第一話
西アフリカ シラリア人民共和国 アッパー・イースト州
五万ドルは大金である。特に、国民一人当たりの年平均所得が七百ドルに満たない最貧国の庶民にとっては。
ビリー・ロネアは重い足取りでバスを降りた。西から吹いてくる乾き切った風に派手な色合いの開襟シャツの裾をなびかせながら、同僚たちとともに歩む。安っぽいサンダルの底に踏みしめられているコンクリートは、丸一日強い日差しを浴びせられたせいで、そろそろ日暮れが近いにも関わらず強い熱を放散しており、熱気が素足にまとわり付く様はさながら湯が流れる浅い川を遡っているかのようだ。
ビリーら十数名を乗せてきたおんぼろのレイランド・バスは、ゆっくりと方向転換すると、何台も並んで駐車している仲間のところへ走っていった。『工場』の操業は、午後六時……あと三十分足らずで終わる。そのあとで出てくる大勢の工場労働者を運ぶのが、本来の仕事なのだ。ここは礫砂漠の只中である。付近にバス路線などないし、もちろん鉄道も走っていない。送迎バスは必須である。
ビリーたちの仕事は、夜間の清掃作業であった。工場本体ではなく、それに付属している事務所、管理施設、食堂、休憩所、トイレ、その他の施設を掃除するのだ。翌朝までの長い勤務であり、報酬もそれほど良くはないが、仕事自体は難しくないし、休憩時間も長く食事も支給されるので、割りのいい職と言える。
ビリーがこの仕事を得たのは、約一年前のことであった。最初に与えられた仕事を、ビリーは真面目かつ丁寧にこなした。その甲斐あって、二週間前に彼は配置転換を受けた。通常の労働者が立ち入ることができない、事務所内の清掃を命じられたのだ。給与もほんの少しだけアップした。
ビリーは喜んだ。これで、近いうちに目的が達成できそうだと考えたのだ。一年前に彼に五万ドルの報酬をちらつかせ、この仕事に応募するように指示した、『男』の依頼を。
工場の警備は、内務省の一部局である国家憲兵隊が担当している。彼らは全員が志願者であり、徴集兵が大多数の人民軍より質は高い。
工場敷地に入る従業員用ゲートで、ビリーは最初の入構検査を受けた。国家憲兵隊の制服である半袖モスグリーンの戦闘服に身を包み、肩にスターリングMk4サブマシンガンを掛けた憲兵が、漆黒の腕を伸ばして無遠慮にビリーの身体をまさぐる。別の兵士が、ビリーが差し出した顔写真付きIDカードを調べる。ここでの検査はそれほど厳しいものではないが、それでも煙草一箱すら無申告で持ち込むことができないレベルである。
無事ゲートを通過したビリーは、コンクリート面に塗られている幅一メートルの水色のラインの中を歩み、仕事場を目指した。作業セクションの担当者以外がこの線から外に足を踏み入れることは、禁止されている。半歩はみ出しただけで、監視の憲兵から怒声が飛んでくるし、十数歩離れようものならその場で射殺されても文句は言えない、と聞かされている。
……ありふれた農薬工場のはずなのに。
ビリーの現在の仕事場である事務所は、『内郭』と呼ばれている場所にある。工場敷地内に、さらに高いフェンスを設けて囲われている重要区域の一郭だ。一般の労働者は立ち入り禁止となっている、機密性の高い業務が行われている処である。
ビリーは内郭出入りゲートを警備する憲兵に身体検査を受けた。ゲート脇の建物の中で、財布を始めとする持ち物をすべてプラスチックの籠に入れる。憲兵が、ビリーの身体を探った。ここでの検査は、徹底している。ポケットの中にコイン一枚入っていただけでも、没収されてしまうほどだ。靴も脱がされ、検められる。ようやく解放されたビリーは、たどたどしい手つきで出勤管理簿にサインした。やろうと思えば論文のひとつも書ける知性と教養の持ち主ではあったが、ここでは辛うじて自分の名前だけは書ける程度の文盲、と偽っているのだ。サインを終えたビリーは、すぐ側にある清掃用具置き場兼控え室に向かった。そこで紅茶……ありがたいことに飲み放題である……を飲みながら、数名の同僚とおしゃべりしながら仕事開始までの時間を潰すのが日課である。
