好奇心は猫をも殺す
雨の降る山奥の掘立小屋で、キュポンッと一升瓶の栓を抜く音が虚しく響いた。
小屋の中には男が二人、胡坐をかいている。
「老師、いよいよですね」
若い方の男、といっても歳は三十を過ぎているであろう弟子が、盃へ日本酒を注ぎながら老師へ訊ねた。
「しかし、どうして真理の探究に酒が必要なんですか?」
「そりゃあ都合がいいからじゃよ」
弟子から受け取った盃をくいっと傾けながら老師は問いに答える。
「都合がいい……?
泥酔して見えた幻覚から真理へ近づこうってことですか?」
「その幻覚とはアルコール幻覚症のことを言っているのかね」
「すみません。医学には疎いのですが、たぶん、それです」
「ふむ。確かにアルコールが原因で幻覚を見ることはある。
じゃが、それはアル中が断酒した際に起こる症状じゃ。ちびちびと日本酒を飲んだ程度で幻覚は見んよ」
弟子も日本酒を飲みながら、老師の講義に耳を傾ける。
ボロボロの屋根を打ち付ける雨音が強くなってきた。
「しかし、この日本酒は美味いのう。どこの酒じゃ?」
「新潟のです。
それにしても幻覚でないなら、どうして酒を飲むのですか?」
「ぐだぐだと物事に理屈を求める奴じゃな……
まあよいわ。酔いが回るまで、今回どのようにして瞑想から真理を探究するのかを話そうかの」
「お願いします」
「ふむ。まず、お主が気になっている“何故酒を飲むのか”についてじゃが、酒を飲むと脳内にドーパミンやセロトニンといったもんが分泌される。
名前くらいは知っとるじゃろ?」
「はい、耳にしたことがあります。しかし効果までは……」
「簡単に言うと、ドーパミンは快楽を得る効果。セロトニンは精神安定効果がある。
要は邪念を減らして無垢になる為に、アルコールのリラックス効果を使ってしまおうというワケじゃ」
弟子が少し怪訝な顔をした。だが、老師は美味そうに日本酒を舐めるばかりである。
やがて痺れを切らした弟子が口を開いた。
「……あの、老師。我々は、いや、少なくとも私は真理の探求がしたいのです。
お言葉ですが、それをアルコールに頼るというのは――」
「お主は“スーフィー”を知っておるか?」
「……たしか、イスラムの一派です」
「正解じゃ。褒美におかわりをやろう。
さて、そのスーフィーじゃが、神と一体になる為に一般的なイスラムからは考えられないことをする。
音楽や舞踏などじゃな。中には酒を飲むスーフィーさえいる」
「つまり、酒を飲むのも正当な手段の一つ、だと?」
「そうじゃ。まあ、儂が酒好きというのもあるがな」
ふぉははは、と老師は豪快に笑う。
そして、まだ空になっていない弟子の盃に、正解のご褒美を注いだ。
弟子は酒に弱いため、やんわりと手で制すものの、既に酔い始めているのかポーズだけである。
「ほれ、飲め飲め」
「やめてくださいよ。弱いんですよ、酒は」
そう言いつつも、酒を飲む弟子。
小屋を打つ、テレビの砂嵐のような雨音が実に心地良い。
凝り固まった心の繊維が、一本一本緩やかに解けていくようだ。
「ところで、お主は“射腹蔵鈞の術”を知っとるか?」
「知っていますが、正解したら酒を注がれるので言いません」
「生意気じゃのう……
じゃあ、酒は注がんから言うてみい」
「熱湯に雑巾を入れて殺菌することですよね」
「ふぉははは! 煮沸消毒した雑巾で、煮沸雑巾とな?
くだらんわ。座布団没収じゃ!」
「すいません、陰陽師の術です。透視や霊視のヤツです。
だから座布団を返してください」
「仕方ないのう……」
「でも、射腹蔵鈞の術なんて知識として知っているだけで……」
「やったことはない、と」
「はい」
「なに、簡単じゃよ。
まず仏教で“半眼”というものがある」
「大仏のように薄目を開けるヤツですよね?
半分は外の世界を、半分は内側、自身や見えないものを見るという」
「ご褒美じゃ。
……おや? もうほとんど残っておらんのう」
「大半は老師が飲んだんですよ」
「そうかそうか。なら、そろそろ頃合いかのう。
真理探究の旅へレッツラゴー、じゃ」
「あの、老師。
私は半眼も満足に出来ないんですが、どうしたらいいんでしょう。
それと、射腹蔵鈞の術もやり方なりコツなりを教えてください」
「出鼻を挫くのう……
お主は小難しく物事を考えすぎなんじゃよ。
ボーっとしてればよい」
「それが出来ないんです。
半眼で内側を上手く見れないんです」
「んーむ……
それなら、松果体を意識するんじゃな」
「松果体?」
「そうじゃ。デカルトなんかは“魂の在処”“精神の座”などと呼んどったわ。
はたまた“第三の眼”と考える人間もおる。
それが松果体じゃ」
「なんかスゴそうですね。
その松果体へ意識を向けるんですか?」
「うむ。大脳半球の間、丁度頭の中心辺りにある。
半眼しながら、そこへ意識を向ければ射腹蔵鈞の術も成功するじゃろう」
「了解です」
老師は最後とばかりに、残った日本酒を二枚の盃へ注いだ。
そして、両者はそれぞれ一気に飲み干す。
身体はポカポカと温かく、荒々しく小屋を打つ雨音も小波のように平静だ。
最後の日本酒を飲み下してからは、老師も弟子も口を開かない。
どれほど経っただろうか。ゆっくりとした時間の流れの中で、先に変化があったのは弟子の方だった。
弟子はぼんやりと壁の一点を見ていた。
すると、まず種のように小さな光の点が現われ、次の瞬間には音もなく翼を広げた。
翼だ。轟々と燃え盛る炎のように繊細で柔らかくも力強い一対の翼。
色彩は紅葉のような赤、橙。草原のような澄み渡る緑。あるいは毒々しいまでの深い緑。空のような青。
様々な色が、呼吸するように刻々と変化していく。
やがて、翼は弟子を、老師を、掘立小屋を柔らかく包み込んだ。
雨でぬかるむ地面に数多の足跡がある。
昨夜、とある山の人知れない掘立小屋から火の手が上がった為だ。
掘立小屋は全焼。しかし、小屋の中の男性と思われる二人の遺体は何故か炎による損傷は少なかった。
また、奇妙なことに小屋には火種となるような物は発見されず、雷が不運にも小屋へ直撃したものと処理された。
「うぉっ!
……酷ぇなこりゃ。心中か?」
「まだ分かりませんね。
この件は不可解な事が多いので……」
炎による損傷は少なかった二人の遺体。
だが、その姿は凄惨だった。
年配と思われる方の遺体は、両の眼を自ら抉り取り、その眼を口へ含んでいた。
もう一方の遺体には、眉間を掻き毟った痕があり、割った酒瓶で両耳を削ぎ落としている。
「まるで何か見てはいけないものを見ちゃったって感じだな」
「やめてくださいよ、ただでさえ薄気味悪い山奥なんですから。
オカルトは勘弁ですよ」
「……そうだな。
当たると評判な俺の刑事としての勘も、今回はハズレだろうな」