第十二話
窓から入って来る空気が、冷たさを増してゆく。
ミョン・チョルスは、背伸びするようにして手を上に伸ばし、高所にある窓を閉めた。窓外の光はかなり赤みを帯びており、日没が近いことが判る。ミョンは椅子に掛けると、『THIS』を一本点けた。深々と煙を吸い込みながら、ここ数日の推移に思いを馳せる。
覚悟していた尋問は、未だに行われていない。ただし、一日一回はパクがやって来て、当たり障りのない話を一時間ほどしてゆく。……親交を深めようとでもいうように。
パクとその背後にいるスポンサーの目的は、単なる米朝協議の妨害だけではない。拉致したにも関わらず待遇がいいのは、こちらを懐柔するためである。そう、ミョンは判断していた。
……こちらの弱点を、連中は知っているのだ。
煙草を吹かしながら、ミョンは苦々し気に思った。自分自身は、金正恩総書記に絶対の忠誠を誓っており、祖国を裏切るつもりは毛頭ない。だが、現実主義的思考の外交官として、祖国が抱える問題や矛盾については熟知している。……ある意味、頭の中身は『南』の連中と大差ないのである。それに、総書記に対する忠誠心は純然たる自発的なものであり、強制的な教育による『刷り込み』によるものではないのだ。内心認めたくはないのだが、自らの考えで転向する可能性を秘めている、とも言えるのである。
ドアがノックされる音に、ミョンは少しばかり驚いた。まだ夕食には早いし、今までこの時間帯に人が訊ねてきたことはない。ミョンは煙草を灰皿に押し付けて消すと、少しばかり用心しながら立ち上がった。
「どうぞ」
応諾の声に応じて入って来たのは、書類カバンを抱えたパクであった。だが、それに続いて一人の女性が入室する。
……ほう。
なかなかに印象的な女性であった。顔はサングラスとサージカルマスクに隠されてよく判らないが、ミョンの見立てではかなりの美人だ。東洋系で、おそらくは南朝鮮人。身長はミョンと同じくらい……百六十五センチほど……あり、髪は褐色に染めている。着ているのは黒のパンツスーツ。おそらく西ヨーロッパ製……フランスかイタリアのブランド物、とミョンは見当をつけた。外国の女性要人とも頻繁に会っているから、それくらいの目利きはできる。
「初めまして、ミョン課長。ユンと申します」
女性……ユンが名乗る。ユンは、朝鮮系の姓のひとつである。
「こちらこそ、初めまして」
丁寧に挨拶を返したミョンは、説明を求めるかのようにパクに視線を当てた。だが、パクはユンの後ろでカバンを手に突っ立ったまま、神妙な顔つきをしている。……どうやら、パクよりもユンの方が立場が上らしい。顔を隠しているのは、正体を知られないためだろう。若いがそれなりに有名な人物なのだろうか。
「どうぞ、お掛けください、……ミズ・ユン」
ミョンは仕方なく一部だけ英語を使って椅子を勧めた。朝鮮語の場合、姓だけで名前も肩書きも判らない相手に対し、礼を失することなく呼びかけるのは難しい。
「単刀直入に申し上げます。ミョン課長、わたくしたちに協力していただけませんか?」
ユンが、そう切り出した。
ユンと名乗る女性の話は簡単に言ってしまえば……こちらの仲間にならないか、という誘いであった。
ユンらの『集団』(彼女は自分が属している何らかの組織のことをそう称した)の目的は、最終的には南北の統一である。現状の朝鮮民主主義人民共和国は経済苦境に陥り、合衆国を始めとする世界各国を敵に回し、厳しい統制で国民を縛り付けることでしか安定した統治ができない。それに引き替え、大韓民国は着実に経済成長を続け、西側のみならず旧東側諸国とも友好関係を結び、アジアでもっとも民主的な政治体制を持つ先進的な国家となった。この両者が対等に合併することは不可能であり、南北統一は南が北を吸収する、という形にならざるを得ない。
しかし現在北側を支配している朝鮮労働党は、自国が南に呑み込まれることを頑なに拒否するであろう。つまり、今の金王朝体制が続く限り、半島統一が為されることはありえない、ということになる。
となれば、統一の方法はふたつしかない。暴力的統一か、朝鮮民主主義人民共和国に何らかの政治的変革を生起させ、政体を変更したうえで統一するか、である。
『集団』は、どのようなものであれ戦争は望んでいない。同じ民族同士で殺し合うなど、狂気の沙汰である。したがって、取るべき道は後者しかない。
「そのようなわけで、ミョン課長には引き続き米朝協議に参加していただきたいのです。もちろん、これを密かに妨害するために。言うまでもなく、米朝協議の進展は、貴国の延命に繋がりますからね」
ユンが、ミョンの眼を見据えて……サングラスをしているので推測ではあるが……言う。
「祖国を裏切れ、というのですか?」
「裏切りではありません。救うのです。どうあがいても、『北』が今後発展することはありませんよ。『南』と一緒になるのが、最善の道です。わたくしたちは、そのプロセスを促進させたいのです」
