第十六話
実は、合衆国当局は事件発生直後から、MoAテロリストたちの逃走先がフィリピンであると推察していた。
そのきっかけとなる第一報は、マニラからもたらされた。
フィリピン国家警察には、合衆国国土安全保障省から提供された『テロ組織関連人名リスト』がある。東京でテロが発生した数時間後、国家警察の航空セキュリティグループが、このリストに氏名が記載されている人物が、ニノイ・アキノ国際空港からフィリピンに入国したことを確認したのである。
男の名はバーナード・スン。中国系シンガポール人で、肩書きは一応『投資家』であり、表向きは小さな派遣会社を経営していることになっているが、その経済活動の実態はよくわかっていないという怪しげな人物であり、国土安全保障省のリストによれば『MoAシンパの一人で、決定的証拠は掴めていないが資金供与を行っている疑いが濃厚』とされていた。
航空セキュリティグループは、ケソン・シティにあるキャンプ・クレイム(フィリピン国家警察本部)に連絡するとともに、スンの使用した便がシンガポール発マニラ行きのフィリピン航空機であることを突き止めた。国家警察本部ではただちにこの情報を合衆国国土安全保障省に伝えるとともに、航空セキュリティグループに対し、スンの尾行を命じた。
すぐに空港内に待機していた二名の要員がビジネススーツ姿のスンのあとをつけ始めたが、その任務はものの数分で終わった。スンは第2ターミナルを出ることなく、国内線のフィリピン航空ダバオ行きの搭乗手続きを開始したからだ。
国家警察はダバオを管轄する第11地域オフィスに連絡し、スン追跡の手筈を整えた。一方、スンはそのままフィリピン航空のA321に搭乗し、約二時間後にダバオのフランシスコ・バンゴイ国際空港に到着する。
ダバオの国家警察要員は、空港を出て市内のホテルにタクシーで向かうスンを追尾した。だが、スンはホテル内で替え玉を使うという巧妙な手口で国家警察による監視の目を潜り抜け、姿をくらましてしまう。
地元警察の手を借りて、国家警察はスンの行方を追ったが、得られたのは地元民と思われる男の車に乗り込むスンが映った監視カメラの映像だけであった。すぐに車のナンバーと運転席の男の身元が洗われる。車は盗難車に偽造ナンバープレートを付けたものと判明し、それ以上の追跡は無理だと判断されたが、運転席の男の正体に国家警察は色めき立った。以前に、MILF(モロ・イスラム解放戦線)のメンバーとしてサンボアンガ近郊で逮捕された前歴のある人物だったからである。
MoAが、MILFと連絡を取っている……。
そのように判断した合衆国国土安全保障省は、CIAとも連携してフィリピン南部での情報収集に資産を集中する。その結果、数週間前からMoAがミンダナオ島南西部に異様なほど関心を示している証拠が続々と得られることとなる。
TMIを襲ったのがMoAであることが確定され、人質の中にアリス・ティンバーレイクが含まれていることも確定される。さらに、MoAが逃走用にC‐130輸送機を要求したという情報が日本政府より伝えられる。以上を踏まえて、合衆国政府はMoAテロリストが、アリス・ティンバーレイクを人質に取ったまま、C‐130輸送機を用いてミンダナオ島南西部……ないしはその近郊に逃亡する可能性は高い、と判断した。そして、日本の警察や軍特殊部隊の実力を鑑みれば、MoAテロリストを逃走前に制圧することはまず不可能、という結論にも達する。
となれば、合衆国が自らの力を行使して、ミンダナオ島でアリス・ティンバーレイクを奪還しなければならない。
タッカー大統領が自らフィリピン共和国大統領に電話を掛け、領海、領空への進入と領土内での戦闘に関し限定的ながら許可を貰い、フィリピン軍と国家警察の協力を取り付けた時には、すでに佐世保基地からアメリカ級強襲揚陸艦(LHA)、サン・アントニオ級ドック型揚陸艦(LPD)各一隻が出港していた。同じころ横須賀基地からも護衛役としてアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦二隻が出港していた。ミンダナオ島まで、約三日の航海となる。沖縄では、第3海兵師団の一部が、LHAとLPDが沖縄近海に接近した時点でヘリコプターを使って移乗できるように準備を開始する。
これら海軍部隊が時間的に間に合わなかった場合に備え、沖縄のトリイステーションに駐屯するグリーンベレー約六十名が、嘉手納基地よりC‐17輸送機に搭乗して、ミンダナオ島西部のサンボアンガ半島にあるサンボアンガ市のエドウィン・アンドリュース空軍基地に向かった。
「ラジャワリだ」
受話器の向こうの声が、答える。
「小柴だ。五十億円は受け取ってもらえたかね」
小柴内閣危機管理監は、声にあまり感情を込めずに訊いた。恩着せがましくしてはいけないし、さりとて下手に出過ぎてもいけない。あくまで対等の立場で接し、相手に無用の『刺激』を与えないのがこの手の交渉のコツである。高圧的に出れば敵視されるだけだし、卑屈になれば相手はつけあがって無茶を言い出す。
「確かに受けとった」
「二つばかり、質問があるのだが」
小柴はそう切り出した。
「聞こうか」
「そちらに提供する航空機だが……返してもらえるんだろうね?」
