第一話
お待たせいたしました。予定通り再開第一話を投稿させていただきます。
タイ王国 バンコク クローントゥーイ区
タイの首都バンコクの正式名称は、恐ろしく長いことで有名である。
あまりにも長いので、タイ人も省略した『クルンテープ』という名称を普通は使っている……というか、バンコク市民でも正式名称を正確に覚えている人はごく少数である。『バンコク』という名称は付近にあった小村の名に由来しており、外国人がいわば誤用して使っていた名称が広まったと言われている。英語やフランス語のようなヨーロッパ系の言語はもちろん、ロシア語、ヒンディー語、アラビア語、そしてもちろん日本語などでも、バンコクないしそれに類似した言葉が使われており、地名としては世界中ですっかり定着している。ちなみに、中国語でも『マングー』などと呼ばれている。
小縮尺の地図で見ると、バンコクは海に面した港湾都市に思えるが、実際に海沿いにあるのはごく一部だけである。海港としての役割を果たしているのは大河チャオプラヤ川に面したクローントゥーイ区にある通称『バンコク港』だ。
クローントゥーイには、バンコク最大のスラム街がある。同区が港湾地区として整備される時に取得された『将来開発予定』の空き地に、出稼ぎ労働者や貧民が勝手に住み着いたのがその始まりだ。今現在の推定人口は、約十万人と言われている。東南アジアでも有数の巨大なスラム街だ。
そのようなわけで、近くにある有名なシーロム通りや、『夜の街』として知られるパッポン通りやタニヤ通りなら、外国人観光客で溢れかえっているが、クローントゥーイ区に足を踏み入れる外国人はよほどの物好きだけである。唯一、観光客が訪れる価値のある場所がクローントゥーイ市場だが、ここもかなり『ディープ』な場所であり、バンコク市民でも中流以下の人々しか利用しないレベルだ。
その市場の中を、ひとりの外国人が歩んでいた。顔だちはヨーロッパ系だが、若干浅黒く、髪は黒褐色なのでスペイン人かイタリア人に見える。地味なカラーシャツと薄手のスラックス姿で、年齢は四十代くらいか。
彼が属する組織では、『オクトー』の名で知られている男である。
朝の賑わいがすでに終わっていたので、市場は人の姿は多かったものの、静けさを取り戻していた。大荷物を抱えた人がオクトーとすれ違い、時折スクーターが追い抜いてゆく。
当然のことながら、市場では様々な商品が売られていた。野菜、果物、肉に魚。卵や調味料、ペットボトル飲料に洗剤、台所用品に玩具。衣類に中古家電。飲食物を商う店も多く、しっかりした店構えの大衆食堂から、ビーチパラソルの下で発泡スチロールの箱に水を張り、冷やした……あまり冷えているとは思えないが……瓶入り飲料を売っているおばちゃんまで、実にバラエティに富んでいる。
多くの店が、強い日差しを避けるために道路に大きく張り出した日よけを設けており、商品はその下に置かれていた。店番をしている男女……こちらも、八十はとうに超えていそうな老婆から幼い少年まで実にバラエティに富んでいたが……が、通り過ぎるオクトーに物憂げな視線を投げてくる。雰囲気で、買い物に来たのではないことが判るのだろう。
数羽の鳩が、地面をつついている。仏教国らしく、タイ人は街中の鳥や小動物に対しては寛容である。故に、鳩は人間を怖がらない。オクトーが側を通っても、鳩たちは意に介さずに、地面をつついて餌を探し続けていた。
……しかし……素人臭い連中だ。
オクトーは内心でため息をついた。たしかに、ごみごみとしたこの辺りに隠れ家を確保すれば、タイ王国公安警察にも、首都圏警察にも、国家情報局にも目を付けられにくいだろう。だが、アジア人ではないオクトーにとっては、このあたりは歩くだけで人目をひいてしまう。指定されたのでこうやって出向いて来たが、密会の場所としては、不適切極まりない。
もっとも、そんな素人だからこそ、こんな無茶な作戦を行おうとしているのだ、とも言えるが。
目標として指示されている雑貨店が前方に見えてきた。色とりどりのプラスチック製品……バケツ、洗面器、椅子、柄付きブラシ、その他……を店先に山と積み上げてある目立つ店だ。その店を行き過ぎ、最初の路地に入る。
こちらは市場ではないが、道路の両側には住宅に混じって、小商いの店が立ち並んでいた。屋台のような食堂、飲料スタンド、生活用品の修理屋らしい店などが見える。コインランドリーなのか、コイン投入機が取り付けられた全自動洗濯機を軒下に並べた店もある。
