第二十一話
ボーイング777‐300ERが、成田空港A滑走路から離陸する。
ファーストクラスの座席に座ったシンガは、勝利の味を噛み締めていた。
もちろん、まだ先は長い。逃亡を成功させ、安全を確保してから、いまだマジカルキャッスルに立てこもっているチャーンたち同志の脱出をサポートし、これを成功させる。さらに、アリス・ティンバーレイクを『売って』一儲けする。同時にマネーロンダリングを実行し、諸々の後始末を行う……。
しかし、一番難しい部分は終わった。五十億円の現金と、アリス・ティンバーレイクを積み込んで、今は空にいる。すぐに、日本の領空を抜け出せるだろう。そして、こちらの囮に引っかかり、今頃ミンダナオ島周辺に展開しているアメリカ軍は対応が後手に回り、手が出せないだろう。仮に対策が取れたとしても、アリス・ティンバーレイクを人質に取っている限り、指をくわえて見送るしかあるまい。
当初構想では、アリス嬢の確保は計画に入っていなかった。ただ単に、東京およびその周辺で多数を人質にするテロ事件を起こし、日本政府から多額の身代金を頂戴して逃亡する、という単純なものであったのだ。
いくつかのテーマパークや大型商業施設に関する下調べを行った結果、選定された目標が東京マジカル☆アイランドであった。偵察として何名かが日本に送り込まれ、現地協力者の獲得、TMI内への従業員としての潜入などが、開始される。
そんな中、オクトーを通じてアリス・ティンバーレイク嬢の訪日に関する情報がもたらされたことで、状況が一変する。偶然ではあるが、東京を訪れるアリス嬢の立ち寄り先のひとつが、TMIであったのだ。ただし、その日程はMoAのテロ計画とは合致しなかった。
MoA側は、計画を延期してアリス嬢を人質に取る方針を固めた。アリス嬢の身柄を押さえれば、日本政府に対しより強気に出られるし、なによりも成功率が飛躍的に高まる。懸念されるのは合衆国による介入をほぼ確実に招くことだが、これも逃亡計画に工夫を加えることで回避できる。
シンガたちが一次逃亡先に選んだのは、ミャンマーであった。民主化が進みつつあるとはいえ、国軍は依然腐敗しており、金さえ出せば便宜を図ってくれる『大物』が、ミャンマー国軍には腐るほどいたのだ。
ボーイング777は、ミャンマー東部シャン州中部にある地方都市、ナムサンにあるミャンマー空軍ナムサン空軍基地に『強行着陸』を行う。ミャンマー政府に介入する暇を与えず、地元の空軍が事件を『解決』し、人質を解放させ、機体を確保する。その過程で、MoA側はアリス・ティンバーレイクおよび四十五億円と共に、消えるのである。……実際には、空軍が用意してくれたMi‐17ヘリコプターでナムサンを離れ、西にある首都ネピドーのネピドー国際空港へ移動。資金担当のメオが指揮するチームはミャンマー・ナショナル航空に乗り換えて旧首都ヤンゴンまで移動。その後国際線でバンコクを経由し、カンボジア入りしてそこでマネーロンダリングを行う。
一方シンガのチームはアリス嬢を連れてネピドー市内の隠れ家に移り、そこで『買い手』を待つ。アリス嬢を一千万USドル……しかもロンダリング済みの『きれいな』カネ……で買ってくれる組織は西アジア系らしいが、シンガはその正体をはっきりとは知らなかった。『素性は問わない』のが、売買条件のひとつなのだ。連中がどこの誰なのか……イスラム原理主義テロ組織、パレスチナに巣食ういずれかの組織、あるいはどこかの国家の諜報組織か軍事組織か……に興味はあったが、シンガは深く考えないことにしていた。シンガはテロリストではあるが、良心をまったく持ち合わせていないわけではない。アリスを手に入れた組織……当然、反米であろう……が、彼女を五体満足なままでタッカー大統領の元に帰すとはとても思えないからだ。
突然のMoAの『計画変更』に、C‐130追跡作戦を予定していた航空自衛隊は慌てたが、計画通り小松基地から第6航空団のF‐15J二機を離陸させた。小牧基地からも、KC‐767給油機が離陸する。
F‐15Jはアフターバーナーを使用して離陸すると、そのままバーナー・オンで加速上昇を続けた。777の巡航速度はマッハ0.84で、F‐15Jのマッハ0.9と大して変わりはない。巡航速度三百ノット……マッハ0.45のC‐130を追いかけるのとは、大違いである。
ローター式の電動ドローンは、かなりの騒音を撒き散らしながら飛行する。そのレベルは、おおよそ七十から八十デシベル。普通のタイプの掃除機よりもやかましい。
もちろん、空を飛んでいるので、足元でがーがーと唸りを上げている掃除機よりは、音に悩まされることは少ない。また、『飛行機械』として見るならば、ふわふわと浮かんでいる軽航空機を別にすれば、かなり静かなマシンと言える。
