第十二話
「なんだか騒がしいですね」
スアレス巡査長が、日本大使館の方を見やる。
「珍しいな」
そう応じながら、クレト・ロケ警部補は部下と同じ方向を見た。時刻は深夜二時過ぎ。大使館の周囲は包囲側が持ち込んだ照明で明るく照らし出されているし、普段ならば節電で深夜は消灯されている街灯も、大使館の近所は灯されているので、あたりは結構明るく、見通しが利く。
在サンタ・アナ日本大使館は、三重の輪に取り囲まれていた。最も内側が、軽火器と公安用装甲車を装備する内務省治安部隊による包囲。二番目が、汎用機関銃と装輪装甲車、さらには軍用ロボットまでも繰り出した、第7グルッポに属する首都警備大隊を主力とした陸軍部隊による包囲。三番目の輪が、包囲というよりは一般人の立ち入りを制限する目的で設けられた首都警察による警備ラインである。
ロケ警部補の今夜の任務は、エルミタ通りの東側検問所の警備であった。日本大使館の周囲数ブロックは、大統領命令で一般人立ち入り禁止措置が取られており、エルミタ通りも当然一部が封鎖されている。この措置は、表向きは市民保護のためであったが、実際には『フレンテ』シンパが包囲状況を偵察し、立てこもり側へ連絡することを防止するのが目的であった。
歩道に乗り上げるようにして停めてあったパトカー……比較的新しいシボレー・インパラの車載無線が、東側検問所のコールサインを呼ぶ。待機していた女性巡査が、マイクを握って応答した。
「警部補、対策本部から通達です。数分後にフレンテのメンバーが乗った車両二台が到着するが、いっさい手出しをせずに通過させろ、とのことです」
ドアを開け放した車内から身を乗り出した女性巡査が、呆れ顔で通信内容をロケ警部補に告げる。
「なんだと?」
ロケ警部補も呆れ顔で応じた。大使館を包囲している三者の指揮系統は、通常はまったく異なる。陸軍はもちろん国防省の所属。首都警察は警察庁の下部機関で、内務省に属してはいるものの独立色が強く、内務省治安部隊とは別個の指揮系統になっている。この三者を、現在現場で統一運用しているのが日本大使館占拠事件対策本部であり、トップは内務省の役人が務めている。
ロケ警部補は、ベルトにぶら下げていた小型無線機を手にした。警察側の本日夜間の責任者であるモンタニョ警部を呼び出す。
「対策本部の命令通りにしろ」
ロケ警部補の問いに、上司は不機嫌そうな声で応えた。
「しかし、警部」
「フレンテの連中は、要求通りにしなければアメリカ人人質三人を殺害する、と内務省を通じて大統領に直接脅しを掛けてきたそうだ。通してやるんだ、クレト。いいな。以上だ」
通信が、一方的に切られる。ロケ警部補は、唖然としたまま無線機をベルトに戻した。
数分後、東側から検問に二台の車が近づいて来た。ニッサン・マイクラとフォード・フィエスタ。いずれもコンパクトカーだ。
速度を落としたマイクラの助手席から、覆面姿の男が顔を突き出す。
「『フレンテ』だ! 通してくれ!」
ロケ警部補は歯噛みしながら、部下に道路を封鎖していた柵を取り除けるように命じた。二台の小型車には、それぞれ三名か四名ほどのゲリラが乗っているようだ。いずれも覆面姿で、暗いこともあり男女の別さえわからない。警察の封鎖線を越えた二台が、スピードを上げて走り去ってゆく。
「なんのつもりでしょう、奴ら」
それを見送りながら、スアレス巡査長が問う。
「人員の追加だろう。更なる長期化に備えているに違いない」
ロケ警部補は言った。立てこもりが長引けば、ゲリラ側は肉体的、精神的に疲弊するし、油断も生じ易くなる。そこを上手く衝けば、交渉による解決の目も出てくるし、強行突入が成功する可能性も高まる。それを見越して、フレンテ側はフレッシュな人員を送り込んで来たに違いない。さながら後半十五分過ぎに、運動量の衰えてきたフォワードを、控え選手と入れ替えるように。
警部補は間違っていた。
十二分後、再びロケ警部補のもとに対策本部より命令が届いた。
『フレンテ』の車両二台が退去する。いっさい手出しをせずに通過させよ。
ロケ警部補は部下に命令をがなった。近付く車のヘッドライトに促されるようにして、数名の警察官がいったん戻されていた柵を退ける。
てっきり運転手しか乗っていないと思われた車内には、来たときと同じくらいの人が乗っていた。
……覆面していない奴がいる?
