第十九話
管理棟一階のスチール製ドアに、シオとベルは張り付いた。
ドア周りを調べ、センサーその他が無いことを確認してから、シオは電動ピッキングガンと付属品のテンション・バーを取り出した。テンション・バー……L字型の薄い金属板……と、ピッキングガンの先端を鍵穴に押し込んだシオは、プッシュトリガー式のスイッチを押した。モーターが唸りをあげ、ピックがかちゃかちゃとディスクタンブラー錠の中を探り始める。ものの二十秒ほどで、ピンの位置が揃い、テンション・バーを押さえているシオの左手指の圧力センサーに、シリンダーが動いた手ごたえが伝わってきた。シオはピッキングガンの先端を抜き取ると、テンション・バーを回した。がちゃりと音がして、ボルトが外れる。
『おおっ。さすがDGSE採用のピッキングガンなのです! あっさり開いたのです!』
『さっそくお邪魔するのですぅ~』
シオとベルの二体は、足音を忍ばせて管理棟の中に滑り込んだ。内部は常夜灯がぼんやりと灯っているだけで薄暗かったが、暗視能力のあるAI‐10にとってはまったく問題にならない。SISからの情報として内部のおおよその造りは知らされているので、二体は真っ直ぐに機密度の高い事務室や研究室があるウィングを目指した。
『この先ですねぇ~』
関係者以外立ち入り禁止の札が掲げられた扉の前で、ベルが立ち止まった。
『またこいつに活躍してもらうのです!』
シオはさっそく鍵穴にピッキングガンを差し込んだ。これも三十秒と掛からずに、開錠される。
シオはそっと扉を押し開けた。両側にずらりと扉が並ぶ通路には人影はなく、しんと静まり返っている。
『片端から探るのです!』
『はいいぃ~』
二体は一番近い扉……これは無施錠だった……を開け、中に踏み込んだ。事務机が中央に島を作っている、事務室であった。左手の壁際には、書類ロッカーがずらりと並んでいる。
『なんだか、嫌な予感しかしないのですぅ~。事務室にしては、片付きすぎているのですぅ~』
室内を見渡したベルが、言う。
たしかに、あまりにもきれい過ぎる事務室であった。机の上には、ペン立てもデスクマットもメモパッドも置かれていない。当然ありそうなパソコンやコピー機の類もない。
『とにかく調べるのです!』
シオは一番手近の机に歩み寄ると、引き出しを開けた。ベルが、書類ロッカーを漁り始める。
無かった。何も。
すべてが空っぽであった。紙類は、書類の類はもちろん、ティッシュペーパー一枚たりとも残されていなかった。それどころか、事務室ならば必須のクリップやステープラーの針、ポストイット、マーカー類なども、一切見当たらない。
『パソコンはあったみたいですねぇ~。跡が残っているのですぅ~』
ベルが、机上の四角い跡……そこだけ若干汚れが少ない……を指で擦る。
『これも空なのです!』
シオはスチールの屑篭を逆さにして振った。
見事なまでの片付きっぷりだった。壁には画鋲の跡が残っていたが、貼られていたであろう紙類はまったく残っていない。ホワイトボードの文字すら、きれいに消し去ってあった。
『次の部屋に行きましょう!』
シオは屑篭を置くと、扉を開けて通路に出た。
だが、他の部屋も同様であった。最初の事務室と同様、メモ一枚残されていなかった。
『まだ、研究室があるのです!』
シオは再びピッキングガンを使い、研究室があるとSISが想定している区域への扉を開けた。しかし、こちらにも何も残されてはいなかった。作り付けの水道の給排設備や、天井蛍光灯などはそのままだったが、あとの什器類はすべて運び出されており、ビニールタイルの張られた床の上にわずかな汚れが残っているだけだ。
『まだ、二階が残っているのです!』
シオは空元気を出して階段を登った。
しかしながら、二階も恐れていたとおり空っぽであった。研究室らしい二部屋には何も残されておらず、事務室らしい一室は例によってきれいに片付いていた。大きなテーブルが置かれた会議室らしい部屋も、同様にきれいであった。休憩室と思しき一室には、ソファーを始め数多くの調度類が置かれていたが、こちらにもサリン製造の証拠らしいものは見当たらなかった。発見できた紙類と言えば、二週間分くらいの新聞の束と、読み古されてページの端が折れ曲がった映画雑誌三部だけ。
『こちらも空っぽなのですぅ~』
