第九話
「では、作戦内容を伝達する。目標は、ブドワ農薬工場。作戦目的は、近日中に行われる最深部への潜入に先立つ偵察行動である。具体的には、警備状況の確認。安全な侵入ルートおよび離脱ルートの確認。工場内部の詳細な地理など潜入に利用できる細部の調査となる。当地出発は現地時間2100前後を予定。なお、目標までの距離は直線で約十二キロメートル。君らの足でも三時間と少しあれば行けるはずだ。帰還到着は、0500以内。これは厳守だ」
すっかり軍人に戻った口調で、越川一尉が説明した。
テント群から充分離れた、礫砂漠の中である。シオはスカディの隣で、越川一尉の言葉に真剣に聞き入っていた。
「優先順位は、諸君らの安全、隠密行動、情報の収集となる。発見される危険を冒してまで、情報を集めようとするな。あくまで予備的な偵察行動であることを銘記しろ。もし発見された場合は、離脱する目的および自衛のためであれば自由な交戦を許可する。その場合、ここへは戻ってきてはいけない。独自に行動し、国外への脱出を目指せ。それが不可能であれば、砂漠内に潜伏しろ。以上、質問は?」
「ありませんわ」
スカディが言って、シオの方をちらりと見る。
「あたいも無いのであります! 任務、了解なのであります!」
「デニス、なにかありますか?」
越川一尉が振り返って、見守っていたデニスに訊いた。デニスが、ゆっくりと首を振る。
「特にはないな。幸運を祈ってるよ」
「ありがとうございます、ミスター・シップマン」
堅苦しく、スカディが応じた。
2030。
「そろそろ、時間だな」
腕時計に眼を落としたデニスが、小声で言った。一応、テントの内外に盗聴器がないことは確認済みだが、用心するに越したことはない。
「では、装備を貸与しよう」
デニスが、黒い布を二枚取り出して、シオに渡した。砂漠で、紫外線対策のために良く現地の人が纏ったり、頭に巻いている類の木綿の布である。
「これも持って行きたまえ」
デニスが、一回り小さな布も差し出す。
「スカディに渡してやるんだ。彼女の髪は、闇の中でも目立つからな」
「おおっ! 本格的ですね! あたいも欲しいのであります!」
「君の黒髪には必要ないだろうが……まあいいか」
結構長い付き合いになるので、すでにデニスはシオの個性……他人の持っているものを欲しがるという子供っぽいところ……を把握していた。荷物の中を探り、もう一本黒い布を引っ張り出し、シオに渡してくれる。
「ありがとうなのです!」
シオは嬉々として布を受け取った。
「それから、これだ」
デニスが、奇妙な代物を取り出した。
四十センチくらいの細い木の棒の先に、細く切った布切れが多数結び付けてある。見た目は、『はたき』にそっくりだ。
「お掃除でもするのでありますか?」
シオは首をかしげた。デニスが、笑う。
「いやいや。足跡除去道具だよ。農薬工場の中と周囲に、足跡を残すわけにはいかない。砂が多い所では、はっきりと足跡がつくからな。歩きながら、これで足跡を消すんだ」
「なるほど! それもお掃除の一種ですね! お掃除は得意なのです! 任せるのです!」
シオはすべての装備を小脇にしっかりと抱え込んだ。
「では、行って来るのです」
デニスにそう挨拶し、シオはテントのフラップをぺらりとめくった。人影がないことを確認してから、するりと外に出る。
すでに、キャンプ地は静まり返っていた。疲労を理由に、調査団員のほとんどが、早めに休むことを宣言したせいである。大河原教授とミトライ教授も賛成し、今日は早めに自分のテントに引っ込んでいる。聞こえる物音はただひとつ、厨房テントから漏れてくる夕食の後片付けに伴う水音や食器が触れ合う音だけである。
シオは足音を忍ばせてキャンプ地を出た。夜間警備の兵士に見つからないような迂回ルートを進み、スカディとの会合地点である礫砂漠の中にある岩まで、あたりに気を配りながら歩む。
「スカディちゃんはまだ来ていないようですね!」
ひと口だけ齧った茶饅頭のように、一部が大きく抉れている丸岩に辿り着いたシオは、あたりを見回しながら独り言を言った。
「甘いわね、シオ」
岩の後ろ側から、声が聞こえた。いついかなる時でも品の良さを感じさせる、スカディのものだ。