会話内容はたわいのないものであった。サッカー、女、天候、家族といった程度で、たいがいが極めて下品かつ乏しい語彙で語られる。全員、教養の無い文盲なのだ。実は外国で大学レベルの教育を受けているビリーは、内心で顔をしかめつつ品の無い会話に付き合った。文盲を清掃員に雇うのは、社内文書などを盗み読みされないための予防措置として、発展途上国では常套手段である。
就業時間が来ると、ビリーは作業に掛かった。まず行うのは、ゴミの回収である。大きな籠カートを押し、事務所内のゴミ箱を空にして歩くのだ。まだ時間が早いので、事務所内には多くの事務員や管理職が残っていた。彼らは、ゴミを集めるビリーにまったく注意を払わなかった。社会主義路線ではないが、人民共和国を標榜するシラリアにおいては、建前上はすべての労働者は平等である。しかしながら、国民生活の現場においては、所得や仕事内容の差異による差別意識は濃厚に存在した。『内郭』で働き、ビリーらの数倍の賃金を得ている彼らにとって、清掃員など空気に等しい存在なのである。もっともこれは、先進国を含む他の国々でも普通に見られることであるが。
夜食のライス添えチキンシチューを平らげたビリーは、ようやく本来の仕事にかかった。
まずは廊下に面した窓からこっそりと外に出て、割れたコンクリートの下に隠してあったデジタルカメラを回収する。日本製で、ビリーの大きな手の中にすっぽりと隠れてしまうほど小さく、厚みも一センチ半くらいしかない。それでも画素数は一千万画素以上あり、文書を接写することも可能だ。
これを手に入れたのは、一週間ほど前のことである。例の『男』から指示された場所……内郭の中にある食堂の厨房のゴミ箱の中……から回収したのだ。おそらく、『男』は厨房関係者の誰かも買収しているのだろう。
保護用に巻いてあったビニールを剥がすと、ビリーはカメラをポケットに突っ込んだ。次に必要なのは鍵である。
まだ新入りであるビリーは、鍵を持たされていない。内郭で勤務する職員ですら通常は立ち入り禁止である施錠されている部屋の掃除は、何年も勤め上げて信頼されているベテランの仕事なのだ。
鍵自体は、通常は憲兵が詰めている警備室で保管されている。入室権限のある職員でさえ、そこからいちいち借り出さなければならない仕組みなのだ。清掃員も同様に、仕事前に借り出して、終わる前に返却しなければならない。
一見、厳重な管理が為されているように思える鍵であったが、実はかなり杜撰であった。一度借り出された鍵の安全管理は、借りた者に全面的に任されていたのだ。借りた本人がいい加減な人物であれば、当然鍵の安全も危うくなる。
ビリーは清掃用具置き場兼控え室に向かった。もう十年以上この仕事を続けているロバートという初老の男は、夜食のあとに一眠りする習慣なのだ。そして、彼は規則では常に首からチェーンで下げていなければならない鍵束を、休憩の時には無造作にテーブルの上に置いておく。
今日もそうであった。ビリーは、テーブルの上から静かに鍵束を取ると、必要な二本を取ってからもとに戻した。この二本の鍵さえあれば、『男』が必要とする情報を撮影することができる。
……五万ドルと引き換えられる情報が。
常夜灯の明かりを頼りに、鍵穴に鍵を差し込む。
