第十話
「ああっ。眼が痛てーぜ」
眼を激しくしばたたきながら、サミュエル・アダは毒づいた。
すでに六時間、トイレ休憩以外はこの小部屋に篭って、液晶ディスプレイを注視しているのである。昼食も、ディスプレイから眼を逸らさないまま、紅茶とビスケットで済ませた。
「おい、いいこと考え付いたぜ」
隣で同じようにディスプレイに張り付いている相棒のブライアンが、声を上げた。
「なんだ?」
「この作業、拷問代わりに使えるぜ。半日やらせれば、どんな強情な奴でも口を割るに違いない」
ブライアンの下手な冗談に、サミュエルは力ない笑いで応じた。
韓国製のディスプレイには、静止画像とほぼ変わらない録画再生映像が映し出されている。ブドワ農薬工場敷地内に設置されている監視カメラのひとつが、昨晩撮影したものだ。カラー画像だが、夜間ゆえ色彩はほとんどが失われており、黒と濃淡様々な灰色で構成される良く言えば水墨画のような静謐な、悪く言えば煉獄の風景のような陰気な映像が延々と映し出されている。一応、五倍速で流しているのだが、小隊長から命じられたチェックすべき映像は実に百時間を軽く越える。二人がかりでも、今日中に終わるかどうか疑わしい膨大な量だ。
と、単調だったディスプレイにわずかな変化が生じた。ひょいと黒い影のような物が、一瞬だけ現れたのだ。
サミュエルは眼をしばたたいた。疲労した眼球と脳が、幻視を起こしたのだろうか。それとも、実際に何かの影が映ったのか。
サミュエルは再生機器に手を伸ばして映像を止めると、二分ほど巻き戻してから、通常速度での再生を開始した。……見間違いではなかった。わずか二秒ほどであったが、ふたつの黒い影がはっきりと映像に残っている。
「ブライアン。内線を掛けてくれ」
もう一度映像を確認しようと、巻き戻し操作を行いながらサミュエルは相棒に頼んだ。
「どうやら、俺は小隊長がお探しのものを見つけたらしい」
サミュエル・アダが見つけたふたつの黒い影……。
それは、間違いなくスカディとシオの二体が落とした影であった。
この件に関して、スカディとシオを『軽率』と責めるのは、いささか気の毒と言える。なぜなら、彼女らが与えられた軍用ROM内には、夜間に複数の光源が存在する場所において作戦行動を行う場合、影の存在に考慮を払うべし、という項目が一切なかったからだ。昼間戦闘の場合、常に太陽の位置を意識し、影の利用、あるいは低観測性を維持するための影の秘匿を行うという項目はもちろんあったし、夜間戦闘時の照明弾下、あるいは探照灯による照射に対し、影を秘匿するように、との項目もあった。これらROMの内容を充分に習得し、理解した人間の兵士ならば、それを応用して監視カメラの撮影範囲内に自らの影を落とすようなヘマはやらなかったであろう。しかし、AI‐10は高性能とは言えロボットである。プログラムされていない行為、メモリー内に無い行動を、自らの考えで独自に行うということは稀である。
そのようなわけで、スカディとシオは監視カメラからその姿を隠す、という命題は完璧にこなしたにもかかわらず、ブドワ農薬工場敷地内への侵入行為を露見させてしまったのである。
「そうか。で、詳細は?」
メモパッドを手近に引き寄せながら、ララニ大佐は訊いた。
「場所はHエリア西側、カメラ番号は09。具体的な場所は……」
「場所くらい承知している」
ララニ大佐は、受話器の向こう側のウッカ少佐の声を、ぴしゃりと遮った。ブドワ農薬工場の建設には、当初から関わっているのだ。さすがに監視カメラの位置まではいちいち把握していないが、Hエリアの西側がどこかくらいは承知している。
「……失礼しました。時間は、0028、17・8から19・7のあいだ、約二秒です。動く黒い影がふたつ、はっきりと映っています。さらに同カメラの映像を確認したところ、0142、24・1から26・2にかけて、同種のものと推定される黒い影が映っていました。動き方は、一回目と逆向きです。影の動き方からの推定ですが、何者かが西側から東側へ移動し、その一時間十四分後に、同じ場所を東側から西側へ移動したものと思われます」
ウッカ少佐の声が、そう報告する。
「他のカメラに映像は?」
「すべての映像を確認しましたが、異常はありませんでした」
「そうか。で、その映像は侵入者で間違いないと断言できるのかね?」
ララニ大佐はややきつい語調で念を押すように尋ねた。
「はい。該当する時間に、工場警備および工場関係者はその場所に立ち入っていないことが確認できました。何者かが侵入したものとしか考えられません。ただし……」
