第五話
「中校。君は信仰をもっているかね?」
唐突に、上官であるカオ少将にそう問われ、アリシア・ウーは微かにではあるが珍しく戸惑いの表情を浮かべた。
現行の中華人民共和国憲法の第三十六条では、信教の自由が謳われているものの、現在の中国において『宗教』の置かれている立場は微妙である。中国共産党は『神』の存在を認めぬ無神論、無宗教の立場を貫いているし、祖先崇拝のような伝統的で素朴な信仰や、道教や儒教のような哲学的かつ生活様式に密着するような歴史的伝統宗教は受け入れられているものの、世俗権力を敵視しがちな仏教、キリスト教、イスラム教、さらに近年創始された数多の新宗教に対しては、厳しい統制がなされているのが現状である。
「……祖先の廟くらいなら参りますが、自分では無宗教だと思っています」
アリシアは、そう答えるに留めた。直属の上官である人民解放軍総参謀部第二部部長であるカオ少将であれば、アリシア・ウー中校に関する情報を集めたファイルなら内線電話一本で取り寄せて、隅々まで目を通すことができる。ここで見栄を張って下手に言い繕っても、意味はない。
「そうか」
カオ少将が淡白にそう答えて、吸っていた紙巻きタバコを瑪瑙の灰皿でもみ消した。
……とすると、今回の任務は宗教絡みか。
アリシアはそう予測した。全能神教会、法輪功、トルキスタン・イスラム党など、中国共産党が目の敵にする宗教的組織はいくつかある。そのようなところに、潜入工作を命じられるのだろうか。
「アフリカに行ってもらうぞ。セケティアだ」
「セケティア共和国ですか」
カオ少将の言葉に、アリシアは納得してうなずいた。西アフリカの珍妙な宗教国家……。たしかに、宗教絡みの任務だ。
「最近、日本人技術者が誘拐されたという報道がありましたが、その一件がらみでしょうか」
アリシアの問いに、カオ少将がうなずく。
「そうだ。反政府組織であるミディアム・アーミィが、三人の日本人を誘拐して、身代金を要求している。だが、これは実は中国人を誘拐しようとして、間違えて日本人を攫ってしまったのだ、という見方が有力だ。ミディアム・アーミィは長年わが国を敵視していたからな」
カオ少将がいったん言葉を切り、新たな紙巻きタバコを箱から抜き出した。だが火を点けずに、それを指先でいじりながら話を続ける。
「セケティア政府も事件の解決に向けて動いているが、連中は能力的に信用できない。そこでCIAが乗り出し、日本側に協力して人質の救出に向かうようだ。内政不干渉が原則ではあるが、ミディアム・アーミィはわが国の敵であり、CIAも乗り出すとなると座視はできない。そこで君の使命だが……これがなかなか込み入っていてね」
カオ少将が、苦笑する。
「党も人民解放軍も、親中である現政権に逆らい、在セケティアの中国系企業を攻撃するミディアム・アーミィの力を削ぎたいと願っている。したがって、君の第一の使命は、日本が身代金をミディアム・アーミィに支払うことを阻止することにある。これについては、手段を選ぶな。CIAや日本の諜報機関の連中を殺害する必要があれば、ためらう必要はない。第二の使命は、二つあり、それぞれ相反するものだ。ミディアム・アーミィに何らかの打撃を与える機会があれば、それを実行したまえ。また、CIAに何らかの打撃を与える機会があれば、これを実行しても良い。君の判断で、どちらかを行ってくれ。こちらも、手段は問わない。そして……これはもし仮にその機会が生じれば、で構わないが、セケティアの現政権に何らかの干渉が可能であれば、我が国の利益になる方へと誘導してもらいたい」
「最後のご命令は、一介の工作員には、少しばかり荷が重すぎるような気がしますが」
アリシアは、素直にそう感想を述べた。
