第一話
西アフリカ セケティア共和国 ドンス・ウェスト州
湾の定義、というものがある。
地理学的には、海や湖などの水域が、陸地に深く入り込んでいる地形で、比較的大きなもののことを指す。(小さな場合は入り江と呼ばれる)土佐湾のように間口の広いものから、東京湾のように狭いものまで、その形状は様々である。
1994年に発効した「海洋法に関する国際連合条約」(通称国連海洋法条約)の第十条では、同条約上で扱われる「湾」について、もう少し詳細な定義付けがなされている。それによれば「湾」とは、「その面積が湾口を横切って引いた線を直径とする半円の面積以上」でなければ、湾として認められない、となっている。……要するに、『半円』よりも大きく陸側に入り込んでいなければ、「湾」じゃないよ、ということである。
この「湾」の湾口が二十四海里より狭い場合(主張できる領海の最大値が海岸から十二海里なので、つまりは湾口部分に公海が存在しないものとみなされる)は、湾の内側はすべてその国の「内水」(領海のさらに内側にある排他的な水域で、湖や河川、内海などを含む)として扱われる。巨大な「間口の狭い袋状」の湾で、その中央部に最寄りの沿岸から十二海里以上離れている海域があったとしても、湾口部が二十四海里よりも狭ければ、その湾は公海にはならず、接続国の内水である。
湾口が二十四海里を超える場合には、湾全体が内水とは認められないが、歴史的に見て接続国による独占的使用が長年にわたり行われ、国家主権が湾の全域に渡って行使され、なおかつ近隣諸国がその状況を是認してきた、という事実があれば、その湾は「歴史的湾」として例外措置が認められ、全域が「内水」であると国際法上認められることとなる。カナダのハドソン湾、ロシアの白海などが、代表的例であろう。一方で、「歴史的湾」と接続国が主張するものの、国際社会が認めていない湾も少なからず存在する。リビアのシドラ(スルト)湾、イタリアのタラント湾などがそうである。
ギニア湾はアフリカ大西洋岸にある大湾である。
アフリカの地図を見ていただければお分かりいただけると思うが、ギニア湾はあきらかに「湾」ではあるが、明白に指摘できる「湾口」が見当たらない。それゆえ、湾口の起点をどこに置くか、については国際機関や地理学者、沿岸国家政府機関などにより意見が食い違っている。
主な説の中で最も狭いのが、ガーナ共和国ウェスタン州にあるスリーポインツ岬と、ガボン共和国オゴウェ・マリティム州にあるロペス岬を結ぶ線を湾口とする説である。それよりもはるかに広くなるのが、北の湾口をガーナではなくもっと西のリベリア共和国メリーランド郡のパルマス岬に置く説だ。
さらに広くなるのが、南側の起点をはるか南のアンゴラ共和国ナミベ州のアルビナ岬とする説である。この説を採用すると、湾口は直線距離で約三千キロメートル。総面積は、二百三十五万平方キロメートルに及ぶことになる。ピンとこない数字かも知れないが、島国である日本の排他的経済水域が約四百五万平方キロメートルで、これに領海、内水、接続水域、さらに延長大陸棚などを含めた『日本の』水域をすべてひっくるめた面積が四百六十五万平方キロメートル……ギニア湾の約二倍であることを考えれば、やはり巨大な湾である。
そのギニア湾の広さの定義いずれを採用するとしても、このセケティア共和国は『ギニア湾北岸国家』のひとつとなる。
東の道路を見張るのに飽きたジョナサン・ダルコは、疲れた眼を休めようと海を眺めた。大西洋の緑がかった青と、空の青。そのあいだに挟まる低層の白い雲が、眼に心地いい。
ダルコが陣取っているのは、低い丘の上だった。岩山なので樹木は一本も生えていないが、今は雨季なのでくぼみに溜まったわずかな土から丈の長い草が生えており、立ち上がらない限り丘下から見られることはない。