確実に開くということが判っていても、実際に鍵が滑らかに回ってボルトが引っ込むがちゃりという音が聞こえると、ビリーは安堵の息を漏らした。
内開きのドア……もとイギリス領なので、建築様式は英国式である……を押し開け、事務室に入り込んだビリーは、壁のシーソースイッチを探り当て、照明を点けた。窓の無い部屋なので、外部に明かりが漏れることは無い。清掃もすでに済んでいるので、同僚が入ってくることもない。唯一の懸念は、不定期に見回りを行う憲兵の存在だが、これも事前に気配を察知すれば凌げるはずだ。
ビリーはさっそく仕事に掛かった。無施錠の書類ロッカーや引き出しを開け、重要と思われる書類を選り出す。
どのような書類を捜せばいいかは、事前に『男』から充分にレクチャーを受けていた。赤い『SECRET』のスタンプが押された技術資料が、まず第一候補である。次に、化学関連用語がちりばめられた論文や報告書。
ビリーはそれらしい書類を引っ張り出すと、デジカメで片端から撮影を開始した。時間は限られている。内容を精査して撮影するかどうか決定するよりも、撮りまくった方が早い。
百五十枚ほど撮ったビリーは、書類をもとに戻すと、照明を落とし、きちんと施錠した。隣の事務室も開錠し、同様に書類を漁る。こちらで撮影したのは、八十枚ほどであった。
廊下に戻ったビリーは、ドアをしっかりと施錠した。ここまでは大成功である。あとは隙を見て鍵を戻し、カメラを指定された厨房のゴミ箱に突っ込んでおくだけだ。『男』の手にそれが渡れば、五万ドルの報酬が支払われるだろう。
……おや。
ふと廊下の突き当たりに眼をやったビリーは、驚きに目を見張った。昼間でも常に施錠されているはずのそこのドアが、わずかではあるが開いていたのだ。
ビリーは硬直した。とっさに、憲兵が見回りの途中なので開いている、と考えたのだ。だが、それらしい気配や物音はない。
安堵したビリーは、噴出しかけた額の汗を指で拭った。どうやら、職員が閉め忘れて、そのまま帰宅してしまったようだ。
……これは、神がくれた好機なのか。
清掃員はもちろん、一般職員でさえ入れない扉の奥。重要な書類のひとつやふたつ、置かれていても何ら不思議は無い。『男』が、ボーナスを弾む気になるような、機密性の高い書類が。
先ほど机上の時計で確認した限りでは、予定よりも早く仕事は済んでいた。まだ充分に、時間はある。ビリーは、常夜灯の明かりの中で開いている扉の錠を調べた。外からは鍵が無くては開かないが、内側からなら簡単に開錠できる方式だ。ビリーは安心して部屋の中に滑り込んだ。これならば、万が一憲兵が来て扉を施錠されてしまっても、閉じ込められるおそれはない。廊下に人の気配がないことを確認してから、照明スイッチを入れる。
そこは、何の変哲も無いロッカールームであった。壁の両側にならぶロッカー。真ん中にあるテーブルと、背もたれの無い長椅子。壁にある大きな鏡と、カレンダー。隅にある陶器の洗面台。金属製のゴミ箱。テーブルの上には、乱雑に折り畳まれた新聞と、空っぽの水のペットボトルが載っている。
がっかりしかけたビリーだったが、さらに隣室に繋がるドアがあることに気付き、そちらへと近寄った。鍵穴がないから、鍵が無くても開きそうである。こちらの部屋の明かりを消してから、ビリーは扉を開けた。
生臭い臭いが、ビリーの鼻を満たした。
……獣臭か。
なんだか、家畜市場のような臭いが、部屋にこもっている。毛皮と、糞と、汗が入り混じったような、不快な臭いだ。
扉を閉めたビリーは、壁を手探りした。シーソースイッチを見つけ、ぱちりと入れる。
……これは。
