第十六話
アメリカ合衆国大統領が朝一番で行う仕事は、日例報告を受けることである。大統領によって差異はあるが、通常は首席補佐官から、口頭で受けるスタイルが多い。同席者も一定ではないが、安全保障問題担当などの大統領補佐官、国務長官、国家情報長官などが立ち会うことが一般的である。
「これが、ほぼ三十分前のブドワ農薬工場の画像です」
国家安全保障問題担当大統領補佐官(APNSA)が、偵察衛星が撮影した数枚の大判の写真をタッカー大統領に手渡した。
「時刻は現地時間で午前十一時七分です」
APNSAが、付け加えた。
タッカー大統領は、読書用眼鏡を掛けると、写真をじっくりと眺めた。一枚目は、農薬工場の中心部に建設重機らしい車両数台が置かれているところが映っていた。二枚目は画像処理されていて、中央部の建物内に顕著な赤外線源があることを示している。三枚目は、敷地外のモータープールに無蓋トラックが数台停まっているところ。四枚目は、三台連なった無蓋トラックが、荷台にシートを被せた状態で二車線道路を走っている……停止しているのではないことを示すために、わずかに砂埃を蹴立てている写真をチョイスしてあった……ところ。
「工事か。結論は?」
「建設重機に詳しい者に分析させました。ありふれているバックホーの他に、コンクリートブレーカーを付けた車両や、大型のコンクリートカッターが見られます。搬出は行われていますが、資材の搬入は行われていない。確実に、解体工事です。それも、基礎から崩すような、徹底的な解体です」
国家情報長官が、説明する。
「サリン製造プラントがあると目されている箇所で、解体工事か。証拠隠滅、だな」
「はい。他に考えようがありません」
国家情報長官が、大統領の判断を追認する。
「フィル?」
大統領が、首席補佐官に振った。
「CIAとSISが共同で行っていたブドワ農薬工場に対する潜入偵察活動は、昨日報告したとおり残念ながら失敗に終わりました。しかし、彼らの報告から同工場でのサリン製造は確実と思われます。さらに、アル・ハリージュ・テロに対するわが国とイギリスの追求の手が伸びてきていることも、シラリア側は承知しているはずです。以上の情報から判断すれば、エサマ大統領が、先手を打ってサリン製造の証拠を消しに掛かったものだと思われます」
「完全に同意する。テオ、奴らが証拠を消し去るまでどの程度時間が掛かるのだね?」
「シラリア側が生成物の管理をどれほど厳密に行っていたかで、変わってきます。もちろん、この工事の進捗状況および、サリン製造施設の実際の規模にも左右されますが」
国家情報長官が、大統領が机上に置いた衛星写真を身振りで示す。
「大まかな推定でいい。聞かせてくれ」
「そうですね。夜間も工事を行ったとすれば、製造施設の解体と処分に二日ないし三日。残留物の除去にさらに一週間というところでしょうか」
曖昧な推定であることを表すかのように、手で透明な風船を弄んでいるかのような動きをしながら、国家情報長官が答える。
「となると、イギリスの作戦は後手に回るな」
「左様です」
APNSAが、答えた。
CIAによる調査と、ブドワ農薬工場への潜入偵察作戦を行ったSIS工作員……つまりはデニス・シップマンであるが……の報告から、同工場がアル・ハリージュ・テロに使用されたサリンを製造した施設であることを確信したイギリス政府は、すでに武力行使を行うことを閣議決定し、その準備を進めていた。作戦は二段階に分かれており、まずSAS分遣隊が空路ニジェール入りし、同国西部よりデューン・バギーとオートバイを使ってシラリア国内に潜入。ブドワ農薬工場内部の偵察を行い、サリン製造の決定的な証拠をつかむ。失敗に終わった前回の作戦と違い、今回の偵察は強攻的であり、場合によっては交戦も想定したものである。
得られた証拠をイギリス政府が世界に向け公表したのちに、第二段階が開始される。ジブラルタルを経由し、ボイジャー空中給油機に支援されたタイフーン戦闘攻撃機が、JDAMを搭載してブドワ農薬工場を爆撃、これを完全に破壊するというものだ。その準備としてイギリス外務省は、ニジェール政府に対し作戦支援協力要請を、アルジェリア政府に対しては領空内通過の許可を得ようと、現在鋭意交渉中であった。