「おや、スカディちゃん。そんな処に隠れていたのですか!」
「別に隠れてはいなかったわ。あなたが警戒を怠っただけよ。これから侵入作戦を行うのだから、もっと慎重にやらねばならないわ」
諭すような口調で、スカディが言う。
「そうですね! 慎重になるのです!」
シオはそう宣言した。
「では、装備をお渡しするのです!」
シオは、デニスから託された大小の布二枚をスカディに手渡した。二体で手を貸しあいながら、それを身体に纏う。
「おおっ。すっかり砂漠の民らしい装いになりましたね!」
シオは嬉しがって言った。背丈はずいぶんと足りないが、黒尽くめのスタイルは、映画やドキュメンタリーで見たことのある北アフリカあたりの遊牧民女性と似ていなくもない。
「……その被り物、どうにかならないのかしら?」
シオの姿を眺めながら、スカディが苦言を呈する。
スカディは、その金色の髪を隠すために、黒い布をターバンのように頭部に巻きつけ、垂れている縦ロールの部分もその中にたくし込んでいた。一方のシオは、頭に布を被り、鼻の下あたりできっちりと結んでいる。……時代劇やコントなどでよく見る、いわゆる『泥棒被り』である。
「これぞ日本の伝統的侵入ファッションなのです!」
シオは自信たっぷりに言い放ちつつ、右拳を突き上げた。
はあ、とスカディがため息をつく。
「……あなたらしいと言えばあなたらしいわね。仕方ないから、それでいいわ」
シオとスカディは、礫砂漠の中をとぼとぼと歩んだ。地面は、風に砂が吹き払われて固く締まった表土が露になっている場所と、鶉の卵から小豆粒のあいだほどの大小の礫が敷き詰められている場所がほとんどであり、歩くのに支障はなかった。たまに現れる窪地に細かい砂が堆積した『砂のプール』は、大きく迂回してやり過ごす。
ろくに陸標もない砂漠であったが、AI‐10にはGPS機能が標準搭載されているので、道に迷うことは無い。二時間ほどで、前方の地表に光点が見え始めた。……ブドワ農薬工場だ。二体はその光点を目指し、脚を運んだ。
「いったん停止」
工場まで五百メートルほどの距離で、スカディが停止を命じた。視覚を光学ズームにして、通常の可視光、光量増幅モード、パッシブ赤外線モードと順次切り替えて、工場本体と周辺を探ってゆく。
「特に異常な動きはないわね」
ざっと探り終わったスカディが、言った。敷地外の駐車場に大型トラックが二台止まっているが、エンジンは冷えているし人の姿も無い。工場自体もすでに操業を終えてかなりの時間が経過したのだろう、内部に顕著な赤外放射は認められない。
「もう少し接近するのです!」
「そうね」
スカディが、シオの提案に同意する。
二体は工場敷地を囲むフェンスから、五十メートルほどの位置まで近付いた。地面に伏せた状態で、様子を窺う。
「歩哨は居るようね」
ふたつ一組の赤外線源が秒速一メートルほどで動いていることを確認したスカディが、言う。
「予想よりもボロいフェンスなのです!」
シオはそう言った。よくある菱形金網のネットフェンスで、高さは約三メートル。しかしメンテナンス不足なのか、あちらこちらに弛みや綻び、あるいは開口部が生じている。
「探せば入り込める穴くらいありそうね」
スカディが言って、立ち上がった。足跡を消しながら、シオも続く。
フェンスの柱には、外向きに蛍光灯が取り付けてあった。だがその数は少なく、圧倒的な漆黒といえる砂漠の夜に抗うにはあまりにも非力であった。シオとスカディは、明るい所を避けながらフェンス沿いに歩んだ。
『ここなら、行けそうであります!』
赤外線通信を使って、シオはそうスカディに伝えた。
ネットフェンスが斜めに長く切れている箇所だった。開口部自体は大きくないが、無理やり押し広げれば、AI‐10ならば通り抜けられそうだ。
『良さそうね。ここから入りましょう』
歩哨の姿がないことを確認したスカディが、金網を押し広げにかかる。
ものの数秒で、二体はブドワ農薬工場の敷地に入り込んだ。シオは、金網を丁寧に元に戻した。
『ここからは、さらに慎重にいきましょう』
スカディが、言う。
『合点承知なのです!』
シオは遠慮がちに右拳を突き上げた。