家々は小さくて貧相だが、多くが路上や軒先にぴかぴかの輸入車やスクーターなどを停めてあり、収入自体は悪くないことを窺わせた。まだ少女と言っていいほど若い女性が、ヘルメットからはみ出させた黒髪をなびかせながら、スクーターに乗ってオクトーを颯爽と追い抜いて行く。かつては庶民の足であった自転車は、もはやこの国では子供の乗り物に『格下げ』されているのだ。
色とりどりの洗濯物が、軒先に無造作に干されている。その下で、野良猫が無防備な姿勢で眠りこけていた。
こんな街でも、インターネットは普及しているようで、頭上には黒く細いケーブルがもつれ合うようにして伸びている。衛星放送受信用なのか、メッシュタイプのディッシュアンテナを取り付けた建物も多い。
……ここか。
オクトーは指定された家を見つけた。軒先に、子供用のピンク色の自転車が止めてあり、そこに真っ赤なTシャツが広げて干してある。
青く塗られたプロパンガスボンベの脇を通り、オクトーは開け放たれたままの戸口をくぐった。中はコンクリートの土間のようになっており、湿気でしわの寄った段ボール箱がいくつか積まれている。手前に階段が、奥には閉まったままの扉があった。オクトーは、扉を無視してコンクリート製の階段を登った。登り切ってすぐ正面にある安っぽいスチールの扉を、とんとんとノックする。
扉を開けてくれたのは、若いアジア人女性だった。黒いストレートヘアを頭の後ろで纏め、色気のない黒縁眼鏡を掛けている。可愛い顔立ちだが、アジア人に慣れていないオクトーにはタイ人なのかよその国の者なのかは区別ができない。
「オクトーという者だが」
英語で、オクトーは言った。
「どうぞ、入って」
多少訛っている英語で女性が言って、身を引く。オクトーは、無言で室内に足を踏み入れた。
室内はエアコンが効いていて涼しかった。古びた木製のテーブルに座っていた二人の男が立ち上がり、オクトーに向け笑顔を見せる。
対照的な二人であった。年嵩……と言っても、三十代だろうが……の方は小柄で、薄茶色の肌をしており、黒々とした眉の下にある小さな眼は鋭い眼光を放っている。若い方は二十代後半くらいか。アジア人にしては大柄でがっしりとした
体格をしており、肌の色も薄い。
「シンガ、と呼んで欲しい。彼はチャーンだ」
年嵩の方がそう自己紹介し、相棒の名を告げた。
「オクトーだ。よろしく」
改めて名乗ったオクトーは、女性の方に視線を向けた。
「メオ、でどうぞ」
女性が、名乗る。
「座ってくれ」
シンガが、空いている椅子をオクトーに勧めた。オクトーは、指紋を付けないようにハンカチで椅子の背を掴んで引き、そこに座った。
「用心深いな」
チャーンが、きれいな発音の英語で言う。
「上司が厳しいやつでね」
真顔で、オクトーは答えた。
「何か飲むかい?」
チャーンが長身をかがめて、置いてあった小型冷蔵庫の中から黄色いラベルの栄養ドリンクの瓶を掴み出す。
「いや、結構だ」
オクトーは断った。指紋を残したくないし、タイ人は甘党なのでドリンク類はどれも甘ったるくて口に合わないのだ。
「早速本題に入ろう」
チャーンとメオが座ると、オクトーはそう切り出した。三人が、わずかに身を乗り出す。
「組織は、諸君らの作戦を全面的に支援することを決定した。情報支援と、現地での武器調達に関しては、任せて欲しい」
「ご支援、感謝します」
シンガが、笑みを浮かべてオクトーを見る。
「武器は何を?」
チャーンが、勢い込んで訊く。
「ツァスタバM70B2を人数分。出所は訊かないで欲しい。中古だが、状態はいい。弾倉は五個。弾薬は一丁あたり三百発を予定している」
「M70B2?」
小火器に詳しくないのか、メオとシンガがチャーンを見る。
「ユーゴスラビアが作っていたAK系のアサルトライフルだ。B2は折り畳み銃床タイプ。それほど評判のいい銃じゃないが、充分使い物になるよ。俺たちの作戦には問題ない」
チャーンが、得意顔で説明する。
「M57自動拳銃も若干付ける。あとは、M75手榴弾」
M57は有名なトカレフTT‐33自動拳銃のユーゴスラビア・バージョンである。M75もユーゴスラビア製の手榴弾で、いわゆるパイナップル型だが滑り止めが出っ張っていることが特徴である。
「それで……いくら払えばいいんだ?」
シンガが、用心深そうに訊く。
「兵器の代金と情報料で、五百万ドルいただきます。もちろん、全額後払いで結構」
「気前が良すぎる気がするけどね」
メオが、ぼそりと言った。
「あなた方の活動は、我々の組織の利益にもなります。協力させていただくのは、今後のあなた方の活動に期待して、という意味合いもあるのですよ」
オクトーはそう言った。成功すればもちろん、失敗したとしても……オクトーの上司に言わせれば、『成功の確率は三十パーセントもないだろう』だったが……それなりの利益にはなる。
