第19話・完全体
キトの目の前で自分の喉を切り裂いた女をハシヒメは見た事があった。その子は、数年前にこの森へ来た子ども、ユズキだ。
(確か、母親に薬を盛られたのよね。それはそうと、なんなの、彼の記憶は……。どれも断片的じゃない)
初めは、キトが記憶喪失か何かだと考えていた。そうして、必ず側にいるユズキの死を何度も見せられていたのだが、ここでふとある事に気づく。
(……記憶喪失じゃないのね。彼女が大人になることを拒んでいるからだわ)
どの記憶も、18歳を迎える前に彼女は命を絶っている。その後は転生し、また生まれ変わる。そこにキトが憑いていっているのだ。断片的に見えた原因はこれだった。
(あの子も異常だけど、彼も相当狂った生き物なのね。吐き気がする……)
キトはユズキが生まれる前から楽しんでいた。身籠もる女の耳元で「ユズキ」との名を囁き続け、人間は神のお告げだと信じ込んだ。彼女はそうやって同じ名前を与えられてきたわけだが、キトは最後の始末まで請け負っていた。
彼女を追い込んだ人間――。すなわち、前の世界にいたような母親の前に現れ、己の姿を利用して恐怖を植え付けるのだ。まともに生きていけるはずもなく、キトよりも精神の脆い人間は簡単に壊れた。
(妖を罰する法律もなければ、捕獲出来る人間もいない。やりたい放題だわ)
頭を抱えて縮こまる人間を見下ろしてニタリと笑うキト。壊れたことを確信すると姿を消した。
家を出て、人集りの中を進んでいく。キトの眼前広がる光景には、柵の向こうで緊急停車した細長い鉄の塊と、柵側で燃える小さな鉄の塊がある。その中で燃える人間と、コンクリートの上に横たわるユズキの姿。周りでは人命救助が行われている。
四肢があらぬ方向をむき、首も折れているユズキの隣に膝をついたキト。彼の顔にさっきのような不気味な笑みはない。むしろ、悲痛に満ちている。
サイレンの音が近づいていくると、人間は全員通路の端に移動した。
「また死ぬのか? どこの世界なら、俺はお前と生きていけるんだ……」
言いながら、ユズキの額に流れる血を拭う。
「友の契約など交わすべきではなかった。お前はあまりにも純粋すぎる。ずっと、友、なんだろうな」
ハシヒメが目を細めた。そして、自身の経験から答えを導き出し「ここだ」と確信する。
胸に手を当てて、妖を呼び出した。
(行きなさい。彼の恐怖を食らうのよ)
妖は喜んでいるようだった。キトの能力は混血者にまったく劣らないどころか、重度でさえ歯が立たない。そんな生き物が抱える恐怖、その真髄は美味に決まっている。
もっと欲しい――。そう言わんばかりに妖がハシヒメの体にまとわりついた。
(私の一部になりなさい。そうすれば食べさせてあげるわ)
白無垢が陽だまりのような淡い黄色に輝いた。
❖
ハシヒメが目を開いたのは、実に3日も過ぎた頃であった。それだけキトの記憶の量は膨大であり、これだけの時間を要したのだ。
いつもと変わらない森に胸をなで下ろす。黒霧はなく、暴走していた妖の姿もない。
「手懐けたようだな」
「ええ、お陰様で。でも、どうして? 殺されると思っていたのに」
「利用価値のある生き物だ。殺すはずがない」
自身の最大の恐怖を見せられたはずなのに平然と立つキト。ハシヒメの肌が粟立つ。
「貴様は俺によく似た生き物だ。だからこそ、俺にはわかる。ユズキに興味を持っただろう?」
「――っ、だったら何よ」
「あいつが欲しいか?」
鳥肌はさらに表面へ浮き出た。
不老不死に近い転生の力、獣語、手首から生える黒光りの爪。どれも、人間にはない能力だ。何よりも、彼女の不幸――。あれがハシヒメの心を惹く。
