第十六話
投稿遅れて申し訳ありません。
潜水艦の最大の『武器』は魚雷でもミサイルでもない。『海に潜れる能力』こそが、最大の強みであり、武器である。浮上した潜水艦ほど、無力な存在はない。
というわけで、ロシア海軍潜水艦〈クルガン〉は慎重に手順を踏みつつ浮上を行った。まずは深度五十メートルを保ったまま、パッシブソナーで周辺の海中、海上、そして空中に人工的な音源がないかをチェックする。
水中、海上、空中いずれにも目標がないことを確認した〈クルガン〉は、潜望鏡深度までゆっくりと浮上した。セイルからするするとレーダー兼ESM(電波探知用)マストを伸ばし、空中にレーダー波などが飛び交っていないことを確認する。
そこで初めて、〈クルガン〉艦長であるスチェパン・スルガノフ大佐は、昼間用潜望鏡を上げた。古い艦なので、昔ながらの貫通式潜望鏡である。
角度を付けて素早く全周の空を観察し、水平に戻して海上を観察する。機影、艦影ともになし。天候は晴れ。雲量は一程度。視程は良好だ。
「よろしい。司令塔を露頂させろ」
スルガノフ大佐は、潜望鏡での監視を部下に委ねると、潜航係に命じた。上級准尉がわずかに排水を行い、〈クルガン〉が静かに上昇し、セイルの上部が海面を割る。
「通信。衛星通信を開始せよ」
艦の安定を確認したスルガノフ大佐は、艦内電話を通じて通信室に命じた。
すぐに、セイル中央部のL字形のカバーがかぱんと開き、中からドーム状のカバーに覆われた大きな『セレナ』衛星通信アンテナがせり上がってきた。
モルニヤ衛星軌道上のメリディアン衛星経由で届いたデータ通信は、ごく短時間で終了した。通信室から受信完了、アンテナ収容完了の報告を受けたスルガノフ大佐は、すぐに潜航を命じた。〈クルガン〉が前傾しながら潜ってゆき、深度百メートルで水平に戻り、巡航を再開する。
「艦長。通信室までお願いします」
発令所に、通信科長の少佐が顔を出した。やや怪訝そうな表情である。スミルノフ大佐は、操艦指揮を副長に任せると、通信科長のあとに続いて通信室に入った。
「命令書が四部送られてきました。いずれも極秘扱いで、復号には艦長の許可と艦長保管の復号用暗号鍵が必要です。作業も、通信責任者単独で行えとの指示です」
ノートパソコンの画面を示しながら、通信長が言う。
「そんなことだと思った」
スミルノフ大佐は、諦め混じりの微笑みを見せた。命令変更くらいなら、VLF通信で事足りる。だが、VLF電波はいわば全世界向けのラジオ放送のようなものなので、受信機さえあればどこの誰でも簡単に受信出来てしまう。暗号化されていたとしても、機密データを送るのは危険である。衛星通信ならば、傍受されるおそれが少ないので、わざわざ浮上させたうえで送り付けてきたのだろう。
「来たまえ」
スミルノフ大佐は、通信長を艦長室に招き入れた。通常型潜水艦だと、艦長室といえども広めのクローゼットと変わりない程度の小部屋でしかないが、原子力潜水艦の中でも巨艦のひとつに数えられるオスカーⅡ級なので、艦長室は狭いながらもしっかりとした『部屋』である。
スミルノフ大佐は、金庫に歩み寄った。
「番号は?」
「1‐0‐4‐Д(デー)です」
金庫を開けたスミルノフは、三十ほどの小さな封筒の中から、104Дと書かれたものをえり分けた。封を切り、中の紙片を取り出す。
「イネークツィア(注射)」
スミルノフ大佐は、紙片に印刷された単語を読み上げた。通信長が復唱し、すぐに艦長室を出てゆく。
スミルノフ大佐は、暗号鍵が印字された紙を丁寧に細かく千切ってから封筒に戻し、金庫に入れてロックした。
十五分後、スミルノフ大佐は艦長室で副長のミーチン中佐と共に、通信長の報告を受けた。
極秘命令第一部の内容は、移動命令であった。速やかに指定の座標ないしその近辺にまで移動し、次の命令を待て。命令内容は第二部を復号のこと。復号許可はVLFにて通知する。