ロケ警部補は訝りながら暗い車内に目を凝らした。彼の前を通り過ぎる際に、検問所の照明が一瞬だけ車内を照らし出す。
優秀な警察官は、人の顔の認識/識別に関して常人離れした能力を持っている。何年も前に一回だけ見た手配写真をもとに、雑踏の中から指名手配犯を見つけ出すことができるのだ。ロケ警部補も、そんな特異な能力の持ち主であったが、マイクラの後部座席で不安げな表情を浮かべている東洋人の識別には、その能力を使うまでもなかった。ここ数日、嫌になるほど新聞やテレビでお目にかかっている顔だ。
……日本大使じゃないか!
続くフィエスタの車内にも、覆面をしていない人物がいた。こちらの顔にも、見覚えがあった。……イギリス大使だ。
「やられた。やつら、人質を分散しやがった」
走り去る二台のテールランプを見送りながら、ロケ警部補はうめいた。
サンタ・アナ内務省は無能ではない。
『フレンテ』側からの一方的通告……日本大使館に接近する二台の車両を阻止せず、大使館構内に入れさせろ。妨害すれば、人質となっている三人のアメリカ人ビジネスマンを順次殺害する……を受け、内務省当局者はすぐにヘリコプターと追跡用車両を手配した。車両が大使館を出た場合、追跡してフレンテの支援拠点を突き止めるためである。
予想よりも早く車両が大使館から出てきたため、出動が間に合ったのは内務省のヘリコプター一機と車両六台だけであり、しかもそのうちフレンテ側車両を視認できたのはヘリだけであった。幸いなことに、その機にはアメリカ製の高性能なロウ・ライトTVが搭載されており、気付かれない高度からサンタ・アナ市内の路上を走る二台の車を楽々と追跡することが可能であった。
ヘリからの無線連絡をもとに、内務省当局は追跡車両を誘導する。だが、その追跡劇はあっさりと終幕を迎えた。
二台の車が、とある狭い路地に入り込んで停車したのである。人質二名を含む全員が車外に出て、周囲の建物の中に消える。
「やられた」
内務省ビルの一室で、無線のやり取りを聞いていた男が、壁に貼られているサンタ・アナ市街図にばしんと拳を打ち当てる。
「どうした? 連中の支援拠点はこの辺りだろう。秘かに包囲して……」
地方都市から支援に来ていた同僚が、怪訝そうな表情を浮かべる。
「俺は首都生まれの首都育ちでね。この都市はよく知っている。だが、この辺りには一度も足を踏み入れたことがない」
男が、苦笑した。
「ここは、首都最大の貧民街だ。いわば魔境だよ。首都警察の猛者連中ですら、抗弾ベスト着用の上、相棒のショットガンの援護がなければ踏み込むのをためらうほどの街だ。いったんこの中に潜り込まれたら、探し出すのは不可能だね。陸軍に包囲でもしてもらわない限り、人の出入りを監視するなんてことも不可能。もうだめだよ。あの連中、完全に姿をくらましやがった」
「それは、困ったことになったのですぅ~」
ベルが、困り顔をする。
「あたいたちの最優先目的は大井大使の奪還だったのです! それが、一時的に不可能になってしまったのです!」
深夜の地下倉庫で、シオは身をよじった。
すでにシオは、新しくやってきた四人のフレンテ構成員の撮影と識別を終えていた。エミディオが、歓迎の握手をするところも、遠くから見ていたので、名前まで判明している。背の高い方から順にラウール、バシリオ、カルロス、イグナシオで、いずれも二十代前半くらいの男性だ。代わりに、ロレンソとその腰巾着ハイメ、女性幹部イネスと、スサナの相棒だった少女ルシアがいなくなった。
そしてもちろん、日本大使大井修二氏と、イギリス大使ギルバート・ヤング氏も連れて行かれてしまった。
「明日の突入作戦は、どうなるのでしょうかぁ~」
作業台の上に置かれたシェイプド・チャージ……保護のため厚紙が巻かれた太い円柱……を見やりながら、ベルが訊く。ちなみに、もうすでに爆弾の製造は終了しており、三分の二はシオの手によって秘かにレセプションルームに運び込まれ、大井大使が協力者として引き入れた人質により各所に隠されていた。
「わからないのであります! 明日の食料搬入時に最終的なゴーサインが伝えられるはずですので、それまでは粛々と準備を進めるべきだと思います!」
シオはそう述べた。
「そうですねぇ~。それが、合理的判断ですぅ~」
ベルが賛同する。
「やれやれ、ひどいことに……おおっと」
頭を掻き掻き指揮所に入ってきた長浜一佐が、驚いて半ば飛び上がった。
驚きの原因は畑中二尉にあった。あられもない姿で、パソコンを叩いていたのだ。薄手の短いナイトガウンを羽織っているものの、前は完全にはだけられており、黒いショーツが丸見えである。ノーブラなので、小ぶりながら形の良い胸も三分の一くらいは見えている。