CH‐47に関しては、百里基地までの移動に使われるだけなので、まず間違いなく返してもらえるだろう。だが、海外への逃亡に使われるであろうC‐130に関しては、『乗り逃げ』されてしまう可能性がある。一機約三十億円という値段を考えると、ぜひとも返してもらわねばならない。
「大丈夫だ。方法は言えないが、返却するつもりでいる。安心してくれ」
ラジャワリが、請け合う。
「それは助かる。もちろん、パイロットも無事に返してほしい」
「大丈夫だ。機体ごと、あるいは機体より前に送り返す」
「では、もうひとつ訊きたい。おおよそでいいから、どの辺りへ飛ぶのか聞いておきたい。航空自衛隊の方から、どこのチャートを準備すればいいか問い合わせてきた。航空自衛隊は、全世界のチャートを常備しているわけではない。漠然とした地域名……たとえば、北米とか、アフリカ南部とかでいいから、行き先を教えて欲しいということだ」
小柴はそう訊いた。ラジャワリが、しばし沈黙する。
「いいだろう。教えよう。航空自衛隊には、東南アジアのチャートを用意しろ、とだけ伝えておけ」
ようやく、ラジャワリが答えた。
……東南アジア。やはり、フィリピンか。
「わかった。そのように伝える」
マジカルキャッスル内の人質に、夕食が配られる。
左腕を拘束されたまま居眠りしていた西脇二佐は、揺さぶられて目を覚ました。
「起きろ、クリカワ。夕食だ」
ハイアウが、曲げた膝で腕をやんわりと押す、という乱暴だか丁寧だかよくわからない方法で、西脇二佐を揺さぶる。
「どうぞ」
弁当が入った大きなポリエチレン袋から、中年女性がプラ容器に入った弁当を取り出し、西脇二佐に差し出した。……トンカツ弁当だ。
……まずい。
夕食に手配された弁当の中で、トンカツ弁当は三十個。そのうちひとつには、即効性の下剤が仕込んである。ちなみに、トンカツ弁当を選んだのは、健康で体力があり、かつ胃腸の調子が良さそうな若者が好みそうだからである。そのような若者なら、下剤を盛られたくらいで大きく体調を崩すようなことはないだろう。
……確率三十分の一に賭けるわけにはいかない。
「いやー、奥さん。どうもこのところ胃の調子が悪くてね。油物は受け付けないんですよ」
情けなさそうな表情を作った西脇二佐は、受け取りを拒んだ。
「あら。そうでしたか」
中年女性がポリエチレン袋を探り、今度はありきたりの幕の内弁当を取り出す。
「ああ、それなら食べられます。ありがとうございます」
右手を伸ばした西脇二佐は、弁当を受け取った。緑茶のペットボトルも渡してから、中年女性が去る。
「クリカワ。来てくれ」
シンガとメオが現れたのは、西脇二佐が幕の内弁当を完食してから約五十分後のことであった。
シンガに命じられ、ハイアウが西脇二佐の左腕の縛めを外す。
「どうしたのかね?」
左手首をさすりながら、西脇二佐は訊いた。
「急病人が出た。診てもらいたい」
シンガが言って、西脇二佐の腕を掴んで引っ張り上げるようにして立たせる。
「こっちだ」
シンガが、先に立って歩き出す。メオとハイアウの様子をちらりと見てから、西脇二佐はシンガのあとによたよたと続いた。……ずっと不自然な姿勢で座っていたので、筋肉がすっかり固まってしまっている。
シンガが、別の人質部屋に入る。隅の方に座布団によって寝床があつらえられており、そこに二十歳くらいの若い男性が横たわっていた。配偶者か恋人か、あるいは妹か、若い女性がそばに付き添っている。
男性の脇に膝をついた西脇二佐は、問診を始めた。症状を聞き取り、既往症や通院歴、アレルギーの有無などを訊く。
手で体温を『測り』、脈を取る。シャツの前を開き、腹部を触診する。
「急性胃腸炎らしいですね」
シンガに向け、西脇二佐は言った。
「他に症状が出た人はいないのでしょう? ならば、食中毒の線はない。念のため、病院へ搬送した方がいい」
西脇二佐に言われ、シンガとメオが顔を見合わせる。
「ストレスもあるのでしょうな。皆さん、相当参っているようだ」
人質部屋を見渡しながら、西脇二佐は言った。釣られたように、シンガとメオを辺りを見回す。
「皆さん元気がない。食事を残した人も多いようです。精神的ストレス、運動不足、偏った食事。空気も良くない。睡眠不足と食欲不振が続けば、誰でも参ってしまいます。このままだと、病人が続出しますよ。……そうだ、よろしければわたしが回診しましょうか?」
いかにも、今思い付きました、といった表情を取り繕って、西脇二佐はそう提案した。
「回診?」
「まあ、症状を聞いて改善のアドバイスをするくらいですが……気休めにはなるでしょう。ストレスの解消にも、繋がるはずです」
西脇二佐は明るい調子で続けた。
シンガとメオが、早口で相談を始めた。
「いいだろう。許可しよう。ただし、妙な真似はするなよ」
シンガが念押ししつつ、許可を出す。
というわけで、西脇二佐はハイアウの監視だけで、比較的自由に人質部屋を回って、体調がすぐれない人々を診て回った。その際、問診のふりをして、アリス・ティンバーレイクの容姿を説明し、『娘の友達のアメリカ人』を見なかったか、と聞く。
五人目に診た中年男性が、貴重な情報をもたらしてくれた。
「見たよ。四人家族の一人じゃないか?」
……四人家族?
