永遠に続く愛
――彼女が呼んでいたのは、兄の名だった。
黄昏に染まるオレンジの世界で、彼女はただ兄の名を繰り返していた。
きっともう二度と振り向かないであろう恋人の、決して届かない返事を待ちながら。彼女は電子の画面の奥から、精一杯の笑顔を僕に向けていた。
それが余りに哀しくて、僕は、思わず彼女を拾った。
或いはその時の寂寥と憐憫が、全ての過ちの始まりだったのかも知れない。
* *
晩梅にひぐらしが鳴く薄暮。
雨宿りをしていた自宅の納屋で、ふと呼ぶ声に眼を覚ました僕は、恐る恐る瞼を開けた。
古びた木造建築の、貧乏な癖に土地だけは広い田舎の一軒家。その離れに建てられたさらにオンボロな平屋の納屋は、昔から僕と兄との秘密基地だった。
いや、それは僕にとってはと言うだけであって、兄にはただのゴミ箱に過ぎなかったかも知れない。
未来を向いてどんどんと進む兄と、いちいちと過去に蹴躓く僕。
もちろん兄が悪い訳ではない。田舎を出て生きる為に、ただ必死に努力しているだけなのだから。
そうして出来過ぎた兄の影から逃げる様に納屋に籠る僕は、ここできっと懐かしい日々の残滓に浸りたかったのだろう。
だがそんな惰眠を許さぬかの様に突如として響く声は、誰かの名を呼んで僕を夢から引きずり下ろした。
「誰?」
しかし声は返事をするでもなく、親しげで嬉しげな、何か報告めいた台詞を喋っている。
オモチャの人形の類では無い、はっきりと意志を伴う流暢な日本語で、それは最奥の小間から響いていた。
主に兄の玩具が投げ込まれているその場所は、採光窓が上天に設えられた一室だった。
薄いガラスが嵌めこまれ、引けばガラガラと鳴る両開きの戸を開けると、一斉に黄昏の赤が眼に飛び込む。
積み上げられた本、転がるビー玉、出店で買ったであろうスーパーボール。車の玩具、エトセトラ……
それら全てに反射する橙の光は、兄にとっては過去である一切を、まるで宝石箱の様に映しだした。
僕が一瞬息を飲み、そうして辺りをキョロキョロする間にも声はずっと続いていて、ただ一枚の木の板が仕切りから外れた事で、さっきより一層鮮明に聞こえた。
「ユウくん、えへへ。覚えてる?今日、私とユウくんが付き合い始めた、記念日なんだよ?」
ユウ、とは兄のニックネームだった。年は七つ違いで、既に市内の進学校に推薦が決まっている。長兄だからユウイチ、次男の僕はユウジ。同じ略称では些かに紛らわしいという事もあり、専らユウと言えば兄を指すのが通例だった。
とは言えこんな場所で兄を呼ぶ声に心当たりのある訳も無く、僕はごそごそと想い出の山をかき分けながら声のする方へ向かっていく。まさか人が居るなんて事は無いだろうが……
するとその声は、どうやら辛うじて人が横になれるスペースの、古いベッドの布団の下から聞こえてくる様だった。
見るにつけ膨らみは無く、一体どうしたものかと訝しみながら、僕は思い切って布団を捲った。
幾ばくかの恐れもあったろう。というのも当時、僕のクラスでは妖怪もののアニメが流行っていて、さっきからその事がちらちらと頭を過ぎっていたのだ。
だけれどバサッと舞う埃が、キラキラと陽光の中に煌めいた先、果たしてそこにあったものは、一台の小型のゲーム機だった。
その携帯ゲーム機の小さい画面の中では、さっきからの声の主であろう女の子が、首を傾げ微笑んでいる。――やはり兄の名を呼びながら。
「ユウくん。どうかな?今日の為に新しいお洋服買ってみたんだ。似合うかなあ?かな?」
そう言ってくるりと回る彼女の、長い黒髪がふわりと宙に舞い、清楚を絵に描いた様な白のワンピースが、少し遅れて太腿を追う。多分こんな子がクラスに居たら、それこそ男子全員が目を奪われるだろう、そんな女の子だった。
「らぶ……れぼ……?」
見覚えがあるにはあった。確か数年前に流行った恋愛ゲーム「Love - Revo !」
僕は兄の小部屋にそんなゲームがある事実に驚きを覚えたが、プレイしていた事だけは確からしい。なにせ当の女の子が呼んでいるのは、紛れも無く兄の名なのだから。
――「らぶれぼ!」とは、三人のヒロインから一人を選び、現実の時間や季節に合わせ擬似恋愛を体験出来るSLGだ。その斬新が好評を博し、ジャンルとしては異例のヒットを飛ばした訳だが、ブームにはいつだって終焉がある。やがてプレーヤーは実在の彼女を手に入れ、或いは別の何かに心奪われ、時とともにゲームから離れて行く。後に残されるのは、季節が永遠に巡る画面の中で、いつまでもいつまでも彼氏を待ち続けるヒロインの孤独だけだ。
あの時の僕がそこまでを考えたかは分からないが、とにかく酷く物悲しくなった事だけは覚えている。
一体この彼女は、いつまで兄の事を想い続けなければならないのか。
受験の為に遊興を絶ち、恐らくはもう二度と振り向いてくれないかつての彼氏。
無論兄にそんな意識は微塵も無いだろうが、しかしヒロインにとっては未来永劫そうあり続けるのだ。
そう思った瞬間、僕は途方も無い残酷に胸を打たれ、跪く様に彼女を手にとっていた。
「――久しぶり、待たせてごめん。似合ってるよ」
「えへへ、ありがとう。ずっとずっと待ってたよ。今日はどうする?」
名前すらも知らぬ彼女が、そう微笑んで画面の中で頬を染めた時、僕の頬にはなぜだか涙が伝っていた。