壁際に、いくつもの檻が並んでいた。大きさは、一メートル立方くらいか。それが、二段に積み重ねられている。ほとんどの檻が空っぽだったが、ひとつだけ中に住人がいた。
体長半メートルほどの、小柄なサル。褐色の体毛で、尾が長い。黒い眼で、ビリーをじっと見上げている。アカゲザルか、カニクイザルだろう。化学兵器の毒性試験にでも使われているのだろうか。
ビリーはサルから視線を引き剥がすと、室内を見渡した。どうやら実験室のようだ。大きなステンレスの流しと、作業台。壁際の机。試薬の瓶などが詰まった薬品戸棚などがある。隅には、書類ロッカーがあった。歩み寄ったビリーは、それを引き開けた。紙フォルダーをひとつ引っ張り出し、中身を見てみる。
手書きの実験メモのようだ。化学式やフローチャートが書き込まれている。だが……。
ビリーは当惑した。書き込まれている文字が読めないのだ。文盲というのはむろん偽りで、ビリーはシラリアの公用語である英語はもちろん、西アフリカの主要言語でもあるフランス語にも堪能である。だが、ここに書き込まれている文字はまるで読めなかった。
なにしろ、すべてチャイニーズ・キャラクター(漢字)だったのだ。むろん、ビリーはこれらの文字が中国由来のもので、東アジア各国で使われているという知識は持っていた。
ベトナムや朝鮮ではすでにほとんど使われていないし、日本では独自のアルファベットと併用して使われているはず。とすると、これは中国語に違いない。
ビリーはそう結論付けた。なぜここに中国語の手書き文書があるのかは、理解できなかったが。
ここに中国人がいるとは聞いていないし、取り寄せた資料なら手書きではなく印刷物でなければおかしい。『男』はたぶんこの書類に興味を示すだろう。
とりあえず写真に収めようとカメラを取り出したビリーは、机上に書類を広げると撮影を開始した。だが、数枚撮ったところで廊下の方から足音が聞こえてくることに気付く。ビリーは書類をまとめてロッカーに突っ込むと、照明を消し、薬品戸棚の陰に隠れた。清掃員として憲兵たちの動きを観察した限りでは、彼らは巡回の際各部屋を隅々まで調べるようなことはしない。静かに隠れていれば、安全にやり過ごせるはずだ。
サミュエル・アダは典型的なシラリア人憲兵と言えた。出身階層は中の下。貧しくはあったが、飢えた経験はない。高い教育を受ける金もコネも無かったが、知能は人並みにあったので、国家憲兵隊訓練生に応募し、教育課程を経て憲兵となった。がっしりとした体躯で、体力には自信がある。
相棒のブライアンも、同じような境遇に生まれ育っていた。それゆえか性格も見た目もよく似ており、二人は馬が合った。違いは、ブライアンが左利きだということと、サッカーにまるで興味がないことくらいであろうか。
「また閉め忘れてやがる」
そのブライアンが、鼻を鳴らしつつ研究区域に繋がる扉にハンドライトの光束を当てる。
「しょうのない連中だ」
苦笑いしながら、サミュエルはドアを開いた。ハンドライトを振り動かし、ロッカールームに異常がないことを確認する。
ブライアンが、実験室への扉を開けた。ふたりは、獣臭い室内へと足を踏み入れた。動物好きのブライアンが、檻に入ったカニクイザルにライトを当てておちょくり始める。サミュエルは、ハンドライトを左右に振り動かして室内を調べた。……異常はなさそうだ。
ハンドライトの光束が描き出す黄色い円が、ビリーが隠れている薬品戸棚に当たって二つのいびつな半円に変わる。
ビリーは息を詰めた。見つからないはず、と頭では理解していても、やはり身がすくむ。見つかれば、言い逃れはできないのだ。
「異常ないな」
憲兵の声が、聞こえた。ビリーは静かに安堵の息を吐いた。一度見回りが終われば、数時間は同じところを回ることは無い。このあとは、安心して書類を漁ることができる。
