第二十二話
合衆国側は混乱していた。
当初の計画……プランAは、フィリピンへ向け逃走するC‐130を空軍のF‐15で追尾、最終的にはE‐3C AWACSによる遠距離からの監視と、衛星からの観測により着陸地点を確認。グレーンベレーによる近接偵察を行い、さらに近海に展開した艦隊より第3海兵師団の選抜チームをヘリボーンで投入、アリス・ティンバーレイク嬢を含むすべての人質を奪還する、というものであった。
自衛隊によるアリス・ティンバーレイク嬢奪還が成功した場合に行われる予定であったのが、プランBである。アリス嬢さえ無事ならば、事態を長引かせる必要はない。今のところ、MoA側はアリス嬢を人質に取っていることを公表していない……合衆国を不用意に刺激して強引な介入を招くことを危惧してのことと思われる……が、後に世間に『タッカー大統領の孫娘が人質に取られていた』と知られた際に、本件に関して『タッカー大統領が日本に不当に圧力を掛けた』『実質的に合衆国がテロリストと取り引きした』『タッカー大統領の介入によってテロリストを逃がすこととなった』などと言われるような羽目になれば、タッカー大統領の政治生命が危ぶまれる事態となる。それを避けるための強硬策が、プランBであった。
具体的には、C‐130が日本の領空を出て公海上に達したところで、F‐15Cに迎撃させ、沖縄の嘉手納空軍基地に誘導し、強制着陸させる。着陸させたあとは、滑走路を封鎖して離陸を阻止、交渉あるいは強行突入……グリーンベレー、または本土から呼び寄せた特殊部隊……たぶんデルタフォース……によって解決する。
MoA側が空軍による誘導を断固拒否した場合に行われるのが、プランCである。これは、F‐15Cによる空対空射撃でC‐130を損傷させ、洋上への不時着を余儀なくさせるものである。不時着後は沖縄普天間基地より飛来した海兵隊CH‐53EとMV‐22Bにより救助が行われ、さらにこれを支援するために佐世保基地からアヴェンジャー級掃海艦二隻がすでに沖縄の東に展開中だ。
だが、MoAがボーイング777を乗っ取ったことですべてが変わった。
C‐130ではなく、わざわざボーイング777に乗り換えたということは、目的地はフィリピンではなく、おそらくはもっと遠方ということであろう。プランAは絶対に不可能だ。
プランBもCも、実行は難しくなった。ボーイング777が日本の南方海上へと向かってくれればいいが、それ以外の方向へ飛ばれたらお手上げである。
いったんはパニックに陥りかけた合衆国当局だったが、日本側から離陸777が南西方向へ向かったとの連絡を受けて立ち直った。MoA側としては中国領空を突っ切るのは避けたかったので、インドシナ半島上空経由でミャンマーを目指すために、台湾とルソン島のあいだ抜けるルートを目指したわけだが、これは合衆国当局にとっては幸運と言えた。これなら、プランBかCの実行が可能かもしれない。
とは言え、予定よりも人質の数が大幅に増え、そしてその半数近くが合衆国のパスポートを持っている、ということで、プランBも相当やり難くなっている。強硬策を取って、多数の人質が死傷しても、それが日本人ばかりならば合衆国の有権者は騒ぐことはない。むしろ、テロリストに対し毅然とした態度で臨み、友人である日本を手助けしたタッカー大統領を褒めたたえるだろう。だが、合衆国市民が死ぬとなると、話は違ってくる。下手をすれば、政治生命が終わりかねない。
プランCに至っては、危険極まりない賭けとなるだろう。低速かつ短距離離着陸が可能で、荒っぽい着陸には慣れている軍のパイロットが操縦するC‐130ならば、エンジン一基くらい銃撃で火を吹かせても洋上着水は難しくないだろうが、民間パイロットが操縦するより高速なボーイング777となると、ほんの少しの損傷だけで墜落しかねない。
『白うさぎ』が、アリス・ティンバーレイクのことだ、とかなえは瞬時に理解した。いわゆる、コードネームとかいうやつだろう。
「こっちです」
かなえは立ち上がると、畳部屋の衣装ロッカーを引き開けた。
ごほごほと咳き込みながら、アリスが這い出してくる。着ているのは、オーバーサイズの派手なショッキングピンクのドレスだ。……別のショー用の衣装のひとつである。
「確保!」
男が銃口を下に向けながら部下に怒鳴った。部下二人がさっと進み出て、アリスの両脇を固める。
「お怪我はありませんか?」
男が流暢な英語で訊いた。アリスが、うなずく。
「あなた方はその場にいてください」
男がかなえと茉里奈に指示すると、肩に付けた無線機に向け、『白うさぎ』確保。負傷なしと告げる。
「とりあえず、助かったみたいね」
