第八話
日本大使館のキッチンに無事にたどり着いたシオは、押してきたサービスワゴンをロックすると、あたりを見回した。シンク、調理台、業務用の大きな冷蔵庫、コンロ、壁に作り付けの棚やロッカーなどが狭いスペースに詰め込まれている。ステンレス系の冷たい銀色ばかりが目立つ室内に、人影はない。
「サクラちゃん、いるのですか?」
シオは小声で呼びかけた。
すぐに、反応があった。冷蔵庫の脇に積み上げてあったダンボール箱の陰から、サクラがひょっこりと顔を出す。
二体のAI‐10が正対する。サクラの外見は、シオが現在メモリー内に保持しているセルフイメージデータと、細部まで酷似していた。月並みな表現ではあるが、さながら鏡を見ているかのようだ。
「あたいはシオなのです。まずはご協力に感謝します、サクラちゃん」
そう挨拶しながら、シオはポケットを探ると封筒を取り出した。中身を素早く取り出し、サクラに見せる。
通常、ロボットはメモリー内に命令権者の順位を作り上げている。これは、相矛盾する指示を与えられた時にどう行動すればいいかを規定すると共に、複数の者から指示を与えられた場合の処理順位を決定することにも使用される。この『順位』が曖昧では、ロボットの行動判断が遅れる原因となるし、最悪の場合論理ループに陥って動かなくなる、といった可能性もあるからだ。シオの場合、この順位の筆頭にあるのはもちろんマスターたる高村聡史だ。これは、軍用モードにある今でも変わらない。
シオがサクラに見せた紙は、五七の桐が透かし模様となっている日本国外務省の公用箋であった。末尾には、外務大臣直々の署名と、公用印がある。文面には、『外務省関係者は、この書類を持参したロボットに対し最大限の協力を惜しむな云々』と言うことが、回りくどい文体で書いてあった。
日本大使館で働くサクラにとって、命令権者筆頭は当然大使である大井氏となる。その上位者である外務大臣が公的に出した書類……。これを提示したことにより、サクラのメモリー内における命令権者順位は大きく変動し、シオがいきなり初登場二位となった。
「どうぞ、なんなりとお申し付け下さい、シオさん」
いかにもメイド系ロボットらしく、シオらしい、もとい、しおらしい口調でサクラが言う。
「サクラちゃんはとりあえず食料搬入作業を続けるのです。あたいが隠れられる安全な場所はありますか?」
「地下の倉庫なら、誰も来ません」
「では、あたいは当面そこに隠れるのです」
シオはそう言った。ぼろを出さないためにも、サクラと完全に入れ替わる準備が整うまで、ゲリラに見つかるのは避けたい。
「それでは、ご案内しますわ」
「それには及ばないのです。館内地理はすべてメモリーに入っているのです。それに、二体でいるところを見られたらお終いなのです。あとで暇ができたら、あたいのところまで来てください」
「承知しました、シオさん。では、仕事に戻ります」
サクラが、サービスワゴンに載っている箱やフードストッカーを調理台に載せ始めた。サービスワゴンが空になると、それをごろごろと押してキッチンの外へと出てゆく。
それを見届けたシオは、頭をそっと通路に突き出して周囲の様子を確かめた。誰もいないことを確認してから、主通路を歩み、地下へと続く狭い階段を降り始める。洗濯室の向かい側に、目指す倉庫はあった。中に入ったシオは、扉を閉めてから壁のスイッチを探り、照明を点けた。裸電球が投げかける光の中に、積み上げられた段ボール箱や使い古されたソファ類、書類ロッカー、何かのイベントに使ったらしい造花や提灯や幟旗、型の古いテレビ、巻いたカーペットなどが浮かび上がる。
シオは素早く内部の3Dマップ化を済ませた。消灯し、3Dマップに全面的に頼りながら、積み上げられた段ボール箱の後ろに身を潜める。
省電力モードに入ったシオは、サクラが来るのをじっと待った。
サクラがやってきたのは、約二時間後だった。
「昼食の支度をするまでは、掃除のお時間なので、比較的自由に動けます」
「ではこれをお渡しするのです」
シオは空の大容量RAMカードを手渡した。これに大使館占拠以後のサクラのダイアリーデータの一部……行動記録と対人接触/対応記録、会話ログ、ゲリラ各人の映像および音声記録などを書き込むように指示する。
「それと、以前から大使館に潜入していたゲリラに関するデータもお願いします」
「ビアンカさんのことですね。今は、イネスと名乗ってますけど」
「では、よろしく頼むのです」
シオはサクラを送り出すと、ふたたび待機の姿勢に入った。午後三時過ぎに、再びサクラが現れる。
「ご指示通り、入れておきました」
サクラが、RAMカードを差し出す。
「ご苦労なのです。夜になったら、また来てください」
シオはアクセスパネルを開けると、RAMカードを差し込んだ。まずはサクラの行動記録にアクセスし、その仕事内容を調べる。入れ替わる以上、その毎日の作業を引き継がねばならない。
