第四章
曇り空が見当たらない青色に、土の臭いが染み付いた金属音が鳴り響く。
大きく飛ばされたボールが天空を舞い、やがて地に落ちる。
野球部員たちは互いに声をかけ、気合の入った練習を行っている。
「こらー! もっと声だして!」
立花瀬奈はサボっている部員に叫んでいた。
「まったくもう……」
溜め息を吐いて、両手を腰につける。
「ほら! 吉田君! もうすぐ休憩時間だから、早く飲み物用意して!」
「あ、ああ!」
市夏と明智(主にこいつ)が企てたシスコン更生計画(これは立花が命名)の真相が暴かれてから、5日後。
俺は、パンツを覗いた罰として、立花のマネージャーの補助をしていた。
妹の為だったとはいえ破廉恥なことをしたのに変わりないと言い張る二人の威圧に負け、止むをえなく俺は首を縦にふったのだった。
俺は野球部が使用するクーラーボックスからヒヤヒヤのスポーツ飲料を取りだす。さらに紙コップを十数個並べ、その中にいれていく。白く透明な水が喉をそそる誘惑を出していた。
やがて休憩時間が訪れ、部員たちは一斉にコップを取りあう。その修羅模様は最早地獄絵図、俺は毎日こんなどえらい状況の中、マネージャー補助として頑張っている。
「吉田君! 速くコップについで!」
「お、おおう!」
終始、立花は厳しく声をかけて俺を動かす。大方、彼女にあれやこれやと言われるのが日課になってきた今日この頃である。
しばらくして休憩が終わり、部員たちは練習を再開する。
「アンタもやればできるじゃん」
「お前がせかすからだろ……」
「当たり前でしょ。……その、あたしのを見た罰はきっちり払ってもらうから」
立花は少し緊張した言い方で俺に伝える。
「分かってるよ……」
「うん、分かればよし」
立花はにこやかに答える。ポニーテールがふらっと健気に揺れた。
「立花っていつからマネージャーやってるんだ?」
「一年の頃から、この野球部には入ってたよ」
「へぇ……。野球、好きなんだな」
「うん。小さい頃、よくやってたんだ。うちの両親、大の野球好きでね。小学校の時無理やり町内のチームに入れさせられたのが始まりかな。いつの間にか野球が好きになってた」
「へぇ〜。じゃあマネージャーになったのも?」
「それはちょっと違うかなぁ」
「違う?」
「私、本当は高校になっても野球したかったんだ。ほら、ウチの高校って女子の野球部とかないからできないんだよ。 だから、仕方なくって感じで」
「あ、そうか……それで」
「そういうこと。でも、マネージャーになってから、新しい夢ができたから、後悔はしてないよ」
「そうなのか?」
俺が聞いてみると、立花は緑の眼を輝かせ、いきいきと答えた。
「この野球部で、甲子園行くって夢。嘘じゃなくて、本気だよ? これでもあたし、監督には自信あるし」
「そっか……頑張れよ」
「は? なにいってんの?」
立花は真顔で答える。
「……え?」
「アンタも一応、マネージャー補助なんだから。一緒に決まってんでしょ」
「……」
こうも潔く答えられると最早反論もできない。どうやら、これは逃れられない運命か何からしい。
「……はいはい。最後までお付き合いしますよ」
「うん! それでよし!」
俺が返事をすると、立花は楽しそうに笑って俺の背中を叩いた。
「いたっ! お前、力強すぎ!」
「ふーん……今なんて?」
「あ、いや、なんでもないです……」
いきなり声を低くされた立花さんはとても怖かったので、俺は何も言えませんでした。暴力っていう言葉に、女性は敏感なんだなと学んだ俺でした。
「ったく……。今更だけど、アンタと市夏ちゃんが兄妹関係だって事実に驚かされるよ……」
「俺としては、そっちが知らなかったほうが驚きだけどな」