「判った。ご協力に感謝する。我々は絶対に成功させる、と上司の方にお伝え願いたい」
シンガが言った。
念のために、チャーンが窓の外を見張り、帰ってゆくオクトーのあとをつけてゆく者がいないことを確認する。
メオが冷蔵庫からM‐150のボトル……タイで人気の栄養ドリンク……を出した。スクリューキャップを開け、三人で乾杯代わりにそれを飲み干す。
「M70B2なら上出来だ。いい銃とは言えないが、問題ない」
チャーン……元タイ王国陸軍三等曹長であったタイ人……が、満足げに言って空になったM‐150をテーブルにどしんと置く。
「訓練はどうする?」
シンガが訊いた。
「操作性は他のAK系アサルトライフルと大して変わりません。カンボジアに入国して訓練しましょう。すぐに慣れます」
「そうだな。わたしも慣れておかねばなるまい」
シンガが言う。彼はマレーシアの出身である。軍の経験はなく、拳銃ならば多少は扱えるが、軍用自動小銃や突撃銃に関しては素人だ。
「わたしは大丈夫そうね」
メオが言った。彼女も軍の経験はないが、今までの活動中にAK47やAKMを扱ったことがある。
三人が所属しているのは、新興の『暴力的活動を否定しない尖鋭的国際政治集団』……平たく言えば国際テロリストである……の略称MoA、正式名称ミッション・オブ・エイジアであった。反米、反日を標榜し、東南アジア諸国の団結と大国の干渉排除、そして同地の真の自立を目的とする集団である。キリスト教原理主義と親和性を持ち、なぜか中国にだけは寛容な、傍から見れば不可解としか言いようがない組織だ。
「ともかくこれで、作戦準備の最初のハードルは越えた。これが、MoAの域外初作戦となる。絶対に成功させるぞ」
シンガが力強く宣言する。チャーンとメオが、うなずいた。
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サン・ブエナベンチュラ市
アリスはそらで覚えている電話番号を慎重にプッシュした。
ここカリフォルニアは朝だが、おじいちゃんのところはもうお昼前だ。おじいちゃんは多忙な人なので、指定された時間帯でないと電話に出られない。
「はろー。おじいちゃん、アリスだよ」
電話がつながったとたんに、アリスは弾んだ声で告げた。
「アリスか。久しぶりだね。電話をありがとう」
おじいちゃんが、嬉しそうに言う。離れた処に住んでいる孫娘から電話を貰って喜ばない祖父はまずいないであろう。
「おじいちゃんは忙しいひとだから、手短に言うね。アリス、旅行に行きたいの。その許可を、もらいたいんだ」
「はっはっは。アリスとなら一日中おしゃべりしていてもいいんだよ」
おじいちゃんが、笑う。
「おじいちゃんは大事なお仕事してるんだから、アリスとおしゃべりなんかしてちゃだめだよ」
本気で、アリスはそう言った。
「はっはっは。そうだね。アリスの言うとおりだ」
機嫌良さそうに、おじいちゃんが納得する。
「それで、どこに行きたいんだね。東海岸へ来るのか? それとも、フロリダかな? アラスカか? ひょっとして、ハワイか?」
「おじいちゃん。アリス、日本に行きたいの」
「日本? 外国か……」
おじいちゃんが『引いた』のが、受話器越しにも伝わってくる。
「だめ?」
「外国はなぁ。もう少し近いところはだめなのか? カナダとか、メキシコとか」
「メキシコはこの前行ったばかりだよ」
アリスはそう言った。
「そうだったな」
「あのね、おじいちゃん。東京にね、『フェアリーズ・ブローチ』の公式グッズショップがあるの。そこでしか買えない限定グッズが欲しいの。いいでしょ?」
「ああ、あのアニメか。Amazonとかじゃ手に入らないのかい?」
おじいちゃんが、そう訊いてくる。
「ショップ限定なんだよ。ね、いいでしょ。お願い」
「父さんや母さんは許可したのか?」
「おじいちゃんの許可がもらえれば行っていいって」
「うーん」
おじいちゃんが悩む。
「日本はいい国だよ。おじいちゃんも、お友達がいるんでしょ?」
「マキオか。まあ……いい奴だよ、彼は。約束は守るしな。でもなぁ」
おじいちゃんが、さらに悩む。アリスは、とっておきの切り札を出した。
「日本から、おじいちゃんにお土産買ってくるよ。そしたら、そっちに渡しに行くから」
孫娘が会いに来ることを拒める祖父がいるだろうか。……まずいないだろう。
「そうか。じゃあ仕方がない。行ってきていいよ。でも、気を付けるんだぞ」
「うん。ありがとう、おじいちゃん。愛してる」
こうして、アリス・ティンバーレイク嬢の日本行きが決定した。
第一話をお届けします。