それが終わると、シオはゲリラに関するデータを解析し始めた。各人ごとにファイルを作り、その中に映像と音声を落としこんでゆく。その過程で、会話などは逐次分析し、名前や組織内の地位、役割などを推定してゆく。これには、今までシオが視聴してきた膨大な量のテレビドラマや映画……劇場ではなくテレビ放映したものだが……の知識が大いに参考となった。
ファイルには、ゲリラ各員に対する細目情報も書き込まれた。行動パターン、装備、運動能力や知力の推定、などなど。ただしこちらの方は、データ不足からかなり曖昧な内容とならざるを得ない。
最後にシオは、『イネス』に関する情報を細大漏らさず取り込んだ。もしシオのことをサクラの偽物だと見破るゲリラがいるとすれば、それはおそらくイネスであろう。それを防ぐためには、今までのイネスとサクラのやり取りをすべて把握していなければならない。
「こんなところで、充分なのであります」
作業を終えたシオは、外部との連絡に使う偽装RAMカードをスロットに差し込むと、ゲリラに関する解析データをコピーした。サクラからもらった生データも、重要と思われる部分だけコピーする。
午後九時ごろ、夕食の片づけを終えてサクラが現れたときには、シオはすっかり準備を整えていた。
「今からあたいはサクラちゃんと入れ替わるのです。サクラちゃんは、あたいからの指示があるまでここで隠れていてください」
「承知しました、シオさん」
サクラがうなずき、シオと入れ替わって段ボール箱の陰にうずくまる。
サクラになり切ったシオは、軽い足取りで階段を昇った。いよいよ、潜入作戦本番である。
最初にシオが着手したのは、大使館内の3Dマップ化であった。2D図面は事前に与えられたROMの中にあったが、自立ロボット的にはそれだけで内部を把握したことにはならない。また、占拠以後ゲリラが外部からの進入阻止のため、あるいは人質の移動制限のために、各所でバリケードを築いたり、扉や窓を封鎖したり、場所によっては爆薬を仕掛けたりしている。それらも細大漏らさず記録しなければならなかった。
シオは深夜の大使館内をうろうろと歩き回った。通常業務であれば、この時間帯にサクラが作業することはないが、ゲリラによって他のロボットがすべて追い出されてしまったので、彼女がやらねばならぬ仕事は増えている。それゆえ、サクラは毎晩遅くまで動き回っていたので、シオがうろついていても怪しまれることはない。たまに見回りのゲリラと出くわすと、シオは擬装用に持参したモップを使って掃除をしているふりをした。ゲリラの方も、館内を清掃しているサクラの姿は見慣れているようで、ほとんど気にも留めない。
シオは粛々と3Dマップ化を進めた。在サンタ・アナ日本大使館本棟は、鉄筋コンクリート造りの総二階建て。縦横比2対5くらいの、東西に細長い長方形をしている。一階の西側三分の二くらいが、在外公館業務を行うスペースで、訪問者用出入り口とホール、ビザやパスポート、各種証明書類発行の受付、相談窓口、それらに付随するスタッフの仕事場などがある。東側三分の一には、通訳やタイピストなど現地スタッフの詰める事務室、食堂兼用の休憩室、広報文化室、現地採用警備員の詰め所、それに発電機室などがある。キッチンがあるのも、ここだ。
二階は基本的に現地職員立ち入り禁止である。西側三分の一は、広々とした多目的のレセプションルームとなっている。そのままでダンスホール、テーブルを並べれば立食パーティの会場、椅子を運び入れれば会議室、テーブルを片付ければ講演会場、スクリーンを張れば映画上映会場となる便利な部屋だ。
残り三分の二には、大使室、参事官室、電信室、医務室、官房班室、会計班室、経済班室、政務班室、応接室兼用の小会議室、警備室、ゲストルームなどが並んでいる。
地下にあるのは、洗濯室と倉庫、それにロボットの控え室だけだ。
人質は、基本的に全員がレセプションルームに集められていた。窓は換気用の一部を除きすべて封鎖されており、飛び降りて逃げたりすることはまず不可能だ。見張りは常に二人。いずれも唯一の出入り口付近に立ち、一人が内部、もう一人が外の通路を油断なく監視している。
日常業務を淡々とこなしたシオは、人質の朝食後に大井全権大使に接触した。レセプションルームに隣接しているゲスト用トイレに大井大使が入ったのを見届けてから、点検の振りをしてトイレに入る。ちなみに、人質は全員が男性なので、女性用トイレも普通に利用されているようだ。
大井大使が入った男性用トイレには、他に人影はなかった。シオは、放尿を終えた大井大使に、例の外務大臣署名のある紙を突きつけつつ、自己紹介した。
「なるほど。いや、入れ替わっていたとは、気付かなかったよ」
感心したように、大井大使が言う。だいぶ頭髪が後退した、ちょっとくたびれたような印象の細身の男性である。
「情報収集についてご協力をお願いすることがあるかも知れません。そのときは、よろしくなのです」
ぺこりと一礼したシオは、そそくさとトイレを出た。
ゴミ。