「ただし?」
「侵入者とは思えないのです。当たっていた照明の位置と角度、影の形状および大きさから推定すると、人間の影ではないと思われます。当初、なにか動物が敷地内に入り込んだのかとも考えましたが、足跡などは発見できませんでした。不可解です」
当惑したような口調で、ウッカ少佐が答える。
「……そうか。もし仮に、その侵入者が身長一メートル程度の、凄まじく太っている子供だとしたら、どうだね?」
受話器の向こう側で、はっと息を呑む気配が伝わってきた。
「それならば、あのような影ができると思われますが」
「もういい。ご苦労だった。念のため、高度な警戒態勢は維持してくれ」
語気を緩め、労いの念を言葉に込めながら、ララニ大佐は言った。たしかに侵入者を阻止できなかったことは警備隊長たるウッカ少佐の落ち度だが、ララニ大佐も今回の件では大きな間違いをしでかしているのだ。……外国のスパイが人間である、と妄信していたという間違いを。
「失礼ながら閣下。この侵入者の正体を、ご存知なのでは?」
ウッカ少佐が、そう訊いてくる。
「詳しくは話せないのだ。すまんな」
素っ気なく、ララニ大佐は応じた。
アムパリ遺跡調査団キャンプは、外界から孤立した環境にある。
水は一日一回、シラリア陸軍が近くのオアシスまで車を飛ばして運んできてくれるが、そこには定住者はいないので、外界との接触とは言えないだろう。残る外界との接触手段はいずれも電波を利用したものだ。シラリア陸軍が持ち込んだ中距離無線機、石野二曹が管理している衛星電話機、それに、個人が持ち込んでいるラジオ……もちろん、傍受専用の機器……である。
そのうちのひとつである小型マルチバンドラジオを手に、調査団メンバーとAI‐10のほとんどが揃っているテーブルにメガンが足早に近づいて来たのは、昼食休憩終了間際であった。
「大ニュースよ。中東で、テロ事件が発生したわ」
BBCワールドサービスに周波数を合わせてあるラジオを簡易テーブルの上にとんと置きながら、メガンが言った。
「どこだね?」
温い紅茶が入った金属カップを置きながら、デニスが訊ねる。
「アル・ハリージュ王国。王宮で、化学剤が撒布されたそうよ」
「なんだって?」
座っていたアルが、おもわず腰を浮かせる。
側で聞いていたシオは、ベルと顔を見合わせた。テロに使われた化学剤が、ここシラリアで生産されたサリンの可能性があることくらいは、シオでもすぐに思いつく。
「テロとは許せませんな。被害はどの程度なのですかな?」
ミトライ教授が、眉根を寄せて訊いた。その隣では、亞唯が大河原教授のために会話内容を翻訳してあげている。
「確認された死者は八名。重軽傷者は約六十名。死者の中には、サッタール国王が含まれているそうよ」
硬い声で、メガンが言う。ただでさえ白い肌が、普段よりも青ざめて見えることに、シオは気付いた。だから、そばかすがいつもより目立っている。
「まずいな。あそこは親日国だ。亡くなった国王も親日派だった。たしか、中東産原油の二割近くは、あそこから輸入していたはずだ」
越川一尉が言って、顔をしかめる。
「前年度実績で、中東産原油の約十九パーセントですわね。サウジアラビア王国、UAEに次ぐ第三位ですわ」
スカディが、すかさず補足する。
「日本びいきで有名な王族やな。王子が日本のサブカル大好きで、たびたび日本にお忍びで遊びに来てるって、聞いたことがあるで」
雛菊が、言う。
「他の王族は無事なのかね?」
大河原教授が、亞唯を介して訊く。
「死者の中には、王族は他に含まれていないようです。負傷者の中には、何人かいるようですが」
メガンが、答えた。
「あそこは親英国でもある。サッタール国王は、オックスフォードに留学経験があったはずだ」
デニスが、難しい顔で考え込む。
「親米国でもありますよ。湾岸戦争の時には、世話になっている。空軍が、あそこの基地を貸してもらいましたからね」
アルが、口を挟んだ。
「それで、テロを起こしたのはどの組織なのかね、ミズ・オブライエン? 実行犯は逮捕されたのかね?」
ミトライ教授が、尋ねる。
「組織の特定には至っていないようです。報道によれば、実行犯は単独で、死者の中に含まれているそうです。死因は、まだ報道されていませんが」
空いていたパイプ椅子に腰掛けながら、メガンが言った。
『仮にそこで使われた化学剤がシラリアのサリンだったとしても、わたくしたちの任務には大きな影響がなさそうですわね』
赤外線通信で、スカディが言った。
『そうだね。シラリアが直接関与したわけじゃないし』
亞唯が同意する。
