第十六話
室内の空気は重かった。
ミハイル・ナビエフは、カップの紅茶を飲むふりをして同席者の顔を盗み見た。インガ・ラザエヴァ大統領は冷静な表情で自分の紅茶を啜っているが、相当怒っているはずだ。一方の内務省のラシム少将は、不満げな表情を隠そうともせずに、時折ナビエフに非難の視線を送ってくる。
スミヤ市で開業する弁護士、ミハイル・ナビエフ。ギョルスタンを含む旧ソ連圏には、法廷弁護士と事務弁護士を区別する制度はないが、彼はもっぱら法律事務を手掛けてきていた。ラザエヴァ大統領とは、駆け出し議員の頃から懇意で、いままでに何度も後ろめたい『業務』を扱ってきている盟友である。だが、この深い関係を以ってしても、事務所に侵入され……しかも、よりによって『СС』に!……資料類をごっそりと持ち去られた、という不祥事を穏便に済ませてもらえそうにない。
「で、実害は?」
カップを置いたラザエヴァが、ようやくまともにナビエフの顔に視線を当てる。
「閣下に関する重要なデータは事務所には保管していませんでした。ですから、安全です。ごく最近と近い将来の、事務的なデータに関しては盗難に遭いましたが、もちろん暗号化されていますし、閣下に関しても偽名および整理番号で管理していただけですから、他の雑多な顧客データに紛れています。連中が暗号解読に成功したとしても、実害はないでしょう」
ナビエフは説明した。内心ではびくついていたが、それが声や表情に出なかったのは、長年の弁護士稼業の賜物である。
「美術館の作戦に関してはどうなんだ? 決行は間近に迫っているのだが?」
ラシム少将が、訊く。
「その件ですが……実は個人的なメモに、大統領閣下から依頼された保険処理に関する書き込みがありまして……そこに、今月二十一日、という日付が……」
「『СС』に、作戦決行日時が露見する可能性があるの?」
ラザエヴァが、射貫くような視線をナビエフに浴びせる。
「日付のみです。それに、そのことが閣下や国立美術館と関連付けられるような記述はありません。ですから、暗号が解読されたとしても、作戦に支障を来すおそれは皆無です」
ナビエフは自信ありげに言い切った。
嘘だった。
確かに、美術館が被るであろう損害に関する保険処理についての書き込みには、損害が発生する二十一日という日付……正確に言えば二十一日の深夜、つまり二十二日の夜だが……が書き込まれている。しかし、その他にも同一案件に関して書き込みがあり、そちらには『スミヤ国立美術館』『収蔵品の損害』『内務省』などの単語が並んでいたのだ。少しでも頭の回る者なら……暗号解読ができる程度の優れた脳の持ち主であれば、双方の文言を突き合わせて、『二十一日の深夜に内務省によってスミヤ国立美術館の収蔵品が内務省によって毀損され、保険処理が行われる予定』という『正解』に辿り着けるだろう。
この事実がばれたら、ラザエヴァの怒りが爆発するだろう。作戦が露見し、失敗に終わったとしたら怒りは爆発では済まなくなる。ナビエフが別件で逮捕され、収監中に事故死する……もちろん、口封じのために消されるのである……可能性が大だ。
幸い、今日は十八日。作戦決行までは六十時間あまり。『СС』が奪っていったデータ量は膨大だ。目的はラザエヴァ大統領の醜聞なのだろうから、暗号解読はそれらしい過去のファイルが優先されるはず。ごく最近の、ナビエフの個人的な覚書など後回しにされるだろう。
作戦が決行されれば、たとえナビエフの覚書が完全解読されたとしても、実害は生じない。その程度では、ナビエフが作戦に関与していたという確たる証拠にはなるまい。ラザエヴァ大統領に知れたら怒られるだろうが、実害なしということで穏便に済ませられるはずだ。
あと六十時間。ナビエフは、『СС』の暗号解読役が、彼の覚書ファイルに興味を示さないように祈った。
「諸君らのロシア脱出に関する計画がまとまった」
アスミルが、切り出した。
「アストラハンまで行く長距離トラックに乗ってもらう。安全は保障する……と言いたいところだが、多少危険は伴うので、そこは覚悟しておいてくれ。もちろん、我々は最善を尽くすつもりだ」
「国境の警備が厳しいのでありますか?」
シオは訊いた。アスミルが、首を振る。
「いいや。ロシアとギョルスタンの国境越えは大丈夫だ。友好国だからな。むしろ怖いのが国内での臨時検問と内務省のパトロールだ。長距離を走る車両は警戒対象なので、不意を衝いて検査されることがある。この時に見つかったら、お終いだ。だから、慎重にやる必要がある」
アスミルが、持参の地図を広げる。