「だってさー。市夏ちゃんは市夏ちゃんだし。吉田君は、……まぁ吉田君だし? キャラとか顔とか違いすぎて予想できないしー」
「なにそのエキストラと名女優を比較したような言い方!?」
「だってホントのことじゃん」
立花はまたしても真顔できっぱりと答える。こいつ、最近俺に対して妙に強気だよな……。
「そういえば、立花はどこで市夏と知り合ったんだ?」
「あたし? あの子とはバイト仲間だよ?」
「……」
一瞬、呼吸が止まる。
「どしたの吉田君、急に黙って?」
「……え? バ、バイト?」
「うん」
「……市夏が?」
「いやさっきからそう言ってるし」
「……いつから?」
「去年」
「あいつ……そんな前からバイトやってたんだ」
「え?! 知らなかったの!? あぁ…………まぁそれもそうよねー。アンタ、シスコンだし。一度言ったらとやかく言い返しそうだし」
「妹の心配して悪いか! あと、シスコン言うな!」
俺は改めて、市夏に驚愕する。まさかそんな大事なことを隠されてたなんて……。
もしかしたら、その時から俺の異性嫌いの悩みを心配してくれていたのかもしれない……。我ながら情けない兄だと俺は痛感した。
「それから色々市夏ちゃんと話して、仲良くなったんだ」
「ってことはあいつから聞いたのか? その、過去の話とか」
「うん、それとなくかな。でもそんな話聞いちゃったら、余計に市夏ちゃんが好きになっちゃってね。だから市夏ちゃんがあたしたちを利用したとか、正直どうでもよくなった」
「そっか……」
と、俺は少し前のことを思い出す。
俺が立花と知りあったのは屋上が最初、しかしそれからはエスカレーターの如く、衝突という形になる。
俺はその時にいいかけた事を思い出してしまう。
「……あのよ」
「ん? 何?」
「……あの時は、きつい事言って、本当にごめん」
俺は自分の罪を清算するように、しっかりとした声で謝る。
「……」
立花は俺の言いたい事が分かったのか、若干の沈黙が訪れる。
「俺がバカだった。市夏が言っていたように、ちゃんと俺が向き合っていれば……」
「バーカ」
そういうと、立花はつーんと俺の鼻をつつく。
「うおっ!? いきなりなにすんだよ!?」
「そういうのはもう無し。あたしだって、アンタに酷いこといったわけだし……」
「いや、それは……」
「はいはい! その話題はおしまい。反省する気があるんだったら、行動で証明すること、分かった!?」
立花はじっと俺を見て言う。
それとなく、彼女が何を言いたいのか、その気持ちが表情に出ていた。
俺は、もうそれ以上贖罪はしないことにした。
「……あ、そういや思いだしたぞ」
「な、何よ?」
立花は目を細め、少しばかり顔を赤らめせて俺を見ている。
俺が聞きたいのは、立花が初めて俺にあった時のことだった。
「俺がお前を屋上に誘った時、なんでお前、終始緊張していたんだ?」
「っ!」
かぁっ。立花の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「一応あれは告白じゃなくて、ストーカーとしてお前を誘い出した設定だったんだ。なのになんでそれに気づかなかった? あれだけ露骨に雰囲気だしてりゃおかしいって気づくだろ?」
「あ、あれは! アンタのせいよ! もう!」
「お、俺のせいかよ!」
「だ、だだって。あたし、誰かにそういう手紙をもらったの……初めてだったし……」
「う……」
立花はさらに眼を細くさせ、手をもじもじさせる。その仕草を見て少し体に熱いものが流れる。
「お、お前……ってことは、ただ、舞いあがってただけってことか?」
「そうよ! もう! いきなりあんな、手紙をもらえるなんて……思ってなかったし、その……う、うれしくて……って、ああもう! この話もなし!」
「う、うやむやにされた……」
