【逸話】シュエン・2
そうした生活を続けてうん十年が過ぎた。見た目も心も15歳くらいで成長が止まっている。俺にとって、最後の母親が現れることになったのは、自分のこの体質に疑問を抱いている時だった。
その人は仲間の身代わりになって誘拐されてきた女だった。どことなく最初の母親に似ていて、自分から懐いたのを今でもよく覚えている。あと、とんでもなく口が乱暴だったことも。
「へえー、あんたシュエンっていうんや。年はいくつ?」
「40歳手前くらいかな」
「ふーん。にしては教養のなさそうな面してんな」
女は広くて大きい洞窟を見渡している。
もう一つ覚えている理由としては、自分のことを「わし」っていうからだろうな。とにかく、この人は俺にとって何もかもが初めての人だった。
最初に教えられたのは〝形見〟だ。言い換えれば遺品ともいうらしい。浚われる時に持ってきた物がそうだった。
「こんな物、どこで使うんだよ」
女が持っていたのは杖と鏡だ。杖で歩くような年でもなければ、どこかを怪我しているわけでもない。それなのに大切にしている。
「これはね、バァバの形見なんや」
「バァバ?」
「わしの婆ちゃん。どんな輩でも道ばたをふさがれていたら、この杖でどつき回していた」
そう言って、女とは思えないほどの太い笑い声をあげた。
「形見はね、大切な思い出をいつまでも映し出してくれるってわけよ。わかる? ほら、ちっこい脳みそをフル回転させてみ」
「うるせぇな! んで、これはなんだよ。そのキラキラしてるやつ」
「なんや、あんた鏡も知らんの?」
「……ここには何もないから」
すると、女は俺に鏡を持たせてくれた。
「覗いてみ」
言われた通りにすると、鏡に俺が映された。この時、俺は生まれて初めて自分の顔をちゃんと見た。今まで川の水面に反射した自分の歪んだ顔しか見たことがなくて、改めて見た顔に驚いたのを覚えている。
だって、あの人に似ていたから。
「……母さん」
親父が俺の目の前で殺した、最初の女。そいつにそっくりだった。
「そっか、あんた母親に似てるのか」
「そうみたい……」
「大切な人だったんやな」
「……わからない。大切ってなに?」
「自分の心に残る暖かい人のことや。わしのバァバみたいなさ」
満面の笑みをみせて、女は俺の頭を乱暴に撫でた。
「あんたのせいで息子に会いたくなったわ。わしはわしの家に、あんたはあんたの居場所に帰んな。あんたのいるべき場所はここやない」
「だけど、母さんは?」
地面を覆いつくすほどに転がる骨を眺めると、女は手の平で俺の目を隠した。
「わしの手でも、自分の瞼の裏でもいい。今見えている母親は誰や? 1人しか浮かばんはずやぞ」
頭に浮かんだのは最初の母親だった。たった一つだけ、どの骨とも重なっていない隅に置かれている骸骨を手に取った。
「この人……」
そう言って女に見せると、女の目から涙が溢れた。そして、俺を強く抱きしめた。
また頭に浮かんだ。母親の目から涙が溢れていて、ずっと俺の方を見ていたこと。
女が俺の身長に合わせて腰を低くした。潤んだ瞳に俺の目が釘付けになる。母親の姿はさらに濃く、くっきりと浮かび上がった。
俺の瞳から熱いものが流れ落ちた。
「シュエン、その涙はな、寂しいっていうんや」
「寂しい……」
「そうや。あんたは奪われたんや。大切な人を、大切な時間を、これから作り上げたはずの思い出も全部な。ちっぽけな脳みそで理解できてなくてもな、心はわかっているはずやぞ。どの女も、わしも、あんたの心の穴を埋めてやることはできん。もう一度だけ言う。ここはあんたの居場所やない」
これまでの女とは違う、真っ直ぐに俺を見つめる女の瞳。怯えも何もない、純粋な目。寂しいという言葉が胸の奥にまで染みていく。
「母さん……? なあ、母さん」
「シュエン、骨は喋らない」
そうして、俺は初めて死を理解した。
死は二度と戻ってこないことを意味するのだと、悲しくて苦しくなるのだと、代用は利かないのだと。
「ああ……あぁ……あぁぁああああ!! 母さんっ、いやだ!! 母さん!!!!」
骨の目の辺りに俺の涙がいくつも落ちた。まるで母親が泣いているみたいで、もっともっと悲しくなって、それと同時に親父に殺意が芽生えた。
(殺す……、殺すっ……、殺してやるっ!!)