突然、TMI内各所に設置されている放送用スピーカーから、音楽が流れ出した。日本人ならばもはや耳に馴染んでいる、軽快なTMIのテーマ曲だ。
マジカルキャッスルで見張りに付いていたMoAメンバーが、警戒してM70B2のセレクターをフルオートにセットし、あたりを見回す。
無人のTMI園内に、楽し気なテーマ曲が溢れんばかりに流れている。開園中ならば、そこかしこでマジニャーが踊り出したり、子供たちが手拍子したりするところだが、もちろんそんな光景は見られない。猫の子一匹見えない園内に不釣り合いとも言える明るいテーマ曲が無駄に流れている様は、まるでホラー映画の導入部のように不気味だ。
と、いきなりマジカルキャッスルの周囲八か所から、中型のマルチコプタータイプのドローンが急上昇した。そしてそのまま、マジカルキャッスルに向かって突っ込んでくる。
見張りが警告の叫びを発し、M70B2を空に向けた。高速で突っ込んでくるドローンに向かって、発砲する。
直線的とは言え、三次元で移動している物体に銃弾を命中させるのは難しい。見張りは三十発弾倉を撃ち尽くしたが、一発も当てられなかった。
八機のドローンが、空に『米』の字を描くようにして、マジカルキャッスルの上空に集まって来る。空中衝突しないように高度とタイミングを適切に調整された各機は、マジカルキャッスルの上空を駆け抜けながら、抱えていた二つの円筒形キャニスターを次々と投下した。
キャニスターから、白い煙が勢いよく放出される。いくつかのキャニスターはマジカルキャッスルの外壁に命中し、白煙を撒き散らしながらグラウンドレベルまで落ちてそこで白煙を放出し続けた。屋上やバルコニー部分に落ちたキャニスターから噴出された白煙は、まるで生き物のようにうねりながら、マジカルキャッスルの外壁をスロー再生した滝のように流れ落ちて行った。ドライアイスと同様、空気よりも重いので、そのような挙動をするのだ。霧よりもはるかに濃い白煙は、あっというまにマジカルキャッスル全体を覆い尽くし、開口部から中へと流れ込み、換気装置を通じても中へと侵入した。
使われたのは、CNガスである。いわゆる催涙ガスで、目や鼻、喉を刺激し、涙と鼻水とくしゃみに襲われ、まともな行動ができなくなる。
奇襲を受けたマジカルキャッスルは大混乱に陥った。
ガスマスクとゴーグルに身を固めた警察官たち……警視庁、千葉県警、神奈川県警のSAT(特殊急襲部隊)、警視庁と関東管区警察局内の各県警の銃器対策部隊からなる急襲部隊が、一斉にマジカルキャッスルに殺到する。
チャーンは、ガスの種類をCNガスだとすでに見抜いていた。
だが、正体を知ったからと言って効果が薄まるわけではない。
チャーンは目を守るために腕でかばいながら、トイレに駆け込んだ。CN対策の第一歩は、大量の水で洗い流すことである。シャワーを浴びることができれば一番だが、顔面に大量の水を掛けるだけで、症状を緩和することができる。
洗面台にたどり着いたチャーンは、水道のレバーハンドルを動かした。だが、水が出ない。
「くそっ」
日本側が、意図的に水道を止めたのであろう。
チャーンはトイレから走り出た。古い設備ならば、個室内の洋式トイレのロータンクに水があるものだが、マジカルキャッスルのトイレは個室内にロータンクが無いタイプである。チャーンは記憶を頼りにひとつの小部屋に入り込んだ。床に無造作に積み上げてあったナチュラルウォーターの二リットル入りペットボトル……食事と共に差し入れられた物の残りだ……のキャップを開け、中身を顔に振り掛ける。
二本目も開け、顔全体から付着したCNを洗い流す。三本目で、ようやく目を洗った。残った水で口中も洗い流し、最後の二百ミリリットルほどは、ふた息に分けて飲み干す。
警察部隊は順調に制圧を続けた。SATも各県警の銃器対策部隊も、その技量は高い。問題は、『実戦経験』に乏しいことだが、これは日本の警察がテロリズム抑止に努めている『成果』によるものなので、如何ともし難いところである。
見つけたテロリストは確保し、抵抗した場合はためらうことなく発砲する。幸い、CNのおかげでMoA側は混乱しており、また人数も少なかったので、大抵は近付いて数名掛かりで武器を奪い取り、押さえつけるだけで逮捕できた。闇雲に発砲して来たのは二人だけで、いずれも人質に危害が及ぶ危険性を考慮し、その場で射殺した。
マジカルキャッスル制圧の模様を、シオは眺めていた。
たった一体では、手伝いにいってもたいしたことはできない。それに、今回は国内案件ということで、自衛隊は警察に『手柄』を譲る方針である。
散発的に聞こえていた銃声が、まばらになった。遠方から、応援に来た機動隊員たちが走って近付いて来る。
