第二十話
「ふー。危ない所だったのです」
ソファの陰から這い出しながら、シオは噴き出すはずのない額の汗を拭うしぐさをした。
「閉じ込められてしまったのですぅ~」
通路に繋がる扉を試しながら、ベルが言う。やはり機密書類を扱うオフィスである。大佐は退室するにあたり、きちんと施錠して行ったのだ。
「そんなもの、ピッキングガンがあればすぐに開けられるのです! チャンスなのです! 今のうちに書類をいただくのです!」
「はいぃ~」
二体は最前までララニ大佐が仕事をしていた部屋に入った。ベルが机上に広げられていた紙類を集めている間に、シオは机の引き出しを漁る。
「いいものがあったのですぅ~」
ベルが、集めた紙の中から一枚を引っ張り出した。
「内郭の見取り図なのですぅ~。ここに、『メチルホスホン酸ジフルオリド保管庫』という建物があるのですぅ~」
「なんと! サリンの前駆物質ではないですか!」
シオは驚いてベルが手にしている紙を覗き込んだ。
「この書類だけでも、サリン製造の重要な証拠になりますぅ~」
嬉しそうに、ベルが言う。
「こうなったら、その保管庫もチェックしてみるのです! 上手くいけば、サンプルを持ち出せるかもしれないのです! そうすれば、完璧な証拠となるのです!」
「もう運び出されたあとかもしれないのですぅ~」
「試してみる価値はあるのです!」
押収した紙類を突っ込んだ布袋は、ベルの背中に紐で縛り付けられた。シオがピッキングガンを取り出し、通路へ通じる扉を開けに掛かる。
「とにかく、すでに侵入されてしまったと仮定して捜索を続けろ。パトロールが発見した連中が支援部隊ならば、東側から侵入、脱出の公算が高い。兵力を、東側に集中するんだ」
管理棟一階に設けられた指揮所でマイクを握ったララニ大佐は、国家憲兵隊と増援の陸軍部隊双方の直接指揮を任されているサイラス・ウッカ少佐に、無線を通じそう命じた。
「ナナンドの奴め。また、しくじりおって」
マイクを置いたララニ大佐は、秘かに毒づいた。ナナンド中佐がほぼ独断で行ったヘイゼル・ロハンガ・パークスを利用して行った工作に関する報告は、ララニ大佐の元にも届いていた。
「何が国連査察だ」
軍情報部や外務省方面からも、アメリカやイギリスがスパイによる偵察活動をいったん断念し、国連を通じ化学兵器に対する査察に方針を切り替えた、という情報は入っていた。ナナンド中佐がミズ・パークスから得た情報も……つまりはデニスらが与えた偽情報だったわけだが……これを裏付ける重要な証拠とされ、それらに基き陸軍も内務省もブドワ農薬工場に関する危機は当面回避された、と看做していた。
慎重派であるララニ大佐はその情報を無闇に信用せずに、ウッカ少佐とともに工場警備の手を緩めなかった。第5旅団に無理を言ってサラディン偵察車を数両借り出し、外周のパトロール任務を与えることまでやった。結果的にそれが功を奏し、先ほど一隊がスパイどもと思われる勢力と接触、現在鋭意追跡中という現状になったわけである。
ララニ大佐は工場警備を強化した自分の判断に内心で拍手を送った。ここでしくじれば、ナナンド中佐と同じ……いや、それ以下の立場に置かれることになっただろう。
「大佐! 侵入者を発見しました! L3です!」
内線電話を受けていた国家憲兵隊下士官が、興奮したのか甲高い大声で報告した。
サリン製造プロジェクトの最高責任者であるララニ大佐の頭の中には、当然ブドワ農薬工場の詳細な図面が収まっている。見取り図を参照しなくとも、L3がどこであるかは判った。
殺菌剤製造プラント区画。そのもっとも北側、内郭に近い位置だ。
「詳細は?」
「不明です!」
受話器を耳に当てた下士官が、怒鳴るように答える。
……やはりいたか。なんとしても、捕まえてやる。
「ウッカ少佐。L3で侵入者発見だ。包囲しろ」
内心の興奮を押し隠し、無線を通じて簡潔に、ララニ大佐は命じた。