この第二段階に対しては、ギニア湾からの海軍艦艇によるトマホーク巡航ミサイル攻撃や、SASを主力とした戦力による強襲攻撃も検討されたが、前者はフランスがエネンガル国内のミサイル領空内通過に懸念を表明したしたこと、後者は死傷者が多く生じる懸念から不採用となっていた。
イギリス政府から、この一連の作戦に関し支持と協力……主に衛星偵察情報の提供……を求められたアメリカは、これに同意するとともに、第二段階の作戦に限定的に参加することをすでに決定していた。シラリア人民共和国の貧弱な防空能力……防空戦闘機なし、主要な対空兵器は旧式なイギリス製のタイガーキャット地対空ミサイルが数基と、スウェーデン製のL60/40ミリ機関砲が四十門程度……を考慮すれば、大きな損害が出るとは思えなかったし、武力行使をイギリスだけに任せておいては、対テロ戦争の最前線に立つ国家としてのイメージを損ねるおそれがあると判断されたからだ。ホワイトハウスのスタッフは、この作戦が成功しブドワ農薬工場が壊滅すれば……より詳しく言えば、SASが撮影するであろう破壊される工場の様子と、機上から撮影された爆撃の詳細の映像がアメリカの有権者の家庭のテレビに映し出されれば、大統領の支持率は最低でも八ポイント上昇する、と見積もっていた。
そのようなわけで、タッカー大統領はすでに空軍に対し作戦の準備を下命しており、それを受けてイギリスのレイクンヒース空軍基地に駐屯するF‐15E飛行隊は作戦の詳細についてイギリス空軍側と調整に入っていたし、スペインのモロン空軍基地では、アメリカ本土の基地から飛来する予定のKC‐10空中給油機の受け入れ態勢が進められつつあった。
だが、これらの準備もサリン製造の証拠がつかめねば、すべて無駄になってしまう。
「どうあっても、間に合いませんな」
タイムスケジュールが記されたメモを見ながら、首席補佐官が苦い顔で言った。
派遣決定からまだ半日ということで、シラリア国内に潜入するSAS部隊は、まだイングランドで準備中である。予定では、ブドワ農薬工場に対する予備偵察を開始するのが、今から約七十二時間後のこと。潜入はもちろんそのあとになる。
「大統領。有権者が求めているサリン製造の証拠は、わかりやすいものでなければなりません」
首席補佐官が、座っていたソファから身を乗り出して言った。
「試験管の底にこびりついたような試料片や、どこかの研究施設が出したコンピューター・プリントアウトの束や、無名の大学教授の証言では、有権者は納得しないでしょう。『分析の結果、ブドワ農薬工場から、一マイクロなんとかのサリンの痕跡を発見しました』では、だめです。有権者に武力行使を容認させ、なおかつ現政権のテロ支援国家に対する勝利を印象付けるためには、素人にもわかるサリン製造の証拠がなければなりません」
「もっともだ。メリッサ。イギリス側を急かせないのか?」
大統領が、女性国務長官を見やった。
「難しいでしょう。ご承知のように、アセンション島を別にすれば西アフリカにはイギリス軍が常時使用している軍事基地はありません。いくら展開能力が優れているSASと云えども、簡単には準備が整いません」
国務長官が、首を振る。
「ケヴィン。空挺降下に切り替えれば、早期に送り込めないかな」
首席補佐官が、APNSAに尋ねた。
「可能でしょうが、危険ですね。元々ハイリスクな作戦です。無理にスケジュールを変更すれば、失敗の可能性が高まります。それに、節約できる時間はせいぜい半日程度でしょう。いずれにしても、間に合いません」
APNSAが、顔をしかめつつ答える。
「ふむ。我々の兵士を送り込むわけにも行かないしな」
大統領が、前に乗り出していた上体を起こした。有権者のほとんどがテロ支援国家に対する制裁を支持しているとは言え、アメリカ人に多くの犠牲が出れば政府は強い批判に晒されるだろう。SASが行う強行偵察は、最悪の場合多くの死傷者が出る可能性がある。駐アル・ハリージュ大使夫妻が無残にも殺害され、復讐の念に凝り固まっているイギリス国民なら、SASに死者が出てもこれを容認するだろうが、アメリカ軍人に多数の死傷者が出た場合、アメリカ市民はこれを看過できないだろう。当然大統領は非難の矢面に立つことになる。
「何か手はないかね? メリッサ。フランス人に頼めないものかな?」
大統領は、国務長官に尋ねた。
「フランスは協力的ですが、積極的に関わりたくないようです」