人間が生活するうえで、必ず出てくるものがゴミである。それが、建物内に立てこもって包囲する軍隊や治安部隊と対峙している武装勢力であっても、その武装勢力によって人質に取られている人々であっても、同様だ。
『フレンテ』側は、ゴミの中に包囲側に向けた手紙やメモの類が入れられることを警戒し、人質が直接出したゴミに関しては極力駐車場で焼却処分していたが、ゲリラたちが出すゴミやキッチンから出るゴミに関しては、まとめて処理業者に引き渡す、という方法を採っていた。
シオはその中に、擬装RAMカードを紛れ込ませた。ごくありふれた日本製のRAMカードであり、一部が熱変形しており、一見すると単に廃棄処分になった物としか思えない代物だ。実際にアクセスしてみても、クラッシュデータしか読み出すことができない。もちろんこれは偽装であり、しかるべき手段でアクセスすれば、暗号化されたデータを取り出すことができる。プロの手に掛かれば、あっさりとプロテクトを外されたうえに暗号化したデータも復元されてしまうだろうが、ゲリラたちの中にそこまでの技量の持ち主がいるとは思えない。
今までに集めた各種データが収まったRAMを入れたゴミバケツに蓋をすると、シオはそれを台車の上に載せた。ごろごろと押して行き、訪問者用出入り口の外に出す。見張りのゲリラが一応蓋を開けて中を覗いたが、生ゴミの臭いに閉口してすぐに蓋を閉めた。サクラに対しては、占拠当初に『フレンテ』側から各種行動制限命令が与えられている。ゲリラは、ロボットがゴミを介して外部と連絡を取っているなどありえないと思い込んでいるのだ。シオは素知らぬ顔で空の台車を押して館内に戻った。
「とりあえず順調みたいねー」
シオから送られてきたデータをざっと解析し終わった畑中二尉が、あくび交じりに言う。
エルクレス陸軍基地のゲストルームのひとつ。そこに、デニス・シップマンSIS上級工作官が統括する『キャットニップ』の指揮所が置かれていた。とはいっても、ベッドその他の調度を運び出し、古い事務机と椅子を入れ、これまた古臭いパソコンを数台並べただけの、貧相な指揮所である。
「もう少し、ゲリラ側の指揮系統に関する情報が欲しいですわね」
パソコンにケーブルを接続し、三鬼士長の手伝いをしていたスカディが、そう発言する。
「まあ、一日ちょっとでここまで調べ上げたのは上出来よねー。で、デニスさん。サンタ・アナ側は今後どうするつもりなのかしら? やはり強行突入を行いますの?」
途中から英語に切り替えた畑中二尉が、デニスを見やる。
「おそらくそうだろうね。シオの報告によれば、人質三十四名はすべて二階のレセプションルームに集められているようだ。これは、救出には都合がいい」
「殺害にも便利ですがね」
控えめな口調で、長浜一佐が口を挟んだ。デニスが、苦笑する。
「レセプションルームの北側は窓がなく、塀を挟んで大使館北側の邸宅の庭と向き合っている。壁を爆破し、梯子などを使えば特殊部隊を突入させつつ人質救出を行うことは容易だろう。壁の爆破で、人質に死傷者が出なければ、の話だがね」
「そうやなぁ。ちまちま穴を開けるのならばまだしも、一気に壁を吹き飛ばすとなると、中の人質はたまったもんやないで」
スカディ同様、三鬼士長を手伝っていた雛菊が、そう言う。大使館は耐震性に優れた……このあたりは環太平洋造山帯に含まれる地震多発地帯である……頑丈な鉄筋コンクリート造りである。壁の爆破にはかなりの量の爆薬が必要となるし、爆破すれば鉄筋交じりのコンクリート片が多数飛散することになる。よほど頑丈な遮蔽物の陰に身を潜めでもしない限り、死傷は免れない。
「それでは、中から爆破したらいかがでしょうかぁ~。指向性爆薬を上手に仕掛ければ、人質に被害が及ぶことなく爆破できると思いますがぁ~」
キーボードを叩く手を止めて、ベルが言った。
「どうやって?」
すかさず、スカディが訊く。
「わたくし、前回の任務で爆破の楽しさに目覚めてしまいましてぇ~。爆薬と爆破テクニックに関しては、主にインターネットを通じて独習していたのですぅ~。指向性爆薬を支給してもらい、シオちゃんの代わりに大使館に潜入できれば、きれいに爆破する自信がありますですぅ~」
ベルの発言を聞いて、デニス、長浜一佐、畑中二尉が顔を見合わせる。
「これは……検討の余地ありですな」
デニスが、言う。
「そうですな」
長浜一佐が、うなずいた。
「日本側からの提案として、サンタ・アナ側に伝えるというのは……」
「いや、それは止めていただきたい」
デニスの提案を、長浜一佐が即座に拒否した。
今でさえ、長浜一佐らの立場は微妙である。ここで、サンタ・アナ側にAI‐10を積極的に活用する強行突入案を提示するなど、越権行為もいいところだ。
「では、わたし及びホーン大尉からの提案、ということで、フォンセカ局長にお伝えしましょう。向こうはSASに一目置いていますからね。前向きに検討してくれるでしょう」
「それがいいですね。お願いします」
安堵の表情で、長浜一佐が言った。
第八話をお届けします。




