第十話
「そうだとしても、なぜハンビ・グループはミョンを生かしておいているのでありますか?」
シオはそう畑中二尉に質問した。
「そこなんだよなー。普通に考えれば、情報収集のため、となるなー。なにしろ、北朝鮮の影の外務大臣だー。頭の中に詰まっている情報をごっそり引き出せれば、ハンビ・グループにも韓国にも多大な利益をもたらすだろー。そのうえ、金正恩の個人的な友人となれば、あまりにも貴重過ぎる情報源だー。ただし、それだけが生かしておく理由と考えるのは危険じゃないか、とあたしは思ってるぞー」
「CIAも同様の見解だよ」
ジョーが、畑中二尉の言葉を引き取って言った。
「ハンビ・グループの狙いは単なる米朝協議への妨害だけじゃない可能性がある、という見方だね。もう一歩踏み込んで、統一前の段階で北朝鮮における独占的利権でも獲得しようとしてるんじゃないか、とかね。あるいは、ハンビ・グループには目的が合致する、あるいは米朝協議の妨害や半島統一によって利益を得ることができる別の『存在』のパートナーがいて、ミョンを生かしておくのはそのパートナーの意向なのかもしれないね」
「パートナーねえ。……ロシア、とか?」
亞唯が、推測を口にする。
「そこは何とも言えないね。CIAが、見えない影を見ているだけ、なのかも知れないし」
ジョーが、小さく首を振りながら言う。
「二尉殿。半島統一って、ホンマに出来るんやろか?」
唐突に、雛菊が訊いた。
「あー。もちろん不可能ではないぞー。出来る出来ないで言えば、出来るぞー。ただし、よほど上手くやらないと大惨事になること請け合いだー。ま、現状を鑑みれば、大惨事になることは間違いないー。ちょっと長くなるが、面白いから解説してやろー」
畑中二尉が、ディスプレイに移っていたイム・ソヒョンの映像を消し、キーボードを操作して別のファイルを開く。
「分断国家が統一した例は、ベトナムやイエメンもあるが、一番参考になるのは東西ドイツだろー。ドイツが統一したのは……正確に言えば再統一だが……1990年のことだー。当時の西ドイツ、ドイツ連邦共和国は、世界第三位の経済大国で、ヨーロッパ一の経済先進国だったー。人口は約六千二百万人、国土面積は約二十五万平方キロメートル。GDPは一兆六千億ドル近く。一人当たりGDPは約一万八千ドル。一人当たりGDPは当時の日本と同じくらいだなー。ま、主要先進国の一員だったわけだー。で、対する東ドイツ、ドイツ民主共和国は人口約一千六百万人、国土面積約十万八千平方キロメートル。GDPが千六百億ドルほど。一人当たりGDPが約五千ドル、といったところだー。これでも、社会主義国の中では豊かな国で、『東欧の優等生』『東欧随一の工業国』『もっとも成功した社会主義国』などと言われるほどだったんだぞー。数字を整理すると、人口で約四倍、面積で二倍以上、GDPで十倍、一人当たりGDPで三倍半以上の国に、吸収されたわけだー」
「合併ではなく、吸収されたのでありますか?」
シオは訊いた。
「そうだー。法律上は、東ドイツの各州が、ドイツ連邦に加入した、という形だからなー。順番にみていくと、まず東ドイツが憲法を改正してドイツ社会主義統一党の一党独裁を終わらせる。次いで自由選挙を行い、統一を公約に掲げたドイツ連合が勝利、政権を担うことになる。そして国民の負託を受けた政府が、西ドイツ政府と交渉し、統一に向けた条約を締結ー。次に経済統合の前段階として、西ドイツの通貨であったドイツマルクを東ドイツが導入したー。そして東ドイツが地方自治体であるベツィルク……おおよそ県だなー……を廃止し、より大きなラント……州に改編したー。これは、州の集まりである連邦制を取る西ドイツに合わせたものだー。この後東ドイツ議会が、各州の西ドイツ加入を議決。東西ドイツ政府が再統一に合意し、最終的な条約に調印。そして東ドイツの各州が西ドイツの連邦に加わる、という流れだー。だから、吸収なのだー。一気に東ドイツ政府を廃止したりすれば、混乱は必至だからなー。地方自治の枠組みや行政組織を残したまま、緩やかに統合を進める形にしたわけだなー」