「とりあえず、逃げおおせたようですわね」
スカディが、小声で言った。
「せやな」
雛菊が、同じく小声で応ずる。
二体は倉庫らしい建物の陰に伏せて隠れていた。内郭に近い方では、陸軍兵士や国家憲兵隊員が手にしたハンドライトの明かりが、せわしなく闇を切り裂いて動きまくっている。
「さっきはほんま、危なかったで」
巡回中の兵士たちをやり過ごそうと、暗がりに潜んだスカディと雛菊。だが偶然にも、兵士の一人が手にしたライトの光束を二体に当ててしまう。とっさにスカディがMAT49を発砲。雛菊が手榴弾を投擲する。突然の銃撃と爆発に兵士が混乱している隙に、二体は全力疾走でその場を離れた。
「状況は悪いわね」
ため息混じりに、スカディが言う。
無線を通じて得られた情報では、支援班は指定位置を離れて現在逃走中。作戦班はペブル各員を回収するために接近準備中。シオとベルは健在で証拠収集中、といったところである。
支援班が任務放棄状態に陥った以上、迫撃砲による砲撃支援は得られない。突入班は、自力で脱出を図らねばならない。
「とりあえず、予定通りこのまま南下しましょう」
「シオ吉とベルたそと合流した方がええんちゃうか?」
雛菊が、訊く。
「どうかしら。むしろ、分散して動いた方が敵も混乱するのではないかしら。少なくとも、どちらかが敵と接触すれば、残った方の脱出の手助けにはなるでしょう」
「道理やな」
雛菊が、納得する。
「ここですねぇ~」
ベルが、一棟の建物を指差す。
さして大きくはない建物であった。外見は、倉庫風だ。正面には、ありふれたスチールの両開き扉が付いている。錠前も、ありきたりのシリンダー錠だ。扉には、『発電機部品置き場 関係者以外立ち入り禁止』のプラスチック札が貼り付けてある。
「見取り図によれば、ここは『メチルホスホン酸ジフルオリド保管庫』のはずなのです! これはカムフラージュなのです!」
メモリー内に取り込んだ見取り図を参照しながら、シオはそう主張した。
「たしかに、普通の倉庫にしては壁面が頑丈すぎるのですぅ~」
ベルがそう言う。本来ならばリブつきの薄い鋼板で充分なはずの壁が、なぜか分厚そうな鉄筋コンクリート造りになっている。天井も、同様だ。
「ひょっとすると、もう運び出されてしまって、本当に発電機部品が納められているのかもしれませんですぅ~」
「開けてみれば判るのです!」
シオはピッキングガンを取り出し、開錠作業に入った。ベルがMAT49を構え、周囲を警戒する。
「開いたのであります!」
シオは扉を引き開けた。
内部はごく狭い部屋となっていた。正面に、金庫室のそれを思わせるような分厚いスチールの扉が付いている。
「おっと! やはりビンゴのようですね! 一枚目の扉はいわばフェイクです! こちらが本当の扉なのです!」
「これはピッキングガンで開けるのは無理ですねぇ~」
扉に歩み寄り、表面をぺたぺたと撫でながらベルが言う。特定の数字を入力して開錠するタイプの扉らしく、テンキーパッドが付いている。当然鍵穴などはない。
「ここはシオちゃんの出番なのです! 先生、よろしくお願いします!」
シオはぺこりと頭を下げた。
「ど~れ~」
時代劇のノリで、ベルがプラスチック爆薬の入った袋を手に、悠然と仕事に掛かる。
シオは爆破作業をベルに任せると、いったん倉庫の外に出た。MAT49を手に、あたりを偵察する。幸いなことに、陸軍兵士や国家憲兵隊は近くにいないようだ。
「爆破準備終わりましたぁ~」
ベルが、爆破用電気コードを引き摺りながら、倉庫の外に出てきた。
「さっそくお願いするのです!」
「隠れるのですぅ~」
シオとベルは、倉庫の側面、少し離れた位置にうずくまった。ベルが二の腕の空きポートにコードを接続する。ちなみに、倉庫の外扉は開放してある。閉めたまま爆破すると、衝撃波で外扉が歪み、開けられなくなるおそれがある。
「いきますよぉ~」
ベルが、通電した。どん、という音と共に、戸口から金属片が撒き散らされる。