「とても賛同できるお話ではありませんし、だいたい非現実的だ」
ミョンはそう評した。
「充分に考え抜いた策ですけどね。政治、経済、文化、軍事などの専門家を集めて、何十回もシミュレーションを行いました。総書記と労働党幹部は引退し、中国あるいは国内の僻地で……そう、例えば両江道あたりで静かに暮らしていただく」
……やはり南朝鮮人か。
ミョンはユンが南側の人物であることを確信した。両江道は、朝鮮民主主義人民共和国ではハングルでの表記に若干の違いがあり、発音も『リャンガンド』となるのだ。
「あとを受けて国家運営を行うのは、ミョン課長のような古い因習にとらわれておらず、西側の事情に詳しい優秀な官僚です」
ユンが、続ける。
「若手グループによる集団指導体制を構築し、韓国の援助を受けながら改革を進め、統一への道筋をつける。頃合いを見て、段階的統一を開始。統一外交部の設置。軍の整理統合。南北往来の制限緩和。統一憲法作成委員会の設置。通貨統合の準備。経済統制委員会の設置。すべて、計画はできています」
ユンが身振りで合図すると、パクが書類カバンの中から合成皮革のファイルを取り出した。テーブルの上の灰皿をどかしてから、そっと置く。
「これに眼を通してみてください。ミョン課長、あなたは本計画のキーパーソンのひとりなのです。ぜひ、お力を貸していただきたい」
ユンが、ぐっと身を乗り出す。
「いくつかお聞きしたいのですが」
ミョンは、そう切り出した。
「なんなりと、どうぞ」
「その『集団』と、韓国政府の繋がりは?」
「政府とは無関係です。たしかに、我々は政治家との繋がりはもっていますが、あくまで民間の団体です。南北統一を切に希求する有志の集まりですわ」
ユンが、言い切る。
「外国の関与は?」
「一切ありません」
「では、資金の出どころは?」
「韓国財界です。そのあたりは、こちらにも書いてあります」
ユンが、テーブルの上のファイルを指し示した。
「統一すれば、統一国家はより強固で繁栄する国家となるでしょう。経済的見返りも大きい。統一は、堅実な投資とも言えるのです」
……単なる夢想家の集団なのか。あるいは、ミョンが想像もできないほどの秘策を持っているのか。
「とりあえず、読ませていただきましょうか」
ミョンは複雑な思いで、ファイルに手を伸ばした。
「では、装備を受け取ってもらおう」
元ミスター・ブラウンのミスター・ムーアが、隣の部屋に通じるドアを開けた。
用意されていたのは、五丁のMPi‐KM突撃銃、三丁のピストーレM、三丁のPB消音拳銃、六発のP1A6スタン・グレネードであった。
「爆薬はどこですかぁ~」
セムテックスが無いことに気付いたベルが、さっそく騒ぎ出す。
「大丈夫だ。ほら」
ムーアが、段ボール箱を差し出す。
「セムテックスHの1ポンドブロックが十個ですかぁ~。これなら満足ですぅ~」
中を覗き込んだベルが、笑顔になる。
「ちゃんと、強力な火器も準備したよ」
ジョーが、機関銃を引っ張り出した。ロシア製の、古いRPK軽機関銃だ。AKM突撃銃をベースに機関銃化したものだから、MPi‐KMと弾薬は共通だ。七十五発を収容できる円錐台型のドラム弾倉がぶら下がっているが、AKM/MPi‐KM用の三十発箱弾倉を装着して射撃することもできる。
「こいつはいいね」
亞唯が受け取って、付属のスリングの長さを調節し始めた。二脚を使って伏せ撃ちするのが基本だが、ベルト給弾ではなくドラム弾倉である利点を生かし、スリングで肩から吊って、腰だめにして立ったまま移動しつつ火力支援を行う、といった使い方もできる。
「こいつも、用意したぞ」
ムーアが、平べったい木箱を持ってくる。蓋を開けると、中には二十発の手榴弾と別保管の信管が収まった二つの金属缶が入っていた。スカディが一発を取り出し、検める。いわゆる『パイナップル』型の手榴弾だ。
「ロシア製のF1手榴弾のようですわね」
「これしか用意できなかった。古臭いが、使い物にはなるだろう」
ムーアが、言う。
F1手榴弾の起源は、なんと百年以上前……1915年のフランスにある。同国で開発され、大量生産されたF1手榴弾は、最初期の物は撃発式……壁や靴底など硬い物に遅延式信管を叩き付けて撃発させてから投擲するという、当時としては着発式信管とともに標準的な型式……であったが、わずかに先行したイギリスのミルズ手榴弾を参考に改良されたF1はセイフティ・レバーとセイフティ・ピンの組み合わせという、現在でも使われている発火・投擲手段を有する近代的手榴弾となった。これは第一次世界大戦で多用され、改良を加えられながら同盟国にも多数が供与されることになる。