「西ドイツが連邦制を取っていたことが幸いした形ですわね」
スカディが、言う。
「それでも大混乱になったぞー。やはり政治的な経済体制の差異と、経済格差のギャップが大きかったからなー。最大の失敗は、ドイツマルクとオストマルク(ドイツ民主共和国マルクの通称)の交換比率を基本的に1対1にしてしまったことだー。たしかに統一前も公的には1ドイツマルクが1オストマルクに等しい、とされていたが、ハードカレンシーのひとつと看做されていたドイツマルクと、東欧の一国の通貨に過ぎないオストマルクでは、貨幣の国際的信用度に雲泥の差があるー。ということで、実質1対5くらいで交換されていたのだー。ベルリンの壁崩壊後には、1対10くらいになっていたという話もあるぞー。こんな交換比率だから、統一後は旧西ドイツの莫大な富が旧東ドイツに無駄に流れ込んでしまったー。そうなれば、経済不況を引き起こすことになるー。旧西ドイツの一部企業は儲かったが、本当に一部の話だー。統一ドイツでは、通貨供給量が増大し、当然ながらそれがインフレを呼び起こし、景気が減速するー。政府や州の財政赤字は増大し、仕方なく増税と公債の発行が行われ、それが更なる景気の減速をもたらすー。もちろん政府も旧東ドイツ地域の復興に尽力し、国営企業の民営化、整理統合、解体、雇用調整などを進めたが、経済不況の影響で元国営企業の倒産が相次いだー。ドイツの経済発展は急ブレーキが掛かることになるー。統一から十五年くらいは、毎年GDPの3から4%程度が、旧東ドイツ地域への各種経済支援に消えていった、というのだから凄まじい話だー。総額二兆ユーロ以上が費やされた、という試算もあるぞー。その悪影響はいまだに続いていて、移民過多の問題や、軍備の行き過ぎた縮小なんかはその一例だなー」
「そんなに軍備を縮小しているのですかぁ~」
ベルが、訊く。
「えらく少ないぞー。日本より少し狭いくらいで、東西南北に外国との国境を抱えている国だというのに、陸軍の常備兵力は十万名以下なのだー。今戦ったら、おそらくポーランドでも互角に戦えるんじゃないかなー」
にやにや笑いながら、畑中二尉が言う。
「ともかく、当時の世界有数の経済大国の力を以てしても、社会主義国の中でもっとも成功した国を吸収することは難事だったのだー。で、翻って南北朝鮮を見てみると、大韓民国は人口約五千二百万人、面積が約十万平方キロメートル、これは、人口、面積共に日本の関東地方と東北地方を足したくらいになるー」
「ほー。これはおもろいなー」
雛菊が、感心したように言う。
「GDPは二兆六千万ドルを軽く超えるー。世界的に見ても間違いなく経済大国だが、東アジアでは第三位だなー。一人当たりGPDは三万二千ドルほどー。かなり豊かな国家だと言えるー。でもまあ、1990年の西ドイツほどの『大国』ではないなー。一方の朝鮮民主主義人民共和国は、人口約二千五百万人、面積が約十二万平方キロメートル。この面積は、北海道と九州を合わせたくらいだー。さすがに人口は、北海道と九州を合計したものより多いがなー」
「ということは、朝鮮半島の面積は日本の面積引く中部地方と近畿地方と中国四国地方、というわけでありますね?」
シオは確かめた。
「プラス付属島嶼だなー。というよりも、朝鮮半島の面積は本州よりちょっと小さい、と言った方が判りやすいだろー」
「意外と日本は大きいのですねぇ~」
ベルが、言う。
「日頃合衆国だの中国だのロシアだのでかい国ばかり見ていると小さく見えるがなー。日本の『近所』で日本より面積の大きい国は、ロシア、中国、インドネシア、モンゴル、ミャンマー、タイ、パプアニューギニアくらいしかないぞー。……えーと、話を元へ戻すと、北朝鮮のGDPは推定百七十五億ドル、一人当たりGDPは推定六百五十ドル。GDPはアフリカの小国かカリブ海の中規模な島嶼国家レベルだー。一人当たりだと多少はましになるが、それでも貧乏国家であることには変わりないー。韓国と比べると、人口で二倍、面積は韓国の方が狭く、GDPでなんと百六十倍、一人当たりGDPで五十倍近いというとんでもない経済格差があるー」