二体は急いで倉庫の中に入った。
内扉のロック部分は、きれいに吹き飛ばされていた。胡瓜くらいの太さのロックボルトも、引き千切られている。シオは内扉を引いた。
「何かあるのですぅ~」
倉庫の中には、スチール製の棚がずらりと並んでいた。そこに、暗緑色の円柱が、何本も並べられている。……スカディと雛菊が見つけた、IPA化合物のキャニスターと、そっくりなものである。
内扉の内側に踏み込んだベルが、ひとつを手に取った。
「『メチルホスホン酸ジフルオリド』と描いてありますぅ~。どうやら、本物のようですねぇ~」
「やったのです! 一本パクってずらかるのです!」
「はいぃ~」
化学兵器キャニスターを抱えたベルを従えて、シオは倉庫の外に出た。さすがに爆発音は周囲に響き渡ったようで、ハンドライトを手にした兵士たちが集まりつつある。シオは手榴弾を取り出すと、適当な所へ投げた。爆発音に紛れるようにして、駆け出す。
……まずは内郭から脱出しなければならない。
侵入者は二組。どちらも南側の殺菌剤製造プラント内にいる。
各所から上がってくる断片的な情報から、ララニ大佐はきわめて正確に事態を判断していた。
重要なのは、連中を逃がさないことにあった。仮にスパイどもにサリン製造の証拠を集められたとしても、工場の敷地外に出さなければ、いかようにでも処理できる。
「エコー3から報告です。敵に振り切られたとのことです」
無線機に張り付いていた下士官が、そう報告した。
エコーは外周パトロールに与えられた無線コードである。3は東側でスパイらの車両を発見したチームのコードだ。
「エコー3の現在位置は?」
「工場の南南東、約八マイルの地点です」
地図にプロットしたエコー3の位置を見ながら、下士官が答える。
「よし。エコー3はその周囲を巡回。支援に出したエコー1と協力し、スパイどもが戻って来れないようにしろ。他のエコーは?」
「ご命令どおり、外周を警戒中です。特に報告は入っていません」
「よろしい。続けさせろ」
ララニ大佐はそう命じた。車両のスパイどもを逃がしたのは惜しいが、大事あるまい。肝心なのは、今現在工場敷地内に侵入しているスパイどもを逃がさないことだ。
「こちらウッカです。大佐、聞こえますか?」
ララニへの直通無線回線から、サイラス・ウッカ少佐が呼びかけてきた。ララニはマイクを手にした。
「ララニだ。どうぞ」
「一次包囲完了しました。二次包囲網を構築次第、狭めに掛かります」
「よろしい。くれぐれも慎重に頼むぞ」
「了解しました」
ララニ大佐は安堵しつつマイクを置いた。どうやら、最悪の事態は免れそうだ。
「まずいわね」
舌打ち交じりに、スカディが言う。
スカディと雛菊。二体の脱出は陸軍兵士の分厚い壁によって完全に阻まれていた。南側は、どこへ行ってもL1A1自動小銃を構えた陸軍兵士が待ち構えている。ほぼ全員がハンドライトを手にしていたし、数が多いので、闇を利用してこっそりと通り抜けるのも無理な相談である。
諦めて西に向け脱出しようとした二体だったが、こちらにも多数の陸軍兵士が待ち構えていた。東に向かったが、こちらも同様。
北側には、彼女らを追ってきた国家憲兵隊が迫っているはず。つまりは、完全包囲されたということになる。
二体が今隠れているのは金属製の大きなごみ用コンテナの中であった。怪しげなプラスチック容器や、空の大きな缶、廃材などが詰め込まれており、あまり入りたくはなかったが、贅沢を言える状況ではない。
「スカぴょん、どうするんや?」
雛菊が、訊く。
「いざとなったら、わたくしが囮になるわ。その隙に、あなたは逃げなさい」
きっぱりと、スカディが言う。
「それはあかんて。いっそのこと、降参したらどや?」
「……ドランボ将軍とその部下に慈悲を期待する方が間違ってますわ」
「せやなぁ」
諦め顔で、雛菊が同意した。
「これでも喰らいやがれ、なのですぅ~」
