第一話
中央アジア ホラニスタン共和国北部地方 シンガラ市郊外
『死の商人』という言葉がある。
定義としては、敵対する双方の勢力に見境無く兵器や軍用消耗品を販売し、利潤を得る武器商人、というところであろうか。拡大解釈を行って、兵器輸出企業や国家をこのように呼ぶ向きもあるが、これは明らかに誤用であろう。兵器生産能力の無い国家が個別的安全保障を図ろうとするならば、外国からの兵器購入は必須である。この道を閉ざすということは、国家主権の侵害であり、紛争の発生防止を旨とする国際平和の観点から見ても、不適切である。ゆえに、純粋に国防目的で兵器購入を希望する顧客に対し、これを販売する企業や国家を『死の商人』呼ばわりするのは、悪質な意図を持った政治的宣伝に近い捏造行為に他ならない。
ともあれ……今現在八台のGAZ‐53中型トラックを従えて走るシボレー・ニーヴァの後部シートに収まっているケナン・エルテムは、いかように解釈してみても死の商人であった。もっとも、彼はその『称号』を不名誉なものだとは毛筋ほどにも考えていなかったが。かつて、彼は西側ジャーナリストのインタビューを受けた際に、こうのたまわったのだ。
「商人たるもの、自分の政治的信念や信条で顧客を差別するなど、恥ずべきことではないか。顧客が求めれば、それがどのような立場の者であろうとも、商品を売る。それが、正直で誠実な商行為ではないのかね? 対立しているから片方としか取引しないだと? 馬鹿馬鹿しい。GMに工作機械を売ったメーカーは、トヨタに同じものを売ってはいけないのかね? アップルに半導体を売ったら、同じものをサムスンに売るのは卑怯なのか? プラット&ホイットニーを見ろ。ボーイングにもエアバスにもエンジンを供給しているじゃないか。そして、ボーイングもエアバスも競合関係にある航空会社に見境無く旅客機を販売しているぞ。なぜ非難しないのかね? それに、マイクロソフトはどうだ。対立する勢力に売りまくってるじゃないか……」
一理ある主張である。ただし、ジェット旅客機やOSは、直接人を殺すことはないのだが。
ケナン・エルテムの風貌は、なかなかに印象的である。もう五十過ぎだが、髭に覆われた顔には皺ひとつ無く、太い眉の下で小さいが理知的な目が輝いている。出身地は未公表だが、ユダヤの血を引くトルコ人で、ソビエト連邦崩壊後にロシア入りし、そこで人脈を作り上げて有数の武器商人に成り上がった。ユーゴ紛争、チェチェンなどで暗躍し、かなりの利益を上げた、と噂されている。
後続する八台のトラックには、大量の小火器と弾薬、対戦車ミサイルや肩撃ち式地対空ミサイルなどの値の張る武器、多種の爆薬、デジタル方式の戦術無線システムなどが積み込まれていた。約半分がロシア製。あとは、中国、北朝鮮、パキスタン、セルビア製がほとんどを占める。総額三千万スイスフラン……約三千百万ドル、日本円にして約三十六億円相当の商品だ。米ドルやユーロではなく、スイスフランで決済するのは、これが現金取引だからである。米ドルの最高額面紙幣である百ドル札で三千百万ドルとなると、札束の重さだけで三百キログラム以上となり、大きめの段ボール箱五個に目一杯詰め込んでもまだ足りないくらいの量となってしまう。
これがスイスフランであれば、最高額面は千フランであるので、枚数は三万枚……重さにして三十キログラムに留まる。容量も、サムソナイトの中型キャリーケースに楽々収まる量だ。もちろん一人で持ち運びが可能だし、隠すのも容易である。
シンガラ市は、同名の川の河岸に開かれた小都市である。そのやや南寄り、シンガラ川に注ぎ込む名も無き支流のひとつの畔に、一軒の邸宅があった。
敷地は切石の低い塀に囲まれており、広々とした内部には随所にポプラの並木がある。主棟はT字型をなす一階建てで、木材をふんだんに使った贅沢な造りである。
すでに日没が近いので、あたりは夕日を浴びてオレンジ色に染まりつつあった。気温も急激に下がりつつあり、冷たい谷風がポプラの枝を揺らしている。
邸宅の持ち主は、ナヴィド・アジバエフ。ホラニ人の中でも、有力な『部族』であるシャルバド族において、物資……これには、兵器も含まれる……調達を担っている幹部の一人である。