「こりゃひどいな」
亞唯が、天井を仰いだ。
「東西ドイツ統合直後に、旧東ドイツから旧西ドイツへと移住した人の数はざっと百八十万人と言われているー。旧東ドイツ地域の人口の10%以上が、旧西ドイツに流入したのだー。一人当たりGDPが三倍半だからなー。倍以上の給与がもらえたはずだから、移住したくなるのも無理はないー。これが、南北朝鮮の場合ならどうなるか想像してみろー。一人当たりGDPは五十倍だぞー。ソウルで一か月皿洗いすれば、北で一年間トウモロコシ作ったり、炭鉱労働したりして得られる賃金の数倍稼げるんだからなー。おそらく、数百万単位の経済難民が南側に押し寄せることになるー。仮に五百万人だとしよう。韓国の就業者人口は約二千七百万。そこに、どんな低賃金の仕事でも喜んで引き受ける五百万の男女が押し寄せてきたら、あっという間に失業率20%越えの阿鼻叫喚だー」
「韓国経済終わるで、これ」
雛菊が、言う。
「まー、これを防ぐには段階的統一しかないなー。国境は閉ざしたまま、統一憲法を作って外交、国防を一体化。経済統合はせずに北への支援、投資を行ってインフラ整備と産業構造の改革を推し進める。行政組織を南側流に変え、警察、消防、郵政などの機関の統合を進める。機が熟したところで、通貨統合。韓国ウォンと北朝鮮ウォンの交換比率は、常識的なものに留める。国境を解放しても、旧国境を超える移住には制限を設け、無制限な経済難民の流入は阻止する。そんな感じで、おそらく十年以上の年月をかけてゆっくり統一を進めれば、ソフトランディングも可能だろうなー。一説には、十兆ドルの費用が必要、とまで言われてるがなー。韓国のGDP四年分だぞー。だれが払うんだ、誰が」
畑中二尉が、からからと笑う。
「もちろん、政治的な状況もドイツ再統一とは違うー。当時、ドイツの再統一は再び強大なドイツが誕生するという危惧が一部で言われたものの、西側各国にはおおよそ歓迎されたー。統一ドイツが、NATOに残ることが決定的だったからなー。まー、ソ連は渋い顔をしていたが、流れを止めることは無理だと判っていたから、逆らわなかったー。ゴルバチョフは、東欧諸国に対するソ連の内政不干渉を宣言していたしなー。ドイツの近所の東欧諸国は、強大化したドイツの脅威よりも、東欧におけるソ連の影響力の弱化と自国の共産主義政党一党独裁体制の終焉を望んでいたから、究極の東ドイツ民主化と言える西ドイツへの吸収を支持したー。ポーランドは例外だったがなー。何度もドイツにはひどい目に遭わされてるし、一足早く選挙でポーランド統一労働者党をぶっ潰して、『連帯』による民主政府を作ってたから、統一ドイツへの警戒心の方が強かったのだー。えー、それに比べると南北朝鮮統一は茨の道だー。まず中国が、韓国による北朝鮮の吸収を許さないだろー。新義州(シニジュ/中朝国境の都市)から北京までは直線距離で六百七十キロメートルしかないー。東京‐広島間に等しいと言うとずいぶんと遠く思えるが、中国大陸のスケールで言えばすぐ近くだー。合衆国も、北朝鮮が地球上から消えてなくなるのは歓迎するが、統一費用は一ドルも払う気はないだろー。有権者の理解が得られないからなー。日本も同様だなー。統一費用の一部負担を言い出した政党は、右であれ左であれ中道であれ、次の選挙で大敗するに決まってるー」
「はー。とすると、ソフトランディングは無理そうなのであります!」
シオはそう言った。
「そうだなー。一番あり得そうな統一シナリオは、北朝鮮の政変に伴う国内混乱、実質的な無政府状態化、韓国に押し寄せる経済難民、それによって引き起こされる韓国の経済危機と政変。韓国の混乱を収めたい合衆国と、北朝鮮を緩衝地帯として残したい中国が密約を結び、ロシアと日本も加えて、中立で実質的非武装地帯化された旧北朝鮮と、現状維持の韓国による半島全域の連邦国家化、というところだろうなー。韓国国民は不満だろうが、戦争にもならず周辺諸国が納得する形で統一するには、こんな道しかないだろー」
