保毛尾田保毛男が殺された
「保毛尾田保毛男」とは、とんねるずの石橋貴明が演ずるキャラクターである。
フジテレビは次のような謝罪文を公表した。
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平成29年9月28日(木)に放送した「とんねるずのみなさんのおかげでした30周年記念SP」において、出演者が「保毛尾田保毛男」というキャラクターに扮して出演致しました。しかしながら番組の放送に伴い、このキャラクターに関して沢山の抗議を頂戴しました。
番組は、LGBT等性的少数者の方々を揶揄する意図を持って制作はしておりませんでしたが、「ホモ」という言葉は男性同性愛者に対する蔑称であるとのご指摘を頂きました。そのような単語を安易に使用し、男性同性愛者を嘲笑すると誤解されかねない表現をしたことで、性的少数者の方々をはじめ沢山の視聴者の皆様がご不快になったことに関して、深くお詫び致します。
またこのキャラクターが長年に渡り与えていた印象、子供たちへの影響、およびLGBT等をとりまく制度改正や社会状況について私共の認識が極めて不十分であったことを深く反省しております。
今回頂戴した様々なお叱りやご意見を真摯に受け止め、多様性のある社会の実現のために正しい知識を身に着け、より良い番組作りを進めて参りたいと考えております。
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まず、「ホモ」は男性同性愛者に対する「蔑称」であるとの指摘を受けたとのこと。
ここで私は素朴に思う。
ならば彼らは何者なのであるのかと。
彼らは彼らを示す際に「男性同性愛者」と常に正式表記をせねばならぬのかと?
そもそも「ホモ」は蔑称であるのか?
問い合わせようにも、抗議団体は「LGBT」の団体だとしか明らかにされておらず、具体的な問い合わせ先は明記されていない。
さて、LGBTとは何の略称なのか、念のため解説しておこう。
Lは「レズビアン」の頭文字。いわゆる女性同性愛者である。
Gは「ゲイ」の頭文字。いわゆる男性同性愛者である。
Bは「バイセクシャル」の頭文字。いわゆる両性愛者である。
Tは「トランスジェンダー」の頭文字。いわゆる性同一障碍者である。
この団体は彼らを示す表現として「ゲイ」を用いている。
ならばキャラクターの名称である「保毛尾田保毛男」ではなく「下胃井田下胃男」ならばこの団体は文句を言わなかったのであろうか。
「ほもたろう侍」が「げいたろう侍」ならば是であるのだろうか。
恐らく答は否であろう。
なぜならば「ゲイ」は蔑称ではないとは担保されていないからである。
「蔑称」とは「蔑みを持った呼称」であり、差別を内包する呼び方である。
そもそも「ゲイ」とは同性愛者が自らに対する差別をアイコン化した表現なのである。
では同性愛者に対する差別とは何であろうか?
かつて黒人が差別され、女性が差別され、同性愛者は差別され、今もそれらは残っている。
では彼らは何から差別されていたのか?
それは「国から」「法から」である。
「公民権運動」や「女性解放運動」と比べ認知度は低いと言わざるを得ないが「同性愛解放運動」も存在したのである。
「ソドミー法」と包括される特定の性行為を禁止する法律は世界各国の歴史に見られるが、特にキリスト教圏では「同性愛者」を標的としてこの法を適用し、彼らの恋愛を弾圧したのだ。
実は日本でも同性愛が法により禁止された期間が存在する。
但しこれは「男性同士の肛門性交禁止」を規定するものであり、明治時代に発令されたが8年後には規定そのものがなくなっている。
これ以外に日本において同性愛が法により禁止された記録は見られない。
一方でキリスト教圏における「ソドミー法」に基づく同性愛者への弾圧は過酷なものであった。
繰り返す。
彼らは寄り添うなどの最低限のスキンシップさえも「違法行為」として処罰・弾圧されてきたのだ。
そうした「国家」と「法」による差別と同性愛者達は戦ってきたのである。
これらについては、例えば「ストーンウォールの反乱」などを参照してほしい。
戦いの中で同性愛者に対する他の性癖者による無理解に対しても彼らは立ち向かった。
各地で開催されている「プライド・パレード」はその一環である。
彼らはパレードを通じて彼らが「法的権利」を得ることへの理解を他の性癖者達に求めているのである。
さて、今回の件に戻ろう。
フジテレビの謝罪文から読み取れるLGBT団体からの抗議内容は次のとおりである。
「ホモ」は差別表現である。
「保毛尾田保毛男」は同性愛者を嘲笑している。
その結果性的少数者をはじめとする視聴者が不快になった。
これに対しフジテレビは「(保毛尾田保毛男という)キャラクターが長年に渡り与えていた印象、子供たちへの影響、およびLGBT等をとりまく制度改正や社会状況について私共の認識が極めて不十分であったことを深く反省しております」と謝罪したのである。
恐らく今後「保毛尾田保毛男」がメディアに登場することはないだろう。
大手メディアから謝罪を勝ち取ったLGBT団体は勝利の美酒に酔うのであろう。
しかし私は懸念する。
「保毛尾田保毛男」がメディアから消えること。
これは「ホモを差別する者の勝利」なのではないかと。
「ホモは気持ち悪いからテレビに出すな」
「ホモは変態だから公共の電波に乗せるな」
「ホモは怖いから目の前に現れるな」
見事に彼らの要求は実現されたのである。
かつてちびくろサンボが殺された。
カルピスのキャラが殺された。
小人プロレスが殺された。
そして今、ホモを笑いに変える行為が殺されようとしている。
本当にこれでいいのだろうか?
「保毛尾田保毛男」が持つ「毒」を丸のみにしてでも、同性愛者はこのキャラクターを利用すべきではなかったのではないだろうか。
冷静に見れば「保毛尾田保毛男」は決して「全てのホモ」を示すキャラではないことはわかる。
「濃いひげ剃り痕」と「おねえ言葉」は女装趣味を現しているのであろうが、それは「ホモ」とは限らない。
もし「保毛尾田保毛男」のキャラそのものが「ホモ」や「女装趣味」を嘲笑するものだとしても、彼らが提供するコントは、はたしてホモの嘲笑に終始する内容であったのか?
少なくとも私には「ホモ」を受け入れている社会を笑いとともに表現しているドラマに映った。
ある長編「ほもたろう侍」に岸田今日子扮する保毛尾田保毛男の姉と、彼との会話がある。
岸田「もしや、危険なことに尻を突っ込んでいるのではないのですか?」
石橋「姉上、それは尻ではなく首でございます」
これは姉が弟の性癖を受け入れているからこそのうっかり間違いであり、当の本人である保毛男が姉に対し冷静に間違いを指摘するこのやりとりは、まさしく「多様性」の体現ではないだろうか。
かつて差別された人々は「国と法による禁止」と戦い、今もなお戦っている。
しかし彼らの一部とその支持者は今「民衆による禁止」を促そうとしている。
それぞれがほんの少しずつ我慢することによりそれぞれが笑いあえる社会の実現は、間違っているのだろうか。
どうか考えてほしい。