西脇二佐は戸惑った。国務省の護衛二人と一緒で、三人家族の偽装だったはずだが。
「……続けてくれ」
「若い日本人の夫婦と、娘一人。それに、先生の言う金髪の女の子。連中に銃を突きつけられて、どこかへ連れられていったよ。今朝、朝飯の時のことだ」
西脇二佐は、『若い日本人夫婦』と『その娘』の容姿服装を事細かに訊いて記憶した。その三人のうち一人と接触できれば、アリスの居場所について詳しく知ることができるはずだ。
……しかし、何者なのか、その三人は。
どこかへ連れて行かれたということは、アリスと一緒に別の場所で監禁されているのだろう。単に世話役として宛がわれただけなのか。いずれにしても、アリスの正体は知っていそうだから、協力は仰げそうである。
磯村聡史はトイレへと急いでいた。
アリスは厳重に監視されていたが、他の三人……聡史、茉里奈、かなえはトイレに関しては監視なしで自由に行かせてもらえていた。もちろん他の人質部屋に寄ったりすることは禁止されており、済ませたらさっさと戻って来る、という決まりになっていたが。
……あの青年、『若い日本人夫婦』の夫の方じゃないか。
回診を続けていた西脇二佐は、通路を歩いている聡史の姿を目ざとく見つけた。トイレに消えたことを確認すると、ぴったりとあとを付いてきているハイアウに向き直る。
「済まん。トイレに行ってくる」
「早く戻ってこいよ」
西脇二佐が逆らうそぶりすら見せないので、かなり油断してきているハイアウが、面倒くさそうに手を振って、トイレに行く許可を与える。西脇二佐は速足でトイレの中に入った。
目当ての青年は、すでに放尿を済ませたらしく手を洗っているところであった。幸運なことに、男子トイレ内には他に誰も居ない。
西脇二佐はすばやく青年に近付いた。
「落ち着いて聞いてくれ。わたしは政府の者だ。アリス・ティンバーレイクを救出するために来た」
「は?」
青年が、手の動きを止めて西脇二佐を見る。
「君は、アリスと一緒にいるんだね?」
「……ええと、はい」
気圧されたように、青年がうなずく。
「しっかりしたまえ。今、アリス嬢の救出作戦が進行中だ。君の協力がいる。手伝ってくれるね?」
「あー、はい」
青年が、とりあえずうなずく。西脇二佐は不安を覚えたが、他に方法はないと肚を決めた。……この作戦、この青年に賭けてみるしかない。
「手を拭きたまえ」
西脇二佐に言われ、青年が慌ててペーパータオルで手を拭った。
西脇二佐はジャケットの左の袖口の飾りボタンのひとつ……最も手首から遠い四番目……を引きちぎって、青年に渡した。
「これは経口発熱剤だ。アリスに飲ませれば、すぐに胃で溶ける。一時間もすれば、体温が三十八度を超える。他に作用はない。熱が出るだけだ。つまりは、仮病用だな。アリスには、倦怠感を訴えさせろ。やり過ぎて、咳などさせるなよ。却って仮病だとばれる」
「はあ」
青年が、手の中のボタンを見つめながら、気のない返事をする。
「症状が出たら、見張りを呼んでアリスが急病だと訴えるんだ。それだけでいい。あとでまたわたしと顔を合わせるかも知れないが、初対面のふりをすること。いいね」
「わかりました」
青年が、うなずく。
「わたしの指示を覚えたかね?」
「ええと、これは経口発熱剤で、アリスに飲ませる。一時間で熱が出るから、倦怠感をアリスに演じさせて、仮病を使わせる。見張りに急病だと告げる。あなたとは初対面のふりをする。ですね」
「そうだ。頼んだぞ」
……いまいち頼りない青年だが、賢そうではある。
「さあ戻りたまえ」
西脇二佐は、青年の肩をぽんと叩いて送り出した。青年が、ボタンをポケットに仕舞ってから、トイレを出てゆく。
第十六話をお届けします。