「こちらはこれで片が付きそうなのであります! 心配なのはマスターと西脇二佐でありますが……」
シオはマジカルキャッスルから目を逸らすと、南西の空……三浦半島の方向……を見やった。あの先のどこかに、マスターがいるはずだ。
「マスター、どうぞご無事で」
警視庁SATの四名からなる一隊が、階段を駆け上がる。
『登り切ったところを左、廊下の突き当りです』
先頭を走る警部の耳に突っ込んだイヤホンから、誘導の声が聞こえる。
西脇二佐がシオを通じて持ち込んだ装備の中には、出力の大きな発信器もあった。単調な信号波を連続で出し続け、自己の位置を示すだけの単純な代物である。それを、西脇二佐の『警察の突入作戦が始まったらスイッチを入れろ』という指示通り、九谷かなえが作動させたのだ。もちろん使用すれば電波発信を警戒しているテロリスト側に即座に知られてしまうが、突入作戦の対応に悩殺されていてそれどころではあるまい。
電波発信自体はごくありきたりの全方向式だが、これを地上高の高い場所を含む複数の箇所で受信することによって、発信位置を三次元的に割り出すことが可能だ。千葉県側のビルの屋上と、東京湾上空の警察ヘリコプター、それにTMI内三か所に設置されたアンテナが電波を拾い、電算処理されたデータが、突入作戦本部に置かれたパソコンに転送され、マジカルキャッスルの3Dマップ上に示される。それをモニターしている女性巡査長が、無線を使ってSATの一隊を発信源に誘導しているのである。
警部は階段を登り切ると、廊下の角で止まった。その先から、物音が聞こえたのだ。咳き込む音と、外国語で罵るような声。……テロリストがいる。おそらく、一名。
警部はハンドサインで、後続する部下にテロリスト一名がいることを知らせると、身を低くしてさっと頭を突き出し、すぐに引っ込めた。このような場合、通常頭部がある高い位置から覗き込もうとしてはいけない。相手もそれを予期しているので、床から一メートル半ほどの位置……肩付けで水平に銃を構えていれば自然に銃口が向く高さ……に狙いを定めていることが多いのだ。一番いいのは寝転がって、床すれすれのところから覗くことだが、それには少々時間が掛かるし、退避などの緊急事態にも対処し辛くなる。
「テロリスト一名。長物所持。一気に突っ込むぞ」
警部は、ガスマスク越しに口頭で部下に指示した。一人が身を低くした警部の背中にぴったりと身を寄せるようにしてMP5A5を構え、もう一人が片足を引いて走り出す用意をする。最後の一人が、背後の階段を警戒しつつ、廊下の逆方向に銃口を向ける。
「3、2、1、GO!」
警部はMP5A5を構えて飛び出し、身を晒しつつ膝射の姿勢を取った。後ろに居た部下が、廊下の角を利用して身を隠しながら、MP5A5を前方に向ける。走り出した部下が、廊下の反対側の壁に肩をぶつけるようにして止まり、同じく前方に銃口を向ける。
咳き込んでいたテロリストが反応し、手にしたAKをこちらに向ける。だが、その時にはもう警部の指がMP5A5の引き金を絞っていた。狙いすました銃弾が、テロリストの胸部に突き刺さる。二人の部下が遅れて放った銃弾も命中し、テロリストが出来の悪い昆虫標本のように一瞬壁に貼り付けられてから、崩れ折れる。
警部は走った。倒れたテロリストの処置は部下に任せて、扉の周囲の安全を確認する。
「死んでいます!」
部下の一人が、叩き付けるように言った。
「突入するぞ」
四人目の部下が追いつき、周辺警戒の態勢を整えたところで、警部は命じた。一人が扉の反対側に回り、もう一人がドアノブに手を掛ける。警部は半歩下がって、扉の斜めに立ち、真っ先に突入できるようにした。
楽屋の中では、九谷かなえと茉里奈がごほごほと咳き込んでいた。
ドクター・栗川の指示通り、眼を守るために濡れタオルを巻き付け、濡らしたハンカチで口と鼻を覆い、その上毛布を引っ被ってじっとしていたのだが、それでも刺激臭のある煙を吸い込んでしまい、むせているところだ。
「警察だ!」
ばーんと扉が開く音がして、何人かが乱入する気配がする。
九谷かなえは眼を守っていたタオルを外すと、毛布をそっと持ち上げて外を覗いてみた。
紺色の服に黒くてポケットのいっぱいついたベストを着込んだガスマスク姿の男が、手にしたコンパクトな銃をさっとかなえに向ける。……もちろん名称などは知らないが、見たことのある銃である。何かの映画で見たし、モブ役で出演したアニメ作品にも、こんな銃を撃ちまくっていたキャラがいたことを覚えている。
「撃たないでください」
かなえは言いながら、毛布からごそごそと這い出した。
「『白うさぎ』はどこだ?」
なおも銃をかなえに向けたまま、男が訊いた。
第二十一話をお届けします。




