第四話
ミョン・チョルスは暇を持て余していた。
スマートフォンも手帳も没収されてしまったし、紙とペンを要求してみたが拒絶されてしまった。閉じ込められている部屋にはテレビもラジオもパソコンも電話もない。新聞や普通の書籍も与えられることはなかった。
代わりに娯楽用に与えられたのは、漫画雑誌の数々であった。これらなら、『無害』であると判断したのだろう。
ミョンは流し読みしていた『知音漫画』を放り出すと、カップを取り上げた。中身は、中国でも広く販売されているマックスウェルのインスタントコーヒーだ。飲料に関しては、まったく制限されることなく、要求した物が与えられている。酒は駄目だと言われたが、もともとミョンはほとんど飲まない……外交官として晩餐会などに出席した際に、乾杯などに付き合う程度……なので、そこは問題なかった。
ミョンはカップを傾けた。以前は富裕層しか飲むことのできなかったコーヒーだが、最近では北朝鮮でも国産のインスタントコーヒーが出回るようになり、一般庶民でも楽しめるようになってきた。ただし、味の方は最低レベルである。外交官として国外での活動が長く、すっかり美味いコーヒーの味に馴染んでしまったミョンは、ピョンヤンではもっぱら韓国産のスティックコーヒーを好んで飲んでいた。
ミョンが監禁されている部屋は、五メートル四方ほどの部屋であった。中国風の硬いベッドと、大きな低いテーブルが二つ。床は板張りだ。
窓はあるが、簡単に開けられないように木片で楔が打ち込まれている。少し工夫すれば開けて逃げられるだろうが、ミョンは脱出することはとうに諦めていた。天井の隅にはこれ見よがしに監視カメラがぶら下がっていたし、おそらくは他にも見付けにくいところに複数の監視カメラが取り付けられており、常時監視が行われているはずである。見張りの連中はどう見ても現役の兵士か元兵士で、いずれもが自動拳銃で武装している。全員ミョンよりも若く逞しいので、拳銃などに頼らずとも、あっさりとミョンをくびり殺せるだろう。……逆らうだけ無駄である。
ミョンはテーブルに手を伸ばすと、煙草の箱を取り上げた。『南京』というブランドの紙巻だ。外国人の前では非喫煙者のふりをしているミョンだが、実はかなりの煙草好きである。愛用している銘柄は『光明』で、北朝鮮では庶民でも見栄を張って奮発すれば購入が可能な中級品の銘柄だ。
ミョンは安物のライターで火を点けた。紫煙を深々と吸い込む。本日七本目か八本目の煙草である。暇なので、普段の倍近い本数を吸ってしまう。
煙草を楽しみながら、ミョンは拉致の経緯を振り返ってみた。
シャオ上校に拉致を告げられた直後、ミョンは目隠しをされた。そこでトラックの荷台に押し込まれる。
扱いは悪くなく、縛られることも手錠を掛けられることもなかった。トラックはカーブの多い一般道をしばらく走ったのちに、高速道路……急に速度が上がり、停止も減速もせずに滑らかに走り始めたのでそう知れた……に乗った。ミョンの感覚で、拉致から一時間ほどのところで、トラックが高速を降りる。そこから数分走ったところで、トラックが一時停止する。断片的に聞こえてきた中国語……広東語ではなく、北京語らしい……からすると、何らかの検問所を通過するところだと判った。
検問が終わり、二分ほど走ったところで再びトラックが止まり、ミョンは腕を取られてトラックから降ろされた。そのまま硬い地面を歩かされ、階段を登らされる。空気の動きが変わり、微かなケミカル臭がしたので、何らかの乗り物の中に入ったことが判った。指示されたままに腰を下ろすと、腰のあたりにベルトのようなものを装着される。待つうちに、キーンという甲高いジェットエンジンのような騒音が聞こえてきた。どうやら、飛行機に乗せられたらしい。エンジンがずいぶんと近くにあるように感じるので、小型機か中型機だろう。エンジン音に被さるように、ヒュイーンという別の音も聞こえ始めた。やがてそれがもっと重々しいブォーンという音に変わる。……間違いなく、ターボプロップ機だ。
ミョンには知る由もなかったが、乗せられたのは人民解放軍空軍の南部戦区空軍輸送捜索救難旅団に所属し、広州天河基地に配備されているY‐7‐100双発ターボプロップ機(旧ソ連のAn‐24の改良コピー)で、同隊では輸送と長距離捜索救難に使用されている機体であった。
離陸してから三時間ほどで、ターボプロップ機は着陸した。それほど大型の機体とは思えないので、巡航速度はせいぜい時速五百キロメートル程度であろう、とミョンは想定した。三時間で千五百キロメートルと考えれば、南方へ飛べばフィリピン中部やベトナム南部、南西ならカンボジアやタイ、ラオス、西なら雲南省、北西なら四川省、北なら河南省、北東なら日本の沖縄島まで到達できるだろう。
北京まで連れてゆかれるところなので、給油のためにいったん着陸しただけではないか、というミョンの予測はあっさりと裏切られた。エンジンが切られ、ミョンは腕を取られて機外へと連れ出されたからだ。