だが、そのスカディの発言はメガンの次の一言でひっくり返った。
「実は……死者の中に、アル・ハリージュ駐在の英国大使ご夫妻が含まれているとのことです」
デニスの肩が、びくっと動いたのを、シオは見逃さなかった。
「座ってくれ」
ララニ大佐は、入ってきたナナンド中佐をとりあえず掛けさせた。
「手短に行こう。アムパリ遺跡予備調査団一行は、やはりスパイだった。ドランボ将軍閣下にご報告したところ、即座に抹殺せよとのご命令をいただいた」
「やはりそうでしたか」
抹殺、という単語になんら怯むことなく、ナナンド中佐がうなずいた。大統領や軍に逆らう連中は抹殺されるのが当たり前の、殺伐たるお国柄なのである。
「問題は、その方法だ。知恵を貸して欲しい」
「方法ですか?」
「そうだ。あとで国際社会の非難を浴びたり、英米日三国の干渉を招いたり、査察要求が出るような殺し方はまずい。事故や自然死を装わなくてはならないが、これが難しくてな」
ララニ大佐は、頭をかきつつ言った。……本来部下の前でやるべきしぐさではないが、すでにナナンド中佐とは今回の作戦を通じて同志的連帯に近い気の置けない関係を築いている。
「なるほど。ロボットの存在ですか」
ナナンドが、言った。
「そうだ。連中をどうやって始末するかが難題でな。ロボットだから、蛇も蠍も平気だ。病原菌も無効。飯も喰わないから食中毒も無理。火災にも強い。衝撃にも強いから、交通事故を偽装するのも難しい。強盗団に襲撃させるとなると、護衛兵士と切り離す必要があるし、陸軍の失態と見られるおそれが強い。それと、あの手のロボットは常に映像や音声を記録しているはずだ。中途半端なやり方では、抹殺の証拠が外部に漏れる可能性がある。……なにかいい手はないかね」
「空軍に、協力を要請してはいかがでしょうか」
しばし黙考したナナンド中佐が、そう提言する。
「空軍?」
「はい。同郷の友人に、空軍でパイロットをやっている男がおります。彼によれば、空軍は用途廃止同然の古い輸送機を何機か抱えているそうです。一機を譲り受けて、調査団ごと墜落させてはどうでしょうか。さしものロボットも、高度一万フィートから落とされれば粉みじんでしょう」
細面にやや得意げな色を浮かべて、ナナンドが説明する。
「いい考えだ。文化教育省に働きかけて、連中を首都へ呼び戻すか」
「お言葉ですが、それでは事故の偽装がやりにくいかと。ノーザン・テリトリーで墜落させましょう。あそこならば、問題が生じにくいはずです」
「確かにそうだな。だが、どうやって連中をそこへ飛ばす?」
シラリア人民共和国の最北部に位置する広大なノーザン・テリトリーは、そのすべてが砂漠である。定住者は少なく、飛行機が墜落したとしても野次馬が集まってきたりすることはない。謀略を行うにはもってこいの土地である。
「ガーバナ遺跡の調査を許す、というのはどうでしょう。アフリカ史の研究者なら、飛びつくはずです」
ナナンドが、そう提案した。
ガーバナ遺跡とは、ノーザン・テリトリー北東部にある、一群の洞窟壁画を中心とする遺跡群のことである。アムパリ遺跡よりもありふれた存在なので価値は低いが、ほとんど外国人の眼に触れたことのない遺跡なので、餌としては最適だ。
「最寄の飛行場は……スワンナだな。飛行経路に、集落はない」
壁に張られたシラリア全図を見ながら、ララニは言った。ここで事故を偽装し、飛行機を落とす。もちろん、調査団全員が死亡し、ロボットも破壊されるだろう。待ち受けていた軍部隊が念のために機体の一部をロボットごと炎上させ、そのメモリー内容を完全に消し去る。そのあとで、写真撮影を含む墜落事故の証拠を集め、調査団の死体とロボットの残骸を回収、英米日三国に引き渡す。
「上手く行きそうだな。軽い薬でも盛れば、調査団の抵抗を封じるのは難しくないが……ロボットが厄介だな。下手に撃ったりすれば、残骸に謀略の証拠が残ってしまう」
「普通に飛行機ごと墜落させればいいのでは?」
「いや。ひょっとすると、ロボットの中に航空機の操縦ができるものがいるかもしれない」
「まさか」
ナナンド中佐が、驚く。
「連中は通常のロボットではない。スパイ用のロボットだ。特殊機能が隠されている可能性もある」
「なるほど、大佐のご懸念はもっともです。そのあたりはわたしが責任を持って対策を講じましょう。空軍と連絡を取っていただけますか?」
「まずはドランボ将軍に具申しよう。閣下の承認があれば、空軍の協力も得易いからな」
ララニ大佐は、自ら受話器を取り上げると、そらで覚えているジェームズ・ドランボ将軍の専用回線の番号を打ち込んだ。
