第二十話
……間に合った。
ヌーリは車長席から立ち上がり、開け放たれたままのハッチから身を突き出して、双眼鏡で東の方角を眺めた。一面の草原の中に、まだ動きは見えない。
ヌーリが臨時に指揮する戦車小隊のT‐72三両は、国境沿いの街道上に車首を東側に向ける形で、各々三十メートルほどの間隔を開けて並んでいた。随伴していたトラックのうち三台が、それぞれ戦車の斜め後方にぴったりと寄り添うように停車している。
残る四台のトラックとピックアップトラックは、戦車小隊の南北に二キロメートル間隔に配置されていた。これで、やや疎ではあるが南北十キロメートルほどを監視できる哨戒線が形成されたことになる。ヘサール族からの連絡で、カンダが乗っていると思われる戦車の最新の位置は正確につかんでいる。哨戒線の中央……つまり戦車三両が展開しているこの位置は、カンダとの接触地点の真西となる。したがって、目標がよほどの迂回進路を取らない限り、確実にこの哨戒線に引っ掛かるであろう。
すでにヌーリは、携帯電話で……電波状態は悪いが、街道沿いなので辛うじて通話は可能だ……ヘサール族の捜索班に集合指示を出すように依頼してあった。カンダがこちらに気づき、東へと逃げ出そうとした場合に、妨害させるためだ。
……さあ、姿を見せろ、カンダ。ラフシャーンの仇を討ってやる。
「シオ。前方を見てちょうだい」
スカディが、硬い声で言った。
「どうかしたのでありますか?」
主に後方と側面を見張っていたシオは、前方に眼を転じた。砲塔の手掛けに掴まりながら、身を乗り出すようにして草原の彼方を注視する。
「……戦車、でありますか?」
丸っこい砲塔が、かすかに識別できた。それも、三つ。
「では、間違いないわね。雛菊、ベル、止まって!」
スカディが、ハッチの中に頭を突っ込んで命じた。
「どうしたんや?」
ギアを切り替えながら、雛菊が訊いた。
「どうやら待ち伏せのようですわ。前方に、戦車が三両見えます」
「なんだと?」
居眠りしていた神田元総理が、慌てて飛び起きて……頭を砲塔内壁にぶつける。
「気をつけろ、神田氏」
痛がっている神田元総理に一声掛けながら、ファルリンがハッチから身を乗り出した。双眼鏡で、前方の観察を開始する。
「間違いなく戦車だな。あいにく、第3旅団が装備している戦車はT‐72だけだ」
「相手が旧式戦車ならば、この神戦車T‐72で蹴散らしてやるところですが、向こうも神戦車となるとそうもいかないのです!」
シオは右腕を振り回しながらそう主張した。
「しかも一対三ですわ」
スカディが、言う。
「まず間違いなく、向こうはプロの戦車兵が搭乗している。勝ち目はないな」
双眼鏡を下ろしたファルリンが、苦々しげに言った。
「となれば、逃げるが勝ちですわね。南北どちらがいいでしょうか?」
スカディが、ファルリンに訊く。
「南だろうな。北は第3旅団のパンジュー駐屯地に近付くことになる。あの戦車も、おそらくそこから派遣されたのだろう。増援が来たら、挟撃される。南へ向かおう」
「承知いたしましたわ。雛菊、ベル。南へ向かって。最大速力で逃げるわよ!」
スカディが、ハッチの中に頭を突っ込んで命ずる。
「了解や。でも、あんまりスピード出すと故障するかもしれんで」
「そうなのですぅ~。履帯故障とか、怖いのですぅ~」
操縦役の二体が、口々に懸念を表明する。
「125ミリ砲弾を撃ち込まれるわけには行きませんわ。ここは勝負どころです。もう国境までは、四キロもありませんわ。あの戦車を躱して、ウズベキスタン領内へ逃げ込めれば、こちらの勝ちです!」
スカディが、凛とした口調で言い切った。
「28、小隊長車に続け。30は街道を南下し、カンダの西進を阻止しろ」
無線を通じて、ヌーリは各車に下命した。
二両のT‐72は、いったん東進してから、南へ向け逃げ出したカンダの戦車を追う態勢に入った。随伴トラックも、数十メートル離れた位置をキープしつつ、追随する。
「砲手、機会があり次第、撃て」
速習したやり方で車長用ペリスコープを操作しながら、ヌーリは命じた。
「了解しました。しかし、遠すぎます」
銃で脅され、すっかり従順になっている砲手が応える。
「逃がすものか」
自分に言い聞かせるように、ヌーリは言った。敵は戦車とはいえたったの一両。こちらは戦車三両、トラックとピックアップが七台。人員は戦車兵たちを含めずとも三十名以上いる。さらに、ヘサール族の捜索班が数個、集結しつつある。こちらも車両合計十数台。戦士の数は百近いだろう。
……カンダに逃げ場は無い。
「ぴったり付いてくるわね」
後ろを振り返りながら、スカディが苦々しげに言う。