外に出たミョンは、自分がまだ中華人民共和国内にいることを確信した。気温が、東莞よりもだいぶ下がっている。東南アジアの気候ではない。だが、空気がかなり湿り気を帯びているので、雲南や四川などの内陸部でもなさそうだ。
おそらくは華中、それも海が近い、とミョンは踏んだ。
このミョンの推測は見事に的中していた。Y‐7が着陸したのは、華中の大都市、上海直轄市にある崇明島中部にある、人民解放軍空軍崇明基地だったからだ。
ミョンはそのまま乗用車の後部座席と思われる場所に押し込まれた。車はすぐに走り出し、長大な崇啓大橋を渡って本土に入り、省級高速公路S28号線を使って南通市の市街地を北に迂回するようなルートを取って、約二時間後に目的地の新店鎮にたどり着く。
それ以来、ミョンはこの一室に閉じ込められていた。トイレは部屋に併設されているし、シャワーも一日一回浴びさせてくれる。着替えも貰える。食事は一日三回で、簡素なものだが量も充分にあるし、味もそこそこいい。
監視の男たちは、いずれも礼儀正しかったが不愛想で、必要な場合にしか口を開かないし、北京語で雑談に誘っても乗っては来なかった。当然あると思われた尋問等も行われず、ミョンは今のところ暇を持て余している状況だった。
……やはり、連中の目的は合衆国の特使との会見妨害だけなのか。
危害が加えられていない。尋問どころか事情聴取すら行われていないといった現状を考えれば、そう考えるしかないとミョンには思われた。おそらくは、中国の諜報機関が……人民解放軍が絡んでいるところから見て人民解放軍総参謀部あたりか……が、ミョンと合衆国特使の会見に関する情報を取得し、これを阻止したものだろう。それならば、拉致のタイミングや現在の待遇などに関する説明がつく。
問題は、いつ解放されるかである。単純に会見阻止をしたいだけならば、わざわざ華中(推定)まで移送しなくても、地元で数日間監禁しただけで目的は達成できたはずだ。それで済ませなかった、ということは、長期にわたって監禁し、今後の朝米協議にミョンが参加できないようにする計画なのかもしれない。
と、ドアにノックがあった。ミョンは床に眼を落し、窓から差し込む日差しが作る桟の影の位置を確認した。室内には時計が無く、腕時計もスマートフォンも取り上げられてしまったので、ミョンは時間を知るために桟の影を利用した独自の『日時計』を使っていた。そこから読み取った限りでは、まだ昼食には早いようだ。
「どうぞ」
ミョンは扉に向かって呼びかけた。
入って来たのは、シャオ上校だった。あまり似合っているとは言えないスーツ姿で、機嫌良さそうな笑みを浮かべている。東莞で目隠しをされる前に握手して以来の、再会である。
「瑣事がようやく片付きましてね」
シャオが言う。……どうやら、やっとまともな会話ができる人物が来てくれたようだ。
ミョンは素早くシャオ上校を値踏みした。軍人としては並の体格……もちろんミョンよりは背が高いが……ながら、いかにも士官らしい風格を湛えた人物だ。小さな眼は鋭い光を放っているし、いかにも自信たっぷりな物腰。実力がありながらそれをあからさまに誇示せずに、周囲にはソフトに接するタイプだと、ミョンは判断した。こういった人物には、こちらも強く当たらず調子を合わせてやった方が、交渉事はうまく行くことが多い。
……敵に回すのは愚策だ。
ミョンはそう判断した。孤立無援の状態なのだから、一人くらいは『味方』を得ておくべきだろう。幸い、外交官なので交渉事は得意である。
「どうぞ、お掛けください。コーヒーでも、飲みますか?」
ミョンは手でベッドの方を指し示した。あいにく、椅子はひとつだけだ。年齢はシャオ上校の方が上らしいので、朝鮮のマナーとしては椅子をシャオに明け渡し、ミョンがベッドに移動すべきだが、それではいささか下手に出過ぎであろう。一応ミョンが『部屋の主』なのだから、『不意の来客』をベッドに座らせても礼を失したことにはならないはずだ。
「飲み物は結構です」
そう答えつつ、シャオ上校がベッドに腰を下ろした。
「煙草はいかがですか?」
ミョンは『南京』の箱を取り上げた。
「一本いただきましょうか」
シャオ上校が答える。
ミョンは『南京』の箱を振って一本振り出すと、箱ごとシャオに差し出した。シャオが一本取ったところで、ライターを着火して差し出す。……二人のあいだのほぼ中間、という微妙な位置に。
ここでシャオが咥えた煙草の先端までライターの炎を持って行ってしまっては、ミョンが完全に立場が下であると認めることになってしまう。かと言って、ただ単に火が付いていないライターを渡しただけでは、煙草を勧めるという『友好的な関係を希望する』というこちらから出したサインを台無しにしてしまう。友人同士が一緒に煙草を楽しんでいるかのような空気を醸成するためには、ミョンが『ライターの火を点けて差し出す』という行為と、シャオが『煙草を咥えたまま身を乗り出してミョンのライターの炎を受ける』という行為……つまりお互いがそれなりに譲歩する、という『意思表示』が必要であった。