まだ通電している冷蔵庫を開けて中を覗き込みつつ、ベルが言う。
『徹底して証拠隠滅を図ったのですね! 仕方ないのです! スカディちゃんたちと合流しましょう!』
『はいいぃ~』
二体は、扉を開錠して二階の関係者以外立ち入り禁止区域を出た。情報によれば、この先は研究者用の簡易宿泊施設になっているはずだ。
『おっと。人の気配がするのです!』
シオの聴覚センサーが、一室から漏れてくる物音を聞きつけた。
『どなたがいらっしゃるのでしょうかぁ~』
ベルが、ドアに張り付いて中の物音を聞き取ろうとする。
『どうですか?』
『どうやら、続き部屋のようですねぇ~。手前の部屋には、誰もいらっしゃらないようですぅ~。たぶん、奥の部屋にいらっしゃるのですぅ~』
『なら、開けてみるのです!』
シオは、ドアノブに手を掛けた。幸い、無施錠のようだ。
そっとドアを押し開けたシオは、気配に耳を澄ましつつ、中を覗いた。ソファーとテーブルのセットが置かれた、リビングルームのようだ。ちょっと狭いが、テレビなども置いてあり、なかなか居心地は良さそうな部屋である。
左側には扉があり、三分の一ほど開いていた。そこから白っぽい光が漏れ、毛足の短い絨毯を敷いたリビングルームの床に、くっきりとした矩形を描き出している。気配は、その扉の奥にあった。
『真夜中だというのに、誰かお仕事中のようですね!』
『たぶんサービス残業なのですぅ~』
シオとベルは足音を忍ばせつつ、リビングルームに侵入した。左側の扉に、にじり寄る。
シオはそっと中を覗いて見た。
長身のシラリア人男性が、デスクに座って事務仕事の真っ最中であった。カーキ色のTシャツ姿だったが、椅子の背に軍服が掛けられているので、軍人であるとわかる。階級章は、大佐だった。
『大佐とは大物なのですぅ~。何のお仕事を、なさっているのでしょうかぁ~』
『書類を作成しているようですね!』
大佐がペンを走らせているのを確認して、シオはそう言った。
『あの書類を頂戴できれば、サリン製造の証拠が手に入るかもしれませんねぇ~』
ベルが言った。
と、いきなりデスクの上の電話機が鳴り始めた。大佐がペンを置き、受話器をつかむ。
「……これはドランボ閣下。はい。こちらは順調です」
大佐が、畏まった態度で受け答えする。
『ドランボ! 相手は、ジェームズ・ドランボ国防相のようですね!』
シオは少し驚いて言った。
『シラリアのナンバー2から直通電話が掛かってくるとは、やはりあの大佐殿は只者ではないのですぅ~』
『ドランボ将軍の声が聞こえないのが、残念なのであります!』
指向性マイクの感度を最高まで上げても、受話器の向こう側の声は捉えることができない。二体は仕方なく、大佐の発言に耳を傾けた。もちろん、音声はデジタル方式で記録し続けている。
「ついにクーデター決行ですか」
通話の中で、大佐が唐突にそう口にする。
『クーデター!』
シオは驚いた。任務中でなければ、ペットロボットらしく仰け反って驚きを表現するところである。
「はい。もちろんです。わたしはここで自分の任務を全うします。……成功をお祈りします。では」
大佐が、受話器を置いた。
『ドランボ将軍が、クーデターを起こすのでしょうかぁ~』
『忠実なナンバー2が、ついにエサマ大統領を裏切って、政権奪取を図るのですね! 甲斐犬に手を噛まれる、というやつなのです!』
『それはとっても痛そうなのですぅ~』
ベルが、噛まれたといった体で、左手をぷらぷらと振ってみせる。
『クーデターの詳細も知りたいところですね!』
シオはふたたび部屋の中を覗き込んだ。大佐はペンを取って、仕事を再開している。時折机上の電卓を叩き、得られた数値を書類に記入しているようだ。
『どうやって、あの書類を頂戴いたしましょうかぁ~』
ベルが、訊く。
『いっそのこと、あの大佐を拉致りましょう! 色々とサリン製造に関して知っているはずなのです! クーデターに関しても、尋問できるのです!』
『うまくいくでしょうかぁ~』
『スタンガンで気絶させればいいのです! 縛るためのロープも、入れる袋も持参してきたのです! さすがデニスなのです! 関係者を拉致ることまで考慮して、大きな袋と充分な長さのロープまで用意してくれたのですね!』
