初秋の彼女
連日連夜卒研に明け暮れて、泥のように疲れた身体を引きずるようにしてアパートの自室に戻り、居間の電気をつけると、くるりと毛布にくるまった彼女がソファでごくごく静かに寝息をたてていた。
「……。」
自由気ままな猫のような人だと往々にして思う。彼女は犬派だと口にはしていたが。
大きく息を吐いてどさりと鞄を床に落とす。ひとまず冷蔵庫から飲みかけのミネラルウォーターを取り出し喉を潤してから、またため息を一つ。
はて。玄関には脱ぎ散らかした自分のスニーカー以外に靴はなかったはずだけれど。いつにもなく気を利かせて靴棚にしまったのか。
あらかじめ断っておくと、僕と彼女は合鍵で同じ部屋を共有する関係ではないし、付き合う云々の言葉を交わした間柄でもない。
世間一般の表現をするならば、同じサークルメンバーの同期だ。
煌々とともる蛍光灯の下、相変わらず呑気な寝息をたてていた彼女だが、僕が帰宅途中に近場のコンビニで買ってきた唐揚げのレンチン音と部屋に漂う香りには反応したらしい。
もぞもぞと毛布が動いて彼女の顔がこちらを向く。
「…あー。お疲れー椎くん」
一重の目尻を下げてにぱりと笑う。「それなに唐揚げ?いいなーちょうだい」
その言葉は無視してソファ横のガラステーブルに唐揚げと缶ビールを置き、僕はフローリングに腰を下ろしてテレビを付ける。
普段はこんな深夜に興味のある番組はやってないから、テレビなんて見ないけれど。
彼女は僕が缶ビールを煽る隙をついて、ひょいと毛布の中から色白の細い腕を伸ばし、唐揚げを一つ摘まんで口に入れる。
僕がうろんげに彼女を見やっても、ふふふ、なんて満面の笑みを浮かべて悪びれた様子もない。
「椎くん卒研?ここんとこ大変だね」
「そうだよ」
「お疲れお疲れ。ね、そのビール分けて」
寝起きから一分と経たず食欲旺盛な彼女の言葉には答えず、視線をテレビに戻す。画面の中では海外の映画かドラマかが流れていた。今の季節と同じく、秋の街角。コートを着込んだブロンドの麗しの女性に、男性がさりげなさを装って声を掛けて。そこに私の行きつけの喫茶店があるんですよ、マドモワゼル、お茶をご一緒にいかがですか。日本語字幕を目で追っていた僕の肩が、つんつんとつつかれる。
「椎くんもテレビなんか見てたら目が冴えるよ、早く寝なよ。明日はサークル来るんでしょ?」
さっきまで眠りこけていた彼女と違って寝不足な僕は、彼女と目を合わさず努めて不機嫌そうに聞こえる声色で返す。
「どうかな。昼まで寝てるかもしれない」
「えーだめだよー。椎くん来ないとつまんないじゃん」
「別に。誰も気にしないだろ」
「気にするよーあたしが」
え、という驚きの声を寸前で飲み込む。思わず目を丸くして彼女を凝視してしまい、慌ててそっぽを向く。待て落ち着け冷静になれ。
自分一人で食べるよりも早々と空になった唐揚げのパックを視線で示して、彼女は
「さ、寝なよ」とぽんぽんと自身が横たわるソファを毛布越しにたたく。
何のことでもなさそうに。
「…そこで寝れるか。僕は普通にベッドで…」
言いながら寝室に視線を向けたが、言わずもがな普段使っている毛布を彼女がソファの上で握り締めている手前、ベッドには敷き布団のみ。
肌寒くなってきたこの季節では、さすがに服を着込んで耐えることは考えたくなかった。
彼女はすらりと伸びた右手人差し指でふに、と僕の頬に軽く触れ、つつつと顎のラインに沿ってゆっくりとなぞる。見やった僕と視線を絡ませると、にぱりと微笑む。
そしてソファから少しこちらに身を乗り出し、ぽんぽんと僕の頭を、労るようにたたいた。
「お疲れさま、椎くん。寝よ」
「……。」
僕はあえて大きくため息をついて見せる。
そういう心惑わすような言葉を口にしないでほしい。
勘違いをしてしまうから。
両思いと。
僕は。
ブロンド女性の肩を抱き紳士然として街並みを歩き始めた男性の背中を見送り、テレビの電源を消した。
ついでに電気も消して。
「ちょ、いきなり暗いよ椎くん」
抗議の言葉を聞き流して、毛布ごと彼女を抱き上げる。「ひゃっ?!」とか驚いた悲鳴も聞き流す。
寝室の方に向かいながら、思ったよりも軽い彼女は、姿勢を安定させるように僕の首に両腕を回して、宵闇の中、艶やかな瞳を向けてきた。
疲れが溜まっているせいかいつもよりアルコールの回った頭で、僕は、今キスしたら彼女が飲みたがったビールの味が移るのかもしれないなんて考えた。
彼女の寝息を首筋に感じ、眠ったことを確認すると、
僕は彼女を起こさないよう静かにベッドから居間のソファへ向かう。
今宵はとてもじゃないが寝付けそうにない。
毛布を掻き抱きベッドの上で猫のように丸くなる彼女を見やり、僕は今日も寝不足かと頭を抱えた。
それでも嫌な気持ちは起こらなかった。
やっぱりどんなに振り回されようと、僕は彼女を嫌いになれない。