「欲しいわ」
「ならば、貴様がユズキを完全体に導け」
「どういう意味かしら?」
「あいつは不老不死になり得る存在だ。それにはもう一つ材料が必要となる」
「揃えればいいの?」
「いや、時を待てば自ずと手に入るだろう。ただし、あいつにとっては死よりも苦痛を伴う結果が待っている。それまで支えてやってほしい」
「何を考えているのよ……」
「ユズキのことだけだ」
「そうじゃなくて!! あなた、何をするつもりなの?」
記憶を見たおかげでキトの性格を理解しているハシヒメ。彼は、ハンターと同じだ。狙った獲物は逃がさない、手に入れるまでずっと追い続ける。そんな性格なのだ。ユズキの首に契約の印を刻み込んだのも、逃がさないためにすぎない。
不老不死にしたいという願いの意味はわかった。妖に寿命はない。ずっと一緒に生きていくには必要不可欠な力と言えるだろう。しかし、それでも、
「あの子にとっても、そしてあなたにとっても、お互いが必要な存在であることは確かだわ。一方が欠ければどうなるか、ワタシは良くわかっているつもりよ。例えそれが異性であっても、友達であっても抱く感情にそう違いはない」
「勘違いするな。時を待てばと言ったのは、また別の生き物ことだ」
「……わかったわ。これ以上の詮索はやめておきましょう」
「助かる。行く前に、最後に貴様の決心を固めたい」
「ちょっと待って。別れを告げたいの」
ハシヒメが赤い橋に歩み寄った。そして、小川の水面下で揺れて見える柱を見下ろす。次第に浮かんでくる男の顔――。もう、憎しみはない。
「まったく、食いしん坊ね。ワタシの恐怖まで食べちゃうだなんて……。おかげでとても気持ちが楽になったわ」
自身にそう声をかけて、柱へ手を伸ばした。手の平から発生した蒸気が鞭の形に変わる。
「さようなら」
腕を振って柱に絡める。引っ張り上げると、みきみきと音を立てながら柱が折れ、赤い橋は小川へ沈んだ。
キトに向き直る。
「いいわよ。固めるってなにかしら?」
毒霧の晴れた森に日差しが差し込む。小鳥のさえずりが森の復活を告げているかのようだ。
キトがゆっくりと口を開く。
「天野家に、聞き覚えは?」
「もちろん覚えているわ。彼はワタシの付き人で、儀礼の準備の時に、クシで髪を整えながら綺麗だって褒めてくれたんですもの。彼がどうしたの?」
「貴様が死んだ後に、当主の座を継いでいる。その子孫は北闇に暮らしている」
「……どうして月夜じゃないのかしら?」
ハシヒメは嫌な予感がした。
「月夜の民は惨殺され、国は滅んだ。生き残りはたった1人しかいない。敵はテンリという男だ。王家と密な関係にあり、妖化している。奴の狙いにユズキも含まれている」
「決心を固めるって……そういう意味だったのね……」
木々の葉が揺れ、小鳥が飛び立つ。小川にはいくつも波紋が浮かび、地面からは土埃が立ちこめた。ハシヒメの泣き叫ぶ声へ同調するみたいに、幻惑の森だった一帯が騒がしくなる。
すると、ハシヒメの体が見る見る内に透明になっていった。感情が乱れているせいか、点滅する電灯のように、現れたり消えたりを繰り返している。ハシヒメの怒りに同調したのは自然だけではない。彼女の中で落ち着いた妖も、放し飼いになっていた妖の分身もそうだ。
どこを通って戻って来たのか、空に現れた分身がハシヒメの身体に吸い込まれていき、細胞ひとつひとつに浸透すると、やがて溶けていなくなった。
キトが口角をつり上げた。
「これで魂の浄化は完了だ。ようこそ、妖の世界へ」
ハシヒメの耳にキトの声は届いていない。