サミュエルは、隣室へ通じる扉を開けた。ブライアンが、それに続く。
いきなり、カニクイザルが金切り声をあげた。去ろうとする二人の背中に向かい、きーきーと喚き声をぶつけてくる。
「どうした、エテ公」
振り返ったブライアンが、ハンドライトの光をカニクイザルに向けた。眩しそうに目を背けながら、サルが檻から腕を伸ばして振る。
「なんだ、どうかしたか?」
ブライアンが、檻の前にしゃがんだ。サルの腕が届かない位置から、優しげな口調で語りかける。
「なにやってんだ、お前」
「こいつ、なにか言いたそうなんだ」
サミュエルの問いに、ブライアンが真顔で答える。
「夜食でも要求してるんじゃないのか?」
サミュエルは、投げ遣りに言った。そろそろ午前三時である。巡回を早めに終わらせ、詰め所に戻って、ビスケットに紅茶といきたいところだ。
「なんだ? なにかあったのか?」
きーきーとなおも啼き続けるカニクイザルに、ブライアンが問いかける。
サミュエルは呆れて首を振った。
不意に、ブライアンが立ち上がった。肩のスターリングMk4サブマシンガンを手にして、コッキングハンドルを引きながら、檻に背を向ける。
サミュエルも慌てて肩からサブマシンガンを外すと、構えた。気心知れた仲である。薄暗い中でも、ブライアンが本気モードであることは感じ取れた。
ブライアンの銃口は、部屋の奥……薬品戸棚や机、書類ロッカーがある方に向けられている。サミュエルは、ブライアンの意図を感じ取り、壁の照明スイッチににじり寄った。手を伸ばし、明かりを点けようとする。
いきなり、薬品戸棚の陰から黒い塊が飛び出した。ブライアンが、発砲する。
黒い塊とブライアンが激突した。ふたつの身体がもつれ合いながら、積み重ねられていた檻に衝突する。カニクイザルが、悲鳴にも似た声で喚いた。
サミュエルは銃口を賊に向けたが、ブライアンに当ててしまう危険性を考慮し、発砲は控えた。
「降伏しろ!」
言葉で威嚇しながら、壁のスイッチを手探りし、照明を点ける。
「お前は……」
賊は見たことのある顔であった。最近内郭の清掃に廻されてきた青年だ。
青年が、サミュエルを睨みつけた。いや、睨んだというのは不適切な表現かもしれない。鋭く、また威嚇するような視線ではあったが、そこには憎しみのような感情が一切感じられなかったからだ。むしろ、哀しげな眼つきと言えた。
ブライアンは、頭でも打ったのかうめき声を上げながら、床に伸びている。それでもサブマシンガンを手放していないのは、訓練の賜物だろうか。
青年が身を起こし、開きっぱなしのドアに向かってダッシュした。
国家憲兵隊の拷問は有名である。
どんなに屈強な犯罪者や筋金入りの反政府分子でも、国家憲兵隊の尋問のプロに掛かれば、三日と持たずにさながら暇を持て余した洗濯女のようにあることないことべらべらと喋りまくると言われている。
ビリーがここにいたことは、それだけで重罪である。シラリアの刑法に照らし合わせれば、さほどの罪ではない。だが、この手の『反政府行為』は裁判に掛けられることはない。黒塗りのバンに押し込まれ、連れ去られるだけだ。内務省ビルの地下に送り込まれれば、拷問によりすべての情報を絞り出された上で、後頭部に一発撃ち込まれて始末される。
半ば射殺されることを覚悟で、ビリーは扉に向け突進した。捕まるくらいなら、この場で死んだ方がはるかに楽だ。運良く工場敷地外へ逃げ出せたとしても、待っているのは死かもしれないが、拷問よりは安らかに死ねるだろう。
「止まれ!」
叫びつつ、サミュエルはサブマシンガンの銃口を青年に向けた。