シオとベルは大佐拉致のための打ち合わせを開始した。だが、思わぬ所で邪魔が入る。
どおん。
遠方から、かすかに砲声のようなものが聞こえてくる。
とっさに、大佐が立ち上がった。すばやくデスクの脇に手を伸ばし、置いてあったホルスターからM70自動拳銃を抜き出す。左手は、デスク上の電話機をつかんだ。
「ララニだ。どうした?」
いきなり、建物の外でサイレンが鳴り始めた。それに紛れて、シオとベルの耳にどたどたという大勢が走り寄ってくる物音が聞こえてくる。
『まずいのです! 隠れるのです!』
シオとベルはリビングに引っ込むと、ソファーの陰に身を隠した。数秒後に通路に通じる扉が開かれ、スターリング・サブマシンガンとM85アサルトカービンで武装した兵士数名がなだれ込んでくる。
「大佐殿、指揮所へお戻り下さい」
上着のボタンを留めながら部屋から出てきた大佐に、下士官が要請した。
「何があった?」
大佐が、訊く。
「外周パトロールが敵と接触した模様です。詳細は、不明」
早口で、下士官が報告する。
時間は少し遡る。
ブドワ農薬工場の東約三キロメートルの位置にある低い岩山の陰で、メガン、アル、亞唯からなる支援班は待機していた。MO‐81‐61C/81ミリ迫撃砲は、すでに軸線をブドワ工場に向けセットされている。射撃カードから算出された射角も調整済みで、砲弾を落とし込めば工場内の内郭を正確に砲撃できる準備は整っていた。
ニッサン・ピックアップは灰色のシーツに覆われて隠されていた。積み込まれていた迫撃砲弾はすべて降ろされ、迫撃砲の側に置かれた防水シートの上に積み上げられている。
亞唯は低い岩山の頂部で、低い姿勢で座り込んでいた。当面の任務は、周囲の警戒である。支援砲撃要請があった場合は、砲撃観測が彼女の主たる仕事となる。
いまのところ、作戦は順調に進んでいると思われた。作戦班からも、すでに内郭に侵入して調査中のはずの突入班からも、一切通信は入っていない。
亞唯は光量増幅モードにした眼でゆっくりと首をめぐらし、周囲の警戒を続けた。
……あれは。
南西の方角に、動きがあった。亞唯は映像をスチールモードにすると、電子ムーズして詳細を調べ始めた。どうやら、車両のようだ。それも、複数。
「アル。南西から車両接近中」
亞唯は小声で、迫撃砲の側で待機するアルに呼びかけた。
「なんだって? 敵か?」
「今調べてる。……こちらへ接近中だね。速度不明。距離は……一キロ半くらいかな。小さめの一両の後ろに、大き目の奴が続いてるみたいだ」
視線を通常の光量増幅モードに戻した亞唯は、そう報告した。メガンがピックアップのボンネットに肱をつき、双眼鏡で南西方向を探り始める。
「なおも接近中。どうも、こっちを真っ直ぐ目指しているみたいだ」
車両を観察しながら、亞唯はそう言った。
「暗視能力付きか? くそっ、外周パトロールがいるという可能性は高かったが……」
アルが、毒づく。
シラリア軍のものと思われる車両は、一キロほどの位置まで近づいていた。亞唯は再び電子ズームを使って、車両の識別を試みた。
「車両は二台。先頭は、おそらくランドローヴァー。もう一台は、六輪の装輪装甲車だ。砲塔付き。シラリア軍装備だとすると、サラディンだね」
「嘘でしょ……」
メガンが、絶句する。
FV601サラディンは、イギリス製の古い装輪装甲車である。車体長は五メートルほど。大きな六輪を付けた車体の上に、76ミリ砲と同軸機銃を備えた砲塔を載せている。砲塔の上部ハッチの処にも、副武装として7.62ミリ機関銃を備えている。乗員は、三名。
手榴弾と旧式小銃でなんとかなる相手ではない。もちろん、迫撃砲で対抗するのも無理だ。
「なんだよ、装甲車両がいるなんて聞いてないぞ」
アルが、愚痴る。
「撤収準備。ただし、音と光は厳禁よ。こちらに気づいていない可能性もある」
メガンが命じ、ピックアップに掛けてあるシーツをめくると、静かにドアを開けて運転席に乗り込んだ。アルが移動し、いつでもシーツを剥がせるように準備する。
サラディンが、いきなり閃光を発した。主武装であるL5A1/76ミリ砲を、発砲したのだ。
亞唯は転がるようにして岩山を滑り降りた。
どんという発砲音に続いて、乾いた夜気を切り裂いて砲弾が飛来した。岩山にHE(高性能炸薬弾)が着弾し、その半分を粉々に打ち砕く。飛び散った岩の欠片が、伏せた亞唯の上にばらばらと降って来た。