「現在、セケティアの権力構造は混迷している。詳細はこれを読んでもらいたいが、ダドジ大統領は精神を病んでおり、半年ほど前に盟友であった副大統領ファタウを罷免し、投獄してしまった。副大統領の後任は決まっておらず、空席のままだ。同国の憲法によれば、次席である国民議会議長が繰り上がって暫定副大統領となるはずだがね。ということで、今同国を実質的に取り仕切っているのは内務相のスティーブン・クメルンだ。彼は親中派であり、党も以前から接触してよい関係を築いてきたのだが、国内に敵が多くてね。麻薬に手を出しているなど、色々と問題のある人物でもあって、いまひとつ信用できないのだ。わが国としては、ダドジが正気に戻ってくれるのが一番なのだが、場合によっては実力派のモーガン・ナナ国防相に実権を握らせるのも悪くない選択肢だ。クメルン内相ほどの親中派ではないが、政敵も少ないし、なにより信用できるからな」
説明しながら、カオ少将が机上の薄いファイルをアリシアの方へと滑らせる。
「出発は明日。ロンドン経由で現地入りだ。同行者は一人。好きな部下を連れていけ。追加人員も選定してくれれば、順次送り込む。現地大使館にも話は通しておくし、現地企業で利用したい施設、機材、人員があれば連絡してくれ。善処する」
カオ少将が言う。中華人民共和国には、国家情報法という法律があり、これに基づいて国家情報機関……もちろん、総参謀部第二部も含まれる……は、国家安全保障に必要とされる合理的理由があれば、たとえ外国であっても、中国に属するあらゆる組織……公的機関、民間企業、非政府組織などを問わず……と中国公民……こちらも、その所属している組織を問わず……に協力を要請することが可能なのだ。このような『情報機関にとってまことに都合がいい』法律が存在するのは、主要国の中では中華人民共和国が唯一である。
「承知いたしました」
アリシアは、ファイルを手にした。頭の中では、すでに同行させる部下の選択作業が始まっていた。
「ファタウ。出ろ」
独房のスチール扉がきしみながら開いた。
……ランドルフの声だ。今日は当たりの日か。
セケティア共和国元副大統領、アーチボルド・ファタウは座り込んでいた床からゆっくりと立ち上がった。
両手を身体の前に垂らしたまま、ゆっくりと扉前まで歩く。手を監視兵から見えない位置に置いたり、急に激しい動きをしたりすると、警棒で殴られるおそれがあるのだ。
扉の外に出ると、肩に97式自動歩槍を掛けた監視兵に見守られながら、ランドルフという名の看守がファタウの身体を雑に服の上から叩いて、ボディチェックを行った。もちろん、脱走防止のためである。
ボディチェックが終わると、ランドルフが横柄に手を振って、ファタウに歩き出すように命じた。ファタウは両手を体側に垂らしながら、通路を歩み始めた。突き当りにある鉄格子の扉を、付いてきた監視兵が解錠する。
ファタウは監房棟の外へと足を踏み出した。
ここはノース・ウェスト州にあるセケティア国家人民憲兵隊訓練基地である。小規模ながら、政治犯収容施設が併設されており、あやふやな罪状により逮捕されたファタウ元副大統領は、その翌日からここに収監されていた。
元副大統領という肩書にも関わらず、待遇は決して良くはなかった。国家人民憲兵隊長のジェレマイア・カナエ大佐は、上司でもあるスティーブン・クメルン内務相に忠実であり、そのクメルンはファタウとは言わば政治的ライバルであったのだ。ファタウが罷免投獄されて一番喜んだのがクメルンで、おそらく二番目に喜んだのがカナエ隊長だろう。……良い待遇を期待する方が愚かというものだ。
とは言え、副大統領時代のファタウは国民には高く評価されており、国家人民憲兵隊の中にも、ファタウのことを支持し続けている者も多い。今こうやって、一日一回許されている屋外での運動……といっても、歩き回るか簡単な体操くらいしかできないが……を見張っている看守のランドルフも、その一人であった。
「閣下。どうぞ」
