降り立つ神父
空には、半月が浮かんでいた。
住宅街の一角。静寂に包まれた薄闇を切り裂くように大地が脈動し、空中に黒い塊を吐き出した。
突然に。唐突に。世界に介入を果たしイレギュラーが、空中で猫のように体勢を立て直してアスファルトに着地。顔を上げる。
ヘル=ベルヴェルク。若き神父が一息をつく。
「……さて」
一旦の役目を終え、同じように吐き出されてきた世典を慣れた様子でキャッチし、そのままホルスターに収納。警戒の色を含めて、周囲に視線を飛ばす。
ページの変色はすでに発生している。この世界にはもう何かの異変が起こっているはずだった。
「ひと気がないな、ヘル」
「ああ。それが異変とは断定できないが……近くに〈戦陣シルバーシアター〉の登場人物がいるはずだ。探すぞ。手伝え」
「マフラーだから無理でぇす」
返ってきた言葉を無視して今一度、視線を飛ばす。
生活の形跡が残る住宅街。しかし、人の動きを感じられない、そんな異質な空気を肌に感じながら、眉根を寄せるヘル。
すると、ラストラウラが話しかけてきた。
「それより、ヘル。聞きたいことがある」
「何だ」
「〈戦陣シルバーシアター〉ってどんな話?」
「知らん。俺は読み始める前に情報は仕入れない主義だといつも言っているだろう。……今回も例外じゃない」
「お前何でこの仕事やり遂げられてんの?」
無機物でありながら生物のような、確かな呆れをラストラウラから感じつつ、淡々と言葉を返す。
「主人公だからだろ」
世界は文字で出来ている。
世界が文字として表現できるのではなく、文字が世界を形成している。その結論の元に生み出されたのが、ヘルの持つーー絶えることなく増えていく世界を文章として記憶する書物ーー『無限世典』であり、ヘルやラストラウラの存在もまた例外ではない。
ヘルの『登場人物』としての役割は、改変の阻止。
今回のように、異常の発生したタイトル世界に『無限世典』の能力で跳び、非正史の事件を解決する。
それが、境界の教会神父に課せられた任務だった。
「ッーーあっちか」
物思いにふける刹那。無音を切り裂くようにして、遠方で爆音が生じた。瞬時に身を屈め、ヘルは弾くように大地を蹴る。
「……!」
視線の先では、大蛇が首をもたげていた。
数十メートルはあろうかという巨躯。そして、夜であってもよく目立つ毒々しい赤色の皮膚。ギラついた目とヌメついた肌質は爬虫類特有の嫌悪を感じさせた。
「な、何じゃありゃあ!」
疾駆による強風にバタバタとはためきながら、ラストラウラが驚愕を後方へと置いていく。
闇夜に揺らめく、二階建ての家屋を裕に越す巨大サイズの極太な蛇。舌を出し、眼下を威嚇するように見下ろした様は、あの目先に誰かがいることを示していた。
「蛇だな。向こうから目的地を教えてくれるとはありがたい世界じゃないか。今回は余裕だな」
「そんな普通の反応は求めてねぇから! おいおい、ヘル! もっとテンション上げていこうぜ!」
「一人で頑張れ」
ラストラウラに短く返し、近くの塀に跳び移る。
そのままさらに跳躍し、屋根へ。スピードを上げて一気に戦場の近くまで接近する。
「……っと。まずは事態を把握しないとな」
「おお、よかった。このまま戦地に突っ込むんじゃないかとハラハラしたぜ、俺様!」
「そんな無謀な行動は取らない」
「どうかな……」
速度を緩めたヘルは屋根の影に身をひそめながら移動し、戦地まで目と鼻の先に腰を落ち着かせた。
ホルスターから世典を抜き、戦況やこれから先の自身の行動を見極めるために、目を凝らす。
二人の女が言葉を交わしていた。
「乙女! あなたは遣い手のほうに集中しなさい! サーペンスは私とパルで何とかする!」
「了解しました……!」
聞こえてきたのはショートヘアの女が発した声だった。焦りと共に荒らげた声に、真面目そうな雰囲気をまとった女が神妙に頷き、走り出す。
薙刀を持った女だった。黒髪のロングヘアーを夜風にたなびかせ、武道の心得があるのだろう。軽やかなな動きでアスファルトの大地を踏みしめる。
「御武運を!」
視界から遠ざかっていく少女を尻目に、残った女が苦味を含んだ笑みを覗かせた。手に持っていた二丁の回転式拳銃を大蛇、サーペンスに向けて構えて一人ごちる。
「やるっきゃないわよねぇ」
目前に、開かれた大きな口が迫っていた。
底がないようにも思える深い闇。呑まれればどうなるか分からない恐怖を胸に、それでも女は漆黒の空洞の奥底に目掛けて躊躇なく引き金を引く。
「食らいなさいーーダブル・スナップ!」
発声と同時に、空を切る弾丸。高速で迫り来る大蛇を迎え撃つように一直線に放たれたそれは、瞬く間に目標まで到達する。
「バァォッ!?」
そして、炸裂。爆音を響かせて、拳銃からの一撃とは思えない程の強烈な衝撃が、サーペンスの体躯をくねらせた。
効いている。それでもその軌道までは変えることが出来ず、墜ちるように牙を向く赤蛇が女の視界を埋め尽くす。
「かおるこ!」
そこに介入したのは一人の少女だった。
左右二つに結った金髪を風に揺らめかせ、十やそこらといった年頃の巫女服が女の隣に舞い降りる。
薫子と呼ばれた女は咄嗟に少女の手を掴みーー
「行くです!」
そして、二人が消えた。