二両のT‐72は、南へ向け逃げるシオたちの戦車を追尾し続けていた。彼我の距離は、千二百メートルほどか。T‐72の旧式なFCSでは、行進間射撃で動目標に命中弾を与えることは困難な距離である。
「先回りするつもりの奴がいるのです!」
シオは西の方を指差した。二キロほど離れた位置を南北に走る街道上を、一両の戦車と一台のトラックが疾走している。
「ウズベキスタン入りを阻止しようと二手に分かれたのね」
スカディが、そう判断した。
「なんとか追っ手を撒かなければならないのです!」
シオは後ろを注視しながら言った。
と、その言葉に応えたかのように、T‐72後部左側にある排気管から濃密な白い煙が吹き出し始めた。さながら走行する蒸気機関車のように、大量の白い煙を後方にたなびかせながら、T‐72が走行を続ける。
ロシア戦車の必須装備、TDAを誰かが作動させたのだ。熱いエンジン排気に燃料を噴射することにより、大量の白煙を生じせしめる特殊な排気マフラーである。
発生した白煙は、膨大な量であったし、持続時間も長かった。これが低速走行中であれば、完全にシオたちの戦車を覆い隠してくれたことであろう。だが、高速で疾走中では、発生した煙はすぐに後方に置き去りにされてしまう。一定の目隠し効果は得られたが、姿をくらますのは無理であった。
「仕方ありませんわね。下車戦闘いたしましょう」
スカディが言って、車台に縛り付けてあったRPG‐7を外しに掛かる。
「ファルリンさん、亞唯。わたくしとシオで下車戦闘を行い、追っ手の一両の足止めをしますわ。それで少しは勝ち目が出てくるでしょう」
PRG‐7を抱えたスカディが、砲手用ハッチの中に向けてそう呼びかける。
「離脱はどうする?」
眼に懸念の色を浮かべたファルリンが、車長用ハッチから頭を突き出して問う。
「バッテリーには余裕がありますわ。夜まで待って、徒歩で国境越えします。亞唯、先に行って待っていてちょうだい」
「心得た。残る二両を上手く追っ払えれば、の話だけどね」
「き、危険ではないのかね?」
砲塔内部から、神田元総理が気遣わしげに声を掛けてくる。
「他に良策も思いつきませんわ。雛菊、ベル。少し速度を落として、煙幕で遮蔽ができるようにしてちょうだい」
「了解や」
すぐに、T‐72の速度が落ちた。雛菊が進路を右寄りに替え、煙幕で左側が見えないように工夫する。
「すまん、スカディ君、シオ君。無事を祈っておるぞ」
ハッチから身を乗り出した神田元総理に見送られながら、スカディとシオは低速走行するT‐72から飛び降りた。スカディはRPG‐7のランチャーを抱えており、シオは二発に減ってしまった布製予備弾ケースと、AK74、それに予備弾倉が四本入ったマガジンポーチを携えていた。
二体は草の間に座り込んだ。背が低いから、こうすればほぼ完全に身を隠すことができる。
シオは弾頭を組み立てて、ランチャーに装填し、スカディに渡した。スカディが発射準備を進めるあいだ、シオは草の間からそっと頭部を覗かせて、追っ手の位置を確認した。五百メートルほど北に、二両のT‐72が迫ってきている。二台のうち、少し遅れている方が、近くを通過しそうだ。
「では、そちらを狙いましょう。転輪をふっ飛ばして履帯を切ってしまえば、追って来れなくなりますわ」
発射準備の整ったRPG‐7を肩に担ぎながら、スカディが言う。
二体は獲物が近付くのをじっと待った。シオは、AK74のセイフティ・レバーを連射の位置にセットした。RPGで戦車を撃てば、当然随伴しているトラックから敵が撃ち返してくるだろう。無事に逃げおおせるためには、先手を取ってトラックに連射を叩き込み、敵の気勢を削ぐ必要がある。
「そろそろね」
音響で目標のおおよその位置を推定したスカディが、腰を浮かした。草の間からランチャーの先端を突き出すようにしながら、構える。
四十メートルと離れていないところを、T‐72が通りかかるところであった。スカディが素早くアイアン・サイトで狙いをつけ、引き金を引く。
かちん。
「あら?」
スカディが、狙いを修正してもう一度引き金を引いた。
かちん。
ランチャーは反応しなかった。
「コッキングを忘れたのでは?」
「ちゃんとマニュアル通りに射撃準備手順はしたわよ。安全装置も外したし。シオ、あなたが弾頭の組み立てをしくじったのではなくて?」
スカディが、困惑の表情で言い返す。
三名の戦士が跨乗したT‐72が、二体に気付かないまま通り過ぎた。後続のトラックも、気付かないまま走り去ってゆく。
「おかしいわね」
スカディが、RPG‐7を弄り回しはじめる。
「これかしら」