三十分ほど前に止んだ雨の名残で、空気はたっぷりと湿り気を残していたが、強い日差しを浴びてダルコの足元の岩は完全に乾いていた。草の根元にある埃を寄せ集めたような土はまだ湿っており、レンガのような色合いを呈している。
雨避けの古びたポンチョを羽織っているジョナサン・ダルコの外見は、この辺りの典型的な若者であった。身長は百六十五センチほどで、西アフリカ人の若者としてはほぼ平均である。濃い褐色の肌は光沢があり、滑らかだ。がっしりとした体形で、かつ首が太い。頭髪は縮れて短いので、額が広く見える。西アフリカには鼻が低い民族が多いが、セケティア人は鼻筋がしっかりと通っている者が多く、そのせいかダルコもなかなかハンサムに見える。
ポンチョに隠されたダルコの背には、SIG510‐4自動小銃があった。1957年にスイス陸軍がStgw.57として採用した軍用自動小銃の、後期型輸出バージョンである。オリジナルのStgw.57は、スイス独自のGP11……7.5×55mm弾薬を使用していたが、これでは海外に売れないので7.62×51mm弾用に改修し、遠射性能重視で取り付けられた二脚も廃止、銃身長も十センチ近く切り詰め(それでも五十センチを超える銃身だが)、ストックとハンドガードを木製に変更、その他細々とした改良と簡略化を行った銃である。短くなった分、重量も減っており、オリジナルは5.7kgと重たい銃であったが、510‐4の方は4.37kgと常識的な自動小銃の重さとなっている。箱弾倉も、Stgw.57は二十四発入りが標準だったが、輸出型は二十発入りが標準だ。
ダルコは再び見張りに戻った。まだ二十歳だが、兵士としてのキャリアは八年もあり、彼が所属する部隊の中では幹部ではないが中堅よりは上、といったポジションにある。通常の軍隊で言えば、三等軍曹あたりだろうか。
……来た。
先ほどまでは雨の名残でやや靄が掛かっていたが、海側にマングローブ林、山側に荒地を従えた東の道路付近は、今ではすっかり見通しが良くなっている。まだ湿っているので埃があまり立たない未舗装道路を、三台の車両が低速で走行してくるのが見えた。先頭の車両は黒、後続の二台は白だ。
ダルコは胸に下げていた双眼鏡を取り上げた。目に当てて、接近する車列に向ける。
先頭車両は黒い小型SUVだった。後続の二台は、一回り大きなSUV。二台とも、白く塗られている。
情報では、地元で雇った護衛の車両が黒のジープ・チェロキー。目標車両が、二台のトヨタ・ランドクルーザー……中国人は日本人を嫌っているが、日本の製品は大好きである……となっていた。今のところ、情報とは合致している。交通量の少ない道路であるし……過去一時間で通過した車両は十四台しかなかった……これは『ターゲット』であろう。
ダルコは双眼鏡をいったん手放すと、雨に濡れないようにポンチョの中に入れていた旧西ドイツ製の古い小型無線機を取り出し、電源スイッチを入れた。
「こちらダルコ。監視区域に車両三台が接近中。目標の可能性あり。観測を続行する」
イギリス英語で……セケティアは旧英領である……ダルコは告げた。すぐに、受領通知が返ってくる。
無線機の電源を入れたまま、ダルコは再び双眼鏡を手にした。先頭車両は、フロントグリルからしてやはりチェロキーのようだ。後ろの二台も、間違いなくランドクルーザーだ。ここセケティアでもよく走っているから、見間違いようがない。
なおも車列が接近し、ランドクルーザーの側面が見えるようになった。目標車両であれば、ここに『チャイニーズ・キャラクター(漢字)』が描かれているはずだ。
あった。
二台とも、側面に数文字のチャイニーズ・キャラクターが描いてある。ダルコにはもちろん読めなかったが、どちらも同じものが描かれていることは識別できた。
中国人どもが。