国務長官が、言う。
「西アフリカは彼らの裏庭のようなものです。どのような形であれ、面倒ごとは勘弁してもらいたい、というのが本音でしょうね」
首席補佐官が、補足するように言う。
「特にシラリアは、隣国エネンガルとの関係が深い。エネンガルも、来年の大統領選挙を控えて微妙な時期にあります。シラリアから戦争難民が押し寄せてくるような事態になれば、フランスも必然的に巻き込まれる。フランスは数十億ドル規模の投資をエネンガルに行っていますし、エネンガル産原油の最大の輸入国でもあります。……フランスがコートジボアールに駐屯している部隊から偵察チームを編成し、シラリアに送り込むことは可能かな、ケヴィン?」
首席補佐官が、APNSAに尋ねる。
「可能です。しかし、フランスは絶対にやらないでしょう」
「ふむ。では、打つ手なしか」
唸りながら、大統領が言う。
「ひとつだけ、方法があります」
国家情報長官が、小さく挙手しつつ発言する。
「聞こうか」
「失敗に終わったブドワ農薬工場偵察任務を行ったチームが、今エネンガルで待機中です。彼らにもう一度トライさせるのです」
「CIAとSISと……日本のロボットのチームだな。できるのかね?」
「フランス側の全面的な協力が得られれば、たぶん。CIA要員は二人ですが、どちらもかなり有能です。SIS工作員は、かなりの経験を積んだ人物と聞いております。先ごろの、サンタ・アナにおける日本大使館占拠人質事件を解決するのにも、大いに貢献した人物だそうで。彼らなら、やってくれるのではないでしょうか」
「ふむ。他に妙案のある者は?」
大統領が、居並ぶ面々を見渡した。
「ないか。よかろう。もう一度、彼らにやってもらおう。メリッサ。ロンドンと東京に話をつけてくれ。パリには、わたしから直接協力を依頼しよう。テオ、情報支援体制は任せる。空軍には、予定通り準備を行わせる。みんな、頼むぞ。意地でもサリン製造の証拠を手に入れ、それを世界に見せ付けて、ブドワ農薬工場を空爆で叩き潰し、モーゼス・エサマを二度とテロ組織を支援できない立場に追い込むのだ」
メガンからホテルに電話が掛かってきたのは、現地時間で午後五時過ぎだった。
「戻るのは夜になるそうだ。電話で詳しくは言えないようだが、デニスも大尉も合流して、アメリカ大使館でブリーフィングを行っているらしい。どうやら、また新しい任務を与えられそうだ」
受話器を置いたアルが、そう説明する。
「新しい任務って、なんやろ?」
雛菊が、首を捻る。
「ルイさんが教えてくれた情報から察するに、やはりシラリアのサリン絡みのお仕事の可能性が高いですわね」
スカディが、言う。
「たぶんな。……ま、今のうちに腹ごしらえでもしておこう。少し早いが、食事に行こう、軍曹」
アルが、石野二曹を誘う。
「そうですね。ご一緒しますわ」
丁寧な口調で、石野二曹が答える。アルは退役士官だから、一応は上官扱いしているのだ。
「誰か、通訳用に一緒に来てくれ」
上着を着込みながら、アルが言った。石野二曹はフランス語はまったく喋れないし、アルのそれもかなり拙いものだ。ホテルなので英語は通じるが、やはり現地の言葉が理解できる方がいい。
「アルさんの通訳ならば、パートナーであるわたくしがお供いたしますですぅ~」
ベルが、名乗り出る。
「あたいも付いていっていいでありますか?」
シオはそう訊いた。
「かまわんよ」
アルが鷹揚に言う。
二人と二体はエレベーターに乗り込んだ。一階で下り、ロビーを横切ってホテル内のレストランを目指す。
「コールマン准教授! ミズ・ササキ!」
唐突に、アルと石野二曹の偽名で呼びかけがあった。驚いた二人が、慌てて声の主を探す。
呼びかけたのは、見覚えのある人物だった。若い細身の女性で、一般のシラリア人よりも肌の色が薄い。……ヘイゼル・ロハンガ・パークスだ。
「ヘイゼル! こんな所で、なにを?」
慌てているのか、アルが早口で訊く。
「シオ。ベル。周囲を警戒して」
ささやくような、だが鋭い口調の日本語で、石野二曹が言った。
『ベルちゃん、右側をお願いします! あたいは左側を見張るのです!』
シオはそう赤外線通信を入れた。
『了解なのですぅ~』
「内密にお話があるのですが……よろしいでしょうか。よければ、あそこで」
歩み寄ってきたヘイゼルが、アルと石野二曹に対し、身振りでレストランの方を示す。
