【逸話】イザナ・3
時間と共に傷は癒えたもものの、ヒアンの精神は日に日におかしくなっていった。最初は眠ったまま歩いたり、急に叫び出したりとその程度であったのが、仲間を食い始めたのだ。
成人男性の平均身長で例えるなら、ヒアンの背丈は胸元くらいになるだろう。それがどうだ。2メートルくらいにまで成長している。このままでは体に限界が訪れるだろう。
ヒアンが気力だけで生き続けて数年。ほとんど歩けなくなった頃、ついにその日はやってきた。東昇による猪狩りだ。
「俺たちの存在はバレていないはずだろ!?」
獣化し、森の主である猪に話しを伺った。彼らは人を襲わないし、人もまた猪を襲わない。互いに距離感を保ちつつ過ごしてきたはずが、どうしてこのような状況になってしまったのか。森の主もまた答えを探していたが、一つだけ思い当たる事件があると話してくれた。
『ここ最近、やたらと人間が死んでいる』
『しかし、わしらには無関係の事件だ』
『人間はどう捉えているだろうか……』
何はともあれ、もうここには住めない。森の主は、自身の仲間を連れてすぐさま森を去って行った。
シュエンが怒鳴り声を上げる。
「何もしていないのに、なんでだよ!! どうして居場所を奪われなきゃいけねえんだ!!」
数年前に、似たような口調でヒアンに怒鳴ったのを思い出す。今度は、わしが恩師を守らなければ――。
「シュエン、わしは闇影隊の目を誤魔化してくる。お主は犯人を捜せ」
「犯人?」
「森の主が言っていた。やたらと人が死んでいる、と。おそらく、闇影隊は猪の仕業だと思い込んでいる。だが、ここで暮らしているお主にならわかるだろう?」
「猪は人間を襲っていない」
「そうだ。これは罠だ……」
猪を根絶やしにしたい何者かの仕業に違いない。皆の怒りが頂点に達する時間は、実に瞬き一回分だ。
ヒアンを守るために、わしは適当な場所で猪の痕跡を作った。シュエンは犯人が現れるのを待つ。わざわざ敵の陽動にのる必要などない。闇影隊を利用して罠を仕掛けてくるならば、こちらも罠を仕掛け返すまでだ。
偵察に出ていた猪が報告する。簡単にいくはずだったのに、誤算が生じたのは、犯人が闇影隊の中でも五桐家の者を引き連れてきたこと。そして、部隊の人数だ。
体中のありとあらゆる血管が皮膚を突き破り、黒い瞳は白く濁って、爪は腐ったみたいな異臭を放っているヒアンを見る。守りきれるのか――。ふと、そんな不安が過ぎった。
ヒアンは薄らと笑みを浮かべた。
「イザナよ、それでいい。怒りに身を投じてはならない。悩むのだ。十分に悩んだ上で自分にとって最善の道を導き出せ。部族がそうしたようにな」
「わしは死んでも構わん!! これが答えだ!!」
がくがくと震える四肢で立ち上がる。鼻で深い呼吸を繰り返し、敵に向いた。
「お前たちは偉大なる者の子孫だ――」
ヒアンは行ってしまった。わしの手元に残されたのは、一枚の上着だけだった。
「イザナの罠に引っ掛かった奴だけでも始末してくる!!」
横を、獣化したシュエンが走り去って行く。わしは上着に視線を落としたままあの頃の記憶に捕らわれた。どうする? 共に戦うべきではないのか? そんな思いが、部族を失った無念が、わしの背中を強く押す。
足の遅いヒアンを追い越し、大勢で固まっている部隊へ突進した。突き上げ、踏み潰し、少しでもヒアンの負担を軽くする。
『行け! イザナ!!』
こうして、生き残りはヒアンとその仲間に任せることとなった。
しばらくして、戦いが終わることをヒアンの咆哮が知らせてくれた。
『私はお前を待ちやしない!! 天にお前の居場所はないぞ!!』
それに答えるために叫んだ。
『これまでも、これからも、感謝しているぞ!!!!』
叫び続けた。同じ台詞を、何度も、声が枯れるまで。そして――。
『逝ったか……』
絶命直前の細い悲鳴を最後に、ヒアンの声は聞こえなくなった。
『ああぁぁああああ!! ああああああああ!!!!』
言葉などいらない。必要ない。わしの憎しみと怒りと絶望は東昇の闇影隊に伝わったことだろう。
こうして、わしは幸せを捨てた。憎しみに染まる道を選んだ。きっと、その方が楽だったからだ。
後に、ヒアンが人間を襲っていたことが判明した。もしかすると、わしよりも憎しみを抱いていたのは彼の方だったのかもしれない。あの腐り果てた姿を、人間の目に焼き付けてやりたかったのか、それとも毒の回った脳がそうさせたのか……。
だが、ヒアンが動いたのは絶命する何日か前のことだ。別のところで、何者かが今でも身を潜めていることだろう。
なんにせよ、あの日、東昇が洞窟を攻めてこなければこうはならなかった。
❖
共鳴から解放される。獣化を解き、ハルイチと距離置いた。
「これをお前に渡そう」
懐から取り出して投げたのは、わしの部族を殺した闇影隊が置いていった戦闘服の上着だ。古びてしまったが、青と黒の模様は綺麗に残っている。
拾い上げたのは女の方だった。
「貴方でしたのね。カネツグ様が仰っていたのは……」
「なんのことだい?」
視線はこちらに向けたまま、ハルイチが女に問う。
「ハルイチ様が生まれるずっと前の話です。私の母が言ってました。カネツグ様はそれはもう神々しい猪に会った事があるのだ、と」
巨体にびっしりと生えた毛はとても艶やかで、鼻の両脇に従える牙はまるで月が満ちる前の悲しさを物語り、体を支える四肢は大地を踏みしめるにふさわしい逞しさを自然へ知らしめていた――。
「皆、夢でも見たのだと笑い飛ばしたそうです。ですが、カネツグ様は、架空とされた貴方を目標に鍛錬を積み重ねました。そして、立派な長となられたのです。我が一族達が世界中に名を轟かせることが出来たのは、他の誰でもない貴方のおかげなんです。それに……」
女の話は更に続く。
「カネツグ様は、若い頃から前蒼帝と共に様々な歴史を調査しておられました。きっと、貴方が重度であることに気づいていたのではないでしょうか」
「まさか……そんな……」
だとしたら、わしはこれまで誰を憎んできたんだ?
無意識にユズキへ向いた。黄金の瞳を落としている。きっと共鳴で見た記憶を整理しているのだろう。目が合ったとき、ユズキの口から出た言葉は――。
「まずは、ネネに謝れ」
やはり、彼女らしいものであった。




