないと殺人犯になるぞ。」
男はドアを開けて、閉めようとしたが、風が強くて閉まらない。
部屋中に風が吹き荒れる。
「ちっくしょう。もう、いいや」
男は部屋のドアも閉めずに出て行った。
女は、呆然としていた。
こんなに吹雪いていたなんて知らなかった。
だって家から出したときは、曇っていて、風が強いくらいだったのに。
男の言葉が頭をよぎった。
「本当に、子ども死ぬよ」
「あんたの子供ヤベェかもな」
曇っていた思考が、初めてパンっと弾けた。
あ、
美夏。
美夏?
あの子はコートも着ていなかった。
急いで服を着た。
コートも着て、自分のコートをもう一着手に抱えて家を出た。
ドアは、やはり風で閉まらない。
そのままにして、走り出した。
美夏。
ごめんなさい。
どこに居るの?
学校の校庭の大きなタイヤの中か。
気持ちは焦るが、思ったように走れない。
行く途中のコンビニに顔を出して、
「女の子は来ていませんか?」
と聞くも、どこも女の形相に驚いたが、居ないと首を振るばかり。
コンビニの向かいに公園があった。
美夏は良くここで、ブランコに乗っていたな。
でも、風を遮る遊具はないから、ここには居ないはず。
それでも、いつもいた場所だから・・・・
女は、公園の新雪を、歩き中に入った。
よく一人で、こいでいたブランコ。
見回すと、ブランコの手前が、こんもりと盛り上がっている。
まさか
まさか。
吹雪は静かになっていた。
音もなく雪が降っていた。
ああ、あああ。
美夏。
女は跪き、少女に積もった雪を払った。
肌は青白く
唇は紫
「美夏!美夏!起きるのよ!」
女はやっと、母になり 少女を揺さぶった。
髪に氷が張りついている。
目から、横に伸びる氷は、涙の跡。
ごめんね。
ごめんね。
「美夏、ごめんね。お母さん、勝手に、あなたは死なないと思っていたの。
こんなに、細かったのね。
こんなに薄着だったのね。
こんなに、服が小さくて、古かったのね」
母親は、少女の体の雪と氷を払い、体中を擦り続けた。
なんで、死なないと思っていたんだろう。
子供なのに。
私の子供なのに。
なんで、こんなに痩せていたの?
なんで、服が昔買った物なの?継ぎ接ぎ《つぎはぎ》ばかりじゃない。
なんで裸足なの?
ああ、私がご飯をあげなかったんだ。
私が、服を買ってあげなかったんだ。
私が靴を買ってあげなかったんだ。最後に買ったのは、パチンコで勝った数年前のだ。
ああ、ああ、なんてこと。
「美夏!美夏!お願い。目を開けて」
静かな公園に、母親の悲鳴が雪に吸い込まれる。
ピシリと公園の時間が止まった。
雪が止まる。
母親は気付かず、子供の名前を悲鳴のように呼び続けている。
「 女 」
頭上から、ズンと重低音の声が落ちてきた。
「ヒィッ!」
母親は、上からの大きな重圧から守ろうと、冷たい子供に覆い被さった。
「おかあさん」
美夏の声が頭上から聞こえた。
母親が恐る恐る見上げた。
ずううっと、上まで見上げた。
そこには、巨大な鎧武者と、ウエディングドレスを着て、浮いている奇麗な我が子がいた。
「み、か?」
「そうだよ。お母さん。奇麗でしょ」
「とても奇麗ね。そんな高い場所、危ないから降りてらっしゃい」
「お母さん。彼氏いるのに、探しに来てくれて、ありがとうね」
ああ、そうだ。
この子はこういう子だった。
黙って、耐えてきたのだ。
なぜ忘れていたのだろう。
この子は、いつまでも、耐えてしまう子だと。
そう、私がさせたのだ。
「彼氏に振られちゃった。だから、もう一度、美夏のお母さんを、ちゃんとやりたいな」
この子はこの世から去ろうとしている。
奇麗な姿。
地面に横たわる凍えた、みすぼらしい姿ではなく美しいドレスを着て。
そういえば、カレンダーの裏に、沢山の洋服の絵を描いていた。
ウエディングドレスやお姫様のドレスもあった。
「奇麗なドレス。美夏がデザインしたのね」
「そう。お母さんに見せることが出来て良かった。もう行くところだったの」
幸せそうに笑う娘。
このまま見送った方が良いの?
でも、でも、でも!