「どう?」
視線をヘイゼルに据えたまま、石野二曹が訊いた。
「異常ないのですぅ~」
ベルが、日本語で答えた。
「こっちも問題ないのであります!」
シオも日本語で言った。怪しい人物も、怪しい動きもまったく見られない。窓から見える街路の様子も、平常に見える。
石野二曹のうなずきを見て、アルが決断した。
「では、お話をうかがいましょうか」
アルが先に立って、レストランへと歩み出す。
「シオ、警戒を続けて。ベル、状況を無線でスカディに伝えて。念のため、スカディと雛菊は一階で待機」
なおも小声の日本語で、石野二曹が指示を出す。
「では、ここの守りは任せたわよ」
「任せろ」
亞唯が答えて、扉を閉めた。
「行きましょう」
雛菊を従えたスカディは、きびきびとした足取りでエレベーターを目指した。
「ヘイゼルが来るなんて、偶然とは思えんで」
歩きながら、雛菊が言う。
「そうね。シラリア側の謀略の可能性が高いから、石野二曹も警戒しているのでしょうが……」
「荒事になるやろか」
「それはどうかしら。エネンガル国内で、一応はDGSEの息の掛かったホテルですからね。それに、もしシラリア側がわたくしたちを捕まえたり抹殺したりするつもりならば、もうとっくに行動を起こしているはずですわ」
スカディは、そう指摘した。
「せやな。……うーん、あちらさんの意図がつかめんで」
雛菊が、悩む。
レストラン従業員が勧めた窓際の席を断り、アルが奥の厨房に近い壁際の席を選択する。
「どうぞ」
アルが、ヘイゼルを座らせた。彼女を挟むように、シオとベルを座らせる。自分と石野二曹は、ヘイゼルと対面する壁際の位置に席を占めた。レストランの出入り口と厨房の出入り口を同時に見張ることのできる、密談には格好のテーブルである。
「まず最初に、皆さんに謝らなければなりません」
全員が席に落ち着くと、ヘイゼルがそう切り出した。
ヘイゼルには、弟がいた。
妻を早くに亡くしたヘイゼルの父親は、再婚せずに、表向きは独身を貫いたが、裏では愛人を囲っていた。そこで生まれたのが、ヘイゼルの弟である。つまりは、異母弟だ。
ロンドンにかなりの額の信託基金を残して父親が死んだ後は……ちなみにヘイゼルが高等教育を受けられたのは、その基金のおかげである……異母弟が彼女の唯一の肉親となった。立場上、頻繁に会うことはできなかったが、ヘイゼルは弟のことを愛していたし、弟も同様にヘイゼルを実の姉同様に慕っていた。その弟は現在、徴兵されてシラリア陸軍にいる。
そんなヘイゼルの元を突如訪ねて来たのが、ナナンド中佐であった。今度ミトライ教授とともにアムパリ遺跡調査にやってくる外国の調査団は、スパイである。怪しい動きがあれば、すべてを同行するナカマシ大尉に報告しろ。逆らえば、お前の弟に不幸が訪れる。演習中の事故など、軍隊では珍しいことではないからな……。
「ナナンド中佐? ピーター・ナナンドか?」
アルが、確かめる。
「ファーストネームまでは知りません。中年で、痩せていて、眼鏡を掛けていました」
ヘイゼルが、容姿を説明した。アルが、石野二曹と顔を見合わせる。間違いない。ブルームフィールド市で出合った、ナナンド中佐だ。
「先を続けてくれ」
調査団が乗った飛行機が墜落した、と聞いて、ヘイゼルは良心の呵責に苛まされた。国内の新聞などでは、詳細は伏せられたものの、外国の調査団は全員死亡したと報道されたからだ。高等教育を受けたうえに、どちらかと言えば現政権に批判的なミトライ教授の影響で、ヘイゼルも表には出さないがエサマ政権を嫌っている。スパイ行為には嫌悪感を覚えるが、実際に交流した調査団の面々は……可愛らしいロボットたちを含めて……ナナンド中佐やナカマシ大尉よりもはるかに好感を持てる人たちであった。間接的とは言え、彼らの殺害に加担してしまったことは、ヘイゼルの心を苦しめた。
そんなヘイゼルのもとに、ナナンド中佐から電話が掛かってきたのは、今日の午前十時ごろであった。例の調査団はまだ生きており、シラリア国内でスパイ活動を行う準備を整えている。お前はサン・ジュスタンへ行って、作り話をしてスパイどもを罠に掛けろ。すぐに、空港へ向かえ……。
ヘイゼルは喜んだ。誰も、死んでいなかったのだ。それに、これで彼らを騙してしまった罪滅ぼしができるかもしれない……。
第十六話をお届けします。