「北緯十八度五十分。西経六十二度五十分。リーワード諸島の北東か」
紙のチャートをテーブルの上に広げて、スミルノフ大佐は唸った。ロシア海軍でもデジタル化は進んでおり、詳細なデジタルチャートを利用できるが、昔気質のスミルノフ大佐は今でも、この嵩張って扱いにくい紙のチャートを好んで使っていた。
「最寄りの陸地はアンギラ島ですね。ほぼ三十海里」
指で距離を測りながら、ミーチン中佐が言う。
「イギリス領土だな。だが。軍事基地はないはずだ」
スミルノフ大佐は首を振った。
「このあたりに、まともな軍隊を持っている島はありませんね。近くのアンティグア島に、合衆国の衛星追跡ステーションがありますが……」
チャートを指差しながら、ミーチン中佐が言う。
「付近で合衆国海軍が演習でもするから、見て来いというつもりかな。それにしても、移動命令をこんな形で送り付けてくるのは不自然だ」
スミルノフ大佐は、眉根を寄せたまま言った。どうも、嫌な予感がする。第二部以降の暗号命令に、いったい何が書かれているのだろうか。
SIS(英国情報部)は、ロシア海軍内に高位の情報源を有していた。『スフィンクス』というコードネームを持つ海軍提督である。
このような高度な情報源があるので、SISはさぞかし大量のロシア海軍機密情報を入手しているのだろう、と思われるかも知れないが、実はそんなことはない。たしかに、スフィンクスはほとんどの機密情報にアクセスできる権限を持っており、それをSIS側に伝えることもできる。だが、その情報に基づいてイギリス海軍やNATO海軍が対策を行えば、ロシア海軍は当然機密情報の漏洩に気付くだろう。そして、FSB(ロシア連邦保安庁)によるスパイ狩りが始まる。低レベルの技術情報などなら、その漏洩容疑者は万単位となるから、摘発は容易ではないが、高レベルの機密情報となれば、漏洩容疑者はほんの一握りだ。……スフィンクスは、あっという間に逮捕されるだろう。
つまり、スフィンクスはあまりにも貴重な存在なので、使うに使えないスパイなのである。いわば、一度でも実戦で使用されたらその奇襲的価値を失ってしまう秘密兵器のようなものだ。SISの上層部では、『スフィンクスの次の報告は「現在ロンドンに向けてSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)が飛翔中。着弾は三分後」になる』というジョークが流れているほどだ。
スフィンクスがSISにリクルートされたのは、ソビエト連邦崩壊の直後である。SISは、彼を『大物』に出世させるために、多大な努力を払ってきた。イギリス海軍の協力を得て、バレンツ海でスフィンクスが指揮する艦艇に、スウィフトシュア級原子力潜水艦をわざと見つけさせたうえで追い詰めさせた、などという荒っぽい作戦が敢行されたこともある。ちなみにこのときの手柄で、スフィンクスは二等ウシャコフ勲章を受章している。
現在、スフィンクスはサンクト・ペテルブルクにあるロシア海軍総司令部で勤務している。その彼が、とある噂を耳にした。
『空挺軍と空軍が協力して外国で軍事作戦を敢行する』という噂だ。
ひょっとすると、これはSISに伝えるべき情報になるかも知れないと考えたスフィンクスは、友人知人にそれとなく話を聞いて、この件に関して情報の収集を開始した。その結果、どうやら軍事作戦は『西半球のどこか』らしいという『感触』を掴む。
執務室に戻ったスフィンクスは、愛用の古びた地図帳……まだドイツがふたつあり、ソビエト連邦とユーゴスラビア連邦が健在だったりする……を広げて考え込んだ。海軍上層部の者として、プロジェクト949A潜水艦の一隻である〈クルガン〉が、総司令官命令で哨戒任務を中断し、別な場所……詳しくは知らなかったが、カリブ海東部かその周辺……へ送り込まれたことは知っていた。ひょっとして、繋がりがあるのだろうか。