「それより!」
立花はビシっと人差し指で、俺を指す。
「今週の休日の約束、覚えているよね?」
「うっ……!」
でた……。
それは、市夏と明智がシスコン更生計画の全貌を明かした日に約束したことで、二人から受ける罰則とは別にもう一つ約束をしていた。約束といっても、これも罰に近いものなんだろうが……。
「ちゃんと来ないと、あとで恐ろしい目に会わせるからね」
「は、はい……」
威圧する立花を相手に、俺は素直に頷くしかなかった。
◇
翌日の朝。
早朝から学校に来た俺は、とある場所へ向かった。
「…………遅い」
まろやかな茶色をベースとした部屋の作りで、大小の机が綺麗に並んでいる。その奥には大きな本棚が数個設置されていた。
「まだ早いほうだろ……。大体、午前6時ぴったりなんて時間にこれるわけないだろ」
俺は図書室で、待ちくたびれた雪葉に文句を言う。雪葉はいつも通り無表情でいた。
「…………さぁ、仕事」
「えぇ……ちょっと休ませてくれよ」
「…………仕事」
雪葉は青い瞳でじーっと俺を見つめ、仕事をするようにせかす。
立花と同じく、俺は雪葉からも罰を受けていた。
内容は至極簡単、図書委員の仕事の手伝いをすること。
朝、昼休憩と雪葉に時間を拘束されており、その間は図書室で過ごす習慣がついてしまった。
これもしばらくして数週間経つが、殆ど俺が仕事をしているような気がしてならない。
「なぁ、ずっと思ってたんだけど……。最近俺ばっかり仕事してね?」
「…………私もしてる」
「いや、お前ずっと本読んでるだけじゃねえか」
「…………勉学も仕事の一つ」
「言い訳してんじゃねえ!」
「…………奴隷は、口答えしない」
雪葉は語尾を強く言い放ち、俺を睨む。
なんだか、雪葉も最近、俺に対して妙に強気であった。というか、今思えば雪葉って、こんなキャラじゃなかったように思える。もっと無口で周囲に無関心だったはずだ。
「お前って……元からそんなSなの?」
「…………大丈夫」
「いや、なにが?」
「…………私は気にいった人にしか、いじわるしない」
「そ、そうですか……。じゃあ、クラスにも俺と同じように見ている奴っているのか?」
「…………今年のクラスメイトには、今のところ……吉田君みたいに……可愛い子は……いない……かな」
「う、うわ……」
雪葉が軽く笑みを浮かべる。
教室での雪葉の様子が頭に出てきた。見下している訳ではないとはいえ、こいつ普段からそんなこと思って、クラスのやつらをみていたのか……。
「………それに……図書室の方が、居心地がいい」
「そうなのか?」
「…………本を読むの、好きだから……ここなら本がたくさん。教室の喧騒は、別」
「そっか……。雪葉は本当に、本が好きなんだな……」
どうやら、雪葉が昼休憩に図書室に行くのは、単に教室がうるさい理由ではなかったようだ。俺は雪葉の本の愛情に深く感心する。
「それに……」
「ん?」
俺が尋ねるよ、雪葉は頬を赤くする。
「…………吉田君と、はじめて会った場所になったから」
突然の告白まがいな台詞に俺はドキっとしてしまう。
も、もしかしてだけど、もしかしてだけど。これって俺に惚れてるんじゃ……。
「…………というのは嘘」
「…………」
ですよねー。内心微妙なショック感はあったものの、雪葉はSだ。冗談まがいでもそういうことを言ったりする奴なのだ。
彼女を見ると、しめしめといった様子で微笑を浮かべている。
「…………ところで」
「な、何だよ急に」
俺はいぶかしげに聞いてみる。また誘惑するようなことを言うんじゃないのかと思ったが、今度は全く違った。
雪葉は突然、スカートの端っこを押さえ、上目使いで俺を見る。
「…………パンツ、見たい?」
「は、はぁ!?」
こ、こいつ……。