シャオが、表情をまったく変えずに身を乗り出し、ミョンが差し出した炎で煙草に火を点けた。深々と吸いつけながら身を戻し、紫煙を吐き出す。
ミョンは灰皿をシャオの方に滑らせた。……シャオ上校はこちらの『好意』を拒まなかった。これは、友好関係を結ぶ気がある、というサインだろう。どうやら、彼とはまともに話ができそうだ。
「いろいろと訊きたいことはおありでしょうが、わたしは上から命令されて動いているだけです。あなたに対し、何ら含むところはありません」
シャオ上校が、そう切り出す。ミョンはうなずいた。上校クラスが、独断で外国の外交官を拉致するような作戦を行えるわけがない。もっと上の、まず間違いなく将官が責任者であることは、ミョンも確信していた。
「ぜひとも訊きたいことがあります。わたしの部下の処遇です」
「それなら御心配には及びません。実は、わたしが片付けていた瑣事というのがそのことでね。部下はお二人とも、香港に送られてすでに帰国済みです」
シャオ上校が、火の点いた煙草を振り回しながら説明する。ミョンは安堵した。部下想いであることも確かだが、部下が二人とも帰国できたということは、自分もいずれ無事帰国できるという期待を高めてくれる情報である。
「で、あなたに関しては、近日中に移送されることになっています。場所は言えませんがね」
シャオ上校が続ける。言えない場所。やはり、北京だろうか。
「ということで、会っていただきたい人物がいます。どうぞ!」
シャオが、扉の方に向かって呼ばわる。すぐに、背の高い男性が入って来た。何となく役人臭い風貌の、中年男だ。仕立ての良いスーツ姿で、青いネクタイを締めている。
……中国人じゃない。
ミョンはとっさにそう感じた。外交官として様々な国に行き、多くの外国人と接していると、相手がどの国の出身か、見ただけで何となく判るようになる。この中年男は、一見中国人風だが実は違うようにミョンには思われた。
「いかがですか? 間違いなく、ミョン先生でしょう?」
笑顔で、シャオ上校が言う。中年男が、じろじろとミョンを眺めてから力強くうなずいた。
……明らかに北東アジア人の顔立ち。中国人ではなさそうだ。ミョンの同国人でもないだろう。日本人にもモンゴル人にも見えない。となると……。
「南朝鮮?」
ミョンは中年男にそう呼びかけた。戸惑った中年男が、シャオ上校に視線を送る。
「ははは。さすがにミョン先生は騙せないか。お察しの通り、韓国の方です」
シャオ上校が、煙草を灰皿に押し付けて消しながら言った。
「パク、と申します」
中年男が、渋々といった調子で北京語で自己紹介した。
「なぜ南朝鮮が?」
事態がよく呑み込めないまま、ミョンは朝鮮語でパクに訊いた。人民解放軍が南朝鮮と組んで共和国(北朝鮮)の外交官を拉致? しかも、朝米協議の妨害を狙って?
わけがわからない。
「パク先生、あなたは何者です? 国家情報院? 特殊戦司令部? あるいは、警察庁?」
ミョンは『先生』のところだけ北京語を入れ、朝鮮語で尋ねた。姓に『ニム』や『シ』をつけて呼ぶ習慣は、朝鮮語にはない。パク同務なら問題ないが、南朝鮮人に使うには不適当だろう。
「あなたにお話しする義務はありません」
パクが不機嫌そうな表情で、朝鮮語で答えた。間違いない、南朝鮮のアクセントだ。
「シャオ上校。たしかにミョン・チョルスシです。次の段階に進みましょう」
シャオに向き直ったパクが言った。ミョンを一瞥してから、そそくさと部屋を出てゆく。
「どういうことですか?」
閉まった扉とシャオ上校の顔を交互に見ながら、ミョンは尋ねた。
「あー、色々と込み入ってましてね」
渋い表情になったシャオが、言い訳口調で話し始めた。
「ミョン先生の身の安全のためにも、詳しく話すわけにはいかないんですが、わたしの上官ととある韓国人グループのあいだで協力関係が結ばれましてね。我々が中国国内でミョン先生を拉致。そのあとで、韓国人たちに引き渡す、という手筈になっているのですよ」
「……とすると、上校は人民解放軍の任務としてではなく、上官の個人的な作戦としてわたしを拉致したのですか?」
ミョンはそう訊いた。いくらなんでも、人民解放軍陸軍が南朝鮮人と手を組んで北朝鮮外交官を拉致することはあり得ない。
「個人的……というと語弊がありますが、通常の指令系統を逸脱した行為であることは否定できませんね」
……朝米関係の進展は南朝鮮にとっても利益となるはず。それを妨害しようとする南朝鮮人。パクはいったい何者、あるいは何者に雇われ、あるいは仕えているのであろうか?
第四話をお届けします。