ダルコは双眼鏡を手放すと、無線機を手にした。
「こちらダルコ。車列を目標と識別。繰り返す。目標と識別。構成は情報の通り、護衛一台、目標二台。護衛、目標、目標の順で進行中。周辺に他の車両、人員を認めず。作戦開始に支障なし」
「本部了解。待機せよ」
「ダルコ了解。以上」
通信を終えたダルコは、まだ湿っているポンチョを跳ね除けると、SIG 510‐4を手にした。攻撃を逃れて後退してきた車両があった場合、ここからダルコが狙撃して阻止する、という手筈になっている。だが、ダルコは今日は発砲の機会は無いと思っていた。少佐はこの作戦に充分な人員と火器を投入する予定である。たかだかチェロキー一台に乗った護衛程度、難なく制圧できるはずだ。
「少佐! 来ました! 前方五百メートル!」
見張りの兵士が叫ぶ。
「射撃用意!」
バーソロミュー・アナシュは大きく手を振りながら、散開する部下に命じた。本当の肩書は『部隊長』であり、『少佐』は政府軍に居た時の階級なのだが、今では部下のみならず上官までもが彼のことを少佐と呼ぶようになっている。
部隊の主力は、道路脇の岩場と草地に潜んでいた。他に、道路の先に車両逃走阻止用の一班が、道路の反対側の岩陰に徒歩逃走阻止用の一班が配置してある。
アナシュ「少佐」は草をかき分けて路上を見やった。三台の車列が、わずかに埃を巻き上げながら進んでくる。
「頼んだぞ、ティモシー」
少佐は三メートルと離れていない位置で二脚に据えた汎用機関銃MG 710‐3を構えていた中年の兵士にそう声を掛けた。ティモシーと呼ばれた兵士が、唸り声だけで応ずる。上官への返答としては不適切だが、少佐は一向に気にしなかった。彼とは政府軍時代からの長い付き合いだし、すでに射撃のために集中しているのだと理解していたからだ。ティモシー・クワク元伍長の射撃の腕前は、信頼できる。
車列が近付いてきた。少佐の眼にも、ランドクルーザーの側面に描かれたチャイニーズ・キャラクターが見て取れるようになる。やたらと線が多く、角ばった醜悪な文字。……醜い黄色い肌をして、甲高い声で喚き散らす守銭奴どもに相応しい、下品な文字である。
ティモシーが、連射を開始した。呼応して、少佐の部下たちが発砲を始める。
ティモシーが発射した二十三発の7.62×51弾は、全弾が黒いチェロキーの側面に吸い込まれた。運転席と助手席に座っていた護衛二名と、後部座席にいた一名が即死し、チェロキーは路肩に突っ込んで停止する。奇跡的に無傷で生き延びた残る一人が、QBZ‐97(97式自動歩槍)を構えてチェロキーから飛び出したが、ティモシーが放った連射によって地面に叩き付けられる。
後続の二台のランドクルーザーにも、SIG 510‐4からの7.62×51mmとSA FN(M1949自動小銃)からの7.62×63mm(.30‐06スプリングフィールド)、それにビグネロン短機関銃からの9mmルガー弾が続々と命中した。だだし、撃たれたのは運転席だけであった。この作戦、ランドクルーザーの後部座席に乗っているはずの中国人を拉致するのが目的なのだ。殺すわけにはいかない。
運転手を射殺された二台目のランドクルーザーが、コントロールを失って迷走したあげく、路上を外れ草地に突っ込んで止まる。三台目は、運転席がハチの巣になったにも関わらず、なぜかベテラン運転手が操作するリムジンのごとく、路上で実に滑らかかつ静かに停車した。
すかさず、少佐の部下が突っ込んでゆく。後部座席から三人の中国人を手荒に引っ張り出し、抵抗する暇もあたえずに猿轡を噛ませ、目隠しをし、手首を縛りあげる。
「撤収!」
味方に損害を出さずに目的を達成したことに満足しつつ、少佐は声高らかに命じた。
「ご苦労だった、少佐」
『将軍』ことアレクザンダー・ニャルコはそう言って部下を労った。