あたりに人目がないことを確認してから、ランドルフが小さな包みをファタウの手に押し付ける。先ほどまでの横柄な態度は、監視兵の眼を欺くための芝居である。
「ありがとう。いつも済まんな」
ファタウはさりげない様子でその包みをポケットに押し込んだ。硬い粒のようなものが指先に感じられたので、氷砂糖かフルーツキャンディの類だろう。安っぽい菓子だが、甘党のファタウにとってはありがたい『差し入れ』だ。
「なにか、新しいニュースはあるかな?」
歩みながら、ファタウは訊いた。視線は、前方に据えたままだ。囚人と親し気に会話しているところを上官に見つかれば、ランドルフが何らかの処罰を受けることになる。
「特にはないですね」
歩むファタウを見張っているふりをしながら、ランドルフが答える。
「例の誘拐事件にも進展はないのかい?」
「ありませんね。新聞はいろいろと憶測記事を載せてますけどね。日本政府が身代金支払いを決めたとか、交渉のためにエンペラーの名代が来るとか、CIAが事件解決に乗り出すことになったとか、中国政府が仲介することが決まったとか」
ランドルフが言う。新聞もラジオもテレビもインターネットも禁じられているので、ファタウが『外界』の情報を知るにはランドルフに頼るしかない。それほど高い教育も受けておらず、教養にも乏しいが、そこそこ頭のいい若者なのがありがたい。
「そうか。エリオットは相変わらずかね」
ファタウは、親友であるエリオット・ダドジ大統領のことも尋ねた。
「新聞に、ミンタ村での中国企業の試掘認可を正式に取り消した、と書いてありましたよ。ミンタ村って、大統領の故郷でしょう?」
ランドルフが言う。
ファタウは、罷免二週間前くらいのことを思い出した。どうしても外せない政務があったダドジ大統領に代わって、ファタウが東方鉱業集団によるレアアース鉱山開設に向けた試掘場操業開始のセレモニーに出席したのだ。イースタン州の山あいにある小さな村に、外務相や鉱業・エネルギー相、中国大使まで集い、華々しいセレモニーを繰り広げた。一部の反政府系ジャーナリストは、ダドジ村が大統領の出身地であることから、大統領権限の濫用による利益誘導だと言い張ったし、ミディアム・グループは『故郷を中国に売った』と非難していたが、地元のダドジ村の人々は歓迎ムードであった。
「そうか。相変わらず反中姿勢は続いているのか」
複雑な心境で、ファタウは言った。
元々、ファタウは中国との交流拡大には否定的であった。だが、他のアフリカ諸国が中国の経済援助により発展してゆくのを見た盟友のダドジが積極的な親中派となったことに引きずられ、条件付きながら中国との交流を深めることに賛成するようになる。
罷免され、さらに謂われなき罪状で投獄されてもなお、ファタウはダドジのことを『信じて』いた。精霊力は、ダドジよりもファタウの方が強い。罷免される数日前から、ファタウはダドジ大統領の周りの精霊が『ざわついて』いることを感じ取っていた。ダドジの豹変は、やはり何らかの呪いによるものなのだろう。呪いさえ解けば、ダドジは正気に戻る。ファタウはそう信じて疑わなかった。
問題は、どうやって呪いを解くかだが……。
より精霊力を持つ人物にダドジを診てもらえば、何らかの解決策が得られるかもしれない。だが、今のダドジは頑なであり、気に入らない人物を寄せ付けない状態であるようだ。そしてもちろん、獄中にいて、外部との通信手段すらないファタウに打てる手はなかった。
カナダ国籍のグローバル・エキスプレスが、アンドン国際空港に着陸する。
「アフリカの空港にしては、まあまあ賑やかやな」
機内に乗り込んできた税関職員による通関が済み、駐機場に降り立ったところで、あたりを見回しながら雛菊が言う。
セケティア航空の国内線らしいATR42ターボプロップ機が二機。国際線用なのか、かなりくたびれたフォッカー100双発ジェット機が一機。ナイジェリアのアリク・エアのボーイング737が一機。そして、ブリティッシュ・エアウェイズのボーイング787が一機。