その邸宅の廊下を、一人の女性が歩んでいた。年の頃は、二十代半ばか。胸元に派手な刺繍を施した、裾が足首まで完全に隠しているロングワンピースに、ヘジャブ(髪や首筋を完全に隠してしまうヘッドスカーフ)という、このあたりでは定番の女性用衣装を身に纏っている。
右手には、小さなブリキのバケツを提げていた。中には、細い枯れ枝と木屑、それに古風な長軸のマッチがひと箱入っていた。
面白いのは、彼女の顔立ちだった。ホラニスタンの主要な民族はホラニ人であり、隣国タジキスタンの主要民族であるタジク人と同様、イラン系の民族である。だが、彼女の顔立ちにはペルシャ的な要素……白い肌、彫りの深さ、くっきりとした眉など……は皆無だった。丸顔で、やや浅黒い肌。目は大きく、やや目尻がつり気味である。ホラニスタンにも数多く居住しているトルコ系民族とも、また違った顔立ちだ。もっと東洋的な雰囲気であり、実際彼女もここに召使として採用される際に、祖先は中国系らしい、と詐称したほどである。
彼女の名は、ファルリン。今は、サマンと偽名を名乗っている。
ファルリンが目指しているのは、邸宅の主アジバエフの書斎であった。扉の前では、二人の女性戦士が立哨を行っていた。いずれも、黒ずくめでニカーブ(目の部分だけをカットしてある頭巾。通常は黒)を着けており、胸の前にこれ見よがしにAK47S突撃銃を吊っている。
「カキロフ様に、お客様が見える前に暖炉に火を入れておけと命じられました」
たどたどしい言葉使いと、しおらしい態度で、ファルリンはそう告げた。教養の無い、やや愚鈍な人物を装っているのだ。表情も、その偽装にふさわしくしまりがなく、目つきも草食動物のそれを思わせる常に眠たそうなとろんとした感じだ。ちなみに、使ったのはホラニ語である。
女性戦士の一人が、ファルリンの手からバケツを取り上げ、中身を調べた。もう一人が、服の上からファルリンの身体を探って、怪しいものを隠していないか調べる。
「行け」
調べ終わった女性戦士が、素っ気なく言った。ファルリンは小さく頭を下げると、重い木の扉を開けて、中に入った。
この様子を、どう形容すればいいのだろうか。仮面を脱ぎ捨てた? いや、仮面をつけたのか。
部屋に入り、扉が閉まった途端に、ファルリンが変貌した。凡庸で、やや愚鈍そうに見えた容貌が一変し、殺気さえ感じるほどの鋭いものに変わる。先ほどまでの彼女を動物に例えれば、羊が相応しいと言えたろう。今はさながら狼だ。それも、獲物の臭いを嗅ぎつけた飢えた雌狼か。
ファルリンが、素早く動いた。高価な絨毯が敷き詰められた床を横切り、目立つように壁に飾られたタペストリー……イスラムらしく、絵ではなくコーランの一節が流麗な書体で書かれている……を捲りあげる。
隠されていた壁金庫が、あらわとなる。ダイヤル式ではない。小さなテンキーパッドが付いており、開錠キーコードの入力と正しい鍵の挿入が同時になされなければ開けることができない比較的新しいタイプの金庫である。
身をかがめたファルリンが、靴の中から鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、捻る。
鍵穴の隣にあるテンキーパッドの緑色のランプが点滅し、キー入力を促した。ファルリンは、慎重に十二桁の数字を打ち込んだ。
緑色のランプが消え、赤いランプが点灯する。
ファルリンは開閉ハンドルをつかみ、四十五度廻した。ガチャリと音がして、ボルトが外れる。
コピーキーを作るチャンスを得るまでに半月。隠しカメラで部屋を監視し、開錠キーコードをすべて解明するのにさらに二ヶ月もかかったが、その甲斐はあった。
ファルリンは、ゆっくりと金庫の重い扉を開いた。中に手を突っ込み、札束のひとつを取り出す。
紫色の紙幣。千スイスフラン百枚の束……十万スイスフランだ。
獲物を捕らえた雌狼の口の端が、ほんのわずか吊りあがった。
「終わりました」
再び愚鈍な召使の仮面を被ったファルリンは、小さな声で告げた。
書斎を出るときの検査は、入るときよりも厳重であった。高価な小物類などを持ち出すことを警戒しているのだ。
「よし、仕事に戻れ」
納得した女性戦士が、ファルリンを開放する。
マッチ箱だけが入ったバケツを提げたファルリンは、内心の喜びを押し隠して廊下を歩んだ。
ケナン・エルテムがアジバエフに書斎に招じ入れられた頃には、室内は心地よい温度に温まっていた。