なんとも印象的な人物であった。身長は、二メートル近い。頭は剃り上げており、黒光りしている。右頬には、宿敵とナイフ一本で戦った時に負った傷とされている目立つ傷跡。大きな顔の中で眼鼻が中心に寄っており、常にしかめっ面をしているように見える。単純に言ってしまえば、悪役顔である。
もっとも、この悪役チックな雰囲気は、ニャルコが長年にわたって作り上げた外面のイメージでしかない。本来のニャルコは、他者を思いやることができる気配りの男だし、ユーモアも解するしジョークも飛ばす『楽しい』男である。しかしながら、『敵』や部下に接する際には『いつ切れるか判らない不機嫌な悪党』と思われている方がやり易いことを知っているので、そのようにふるまっているだけである。
ニャルコは、不機嫌そうな顔をさらにしかめて、目の前にいる三人の中国人を睨みつけた。三人とも男で、心底怯え切っているように見える。今は、その恐ろし気な雰囲気を最大限に発揮すべき時だ。さらに怖がらせて、こちらの思惑通りに動かさねばならない。
「ようこそ。わたしが『ミディアム・アーミィ』の司令官、アレグザンダー・ニャルコ将軍だ」
目隠しと猿轡は外されたが、まだ後ろ手に縛られたままで、跪いた姿勢を取らされている中国人に向け、ニャルコは言い放った。
「貴様らの命は、我々が預かっている。貴様ら中国人は、生きるに値しない下賤な存在だ。人類の恥だ。邪教を信仰し、酒を飲み、煙草を吸い、麻薬に耽り、女を買い、飽食する。あまつさえ、ここ神聖なるセケティアの大地を買い占め、自然を破壊し、毒物を垂れ流し、空気を汚している。安い金で人々を働かせ、資源を収奪し、青年を堕落させ、少女を犯し、子供たちに怪しげな薬物を与え、誇るべき伝統を破壊し続けている。三人とも、処刑されてしかるべきだ」
ニャルコは、処刑という言葉を強調するかのように、腰に吊ったホルスターに手を置いた。
「しかしながら、我々にも慈悲の心はある。この神聖なるセケティアの大地を、貴様らの穢れた血で汚すのも忍びないしな。そこで、身代金を要求することとする。貴様ら一人当たり百万ドル。三人で、三百万ドルをよこせ。カネは、どこが払ってもよい。貴様らの親族、所属する企業、中国政府、なんなら共産党でも構わん。交渉し、三百万ドルを用立ててもらえ。カネと引き換えに、解放してやろう」
ニャルコは言葉を切り、三人の中国人を睨みつけた。
……おや。
ニャルコは内心で首を傾げた。先ほどよりも、怯えている様子が見られない。むしろ、戸惑っているようにも見える。一番左にいる年嵩の男に、残る二人が視線を送っている。一人が、首をわずかに振った。年嵩の男が、小さくうなずく。
「理解したのか? 英語が判らぬわけでもあるまい」
ニャルコは言った。
「あの、将軍……喋ってもよろしいですか?」
あまり上手とは言えない発音の英語で、年嵩の男が訊く。
「構わんぞ。言いたいことがあれば、喋れ」
「どうも、誤解があるようです」
男の言葉に、ニャルコは嘲笑で応えた。
「ごまかそうとしても無駄だ。今さら観光客のふりでもするつもりか? あるいはNGO職員のふりか? 貴様らは、セケティアを金儲けの対象としてしかみていない守銭奴どもだ。この美しい大地を収奪し、汚れ無き人々を奴隷化しようと企む悪の中国人だ。身代金か、さもなくば死だ。好きな方を選ぶがよい」
「あの、そのことなんですが……」
年嵩の男が言いかけて、いったん他の二名と視線を合わせて……それは、視線を通じて勇気をもらったかのように見える仕草だった……から、ニャルコに向き直り、顎をあげてはっきりとニャルコと視線を合わせて、続きを言った。
「わたしたち、三人とも、日本人なんですけど」
アレグザンダー・ニャルコ『将軍』の眼が、点になった。
お待たせいたしました。Mission18開始です。