「んなわけねえだろ! あ、あほか!」
「…………私のクマさん、見たくない?」
「ばっ、バカか! なに堂々と自分の下着を暴露してるんだ!?」
「…………今なら、誰もいない」
「いやいや、見ないから!」
「…………吉田君の、ヘタレ」
「だれがヘタレじゃコラ!」
俺が勢いよく突っ込むと、雪葉はクスクスと笑った。
無表情からたまに見せるこの笑顔が、時々反則だと思ってしまう。
「…………吉田君、いじめがいがある」
「辞めてくれよ……」
俺ははぁと深い溜め息をつく。
思えば、俺の初めての異性(というかあれは作戦のうちだった)のは、雪葉だったんだよな。
少しばかり蘇る、初めて雪葉と話した光景。
あの時は完全に俺はマイナスムードで、話さえ進むことがなかった。
しかし今は、雪葉は普通に俺に話しかけている。少し昔のことが信じられなかった。
「あの……雪葉」
「何……?」
「この前は、酷い事いってごめんな」
「……気にしてない」
「ほ、ほんとか……?」
「……吉田君が私の奴隷になってくれるなら、許してあげる……」
「え、えぇ……」
雪葉はどこまでもサディストである。
しかし、酷い事を言ったのは確かな事実。それを謝罪しないなんてことはできない。
それに、雪葉の言う通り、最初に異性の魅力を知ってしまったのも……彼女がきっかけであったのだから。
「そういえば、雪葉は市夏といつ、知りあったんだ?」
俺はふと出てきた疑問を投げかける。
「…………知らないの?」
「ああ…………うん」
「…………市夏さんは、私と同じ図書委員」
「……えー」
立花から聞かされたバイトの件に引き続き、またもや妹の真実が明らかになった。まぁバイトよりはだいぶんマシだが、それでも知らなかった俺は自分に情けなさを感じる。
「…………市夏さんは、委員会でもよく頑張ってる」
「そっか。評判いいんだな」
「…………彼女とよく、図書室の当番が……同じになったことがある」
「図書室で一緒になる日ってことか? その流れで仲良くなったんだな」
「…………そう。でも、兄がいることは知らなかった」
「う……。なんか軽くショックだな」
またもや、俺は市夏の兄と思われていない事実に体をさされる。やはり、俺の名前は皆『信長』というイメージではなくて『吉田』と思われているんだろう。つくづく思うが、どうせなら名字はもっと特徴がある名前が良かったと、神に文句をタレこむ俺だった。
「…………吉田君は、吉田君」
「そ、それ……立花にも同じことを言われたよ」
「…………やっぱり、どう考えても……吉田君は吉田君」
「もうそれ連呼するの傷つくから辞めて!」
信長のライフポイントはゼロよ! なんて言葉が飛び出してきそうなほど俺の傷は多大なものであった。
流石、図書室の女王、雪葉湊。とことんいじめるのがお好きなようで。
「…………今、不謹慎なこと、考えなかった?」
「……き、気のせいだろ」
どうでもいい所で鋭いのが、雪葉さんの怖いところでした。まったくもう、冷ややかな目で刺殺されるかと思ったぜあぶねぇ………。
「…………それより」
「ん、今度はなんだ?」
「…………今週の日曜日」
「う、…………分かってるよ」
「…………来なかったら」
「来なかったら痛い目見るってんだろ!? 心配しなくてもちゃんと行くって!」
「…………奴隷にしては、物分かりが早い」
「奴隷いうな」
雪葉の驚きに俺はつっこみを入れる。
今週の日曜日か…………。大方の内容はうかがっているため、日が近づくに連れ、俺の精神テンションはふらふらと上がり下がりしていた。
しかし、元はと言えば俺が二人のパンツを拝んでしまったせい。
明智も市夏も俺のためにやってくれたんだ。しっかりと治そう。シスコンは認めたくないけど。
俺は意を決し、日曜日に臨んだ。