青年は止まらない。勢いよくロッカールームを駆け抜け、扉を開き、廊下に飛び出す。
それを追って廊下に出たサミュエルは、青年の脚を狙って一連射を放った。一発か二発が命中したのだろう、青年が前のめりに廊下に叩きつけられる。
「仕留めたか?」
後頭部をさすりながら、ブライアンがのっそりと顔を出す。
「ああ」
銃口を青年に向けたまま、サミュエルは走り寄った。青年は立ち上がろうと、殺虫剤を掛けられて瀕死の昆虫を思わせる動きで、無様にもがいている。脚が動くたびに、床に血で掠れた線が描かれてゆく。
「死なせねえよ」
青年の背中に銃口を突きつけたまま、サミュエルは手早く身体を探って武器を探した。見つけたカメラを、ポケットに押し込む。
「困りますな工場長。清掃員はまともな者を雇ってくれなくては」
壮年の男性が、机上のデジタルカメラを黒い指で突く。
アンソニー・ララニ大佐。筋肉質にして身長二メートルという堂々たる体躯を、シラリア陸軍のカーキ色の軍服に押し込めた、眼つきの鋭い男である。
「内務省の身上調査を信用しただけですがね」
地味な灰色の軽いスーツ姿の初老の男性が、むっとした表情で言い返す。
レナルド・ホッキ工場長。表向き、この『農薬工場』の最高責任者である。
「わたしは関係ありませんよ。むしろ、部下を褒めていただきたいくらいですな」
ララニ大佐よりも若干若く、そして若干背が低い……といっても百九十センチ以上の長身だが……サイラス・ウッカ少佐が、笑みを湛えたまま両掌を見せて拒絶のしぐさをする。着ているのは、国家憲兵隊のモスグリーンの制服だ。
ビリー・ロネアが捕らえられてから、七時間ほど経過している。工場内の医務室で憲兵たちによって止血処置を施された青年は、憲兵隊のランドローヴァーに乗せられて最寄の都市である……といっても、四十キロは離れているが……ダベルクの病院に搬送された。医師の許可が下り次第、彼は内務省ビルの地下に連行され、厳しい取調べが行われるだろう。
狭い事務室に集った三者は微妙な関係にあった。ララニ大佐は、大統領から直接命令されて、極秘プロジェクトである化学兵器生産計画の責任者となっている人物だ。ホッキ工場長は、産業省の役人であり、工場自体の最高責任者を務めている。そして警備隊長であるウッカ少佐は、国家憲兵隊……内務省の所属である。対外的な偽装のため……単なる農薬工場を陸軍が管理したり、警備したりすれば諸外国に怪しまれるのは必須である……と、大統領に媚を売るための縄張り争いの結果、この工場は国防省と産業省、それに内務省の三者が協力して運営する形となっている。もちろん三人とも、今はプロジェクトの成功に向けて手を取り合って尽力しているが、同時にライバル関係でもあるのだ。大統領に成功の立役者だと認めてもらうには、最終的には他の二人の功績を横取りすることも考慮せねばならない。
「尋問の結果は、すぐに渡していただきたい」
ホッキ工場長が、ウッカ少佐に要求した。
「もちろんです。ロネアがこれを持ち込めたとは思えません。他に、スパイが入り込んでいる可能性は高いですからな」
ウッカ少佐が、デジカメを見やった。
「わたしは顛末をドランボ将軍に報告します。気は進みませんがね」
ララニ大佐が、その大きな背中を若干丸めるようにして、ため息混じりに言った。国防大臣ドランボ将軍。エサマ大統領の親友にして側近中の側近。事実上、シラリア人民共和国では大統領に次ぐナンバー2の権力者である。切れ者だが、癇癪持ちとしても知られる。お気に入りの部下であるララニ大佐でも、今回の事案を報告すれば、叱責は免れないだろう。
Mission03 第一話をお届けします。