いずれにしても、情報が漠然とし過ぎているし、イギリスの国益に直結する問題ではないので、無理してSISに報せる必要はない、とスフィンクスは判断した。
だが、その日の午後、スフィンクスは別な噂を耳にする。海軍総司令官が、核兵器の使用を大統領から許可された、というものだ。
軍人というものは、断片的な情報から全体像を組み立てる訓練を受けている。もちろん、スフィンクスもそうだ。
〈クルガン〉には核兵器が搭載されている。西半球のどこかで行われるらしい空軍と空挺軍の作戦。大統領の許可。すべてが、ごく細いが一本の糸で繋がる。
これは、SISに報告する価値がある、とスフィンクスは判断した。
『ロシア空軍と空挺軍が東カリブ海ないしその周辺で軍事行動を起こす可能性大。支援のためオスカーⅡ級潜水艦が配置される模様。同艦には核兵器が搭載されており、未確認情報ではあるがすでに核兵器使用に関しては大統領の許可が下りている模様』
スフィンクスがもたらした情報を前にして、SISモスクワ支局長は頭を捻った。カリブ海で核兵器? とうとう耄碌したのか、あの提督は。
とは言え、スフィンクスはオレグ・ペンコフスキー(GRU大佐。60年代)やオレグ・ゴルディエフスキー(KGB大佐。70から80年代)の再来と評される大物である。報告は無視できない。
とりあえず支局長はSIS本部に、カリブ地域で行われるすべての『イベント』に関する情報を請求した。届いた資料を部下と共に精査した支局長は頭を抱えた。ロシアが核兵器をぶち込みたくなるような軍事、政治、経済的イベントは、何ひとつない。
目標は合衆国かもしれない、と考えた支局長は、CIAモスクワ支局長に会い、口頭でカリブ地域で『ロシアの注意を引きかねない』活動が行われる予定はないか、と尋ねた。CIAモスクワ支局長は、通常のCIAデータベースで調査を行い、『否』の返事をSISモスクワ支局長に返す。……この時、CIAモスクワ支局長が上司に報告する形で問い合わせていれば、CIA上層部の誰かがこの問い合わせがサスキアで極秘に進められている作戦と繋がりがあることに気付いたかもしれない。だが、SIS支局長は情報源であるスフィンクスを守るために、きわめて曖昧な形でCIA支局長に質問を行っており、CIA支局長も当然この件を深く掘り下げる必要はないと判断したので、それは無理な話である。
ロシア軍の動きに異常なところがなく、ロシア大統領も通常通り執務を行っていることを確認したSIS支局長は、スフィンクスからの情報から最も重要と思われる『核兵器の使用を大統領が許可した可能性あり』というところだけ切り取って衛星回線で本部に送り、残りの部分は外交郵袋で送ることにした。衛星通信といえども、ロシアに傍受/解読されるおそれがある。スフィンクスの安全のためには、このくらいの用心が必要である。
モスクワ支局長からの衛星回線を通じた報告を受け取ったSIS本部も、困惑した。いまのところロシア軍に、核兵器を使う準備などまったく見られなかったからだ。それゆえ、この情報は首相と国防相には伝えられたものの、合衆国を始めとする同盟諸国には一切伝達されなかった。誤報である可能性が、高いと判断されたのだ。SISは念のためロシア軍の動向を注視し続けたが、それ以上の行動は起こさなかった。
マリ共和国のバマコ・セヌー国際空港に、三機のチャーター機が相次いで着陸する。
ボーイング767、ボーイング757、エアバスA330には、元からあった企業ロゴが塗りつぶされ、雑な塗装で新たな企業ロゴが描き込まれていた。それぞれ、カザフスタン、ベラルーシ、アルジェリアにある実在するチャーター機専門航空会社のロゴである。