身体中が熱くなる。自分の骨が軋み、筋肉が破裂しそうな感覚になった。そして、気がつけば、俺は女を見下ろしていた。
女が俺の足にしがみつくと、自分の体毛で隠れてしまった。
(なんだよ、これ……)
手が、足が、体全体がいつもの俺じゃない。洞窟のてっぺんに頭が着きそうなくらい身長は高くなり、全身が体毛に覆われ、手足は太く逞しくなっている。
「落ち着きや、闇に蝕まれたらいかん。わしの体温だけに集中するんや。目を閉じてみ」
視界が暗くなると足に女の体温が集中していくのと同時に、体が小さくなっていくのを感じた。
「……いいぞ。ほーら、これで元通りや」
「さっきのはなに?」
「年齢を聞いたときから思っていたけど、あんた重度っていうやつや。なおさらここにいたらいかん。こっちへ来な」
洞窟の外へ出ると、女は木の枝を拾ってなにやら顔を描き始めた。とはいっても、人とはほど遠い生き物だ。
「こいつを捜しな」
「誰?」
「名前は知らん。だけど、あんたと同じ重度や。他にもいるはず。ま、こいつにしか会った事ないんやけどな。目に包帯を巻いているからすぐにわかるはずや」
「知り合いなの?」
「いや、一度だけぶん殴ったことがあるってだけや。こいつ、わしの息子を浚おうとしたんだわ」
「そんな物騒な奴のところに行けってか!?」
「重度の体質は重度にしか理解できん。あんたは知らんやろうけど、人間と混血者の溝は深いんや。こいつの所に行って、まずは世の中の仕組みを学んできな」
言い終えると、強く手を握られた。
「でもな、闇に染まるんじゃないぞ。その先に良いことは一つもない。あんたには居場所が必要ってだけで、一緒に悪さをしろって言ってるわけやない。この言葉を忘れたらいかんぞ?」
「わかった……」
「じゃあ、もう行きな。元気でな」
「ここに残るのか?」
「わしの行く先を覚えてもらっちゃ困るってだけや。色々と事情があるんや」
「そっか……。名前は?」
「それも教えられない。まっ、次に会ったときはまた仲良くやろうや」
背中を優しく押される。
「ほら、行くんや」
こうして、俺は母親の骸骨を持って洞窟を出た後、東昇の北山に身を潜めた。そこで知り合ったのがイザナだ。女の言う通り、重度は他にも存在した。イザナは洞窟の中で起きたあれが獣化だと教えてくれたり、女が描いた似顔絵のトウヤに会わせてくれた。この頃から、夢でも現実でも監視者の存在を恐れるようになった。
最初の頃は威支に馴染めなくて、東昇の北山で過ごすことの方が多かった。そこにはイザナの親友の猪がいる。好きなだけいてくれて構わないと、とても親切にしてくれた。
だけど、その親友に異変が起き始めた。何者かに襲われて次第におかしくなっていったんだ。俺とイザナは側にいるようになった。
それから数年後、東昇の闇影隊による猪狩りが行われた。イザナの親友が残した言葉は今でも耳に残っている。
「お前たちは偉大なる者の子孫だ。失えば、世界は崩壊の一途を辿ることになるだろう。だから、イザナ。シュエンを連れて逃げるのだ」
「しかし、貴方を襲った犯人はまだ野放しだぞ!?」
「……イザナよ、お前に子を殺せるか?」
「――っ!?」
「さあ、一刻も早くここから逃げるのだ。今の私の体ならお前の囮役くらい務まる」
そう言って、親友の猪――ヒアンは、仲間を引き連れて東昇の闇影隊の元へ駆け出した。
俺は憎んだ。居場所を次々に壊していく人間を心の底から根絶やしにしてやりたいと強く思った。東昇の闇影隊も北闇の闇影隊も、邪魔する者は全員殺してやる気でいたのに。
――「闇に染まるんじゃないぞ」――
女の言葉が俺の力を抑制する。
ユズキの獣語に阻害されたのもあるけど、思い出した途端に、俺の体から力が抜けていった。そうして、偶然発見した監視者に似たナオトを殺すことができなかったんだ。
今思えばそれで良かったのかもしれない。
だけど――。
❖
獣化した体で船に降り立つと、床が体重で抜けてしまった。船は真っ二つに割れて船員が荒波に飲まれていく。
(どうして邪魔ばっかすんだよ……)
どいつもこいつも、重度ってだけで――。
怒りのままに荒波に向かって手を振りかざした。そこへ、人間ではない、それよりも遙かに大きい生き物が現れて、俺の腕に絡みついた。
『ボクの海で好き勝手に暴れないでくれる?』
『大蛇!?』
『失礼な猿だね。ボクにはヨツノウミって名前があるんだ。まったく』
最悪なことに、ヨツノウミは獣語で話しかけてきた。見る見る内に体から力が奪われていき、強制的に獣化を解かれる。
ミツルが手からこぼれ落ちて、2人とも荒波に飲まれていった。