熱い紅茶が振舞われ、イスラム教徒同士らしい仰々しくも儀礼的な挨拶が交わされる。それが終わったところで、エルテムはおもむろに目録を取り出した。
「注文の品はすべて揃えた。すべて、トラックに積んである。確認してくれ」
「いやいや。確認するまでもない。貴殿は正直な商人だ」
アジバエフが、笑いながら言った。座っていた絨毯から立ち上がり、壁に向かう。
「すまんが、後ろを向いていてくれないかな? 金庫を開けるのでな」
「承知」
エルテムは座ったままあさっての方を向いた。アジバエフががちゃがちゃと開錠する音を聞きながら、美味い紅茶を啜る。
「……ない! ないぞ!」
アジバエフの慌てた声に、エルテムは思わず紅茶を吹き出しそうになった。
「どうされました?」
「アフタル! スーリ!」
アジバエフが、女性戦士の名を呼んだ。すぐに、AK47Sの引き金に指を掛けた二人の女性戦士が駆け込んでくる。その銃口が、エルテムに向けられたが、彼は動じなかった。武器商人なので、荒事には慣れている。
「金が盗まれているぞ! 何をしていたのだ、おまえたちは!」
アジバエフが、女性戦士を叱責する。
エルテムは、ゆっくりと……女性戦士を刺激しないように……立ち上がった。もちろん両手は、女性戦士から見える位置に出しておく。
「どういうことですかな、アジバエフ殿」
「それが……金庫に仕舞ってあった三千万スイスフランが、無くなっているのです」
「……勘違いされているのでは? どこか、別の場所に仕舞ったとか」
「昼前に確認したときには、確かにあった。それから、金庫は一回も開けていません」
ぶるぶると首を振りつつ、アジバエフが言う。
「金がないのなら、取引は中止ですな。……本来ならば違約金をいただく所ですが、あなたは良い顧客だ。今日のところは、大人しく帰るだけにしましょう。では」
エルテムは部屋を出ようと歩み出した。待ってくれとアジバエフが懇請したが、無視する。経験上、こんなトラブルが生じた場合はさっさと帰るのが利口なやり方だと、エルテムはとっくの昔に学んでいた。とばっちりを受けるのは、ごめんである。
「……ということは、盗んだ可能性があるのはサマンだけなのか?」
アジバエフの右腕であるモヒロフが、二人の女性戦士……アフタルとスーリを詰問する。
「そうだとしても、あいつに金庫を開けられるはずがない! 鍵はここにある!」
アジバエフが、金鎖のついた鍵を手にわめいた。
「サマンはどうした?」
モヒロフが、家令であるカキロフを見た。
「アジバエフ様のご命令で、街まで使いに出ましたが……」
「命令など出しておらんぞ! やはりあいつが盗んだのだ!」
アジバエフが、わめく。
「しかし、アフタルとスーリが、彼女が書斎を出る際にきちんと調べています。札束を所持していれば、見逃すことはないでしょう」
モヒロフが、指摘する。
「ならば、この部屋のどこかに隠してあるということか?」
「あり得ますね。エルテム殿との取引を妨害しようとしたのかもしれません」
モヒロフが、そう推理する。
「しかし、あれだけの札束、そうそう隠せるわけない……」
アジバエフが、きょろきょろと書斎の中を見回した。調度類は、それほど多くない。十万フランの札束三百個を、隠せる場所など……。
アジバエフの視線が、ある場所に固定された。
「まさか」
ふらつく足取りで、アジバエフは暖炉に歩み寄った。むしろ日本人にはペチカ、といった方がイメージし易い、耐火煉瓦を使ったロシア風のごつい造りの暖炉である。
火掻き棒を取り上げたアジバエフは、灰をつついた。燃え残った紙のようなものを見つけ、わずかに震えている火掻き棒の先で突き刺す。
慄きながら、アジバエフは火掻き棒を持ち上げた。
紫色の老人の横顔が、見えた。
千スイスフラン紙幣の、肖像だ。ヤーコプ・ブルクハルト……アジバエフは名前までは知らなかったが……十九世紀に活躍した、スイスの歴史家である。
「も、燃やしやがった。三千万スイスフランを、灰にしやがったんだ、あの小娘は」
アジバエフは火掻き棒を取り落とすと、絨毯に膝を付いた。ちろちろと燃える暖炉の炎が、うなだれた彼の頭部を暖める。
その様子を唖然として見守っていたモヒロフは、ふと気付いた。いま自分は、人類史上もっとも贅沢な暖房で温められた部屋にいるのではないか、ということに。
第一話をお届けします。