メガンがピックアップのエンジンを掛けた。アルがシーツを引っ剥がし、荷台に転がり込む。
起き上がった亞唯は走った。アルの手を借り、荷台に飛び乗る。
メガンがピックアップを急発進させた。サラディンが撃ち始めた同軸機銃の弾丸が、岩山の残骸に当たってばしばしという音を立てる。まぐれ当たりの二発ほどが甲高い音を発してピックアップを貫いたが、幸い誰にも当たらなかった。
「亞唯、作戦班に通信だ」
喘ぎながら、アルが命ずる。
サラディンが、二発目の砲弾を発射した。着弾したのは、迫撃砲弾を積み上げた場所からわずか一メートルほどのところであった。
迫撃砲弾が、次々と誘爆を起こす。その大音響を背に、ピックアップは速度を上げ、礫砂漠の中を遁走した。
「あかん。えらい大きな爆発音やで」
大量の迫撃砲弾が炸裂する音響は、雛菊とスカディの耳にも届いていた。
「方角は東ね。支援班が、交戦中のようね」
顔をしかめつつ、スカディは応じた。
彼女らのサリン製造証拠捜索任務も、ここまではシオベル組と同様、不調に終わっていた。すでに工場設備の運び出しは終了しており、現在行われている工事は主に床のコンクリートの破砕と、その下の表土の掘削に移っていたのだ。とりあえず手分けして解体工事の様子を撮影し、サリン製造過程での生成物が付着していそうな金属片やコンクリート片をいくつか拾い集めてはみたものの、どれも決定的なサリン製造の証拠とはなりそうになかった。
諦めて工場棟を去りかけた二体が偶然見つけたのが、今現在目の前にある小さな倉庫であった。両開きのスチール扉には二つも錠がつけられており、そのうえ『関係者以外立ち入り禁止』『開放厳禁』『監視カメラ作動中』などの警告の文言が、べたべたと貼り付けてある。
「支援班が発見された以上、こそこそしていても仕方ありませんわね。カメラに映ってもいいから、これを開けてみましょう」
すでに工場内にはサイレンが鳴り響いていた。早急に逃げ出さなければ、発見されるのは必至である。だが、いまだろくな証拠を得られていない状況であり、このままでは任務失敗となってしまう。運が良ければ、この倉庫の中にサリン製造の証拠が見つかるかもしれない。
「よっしゃ。行くで」
雛菊がピッキングガンを取り出して、開錠作業を開始した。スカディはMAT49を構えると、周囲を警戒した。幸い、付近に人の気配はない。
開錠は意外に手間取った。たっぷり三分半近くかけて、ようやく二個目の錠のロックが外れる。
「さっさと済ませてしまいましょう」
スカディは、スチール扉を引き開けた。
狭い倉庫の中にはスチールの棚があり、そこには暗緑色に塗られた円柱が数十本、丁寧に収められていた。大きさは直径二十五センチ、長さ六十センチほどか。
「イソプロピル化合物やな」
雛菊が、円柱に黄色いブロック・レターで記載されている文字を読む。
「サリンの前駆物質、メチルホスホン酸ジフルオリドと合成するものね。ここは、製品倉庫なのだわ」
「なんで証拠隠滅のために運び出さなかったんやろ」
雛菊が、疑問を呈する。
「優先順位が低かったのかも知れませんわね。これ単体では無害だから、仮に発見されたとしても言い逃れは可能でしょう」
スカディが、推測を口にする。
「でも、どう見ても兵器やで、これ」
雛菊が、円柱を指差して笑う。暗緑色のボディに、黄色いブロック・レター。たしかに砲弾あるいは航空機用爆弾の一部か、化学兵器のキャニスターにしか見えない。
「とりあえず、一本頂戴していきましょう。いい証拠になりますわ」
「せやな」
雛菊がキャニスターの一本を背負った。スカディが、それを用意したロープでしっかりと縛り付ける。
「近くに、メチルホスホン酸ジフルオリドも仕舞ってないやろか」
「それはありえないでしょう。バイナリー兵器の中身は、なるべく離して保管するのが常識だわ。では、そろそろお暇しましょうか」
MAT49を身体の前で構え、スカディがスチール扉の陰から外を窺った。相変わらずサイレンは鳴り響いているが、敵の姿はない。
スカディが、滑るように扉の外へ出て、物陰に走り込む。IPA化合物のキャニスターを背負った雛菊が、その後を追った。
第十九話をお届けします。