F1手榴弾をフランスから供与された合衆国は、これを参考に同国最初の近代的手榴弾であるMk1を製作するが、これは欠陥の多い代物であった。すぐに改良型のMk2が作られ、これが第二次世界大戦、さらにはその後の朝鮮戦争まで使われる、戦争映画などでお馴染みの合衆国陸軍制式手榴弾となる。ちなみに、このMk2は自衛隊でも国産化して長い間使用している。おそらく、現代のミリタリーマニア以外の日本人が、『手榴弾』と言われて思い浮かべるのは、これであろう。
一方、フランス製のF1手榴弾はロシア革命後のロシア内戦でも、白軍(反共産軍)に供与されて使用された。戦後、勝利した赤軍はF1手榴弾の優秀性に眼をつけ、その改良型を制式化することを決定、大量生産が行われることとなる。フランス時代と同じF1の名称を与えられた手榴弾は、第二次世界大戦で使用され、後には東側同盟国や世界各地の共産勢力に対しAK47などとセットで大量にばら撒かれることになる。ソビエト/ロシア陸軍では、すでに後継の手榴弾が装備されているが、安価なロシア製F1手榴弾はいまだ外国への輸出/供与用として生産が行われており、アフリカや西アジアといった政情不安定なところではありふれた兵器のひとつだ。
AI‐10たちは装備を分け合った。亞唯がRPKを持ったので、必然的に亞唯とMPi‐KM装備の雛菊のコンビが支援担当となった。スカディ、ジョー、シオの三体がMPi‐KMとPB消音拳銃、それにP1A6各二発を持って、主力となる。ベルはすべてのセムテックスを独り占めし、爆破担当となった。……爆破する目標があるかどうかは不明だが。
PBを持たぬ三体がサブウェポンとしてピストーレMを装備する。予備弾倉類も、適当に分配された。RPK用のドラム弾倉は、本体装着済みの物を含めて三個。二十発の手榴弾は、スカディ、ジョー、シオが四個、ベルが五個、雛菊が三個取った。
装備はその他に、スプリング式で針が飛び出す自動注射器が十二本入ったプラスチックケースがあった。
「1ダース? 多いですわね」
スカディが、訝し気な視線をジョーに向ける。
「あんまり死人を出してほしくないんだよね。一応、韓国は合衆国の同盟国だし。ミョン・チョルスが抵抗した場合はもちろんだけど、銃器を持たない韓国人が抵抗した場合もこっちを使って欲しいんだよね。君たちのエレクトロショック・ウェポンよりも持続性があるし。ケタミンだから静脈注射する必要もないし、数時間は動けないからね」
ジョーが説明し、スカディとシオ、自分用に三本ずつ取り、残る三本を亞唯、雛菊、ベルに渡した。
丈夫な結束バンドやその他便利小物が入ったポーチも各体に配られる。眼出し帽……今回は、全員黒であった……も渡された。外周フェンスを切るためのワイヤーカッターを含め、簡易な工具類なども、全員で分配して装備する。
サポートチームとの連絡に使用されるスマホは、スカディとジョーが持った。バックアップ用の無線の周波数も、伝達された。
「あ、一応言っておくけど、今回は偽装として北朝鮮の特殊部隊のふりをするからね。誰かに聞かれるおそれがあるときの音声会話は、北朝鮮訛りで頼むよ」
ジョーが、念押しする。
CIAが用意してくれた移動用の車両は、ヒョンデ(ヒュンダイ)・スターリアであった。大型ミニバンなので、AI‐10六体くらいなら余裕で乗れる。色は白。韓国人は白い車を好むので、いちばん目立たない色と言える。ちなみに、他に人気のある色は黒とグレイ/シルバー系である。韓国で好まれる車の色は『高級車っぽく見える色』であり、日本でよくみられる原色系の赤や青、柔らかなパステル調の色合いなどはまったく人気がない。
韓国高速道路大邱‐釜山線に乗ったスターリアは、CIAの韓国人オフィサーの運転で順調に南下した。密陽市街地の東方に達したころには、すでに辺りは真っ暗になっていた。
「今のところ、異常は無いとの報告が入っている。常勤の職員は、ほぼ全員が定時で退社したようだ」
『ハンビ建設密陽複合施設』を外部から見張っている他のエージェントとスマホで連絡を取った韓国人オフィサーが、英語で教えてくれる。
「では、さっさと侵入しましょう。いいですわね、ジョー?」
スカディが、ジョーに確認を取る。
「もちろんいいよ。侵入に関しては、君が指揮を執ってくれて構わないよ」
ジョーが言う。
一同は、目立たない細道に入って停止したスターリアから、装備を抱えて降りた。スターリアが、すぐに走り去る。めったに車両が通らない道とはいえ、漫然と長時間駐車していれば、怪しまれるのは確実である。
「では、わたくしとシオが先頭で。亞唯、殿をお願い」
スカディの指示で、AI‐10たちは隊列を整えた。本来ならば光学系が一番強化されて、夜間にも強い亞唯が先頭に立つべきだが、今日は軽機関銃装備なので後方で火力支援役を務めてもらう方が都合がいい。
「では、参りましょうか」
スカディが、小さく腕を振って前進の合図をする。シオはMPi‐KMを腰だめにして、アカガシの疎林の中に分け入った。
第十二話をお届けします。




