9 深謀遠慮
「先生、それじゃ犯人を立件できない。予備のテーブルナプキンから、毒物は検出できなかった。証拠がないんじゃ無理だ」
「今の時代。殺人を計画しようと思い立てば、インターネットで情報を閲覧できます」
丙馬刑事はこめかみに指を当て、今の話を精査する。
悪くない見立てだ。
それの線で調べてみるのも悪くない。
「なるほど、容疑者のネットの検索履歴を調べればいいのか? それなら、通信業者に捜査協力を依頼して、情報を提供してもらえばいい。本庁のサイバー犯罪対策課にも協力を要請して、ネットパトロールから容疑者の閲覧情報につながるモノを調べてもらう」
話が区切りの良いところで、丙馬には別の疑問がフツフツと湧いてきた。
「解った。その話を捜査本部へ、進言してみる。ところで乙先生? さっき犯人は、おケツ……」
彼女は拳で口を塞ぎ咳払いをして、言い直す。
「犯人は墓穴を掘ったと言ったが、どこが落ち度だったんだ?」
「それは”イタズラ電話”です」
「イタ電? それが犯人の落ち度?」
「青酸カリを小瓶から移して、テーブルナプキンに乗せて客間へ持ち込むところまでは、予想できました。ですが三人の目がある中で、どうやって混入させたのかは解りませんでした」
桃色のスーツを着込んだ、ジェンダーが読み取りづらい男は、一拍置いてから付け足す。
「マネージャー宛の電話が犯人による誘導なら、青酸カリをナプキンに乗せ持ち込んだ後、夫婦の目を盗む方法までつながったのです」
「つまり、乙先生は現場の状況を聞いた時に、テーブルナプキンを使った混入方法に、気付いていたのか?」
「えぇ。ですが決め手がなかったので、思い付く限りの方法を列挙いたしましたの」
かなり前から気付いたというのか? とんだ猫かぶりだ。
臨床心理士、あなどれん。
「乙先生。本当は気付いて事件を楽しむ為に、わざとトンチンカンな推理を言ってたんじゃないか?」
探偵役を終えた臨床心理士、乙丑氏は、眼鏡越しに片目を閉じてウィンクした後、人差し指を自分の唇に手を当て、静かに返す。
「それは、秘密です」
女刑事は無言でその人物を見つめた。
今、目の前にいる人間にミステリアスという単語は皆無。
この瞬間、彼女が思うことは、ただ一つ。
――――――――――――――――キモチ悪い。
§§§§§
その三日後。
警視庁の喫煙に入ると、他部署の職員が煙草をふかして仕事の窮屈さから、つかの間の解放を得ていた。
丙馬刑事がピアニッシモを、箱から一本取り出し口に加え、百円ライターで火を灯し煙をくゆらすと、魂が口から抜け出るように煙が立ち上ると、空調機に吸い取られた。
――――――――かったるい。
事件が解決したはいいけど、終わった後は膨大な書類の作成に追われて、ほとんど寝てない。
おかげで肌はガサガサ。
週二のカウンセリングも面倒くさい。
悩みの数だけ煙草を吸っていると、いつの間にか二本の指先に、燃え尽きた灰が迫った。
丙馬刑事は煙草を灰皿に押し付け、火を消すと喫煙室を後にし、その足で応接室へと向かう。
応接室の扉を開けて入ると、衝撃的な光景が目に飛び込んだ。
「ひゃっ!?」
思わず丙馬刑事が短い悲鳴を上げる。
そこには、真っ白なマスクを顔面に貼り付けた、桃色スーツの男の姿。
それはまるで横溝正史原作、『犬神家の一族』に登場する、火傷を隠す為、白マスクを被ったスケキヨのようだった。
不気味さに相反して、白いマスクの男は、こちらへ気さくに声をかけた。
「あらヤダ。丙馬さん今日は来るのが、お早いのですね?」
男は皮を剥ぐように、白いマスクを両手で取る。
さながら、スパイ映画の正体を明かす場面のように、その素顔をさらす。
マスクを剥がしたばかりの、カウンセラー乙丑の肌は、みずみずしく潤っていた。
なんだか、他人の秘密を知ったようで忍ばれるが、丙馬は恐る恐る聞く。
「乙先生? 何やってるの?」
「ふぅー、最近、お仕事であっちこっち診療に行ってまして、ストレスでお肌が荒れてましたの」
「それは……大変だな」
「なので、カウンセリングまでの空いた、お時間を使ってパックしていたんですよ」
彼が保っていた肌の潤いは、こんな風にマメに手入れをしていたからか。
くそ。同性ならまだしも、こんなオカマ風情に女子力で、劣るとはなんとも気が滅入る。
苦虫を噛み潰したような渋面の丙馬と対象に、瑞々しい肌を見せつけるカウンセラー乙丑は、爛漫とした眼差しを向けて、こちらに聞く。
「ところで丙馬さん? 例のお事件はどうなりましたの?」
「悪いが乙先生。報道協定がある以上、マスコミへの発表が終わるまで、このことは外部に漏らすわけにはいかない」
「あら? そうですか。でしたらいいですわ……」
ひと時の沈黙。
警視庁の外から聞こえる、ヘリのローター音だけが静寂を支配する中、カウンセラー乙丑は射抜くような視線で丙馬を凝視した。
威圧するでもなく咎めるでもない視線。
笑顔も怒りも見せない能面のような表情は、先程のパックをした顔よりも不気味だ。
感情が見えづらい表情に見つめられると、言いようのない不安にかられ、こちらが悪行を働いたのではないかという、気まずささえ生まれる。
そう刷り込まれたら、この沈黙は、ただただ苦痛でしかない。
女刑事は、夜露により作られた雫が葉っぱからこぼれ落ちるように、自ら事の顛末を話す。
「ど、どうせ公表されるんだ。ここで話しても変わりない」
「ウフフ……丙馬さん。いいんですよ? 胸の内に貯めているものを言葉として吐き出すだけでも、精神は安定させることができるのですから」
カウンセラー乙丑は不敵な笑みを浮かべながら言う。
なんなんだ、今の妙な圧迫は?
いや、無言の空間に身を置いていたことで、不快な感覚を覚えた。
そのキモチ悪さを解消したいがために、思わず喋ったにすぎない。
心理的な技術なのか?