すでにマリ空港公社とは話がついており、三機にはすぐに給油が開始された。給油を終えた三機は、そそくさと離陸した。次の給油地は、ベネズエラ共和国のシモン・ボリバル国際空港である。
ロシア海軍総司令部より指定された海域に到着した〈クルガン〉は、さっそくVLFアンテナブイを展開し、通信を傍受した。
今回の復号用暗号鍵は、「アルブース(西瓜)」だった。さっそく通信科長が先に受信した極秘命令第二部の内容を復号し、平文を艦長室で待つスルガノフ艦長とミーチン副長のところに持参する。
一読したスルガノフ大佐が驚愕の表情を見せた。ミーチン中佐をひたと見据えて、小さく首を振りながら電信紙を副長に渡す。読んだミーチン中佐が、スルガノフ大佐と同じ反応を見せた。
「追加の通信です」
通信科長が、もう一枚の電信紙をスルガノフ大佐に渡す。
「アメリカのイージス駆逐艦が、付近に出現したそうだ。……第二部の内容からすると、これと交戦せざるを得ないようだな」
読んだスルガノフ大佐が、暗い声で言った。
「しかし……総司令部は正気ですか。すべてのP‐700の発射準備を整えよ。核弾頭の目標座標は第三部にて指定。作戦への支障がある場合、これを交戦によって排除することを許可する。つまり、アメリカのイージス艦を撃沈し、どこかの目標に核弾頭を撃ち込めということですよね。第三次世界大戦でも始めるつもりでしょうか」
ミーチン中佐が、呆れたように言う。
「陽動作戦かも知れんな。アメリカ人の視線をカリブ海に釘付けにしておいて、ヨーロッパで侵攻作戦を行うつもりかもしれない。あるいは、中国が行うアジアでの戦争に、少しばかり力を貸すつもりか」
念のため、机上に広げておいた東カリブ海の地図を見下ろしながら、スルガノフ大佐が言った。P‐700の射程は、六百キロメートルを超える。西にある合衆国の自治領、プエルトリコの全域が射程内だ。サンファンの都市圏だけで、百万人以上の人口があるはずだ。ここを核攻撃し、合衆国を混乱に陥れようとする作戦なのだろうか。
「とにかく、命令は命令だ。準備だけはしておこう。ひょっとすると、単なる手の込んだ演習かも知れない。コジョーキン、言うまでも無いがこの件は一切他の乗員に伝えてはならん。それと、すまんがタラセンコ少佐を呼んできてくれ」
スルガノフ大佐は、通信科長にミサイル科長を呼んでくるように指示した。
「艦長。艦長は、命令とあらば民間人が居住する都市に対して核弾頭を発射できるのですか?」
通信科長が去ると、ミーチン中佐がそう言ってスルガノフに詰め寄った。
「声が大きいぞ、イリヤ・アンドレーエヴィッチ」
スルガノフは、柔らかく部下をたしなめた。
「難しい問題だな。海軍軍人である以上、命令には従わなければならない。だが、海軍軍人である以上、民間人の犠牲は最小に抑えねばならない。矛盾だ。大いなる矛盾だ。どちらを優先しても、軍人としての名誉は保たれない」
そう言ってスルガノフは、ミーチンの肩をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫。おそらく演習だよ。総司令部は、我々の即応能力を試そうというんだ。いくらあの大統領でも、アメリカ人の裏庭で核爆発を起こそうなどと考えはしないだろう」
スルガノフは、心にもないことを言って副長をなだめようとした。こんな手の込んだ演習を、海軍がわざわざ西大西洋でやるはずがない。
「いえ、あの男なら、政権維持のためなら核攻撃くらいやりかねませんよ」
強い口調で、ミーチン中佐が言い返す。
「声が大きいぞ、中佐」
スルガノフは再びたしなめた。どの艦にも、現政権の『犬』は必ず乗り組んでいるものだ。そいつらに告げ口されたら、シベリア北部の辺境基地に飛ばされて石炭掘りをやらされかねない。
第十六話をお届けします。