「お母さんは、一緒に居たいの!今までごめんなさい。お願いだから、帰ってきて」
母親は、こぶしを振り上げ、少女の胸を叩き叫んだ。
「戻って!お願い。そこは、苦しくないかも知れないけれど、行ってしまうのは、お母さん、嫌なの。
勝手よね、私が美夏を家から追い出したんだもの!
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい!
やり直させて。
もう一度、お母さんをやり直させて。
もう二度と、あなたを家から追い出したりしない!
もう二度と、お母さんの気分で、ぶったりしない!」
叫びながら、母親は 自分の言葉の、
親なのに、やってきたこと。
親なのに、やってこなかったことに、愕然とした。
私は、私を嫌っていた、お母さん以上に美夏に酷いことをしてきたんだ。
お母さんのように、ならないと決めていたのに。
こんな私の場所なんか、戻らない方が、美夏は、美夏は・・・
「お母さん。私の事嫌いじゃないの?」
美夏の声が降ってきた。
少女は驚いていた。
自分が死のうとしているのには、気付いていた。
それを、こんなに悲しんでいるなんて。
「大好きよ。美夏。でも、今までそれを忘れちゃっていたの」
母親が手を挿し伸ばしている。
顔が涙でくちゃぐちゃだ。
私が、お母さんを泣かしている。
私が居なくなるので、こんなに泣いているんだ。
少女が少しずつ、降りてきた。
冬将軍が、遮るように顔を下ろし、女と向き合った。
「おんな、わらんべに、無体を敷いてきたな」
大きく低く通る声が、母親の罪を暴いた。
「凍えた小さな身体を、お前が捨てた。ならば、われが貰い受けよう」
「捨ててない。でも、捨てたのと同じだって、分かっている。
お願いします。
私のたった一人の子供なんです。私はそれを忘れてしまっていた。
お願いします。もう一度、やり直させてください」
母親は土下座をして、冬の神に向かって、頭を地面にこすり付けた。
冷たい。痛い。でも、こんな中に、美夏は一人で居たのだ。
「お願いします!大事にするから、絶対に大事にするから。私の命に代えても、これからは守るから、お願いします。その子を返してください」
「み、かーーーっ!」
お母さんの苦しそうな叫びを、それ以上聞けなくて、
少女は、母親の胸に飛び込んだ。
「美夏!」
「お母さんっ!」
母親と娘の魂は固く抱き合った。
「わらんべよ」
「はい」
涙をぬぐって、少女は立ち上がった。
「お前は、家から出され、ここで、凍え、死んだ。
たとえ、今、生き返ったとしても、
来年また、この辺りで、薄着で凍えているのではないか?
男がいるからと、家から追い出した、その女の、心が変わると信じるのか?」
「お母さんが、私を嫌ってないなら、信じます」
「わらんべよ、女が改心し、服も食事も与えると信じているのか」
「ちょっとくらい、お腹が空いても大丈夫です。服だって、もっと慣れれば、自分で作れます」
「違うのだ。それらは、子供は、親に気に掛けて、もらうべきことなのだ」
母親が叫んだ。
「もう、そんなことはさせません。ご飯だって、しっかり食べさせます。
洋服だって、靴だって、高いのは無理でも、ちゃんとした物を着させます!」
娘の言葉が胸に刺さっていた。
お腹が空いていても気付かなかった。服にも気を掛けなかった。
それを大丈夫だと言い張っている。
なんて、こんな優しい子を大事にしなかったんだろう。
「お願いします。神様、連れて行かないでください。良い母親になります」
「わらんべよ。生きるのは苦しいぞ。今から戻る、お前の世界は、お前の母親以上に、今まで以上に無情な世界やも知れぬ」
「大丈夫です。お母さんが私を嫌ってないなら、ご飯食べて、頑張って、生きたいです」
美夏は、まっすぐ冬将軍を見上げた。
ありがとう。冬将軍様。
ありがとう。雪のお姉さんたち。
私を見付けてくれて。
ありがとう。
おかあさん。
私を探し出してくれて。
少女の心は温かくなった。
幻影の少女の胸に、ぽっと明かりが灯った。
それは、心が希望を持った灯りだった。
胸の灯りを確認した冬将軍は、ゆっくりと立ち上がった。
「そうか、わらんべよ。達者でな」
少女の幻影は消えた時、横たわる痩せた、少女の心臓が再び動き出した。
「ああ、ありがとうございます」
母親は、もう何も見えない雪に向かって叫んだ。
そして、少女を自分のと持ってきたコートの二重に巻いて、
ポケットから携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ。
救急車が着き、少女と母親を乗せて走り去った。
「わらんべよ。多幸あれ」
誰にも見えない巨人は呟いた。
--------------------------------------------------------------
美夏は、寒さと栄養失調で、入院になった。頭部の打撲は軽かった。
母親は、警察と児童相談所とで話をして、自分の心の病と向き合うために通院が必要になった。
少しの間、美夏は児童養護施設に入ることになった。
そして、翌年の冬。
久しぶりにお母さんと一緒に、ご飯を食べて一緒にお風呂に入った。
それまで、お母さんは、育児放棄で罪に問われて、別の場所に居たのだが、今日から、またこの家で一緒に暮らせるのだ。
一年ぶりの美夏は、背が高くなっていた。
頬が赤く、良く笑うようになっていた。
新しいノートには、学校の授業内容の隙間に、ドレスのデザインや洋服が落書きされていた。
寝る前に明日の用意をしていた。
窓の外は雪が降っている。
明日は、雪が積もるかしら?