ベルが走りながら、時限信管を差し込んだプラスチック爆薬を足元にぽとりと落とす。
三十秒後、時限信管が起爆し、プラスチック爆薬が派手な爆発を起こした。走ってシオとベルを追いかけていた国家憲兵隊員たちが、慌てて地面に伏せる。
シオとベルの二体は、追跡から逃れようと必死で走っていた。ちなみに、メチルホスホン酸ジフルオリドのキャニスターは、シオの背中にロープで括りつけられている。
「あちらには陸軍さんがいるようですぅ~」
走りながら、ベルが前方を指差す。
「では、こっちなのです!」
シオは針路を変更した。
「一組は追跡中。完全に包囲の輪の中に入れました。もう一組も、中にいる模様です」
ウッカ少佐から、報告が入る。無線越しでも、声には明らかに喜色が混じっているのが判った。
「でかした。だが、油断するな。ゆっくりと、輪を狭めていけ」
ララニ大佐はそう忠告しつつ命じた。
「了解です。ですが、奴らはもう袋の鼠ですよ」
夜空に、照明弾が上がった。
「こっちも敵ばかりなのです!」
青白い光を浴びて、シオとベルの前方に蝟集する陸軍兵士たちが見えた。何名かが発砲し、銃弾が地面を抉る。
「こっちへ行くのですぅ~」
ベルが、シオの手を引っ張る。
だが、確実に包囲網は狭まりつつあった。仕方なく、シオとベルは唯一開いていた南側へと走った。追跡してくる兵士たちは、いつの間にか発砲しなくなっていた。……同士討ちを懸念しなければならないほどに、包囲が狭まっていたのだ。
「あそこに隠れるのです!」
大きなごみ用コンテナを見つけたシオは、それに飛び込んだ。ベルが、続く。
「おっと、驚いたことに先客がいたのです!」
シオはびっくりした。
「驚いたのはこっちよ。ノックぐらいしなさい」
憤然として、スカディが言う。
「お二人とも、ご無事でしたかぁ~」
ベルが、嬉しそうにひらひらと手を振る。
「無事やけど、状況は最悪やで」
雛菊が、顔をしかめる。
シオはごみ用コンテナの縁からそっと顔を出し、あたりを見回した。
四周すべての建物のあいだに、陸軍兵士と国家憲兵隊員の姿があった。合わせてざっと、二百人程度だろうか。
空に、また新たな照明弾が上がった。シオは慌てて頭を引っ込めた。
「完全に包囲されてしまったのです!」
「そうね。もう逃げ場がないわ。こうなったら、三体が囮になって、だれか一体を逃がすしかないわね」
諦め顔で、スカディが言う。
「わたくし、囮役を志願いたしますですぅ~。まだプラストライトがいっぱい残っているのですぅ~。これを上手く使えばよい牽制になるのですぅ~」
ベルが、さっそく名乗りをあげる。
「ベルちゃんが囮になるのであれば、あたいも囮役をやるのです!」
シオも挙手して志願した。
「なら決まりね。雛菊、あなたが脱出しなさい。わたくしはリーダーとして、この二人を指揮して囮役を全うします」
決然と、スカディが言い放つ。
「では、雛菊ちゃんにこの資料をお渡しするのですぅ~」
ベルが、背負っていた書類が入った布袋を外し、雛菊の手に押し付ける。
「なんや、これ?」
「大物そうな大佐殿のオフィスから押収したものですぅ~。サリン製造の証拠となる書類が入っていますぅ~」
「これも、持ってゆくのです!」
シオは背負っていたキャニスターを外した。
「ん、シオ吉もIPA化合物を見つけたんか?」
受け取りながら、雛菊が訊く。
「違うのです! メチルホスホン酸ジフルオリドのキャニスターなのです!」
ちょっと誇らしげに、シオは告げた。
「でかしたわ、シオ!」
いきなり、スカディがシオに抱きついた。感激も露に、シオの頬に口づけする。
「どうしたのですかぁ~」
ベルが、首を傾げる。
「わたくしたちは、IPA化合物のキャニスターを押収したの。これに、そのメチルホスホン酸ジフルオリドのキャニスターを合わせれば……」
「サリン!」
シオ、ベル、雛菊の三体の声がハモった。
第二十話をお届けします。