スカディが、前部ピストルグリップの上あたりにある凹みを指差した。先ほど重機関銃の射撃を浴びた時に、跳弾が当たった跡だろうか。
「きっとそれなのです! 発射のメカニズムが壊れてしまったのです!」
「これは計算外だったわね」
スカディが、がっくりと肩を落とす。
「射撃前の点検不足なのです!」
シオは、スカディを責めた。……日頃ドジを責められてばかりなので、意趣返しの意味合いもなくはない。
「確かに、射手であるわたくしの責任ね。反省するわ。さて、これからどうしましょうか」
すぐに立ち直ったスカディが、周囲を眺め回す。
「うまい具合に、ピックアップがこっちに来るのです!」
シオは東方を指差した。
「まず間違いなくヘサール族ね。乗っ取りましょう」
「しかし、武器がAK74一丁では、ちょっと心許ないのであります!」
シオは困り顔で言った。
「何を言ってるの、シオ。こちらにはPRGがあるではありませんか」
肩に担いだ得物を誇示しつつ、スカディが言う。
「故障中なのです! 撃てないのです! ベルちゃんなら残った弾頭を地雷に改造できるかもしれませんが、あたいでは無理なのであります!」
「ピックアップを吹っ飛ばしてどうするの。それと、故障中なのがヘサール族の連中に判るわけないでしょう。脅しに使うだけよ。さあ、シオ。囮になりなさい」
「停まるのです!」
草の中から飛び出しつつ、シオは叫んだ。
真正面にシオに飛び出されたピックアップトラックの運転手が、慌ててブレーキを踏む。
荷台の戦士たちが、一斉に銃を構えた。銃口が、シオに向けられる。
「動かないで! 動くと吹き飛ばしますわよ!」
ピックアップの右側で突如立ち上がったスカディが、RPG‐7の狙いをヘサール族戦士たちにぴたりと向けて叫んだ。RPGに気付いた戦士たちが、狼狽の色を見せる。すかさず、シオはAK74を構えたままピックアップのドアに駆け寄った。窓越しに銃口を突き出し、運転手とナビゲーターを脅す。
「武器を捨てるのです!」
幸いなことに、このピックアップに乗っていた六人のヘサール族戦士は、いずれも戦意が薄かった。なにしろ、簡単な逃亡者狩りだと考えて始めた気楽な任務が、いつの間にか貧弱な対戦車兵器しか持たぬ非装甲車両でMBTの相手をしなければならないという、悲壮ともいえる決死の任務にすり替わってしまったのである。しかも、すでに何人もの同族が死んでいることも、無線を通じて知らされており、当然闘志は萎えている。さすがにイスラムの闘士らしく、気後れした様子は見せていなかったが、なるべく敵とは顔を合わせたくない、と内心では誰もが思っていたのだ。そしてもちろん、RPG‐7の威力は熟知している。ここで命を賭ける気になった者は、一人もいなかった。
指揮を執っていた男が、抵抗しないように部下に命ずる。戦士たちは、素直に武器を捨てて荷台から下りた。シオは運転席の二人の武装解除を行うと、ナビゲーターのみ降ろした。
「大変結構。では、歩いて帰りなさい」
RPGを置き、荷台のDShK38重機関銃に取り付いたスカディが、その銃口をちょこちょこと動かし、ヘサール族戦士を脅すようにして追い払う。
シオは運転台に乗り込むと、運転手にAK74の銃口を押し付けた。
「言うとおりに運転しないと撃つのであります!」
「わ、わかった。言うとおりにするよ」
脂汗を浮かべた男が、激しくうなずきを繰り返す。
「では、西に向かって走るのです! ただし、第3旅団の戦車やトラックには近付き過ぎないように!」
「わかった」
運転手が、ギアを入れた。ピックアップトラックは、戦車の轍が残る草原を走り始めた。
……追いつけない。
ヌーリは歯噛みした。
カンダが乗っていると思われるT‐72は、まっ平らな草原を驀進している。煙幕展張は、効果がなかったと悟ったらしくやめたが、依然として距離は詰まらない。
これがありふれた土地であれば、川や山地、森や市街地といった戦車の前進を阻む地形的障害によって、速度が落ちたり迂回を余儀なくされたりするのだろうが、あいにくホラニスタン西部は典型的なステップである。起伏に乏しい草原が、延々と続いているだけだ。……戦車の走行には、世界一適している地形かもしれない。
「砲手、射撃を開始しろ。当たらなくてもいい」
ヌーリはそう命令を下した。並走する28号車にも、無線で同様の命令を与える。
まぐれで当てれば儲け物だし、撃たれれば相手も慌てるだろう。それが原因で操縦ミスをする可能性もある。回避のために蛇行などを強いれば、距離を詰めることができる。もしかすると、逃走を諦めてこちらとの戦闘に臨んでくれるかもしれない。
「撃ちます!」
砲手が宣言しつつ、発射ボタンを押した。
第二十話をお届けします。