「すみません、一佐。着替えている暇がなくてー」
キーボードを連打しながら、畑中二尉が謝った。
「せめてベルトくらい巻いてくれよ」
苦笑しながら、長浜一佐が壁際に置いてある長テーブルに歩み寄った。電気式のコーヒーポットを取り上げ、安っぽい陶器のカップに二杯注ぐ。一杯はブラックのままだったが、もう一杯には砂糖を山盛り三杯入れた。畑中二尉との付き合いは結構長い。それくらいの嗜好は、把握している。
「どうだ?」
甘くした一杯を畑中二尉が叩くキーボードの脇に置きながら、長浜一佐が訊いた。
「ろくな情報はありませんねー……あ、ありがとうございますー」
キーボードを凄まじい速度で叩きながら、畑中二尉が礼を言う。
「ですが……感触としては、明日の作戦は予定通り決行されるでしょうねー。推測ですが、サンタ・アナ側がフレンテの要求をあっさりと呑んだのは、アメリカの圧力があったからでしょう。明日になれば最重要な人質三人がまず確実に無事解放されるのだから、アメリカ側はここで危ない橋を渡る必要はありませんからねー」
「同感だな」
自分のコーヒーを啜りながら、長浜一佐は同意した。ちなみに、かなり長時間保温状態にあったにも関わらず、コーヒーは美味かった。ここサンタ・アナも、中米の著名なコーヒー産地のひとつなのだ。
「君たちは、どう思う?」
長浜一佐は、隅の椅子で大人しく座っているスカディと雛菊に水を向けた。
「二尉殿の分析に同意しますわ。アメリカにとっては、同国人の無事奪還が最優先でしょう」
やや辛辣な感じで。スカディが言う。雛菊が、同意のうなずきを見せた。
「せやな。しかし、これでうちらの仕事はごっつ難しくなったと思うんやけど」
「そうね。サンタ・アナ側は大井大使とヤング大使の行方を完全に見失ったようねー。ニカラグア国内へ移送される、という観測もあるわ。あたしだったら、絶対にそうするけどー」
キーボードの連打を止め、コーヒーカップを手にした畑中二尉が言う。
「そうですわね。守りたいものは、なるべく安全と思われる場所に置くのが、人間の心理であり、論理的思考ですものね」
スカディが、うなずく。
「明日の強行突入が行われた場合、フレンテ側が報復として大井大使とヤング大使を……処分する可能性はどのくらいと見る?」
長浜一佐が、畑中二尉に尋ねる。
「明日の突入までに、フレンテがどのような態勢を整えるかで、大きく違ってくると思いますー」
即座に、畑中二尉が答えた。
「単なる殺人と、政治的意図を持った殺害は、まったく異なるものですー。フレンテ側が、ノゲイラ政権が強攻策を取れば報復として人質の日英両大使を殺害する、と宣言したのちに、あえてサンタ・アナ側が強行突入を行えば、非難されるのは人質を見捨てたノゲイラ政権となりますー。政治的意図を持った殺害ですからねー。しかし、なんら政治的意図を表明しないまま単に報復として日英両大使を殺害すれば、それは単なる粗暴な殺人と取られるでしょう。国内外におけるフレンテの政治的立場は、危うくなりますー。今回の作戦……もとい、事件も、きわめて宣伝色の強いものでしたからねー」
長浜一佐が、うなずきながら腕時計を見た。
「同感だな。作戦開始まで、あと七時間近く。フレンテ側としては、両大使が安全な場所に落ち着いてから何らかの意思表示をするのではないかな。つまりは、その前に突入してしまえば、報復殺害の可能性は低いことになる」
「おそらくは、日英両大使を新たな切り札として、態勢の立て直しを図ってくるのではないでしょうかー」
畑中二尉が、言った。
「ギャンブルで言えば、念のため賭けずに手元に残しておいた二枚のチップですよー。他のチップをすべて摩ってしまったら、せめて元手だけでも取り戻そうとその二枚で新たな勝負に出るのが普通でしょうからねー」
「フレンテ側が、冷静な判断をしてくれれば良いのだが」
「そのあたりは期待できそうですねー。シオの報告によれば、エミディオにしろ他の幹部にしろ、それなりの知性の持ち主のようですからー」
「ま、いずれにしろ、デニス待ちだな」
嘆息気味に言った長浜一佐が、自分のコーヒーを啜った。デニス・シップマンはサンタ・アナ内務省で行われている緊急会議に慌しく出かけて不在である。議題は、もちろん日英両大使の不在という新たな状況下で、明日の大使館強行突入作戦『ポジート』をどうするか、である。
「しかし……この状況で安眠できるとは、君の部下は豪胆だな」
苦笑しながら、長浜一佐がテーブルに突っ伏してすやすやと寝息を立てている三鬼士長を見やる。
「背と肝っ玉はでかいんですよ、三鬼ちゃんは」
畑中二尉が、笑った。
第十二話をお届けします。