アル・ハリージュでのテロは、軍の化学部隊による鑑定でサリンによるものだと断定された。単独実行犯は、自らもサリンを浴びてしまい死亡。犯行声明などは出されておらず、テロの背後関係はいまだわかっていない。
懸念されたアル・ハリージュ国内の混乱は、ほとんど生じなかった。亡くなったサッタール国王の弟で、現職内務大臣である実力派のハリム王子の即位表明を、他の王族や有力首長、軍の高官などが即座に支持したからだ。ハリム新国王は、外交政策を含めサッタール路線を忠実に継承することをすでにマスコミを通じて内外に言明しており、今後とも良好な対日関係は維持されるものと見られている。
問題は、死者の中に英国大使夫妻が含まれていたことにあった。これにより、イギリスの野党とマスコミと国民は犯人探しと報復を即座に行うように政府を激しく突き上げている。もちろん、いまだテロの背景はつかめていないので、イギリスは振り上げた拳の下ろし処が見つからない状態で、怒りだけを募らせているという、さながら空気の注入が止まらない風船のごとく、はなはだ危うい状況にあった。
「雲行きが怪しくなってきたな」
越川一尉が、言った。
「ひと雨来そうなのですか? この砂漠の真ん中で?」
シオは空を振り仰いだ。雲はひとかけらも見えない。今日も深みのある青い空が、延々と広がっているだけだ。
「状況が悪化しそうだ、といった意味だと思うけど」
スカディが、突っ込みを入れる。
「ボケただけなのです!」
シオはそう言ってとぼけた。
シオとスカディ、越川一尉の二体と一人は、朝食前の散歩を行っていた。
昨晩は、ブドワ農薬工場に対する偵察活動は行われなかった。そもそも予定がなかったこともあるが、昨日はやけにキャンプ地の警戒が厳しく、ナカマシ大尉率いるシラリア兵たちも油断無く見張っており、夜中にこっそりと抜け出すのが不可能に近かったのだ。
「ミスター・シップマンですわ」
スカディが言って、脚を止めた。
デニスが、二体と一人に追いつこうと、早足で歩んでくる。越川一尉とシオも、脚を止めて待ち受けた。
「ロンドンじゃ、えらいことになってるよ」
追いついたデニスが、開口一番そう言って顔をしかめる。
「大使夫妻殺害の報復を求める連中がダウニング街まで押しかけている。SISも、情報収集に不備があったとのことで首相からお叱りを受けたよ」
大学と連絡を取る、という名目で、先ほどデニスは石野二曹の衛星電話を借りてエディンバラと通話したのだ。秘話回線ではないから、通常の会話に聞こえるような形で隠語を交えてやり取りを行ったらしい。
「もし仮に今回のテロの背景にどこかの国家がいたならば、そこに対し宣戦布告すべきだ、なんて書いているタブロイド紙もあるそうだ」
「宣戦布告なんて、現行の国際法では戦争犯罪でしょう。イギリス政府が行うとは、思えませんわ」
スカディが、指摘する。
「タブロイド紙を読んでいる階層は気にしないよ。書いている連中の知的レベルも、たかが知れているからね」
デニスが言って、肩をすくめる。
「それで、サリンの出所は判明したのでしょうか?」
越川一尉が、訊く。
「確定はできていないが、状況証拠はシラリア産だね。アル・ハリージュに敵は多いが、シリアやイランが絡んでいるとは思えない。ここ最近で、あの辺りにサリンを流したのは、シラリアだけだろう」
「テロの犯人は誰なのでしょうか?」
スカディが、眉根を寄せる。
「一番の容疑者は、もっとも得をした人物なのです。したがって、犯人はサッタール国王亡き後に新国王に就任した、ハリム王子なのです!」
シオは右拳を突き上げて断言した。
「……少年マンガ誌レベルの推理ね。実際、SISはどう見ていますの?」
シオを無視し、スカディがデニスに訊く。
「容疑者だらけで訳がわからない状態だね。あの国も部族社会の延長線上にあるからね。国内の反王族首長一派。現行の世俗主義に反対するイスラム原理主義者。イスラム系テロリストグループのどれか。国境紛争を抱える隣国のドラハ。イラク絡みかも知れない。あるいは、産油国同士のいざこざか。ひょっとすると、案外シオの推理が当たっている可能性すらある」
「シラリアがどこにサリンを売ったかが判れば、犯人は絞り込めそうですね!」
シオはそう言った。
「そうだな。とにかく、今回のテロ事件でSISも政府から突き上げを喰らっている。感触だが、かなり無理をしてでもサリン製造の証拠を探せと言われそうだ。覚悟しておいたほうがいいかもしれないぞ」
デニスが、珍しく厳しい表情で言って、二体と一人を見つめた。
第十話をお届けします。