「そうだね! 合衆国大統領が主導するならともかく、普通に朝鮮半島が統一されても大統領の支持率は上がらないからね! 畑中二尉が描いたシナリオなら、北朝鮮が消滅したうえに韓国の危機を救い、中国との無用な争いを回避した、ということで合衆国大統領の株も上がる。あり得そうなシナリオだよ!」
ジョーが、言う。
「結局ハードランディングで、韓国は政治も経済もボロボロになるー。日本も合衆国と中国に強要されて、しぶしぶ統一費用を払わされるはめになるんだろうなー。日本は北朝鮮と戦う理由は無いし、それは北朝鮮も同じだー。本音を言えば、日本にちょっかいを出さないでいてくれれば、崩壊せずにこのまま金王朝が続いてくれた方が、日本にとってはありがたいんだがなー。軍事的脅威は中国の方がはるかに大きいし、現状維持の方がカネもかからずに済むー。例えは悪いが、近所に住み着いている迷惑な希少動物みたいなもんだー。韓国さんが引き取って飼育してくれればみんな安心なんだが、餌代は韓国さんだけでは負担しきれないから、その時は米国さんや日本さんも払ってね、という感じだなー。それならいっそ、野生のまま放置しておいた方がいいんじゃないか、とみんな思ってるわけだー」
「噛み付かれない限りは、その方が良さそうだな」
亞唯が、言う。
「まー、下手に噛み付いたりしたら、米国さんがすぐに散弾銃持ち出してきて害獣駆除を始める、と珍獣の方も判ってるからなー。吠えはしても噛み付かず、現状維持が続いてるわけだがー」
「たまに韓国さんが餌やりをしているのがまずいのでは?」
スカディが、言う。
「それはあるなー。韓国さんにしてみれば正当な理由があるんだろうが、周囲からみれば餌やるくらいなら責任もって自分ちで飼え、と言いたいよなー。ま、韓国さんは分断の責任は米ロ中日にある、とか言ってるから、絶対無理だがー」
「そもそも分断の責任はどこにあるのでありますか?」
シオはそう訊いた。
「最初に言っとくと、日本に責任はないぞー。かつての朝鮮半島は一体統治されていたからなー。連合国がこれを日本から取り上げ、信託統治する予定にしたことが発端だー。合衆国とソ連が、お互い衝突することを警戒し、事前に南北分割占領を取り決めたことにより、北側がソ連、南側が合衆国によって占領されるー。その後も南北一体化した国家樹立への動きはあったが、ソ連軍政下の北側では親ソ左派が重用される政治体制が構築され、合衆国軍政下の南部では親米右派が重用される政治体制が構築されることになるー。こうなると、もはや修復不可能だなー。ま、主たる分断の原因は、合衆国もソ連も朝鮮独立を前提とした統一行政機関を設置するつもりが無かったことと、朝鮮人が自主的に設立した臨時政府を正当なものと認めなかった、の二点だろうなー。例えばオーストリアは、連合国による占領前に臨時政府を樹立させ、占領後に正当な政府として承認させることに成功しているー。その結果、国土は合衆国、ロシア、イギリス、フランスの四ヶ国によって分割占領されたが、分断国家となることなく主権回復したー。ま、ハプスブルク家の帝政を革命によって終わらせて、自力で共和制を勝ち取ったことのあるオーストリアと、長年明と清にべったりだった朝鮮を比べるもの酷な話だがなー。合衆国もソ連も、当時の朝鮮人に国家運営は無理だ、と判断していたのだろー。そしてその後の朝鮮戦争の勃発で、南北分断は決定的なものとなるー。俯瞰的に見るならば、やはり朝鮮半島全体を手中に収めたかったソ連と、朝鮮半島の地政学的重要さは認識していたが日本本土占領で手いっぱいだった合衆国に責任があるだろうなー。一番良かった方法は、いずれ独立させるにしても、朝鮮を日本から取り上げずにSCAP(連合軍最高司令官総司令部・いわゆるGHQ)の統治下に置き、朝鮮から共産主義勢力を一掃できるまで日本と一体統治状態に置いておくことだったろうなー。まー、そうなっても朝鮮戦争は防げなかったかもしれないが、少なくとも分断国家にはならなかったろー」
「そうなると連合軍がプサン橋頭保から追い落とされて、高麗人民共和国ができていたかも知れませんわね」
スカディが、真面目な顔で言った。
第十話をお届けします。




