【逸話】始まり
遙か、遙か昔の話。
そこは戦乱を終えて数年ばかりの、まだ荒れ地が剥き出しとなる、平和を噛み締め始めた頃のこと。
南にある大山の頂上では城が建設され、他の大地ではあちらこちらに集落が築かれていた。その中で、人里よりももっと離れた山奥でひっそりと暮らす一族があった。
そこの長は女だ。女は集落で女児を産み、目に涙を浮かべながら、産声を上げる我が子を愛おしそうに抱いていた。その隣で、男は笑顔を貼りつけていた。
女児が誕生して数年後、今度は男児が誕生した。男はまた作り笑いを浮かべていた。
男にはある思いがあった。それは、自分の妻が呪われている、とのものだ。女は年にして40代。しかしながら、20代の頃から容姿に変化がなかった。
潤いのある美しい髪に、きめ細かい肌。シワ一つ見当たらない。まるで成長が止まっているかのようだった。
男は、生まれたばかりの男児の世話をする女に代わって、女児の面倒を見ていた。そして、よたよたと歩く我が娘の手を引きながら恐れていた。
この子も、いつか――。
男は決心した。赤子を捨てるわけにはいかない、ならばせめてこの子だけでも、遠くへ。
男は女児を集落から遠い場所で捨てた。
女児は必死に父親を捜した。次第に陽は傾き、森に闇が迫ってくる。腹の虫が騒いでも、眠気が意識を持ち去ろうとしても、女児は泣きながらも懸命に足を動かした。
しかし、子どもの体力はそう長くは持たない。ついに倒れ、泣き声すらだせなくなった。幾日か過ぎて、女児は乾いた喉から言葉を吐き出した。
「パ……パ……」
絞り出した声は、父親を呼ぶ声だった。
その声を耳にしたのは人ではない。小さなネズミだ。ネズミは痩せ細った子どもを見て、すぐに仲間へ助けを求めた。動いたのは黒いメスの狼だ。
女児を保護し、必死に身体を温め続け、水や食料を与え続けた。
こうして女児は一命を取り留めた。初めは警戒していた生き物も、無邪気に走り回る姿を見て徐々に心を解かれていき、気づけば言葉を教えるまでになっていた。皆、女児を〝マメ〟と呼んだ。これは彼らなりの愛情であった。ただ一匹を除いて――。
女児は獣に育てられながら、10歳にまで成長した。
その頃、集落では母親が必死に仲間へ捜索を頼んでいた。それは女児が消えてから毎日のように行われ、周りは関わるまいとしていた。皆、男と同じ心境だったのだ。
どうしてこの女は若いままなのか、誰もが不信感を抱いていた。そんな時だ。
「森であの子を見かけた。生きている」
女児の姿が発見された。集落に戦慄が走った。目の色を変えた仲間の姿を見て、女は森中を駆けた。
女児を先に発見したのは父親だった。花を摘んでいる我が子の後ろ姿を見て息を飲んだ。女児が振り返った。その顔は母親にそっくりであった。
男が近寄った。
「すまない……、すまない……」
『だれ……?』
女児には、その男が己に恐怖心を抱いているなど知る由もない。歩み寄ってきた男の顔を見て、ただ疑問を抱くだけであった。
男が女児の首を絞めた。そこへ母親が駆けつけた。男と娘を引き離し、我が子を背中へ隠した。
「逃げなさい!!」
『なに……? なんて言っているの?』
「早く! 行って!!」
『わからないよっ……。お母さんっ……お母さん!!!!』
集落の仲間が追いついたのとほぼ同時に、女児を保護したメスの狼もやって来た。女児の首に残る痕に、狼は牙を剥き出しにした。
『私の娘に何をした!! 性懲りも無く、また争いたいのか!!』
突然現れた獣に、仲間は後退し始めた。その中で、衝動に駆られるがまま動いた者がいた。
「もうごめんだっ。なんなんだ、終わったはずだろっ」
言いながら、女児と、女児の前に立つ女に目を向ける。
「お前達一族のせいで、俺達はっ……。死ねぇぇえええええ!!!!」
1人が動き出すと、つられるように全員が動いた。女と狼も、互いに娘を守るべくして、人の波に身を投げた。
その隙をついて、男が女児を刺した。何度も、何度も、何度も。謝罪を口にしながら、狂気を満ちた顔で刃物を振り下ろした。
女は仲間に身柄を拘束され、狼は女児の盾になった。狼の血は女児に降り注ぎ、女児の身体に異変が起きた。
肌から湯気がたちこめ、腐っていったのだ。
そこへ、ラヅキが到着した。女がすかさず叫んだ。
「許してっ……、もうやめてっ……」
ラヅキは女児と狼を連れて住処へ引き返した。
ひゅー、ひゅー、とすきま風のような呼吸をする我が子に、狼は言った。
『あなたの名前は、ユズキ……。彼女がそう呼んでいたわ。やっと名前が呼べるわね』
『ヤエ、もう喋るな』
『ラヅキ様……、どうかこの子をお守りください。どうか……ユズキを……』
『わかっている。我もこの子を認めているのだ。あの頃のように殺そうとはしない』
安心したのか、メスの狼――ヤエは静かに息を引き取った。
ラヅキはユズキを見て悲痛に顔を歪めた。そしてこう言った。
『我の分身の血を浴びてしまうとは……』
その横でネズミが涙を流した。
『ラヅキ様、この子はもう……』
『死なせるものか』
その日から、ラヅキは己の力で必死にユズキの意識を繋ぎ止め、子守歌のようにこう囁き続けた。涙しながら、人間を憎いと、何度も何度も繰り返し口にした。そして、ある決断をした。契約を結び、己とユズキを繋ぎとめるというものだ。それは、獣の長という立場を捨てる行為であり前代未聞の事であった。
しかし、誰も反対しなかった。そうするべきだと思ったからだ。
ラヅキは仲間を集め、こう告げた。
『また戦乱の世が訪れる。だが、お前達は一切関与するな。獣語を話せる者が現れるその日まで、身を潜め、この世界を守るのだ』
すべては、ユズキのために。
息を引き取る前に我が子の右太ももに咬みつき、無事契約を結んだ。
こうしてラヅキは、ユズキが死ぬその瞬間まで片時も側を離れなかった。