かなえは、茉里奈にウインクしてみせた。
「でも、お兄ちゃんと先生が」
茉里奈が、不安げな表情で言う。
その死体は、友人であった。
「おい、ヌー!」
跪いたチャーンは、友人の小柄な身体を揺さぶった。だが、反応はなかった。すでに、こと切れている。
もはや、勝ち目はなかった。日本の警察か軍隊かはわからないが、突入して来た連中は確実にこちらの数倍はいるだろう。抵抗しても間違いなく殺されるだけだ。腹いせに何人か人質を殺すこともできるだろうが……意味があるとも思えない。
……まさか、シンガが失敗したのか。
チャーンの脳裏にその可能性がひらめいた。シンガの作戦が成功していれば、今頃彼は新たに獲得した大勢の人質とともに飛行中のはずだ。もちろん、アリス・ティンバーレイクを伴って。その状況であれば、日本側がマジカルキャッスルに強行突入してくるはずがない。
何かの事故が起こって、シンガたちが捕まり、アリス・ティンバーレイクを含む人質がすべて解放される。そして、後顧の憂いが無くなった日本側が喜び勇んで、マジカルキャッスルに殺到する。
他に考えられない。つまり、この作戦は大失敗に終わったのだ。つまり、大人しく投降して日本人に捕まって、MoAによる奪還を期待してもおそらく無駄、ということ。
ならば、戦うしかあるまい。
チャーンはM70B2を肩付けにすると、そろそろと移動を開始した。すでにCNガスは薄まっており、視程は回復しているし眼も痛くない。
いた。
不用意に通路に飛び出して来た日本の特殊部隊員に向け、チャーンは数回引き金を引いた。腕と胸部に銃弾を喰らった特殊部隊員が、悲鳴をあげて倒れる。
別な者が応射してきたが、チャーンは通路に身を投げ出して躱し、射撃を続けた。すぐに一弾倉を撃ち尽くし、新たな弾倉をつかみ出す。
がん。
チャーンの頭部に、背後から忍び寄ったSAT隊員の特殊警棒が振り下ろされる。
別のSAT隊員が、気絶したチャーンからM70B2を取り上げた。殴った隊員がUSP自動拳銃をチャーンの頭に突き付け、ボディチェックをする。もう一人が、チャーンの手首にプラスティック手錠を掛けた。
航空自衛隊のF‐15Jは、ボーイング777の後方八マイルの位置に付けた。
好天なので、この距離ならば大きな機体……全長七十四メートルほど、全幅六十五メートルほど、胴体径六メートル越え……をこちらから視認することは可能だが、小さな……あくまで大型ジェット旅客機との比較であり、制空戦闘機としては大きい方である……F‐15を向こうが視認することは難しい。
レーダーも使わず、二機のF‐15Jは777の後方同高度を静かに追尾した。
「あー、ひとつ訊いていいかな」
ボーイング777のファーストクラスで、西脇二佐は機嫌良さそうなシンガに話し掛けた。
「なんだ?」
「どこへ行くつもりかね?」
「いいだろう。教えてやろう。ミャンマーだ」
にこやかに、シンガが教えてくれる。
「ミャンマー? そこで解放してくれるのかね?」
「ああ。だから、大人しくしていることだ」
「わかった。……まいったな、ミャンマーだそうだ」
西脇二佐は、日本語に切り替えると磯村聡史にそう言った。
「パスポート持って来てないんですけど、入国できるんでしょうか?」
だいぶ落ち着いたのか、聡史がそんな軽口を叩く。
「古寺でも観光して帰るか」
西脇二佐も軽口で応じた。
「で、どうするんですか」
声を潜めて、聡史が訊く。
「難しいな」
西脇二佐も、合衆国側のおおよその計画……フィリピンにおける人質奪還作戦の準備と、第二案としての沖縄への強制着陸は知っていた。西脇二佐の腹積もりは、合衆国空軍機が現れた時点で切り札たるアリス嬢がこの場にいないことを暴露し、MoAにフィリピン行きを諦めさせ、沖縄への着陸を勧め、事態の解決を……たぶん交渉によって……図る、というものであった。
だが、ボーイング777に多数の人質とともに乗っている状況では、これは難しいかも知れない。おそらくは二百名以上の米国人人質と、ほぼ同数の外国人……多数の日本人を含む……は、アリス・ティンバーレイク嬢以上に、タッカー大統領にとっては足枷となるだろう。MoAに対して強く出るのは、無理ではないのか。
……となると、懸念されるのが、合衆国がいきなり手を引くことである。元々、本件はMoA対日本、という図式である。合衆国が巻き込まれたのは、アリス・ティンバーレイクが人質になっていたから。その彼女の安全が確保されれば、あとは日本に任せる、と言い残して立ち去る、ということもあり得る。まして、状況がこれほど急変した現状では、これは案外賢いやり方、とも言える。