二体のメモリーには、SISから貰った工場内見取り図がすでに入っている。CIA提供の衛星画像をベースに、現地協力者の証言を加えて作成した、極めて精度の高いものだ。その中には、当工場唯一のハイテク警備機器と言える監視カメラの位置も、描き込まれていた。シオとスカディは、監視カメラに映る可能性の高い場所と、工場内部の照明によって明るい箇所を避けるようなルートを選び、当面の目標である内郭を目指した。やむを得ず明るい場所を通らねばならない時は、数分割いて国家憲兵隊の警備兵がいないことを確認してから、静かに走り抜ける。
敷地内の建物は、そのほとんどがリブ付き鋼板の外壁を持つ鉄骨構造という、安っぽいが丈夫な造りであった。窓は付いておらず、たいてい外壁上部に大きな集塵装置の排気用機器が突き出ている。興味に駆られたシオは、試しに一棟の通用口らしい扉のノブをいじってみた。
がちゃ。
何の抵抗もなく、扉が開いてしまう。
『無施錠なのです! 無用心なのです!』
『無用心なのはあなたでしょう! ドアにセンサーとか付いていたらどうするのよ!』
スカディが、詰め寄ってくる。
『ハイテクなセンサーなどは無いはずなのです!』
シオは言い訳しつつ、中を覗いてみた。
いかにも工場、といった感じの内部であった。構造材である鉄骨はむき出し。高い天井には、大小のパイプやエアダクト、配線ダクトなどがやや雑然と走っている。打ちっ放しコンクリートの床の上には、銀色の蒸留槽や遠心分離機、濾過分離機、容量数百リットルはありそうな円筒形のステンレスタンク、半ば床に埋め込みになった巨大な加圧反応釜などが、勢揃いしていた。
『おおっ! 化学関係の工場っぽいのです!』
『いいから先を急ぐわよ』
スカディが、シオの襟首を掴んで引き戻す。
ほどなく、二体は内郭を囲んでいるフェンスの際まで辿り着いた。
『今までとは別格ね』
スカディが、言う。
このフェンスも菱形金網のフェンスだったが、綻びは一箇所もなかった。取り付けられている照明の数は多すぎるほどで、すべての箇所が眩しいほどに明るく照らし出されている。
国家憲兵隊の兵士の数も多かった。シオとスカディが、建物の陰に潜んで内郭の様子を観察していたわずか四分ほどのあいだに、三組六名の兵士が、フェンス際を通過した。もちろん、全員がサブマシンガンで武装している。
『こんなに警備が厳しいということは、中でサリンを作っているに違いないのです!』
シオはそう意見を述べた。
『間違いないわね。ただの農薬工場にこの警備はありえないわ』
スカディが、同意した。
『あたいたちだけでこっそり侵入するのは、無理なのです!』
続いてシオはそう進言した。今日の任務は強行偵察ではない。
『そうね。ここでもう少し情報を集めてから、撤収しましょう』
スカディが、賛意を示しつつ命ずる。
二体はその場で内郭の観察を続け、特に国家憲兵隊の歩哨の動きを綿密に記録した。0130になったところで、撤収を開始する。帰路は、行きと同じルートを辿った。シオは、慎重に足跡を消していった。コンクリートの上でも、周囲から風で運ばれてきた細かい粒子の砂が薄く積もっている処が多く、油断しているとくっきりと足跡が残ってしまうのだ。
侵入したフェンスの裂け目から抜け出し、金網を丁寧に戻す。シオは時刻をチェックした。0147。これなら、余裕を持って帰還できる。
二体は慌てずにキャンプ地を目指した。何のトラブルもなく砂漠を突っ切り、夜間警備の兵士の眼を盗みつつ、無事にテント群の中に入り込む。
「あら」
もう少しで完璧な成功を収めるはずだったシオとスカディの偵察行だったが、最後の最後で綻びが生じた。テントから出てきた人物と、ばったり出くわしてしまったのだ。夜目にもダークな肌と、ほっそりとした肢体。ヘイゼルだ。
「これはこれはヘイゼル! お早うございます!」
シオはそう挨拶した。あたりはまだ真っ暗だが、下手に逃げ隠れしたら却って不審がられてしまうだろう。ここはとぼけた方が良策と言える。
「お早いお寝覚めですね、ミズ・パークス」
シオと同じ結論に達したのだろう、スカディもにこやかに挨拶する。
「昨夜、教授に付き合って早く休んでしまったから、早く眼が覚めちゃったの。あなた方はどうしたの?」