「BAがいるだけで、一気に国際空港らしくなるのであります!」
シオはそう言った。
空港には、CIAが手配した迎えの車が来ていた。フォルクスワーゲン・トランスポーターだ。運転手は、サングラスを掛けた地元民らしいアフリカ系男性。一同はそれにどやどやと乗り込んだ。
「とりあえずCIAのセーフハウスに行くよ。明日、セケティアの要人と会見がある。全員で行くわけにはいかないので……そうだね、ボクとスカディとあと一人くらいかな?」
走り出した車内で、ジョーがそう言う。
「ではわたくしがお供いたしますです!」
シオは素早くスカディの顔目掛けて挙手した。
「……誰か、立候補は?」
スカディが、シオから視線を逸らしながら訊く。
「堅苦しいのは性に合わなくてね」
「偉いさん相手はうちも苦手やね」
「行っても面白くなさそうなのですぅ~」
残る三体が、一様に断る。
「じゃあ、ボクとスカディとシオで行こう。一応、全員CIA所属という設定でいくよ。二人とも、ボクの部下という体で頼むよ」
ジョーが、そう取り決める。
打ち合わせが終わると、シオは窓外に視線を向けた。郊外にある空港からアンドン市街地へと向かう道路は、なかなか立派な片側二車線道路だった。ただし、立派なのは路面だけで、路肩は茶色い砂に覆われていたし、時折そこを地元の人がのんびりと歩いていたりする。二人乗りのバイク……どちらもノーヘルである……がもの凄い速度で走っていたりもする。……先進国の自動車専用道路とは比べ物にならない。
この辺りは降水量が多めなのか、沿道はかなり緑が豊かだった。丈の高い草が生い茂り、背の低い木々がまばらに生えている。遠くに集落も見えるが、ごく普通の平屋の建物に見えた。
しばらく走ったところで、トランスポーターが脇道に逸れた。両側に家屋や商店が立ち並ぶ二車線道路を二分ほど走ったところで、さらに狭い道に乗り入れる。
「いきなりやばい雰囲気になったな」
亞唯が、苦笑する。
日干し煉瓦造りらしい粗末な家が立ち並ぶ地区であった。屋根は、ほとんどが波板トタンだ。道路も埃っぽい土がむき出しである。
「茶色ですねぇ~」
ベルが言う。道路のむき出しの土。日干し煉瓦。錆びたトタン。すべてが、様々な色合いの茶系統だ。鮮やかなのは、ちらほらと見える植物の緑と、雑に干されている洗濯物の色彩のみ。
平坦でない道をしばらく進むと、家の数が減り、植物に覆われた空き地が目立つようになった。トランスポーターが速度を落とし、セメントブロック製の高い塀に囲まれた一軒の平屋の庭に乗り入れる。手入れの悪いバナナの木が何本も突っ立ってるだけの、何の面白みもない庭である。
建物自体はかなり古びていたが、まともであった。かつては白かったのだろうが、薄い灰色に劣化してしまった塗り壁。屋根はスレート葺きで、こちらもしっかりしている。
ジョーに促されて、一同はトランスポーターを降りた。運転手が庭の中でハンドルを切って方向転換し、来た道を引き返してゆく。
「少なくとも、電気は来ていそうね」
上を見上げて、スカディが言う。思いっきり蹴ったら折れてしまいそうなほど細い木製の電柱から、一本の引き込み線が建物の方に延びている。
「とにかく中に入ろうか。突っ立っていても仕方ないからね」
ジョーが、玄関に向かった。扉からかなり離れた位置にある窓に近付き、隠しパネルを開いて、テンキーパッドに解錠コードを打ち込む。
がちゃがちゃと何本かのボルトが引っ込む音がして、見た目はごく普通の木製扉が内側に開いた。いや、木製なのは表側に張り付けた板の部分だけで、本体は厚いスチール製である。CIAがいざという時のために確保してあるセーフハウスなのだろう。防犯/防御対策もしっかりと施されているようだ。
第五話をお届けします。