アリス・ティンバーレイク嬢が無事保護されたとの情報が、在東京大使館経由でタッカー大統領のもとに届けられる。
ここでタッカー大統領は決断を迫られた。プランBまたはCを決行し、セルリアン航空機を乗っ取ったMoAテロリストと対決し、多数の合衆国市民を含む人質を救出するか。あるいは、すべてを日本に任せて手を引くか。
有権者受けするのは前者であろう。セルリアン航空は合衆国の航空会社だし、タッカー大統領自身も『テロには屈しない』強面の指導者、というイメージを大事にしている。ここで何も行動を起こさねば、そのイメージに傷が付く。もちろんその反面、失敗した場合のリスクも大きい。
すべてを日本に任せてしまえば、対応が失敗した場合の政治的ダメージは僅少で済む。だがその代償として、日本に恨まれるし、テロリストを目の前にして何も手を打たなかったとしてマスコミに叩かれるだろう。
この時点で、タッカー大統領の情勢判断は『イーブン』であった。つまり、選びようがない、ということである。
だが、首席補佐官が渡したメモ一枚と数語で、タッカー大統領の肚は決まった。
「セルリアン航空機の乗客名簿にありました」
メモには、人名が書かれていた。
『サミュエル・エルガー』
「サム・エルガー。まさか、本人か?」
「間違いありません。先週からアジアの支社を視察していたそうです。三日前に台北。二日前にソウル。昨日は東京で一泊し、サンフランシスコ経由で本社に戻る予定でした」
著名なハイテク企業、サクト・マイクロシステムズのCEO。一応、タッカー大統領の友人でもあり、個人的にも所属政党にも多額の献金をしてもらっている人物である。……彼を見捨てたとあっては、タッカー大統領の党内支持基盤も揺らぎかねない。
「国防総省へ電話する。プランBを遂行させるんだ。何としても、セルリアン航空機をオキナワへ着陸させろ」
タッカー大統領は命じた。サム・エルガーがテロリストの人質になったまま、777がどこかの反米国家に着陸するなど、悪夢である。……アリスが人質になっていたままの方が、まだ政治的影響は少なくて済むはずだ。
ボーイング777が日本の防空識別圏を出たところで、嘉手納基地から飛来した第18航空団に所属する第44戦闘飛行隊のF‐15C四機が現れた。二機が777の後方に付けて援護の態勢を取り、残る二機がわずかに加速して横に付けようとする。
四機とも胴体下にドロップタンク、胴体下にAIM‐120 AMRAAM四発、翼下にAIM‐9四発、M61A1用の20ミリ機関砲弾も満載という、非武装……機内のテロリストたちの所持する小火器を考慮しなければ、だが……のジェット旅客機を相手にするには過剰な武装だったが、これは多分に威嚇効果を持たせるためである。
「シンガ。戦闘機が二機、接近中です」
部下の一人が、ファーストクラスで座っていたシンガに報告する。
「四時の方向です」
部下が、窓外を指差す。
シンガは席を立つと右舷の窓に寄った。
蒼空の中に、明るい灰色のジェット戦闘機二機の姿が認められた。
「日本空軍か?」
「いえ。アメリカのようです」
部下が、言う。
「大丈夫だ。アメリカにしろ日本にしろ、我々には手出しができない」
シンガは自信ありげに言い切った。アリス・ティンバーレイクという切り札がある限り、誰もこちらに手出しはできない。
「シンガ。コックピットへ来てください。戦闘機のパイロットが、話があるそうです」
別の部下が、呼びに来る。
シンガは渋々コックピットに向かった。メオに差し出されたヘッドセットを被り、ブームマイクを調節する。
「MoAの責任者だ」
『USAF18ウィング44ファイタースコードロン、カナリー・フライトのワイマン少佐だ。CR202(セルリアン航空202便)に通告する。速やかに2‐7‐0に進路を変更せよ』
ヘッドセットから、英語が聞こえてきた。
「邪魔するな。以上だ」
シンガはヘッドセットを取った。無視するに、限る。
「サー。ワイマン少佐が、従わない場合は撃墜する、と言ってますが」
機長が、コックピットを出て行こうとしたシンガの背中に向かって言う。
「はったりだ。無視してコースを維持しろ」
そう言い残して、シンガはコックピットを出た。ファーストクラスに戻り、窓から外を睨みつける。
F‐15は、驚くほど近くまで接近していた。777の翼端から、機体一つ分……F‐15の……程度しか離れていないのではないか。わずかに上下動はあるものの、安定した飛行姿勢で並走している。
と、いきなりF‐15が発砲した。とても機関砲の発砲音とはおもえない唸りのような音響とともに、多数の曳光弾が飛び出して777を追い抜いてゆく。
第二十二話をお届けします。