ヘイゼルが、当然生じたであろう疑問をぶつけてくる。
「ちょっとお散歩です!」
シオはそう言ってごまかした。
ぱちり。
いきなり、ヘイゼルが手にしていたハンドライトを点灯した。黄色い円が、シオの姿を捉える。
「あらあら。ずいぶんと遠くまでお散歩したのね。埃だらけじゃない」
ヘイゼルが言って、くすくすと笑った。
すでにシオもスカディも、黒装束は脱いでいたが、砂漠の中を長時間歩いた形跡は歴然としていた。細かい埃は大量にボディに付着しており、特に脚部は相当汚れている。
しゃがみ込んだヘイゼルが、取り出したハンカチでシオとスカディの顔を拭い、埃を取り去ってくれる。
「ロボットとは言え女の子なんだから、ね?」
諭しと揶揄が半々に混じったような口調で、ヘイゼルが言う。光量増幅機能を使っているシオには、彼女が浮かべている暖かみのある笑みが、はっきりと見えていた。
「ふたりとも、良くやった。持ち帰った情報は、あとでゆっくり検討させてもらう」
越川一尉が、シオとスカディを労う。
朝食前の散歩と称して、越川一尉とスカディ、デニスとシオのペアは、キャンプ地から少し離れた処をゆっくりと歩んでいた。ちなみに、シオもスカディも偵察行の汚れはきれいに落としてある。
「最後にミズ・パークスに見つかってしまったのは、残念でしたわ」
悔しそうに、スカディが言う。
「ま、問題ないだろう。ミスではあるが、些細なものだ」
とりなすように、デニスが言う。
「一応、フォローとして石野二曹に、AI‐10は奇行癖がある、という話をヘイゼルにそれとなく伝えるように命じておいた。散々、君らのどじっ子ぶりを眼にしているからな。彼女もそれで納得すると思う」
越川一尉が、言う。
「いずれにしても、わたくしの見る限りでは、ブドワ農薬工場の内郭に侵入するのは、困難だと思われます。差し出がましいようですが、かなりの工夫を凝らさないと、本作戦を成功させるのは難しいのではないでしょうか」
脚を止めたスカディが、越川一尉とデニスを見上げて言う。
「同感なのです! ベルちゃんに爆薬でも仕掛けてもらわないと、無理なのです!」
シオもそう言った。
「ま、簡単な任務じゃないことは、最初からわかっていたがね」
デニスがそう言って、肩をすくめる。
「少佐。ララニ大佐よりお電話です」
副官が、素っ気ない調子で受話器をサイラス・ウッカ少佐に差し出した。
ウッカ少佐は、渋面でそれを受け取った。ララニ大佐から、工場の警備強化について指示されたのは、つい昨日のことだ。今度は、なんだ?
「ブドワ農薬工場警備隊長、ウッカです」
内心の苛立ちを隠し、ウッカ少佐は務めて事務的な口調で喋った。
「ララニだ。昨夜は異常がなかったかね?」
少しばかり急いていると思われる調子で、ララニ大佐が尋ねてくる。
「異常はありませんでした」
ちょっと当惑しながら、ウッカ少佐は応じた。……こんなことを聞くために、わざわざ多忙なララニ大佐が電話してくるとは思えない。
「実は、あるルートから情報が入った。昨晩、そちらに何者かが侵入を試みた可能性がある。詳細に調査を行ってくれないか」
「なんですって?」
「あくまで可能性だが、侵入が試みられたおそれがあるのだ。周辺で偵察活動を行っただけかもしれない。とにかく、詳細に調査してくれ。いいね」
「信頼のおける情報源なのですか?」
困惑したウッカ少佐は、そう尋ねた。
「情報源に信頼はおける。ただし、実際に侵入が行われたかどうかははっきりしない。とにかく、調べてくれ。いいね」
「承知しました、閣下」
ウッカ少佐はそう答えた。通話が切れたのを確認してから、受話器を副官に返す。
……侵入者。まさか。
昨晩は、ララニ大佐の指示に従い、内郭の警備は普段の倍の人数を投入した。異常の報告は皆無。したがって、内郭に侵入者があったとは考えられない。だが、敷地内の警備は普段どおりだったし、敷地外は広すぎて時折ランドローヴァーで見回りする程度である。近くで偵察しただけであれば、確実に見過ごしているだろう。
ウッカ少佐は、副官を手招いた。
「ティム。各小隊長を集合させてくれ。一仕事せねばならなくなった」
第九話をお届けします。