ゴウゴウと風が強まった。
窓の外を覗いてみた。
パジャマ姿の自分以外、吹雪く雪しか見えない。
その時、窓ガラスの隅に、ガーベラの様な花が氷で出来た。
わあ、きれい!
美夏は、あの夜の事は忘れていた。
でも、その不思議な氷の花を見て、胸が温かくなった。
そして、
「さあ、明日もちゃんと生きよう」
って思った。
変だよね。「明日もちゃんと生きようって」
でも、美夏は、去年、死にかけたらしい。
それに、それまではお母さんも、私が居ない方が良いと思っていた。
その頃の、寒さや、お腹の空いた感じは、今も時折、思い出しては身震いをする。
人は死ぬんだ。死ぬこともあるんだ。
だから、明日も、ちゃんと生きよう。
それが、いつだって、美夏の明日の目標だった。
「美夏、そんな恰好で寒くないの?早く寝なさい」
「あ、お母さん、見て、窓の外に花の氷があるの」
「あら、本当ね」
それを見て、母親は、胸がギュッと締め付けられた。
去年の今頃だった。
美夏を外に出して、凍えさせたのは。
あの時の事は、お酒や寒さで、よく覚えてないが、美夏を死なせるところだった。
そして、その花を見ると、再び美夏が居なくなりそうで、後ろから美夏を抱きしめた。
「お母さん、あったかい」
「ほら、冷えてたんじゃない。早く布団に入るの」
窓の中では、母子が布団に入り、電気を消したところだった。
窓の外の吹雪の中、
「うむ」
と頷く存在と、彼の周りを回るたくさんの女たちの、細波のような含み笑いが風に乗って消えた。
冬が来ると、毎年ではないが、吹雪の激しい晩に窓に氷の花が出来ていた。
それを見付ける時もあれば、見ないままに溶けてしまう事もあった。
しかし、その氷の花は、何年かに一度現れ、そして美夏の心に灯を確認させるのだ。
「明日も、ちゃんと生きよう」
と。
それは、美夏が大人になり、仕事をして結婚しても変わらず、時折、窓の外に氷の花を咲かせ続けた。
美夏は、いつしか母親になり、子供の手の届かない、キッチンのカウンターには、ガーベラが一輪差してある。
それは、美夏の、心を守るおまじないだった。
小さい子供は、泣くときは、どんなにやっても泣く。
それを、怒らない、悲しまない、罪悪感を感じない。
なにより、怒鳴らない。ぶたない。
美夏の家には、一輪だけ常にガーベラがあり、
時折、吹雪の晩に、窓に一輪のガーベラが咲いた。
何も見えない吹雪の中で、巨きな存在が、世界中を冬と共に横断している。
そして、時折足を止め何かを確認しては、満足そうに頷くこともあれば、哀しそうに首を振ることもある。
そんな優しい存在の周りには、透明な女たちが彼を慕い、周りを飛び回っている。
眠りに着こうとしている美夏の耳に、幽かな女たちの笑い声が、聞こえた気がした。
冬の訪れと共に、この世に再び生を戻した者に、冬将軍は会いに行きます。
時に、悲しい光景があったりしますが、心温まる光景も目にします。
窓の中の、仲の良い家族の姿を確認しては、安心して去って行くのです。
冬将軍を取り巻く雪女たちは、窓に小さな約束の印を残します。
それは、見られることなく消えることもあれば、
目に留まり、心の灯りを再確認することもあるのです。