「スミヤ市から、ロシアのアストラハン州アストラハン市のあいだは、主要な貿易ルートのひとつで、多数の長距離トラックが行き来している。この中に、紛れ込む。スミヤ市からロシア国境まで、ルートは三つあるから、それぞれにうちのメンバーを乗り込ませた長距離トラックを一台ずつ走らせ、先行偵察させる。諸君らを隠したトラックがそのあとを走り、もっとも安全と思われるルートを選択しながらあとを追いかける、という寸法だ。ルートが三つとも危険、と判断された場合は、中止。スミヤに戻って、翌日やり直す。その他に、スミヤ市細胞の連中の応援も受けて、北東部細胞が主要地点で内務省と警察の動きを見張る」
「良さそうな計画ですね」
真剣に聞いていた畑中二尉が、うなずく。
「総指揮は、ウルファンが執ってくれる予定だ。わたしは、スミヤ市に残ってバックアップを行う。諸君らには、ズラータが同行する。ロシア国内に入ったら、そちらの希望する場所で降ろす。どこがいい?」
アスミルが、訊いた。
「できればアストラハンまで乗せて行ってもらいたいですね。交通の便もいいはずですし。それに、ロシアの北カフカス地域は結構物騒ですから」
畑中二尉が、言った。
「結構。終点まで、お送りしよう」
アスミルが、笑みを浮かべてうなずく。
「長距離トラックの積み荷は何なんや?」
雛菊が、訊いた。
「トラックは今手配中なので、どのような積み荷になるかは不明だ」
「羊さんと一緒にドナドナされるというのはいかがでしょうか?」
シオはそう提案した。
「却下ね」
スカディが、あっさりと切り捨てる。
「明後日の朝に、迎えに来る。車でスミヤ市郊外の隠れ家まで移動だ。二十二日の早朝に、市内のトラックターミナルからトラックが出発する。途中で、乗り込んでもらう手筈だ」
地図を巻きながら、アスミルが言った。
「ところで、弁護士事務所から回収したデータの解析は、進んだのかい?」
亞唯が、訊いた。アスミルが、顔をしかめる。
「順調に進んでいるが、まだ碌な物は出てきていないらしい。なにしろ、凄まじい量だからな」
「『黒松』に関しても、何も出てきませんか?」
畑中二尉が、訊いた。
「そちらとの約束通り、最近の物らしいデータを優先して調べているそうだが、まだ何も出てきていないそうだ。もし何かわかったら、すぐに連絡してくれる手筈だ」
筒状に巻いた地図で肩をぽんぽんと叩きながら、アスミルが答えた。
「二尉殿。もし『黒松』の所在がロシア入国前に判明したら、いかがなさるおつもりですか?」
三鬼士長が、日本語で訊いた。
「奪還可能ならば、『СС』に土下座してでも支援を貰って奪還するぞー。無理なら、諦めるー。さすがに、命は惜しいからなー」
畑中二尉が言って、にやにやと笑った。
「やれやれ。シオが変なフラグを立てたせいですわね」
スカディが、諦め顔で首を振る。
日本勢をスミヤ市郊外まで運ぶ幌付きトラックの荷台には、もふもふの羊がぎっしりと積み込まれていた。
「あの~。この羊さんたちは、このあとどうなるのでしょうかぁ~」
ベルが、同行するズラータに遠慮がちに訊く。
「食べられるのさ」
ズラータが、あっさりと答えた。
「……あかんやん、それ」
雛菊が、ドン引きの表情となる。
「文句言うなー。おまいらのマスターだって、ジンギスカンくらい喰うだろー」
畑中二尉が、説教口調で言う。
「結構臭いですね」
トラックの荷台に頭を突っ込んだ三鬼士長が、顔をしかめる。
「山羊より臭くないぞー。我慢しろー。おまいら、早く乗れー」
畑中二尉が、AI‐10たちに荷台に乗り込むように促す。
この辺りの羊は、日本人が羊と聞いて思い浮かべる角が無く、白っぽい毛に覆われた品種とは違い、立派な角を持ち、顔や体の一部が薄茶色の羊である。日本勢とズラータは、その羊たちをかき分けるようにして荷台の奥に入り込み、腰を下ろした。
金属の臭いが気に障るのか、羊たちはAI‐10には近寄って来なかったが、元々人に慣れているのかあるいは臭いが気に入ったのか、それとも餌でもくれると思ったのか、三人の女性には馴れ馴れしい態度を見せた。羊の臭いには閉口していた三鬼士長も、これには相好を崩したが、すぐに顔をしかめ出した。羊の一部が、糞をし始めたからだ。羊の糞はさほど臭わないが、幌付きトラックの荷台で大量に出されれば、それなりに臭い。
苦行は三時間ほど続いた。ようやくスミヤ市近郊の農家に着き、羊地獄から解放された一同は、待っていた初老の女性に導かれて一軒の小屋に連れこまれた。板張りの床に三枚のマットレスが敷かれ、折り畳んだ毛布が載せられている。コンセントもあるので、AI‐10たちの充電もできるようだ。
「狭いが我慢してくれ。とりあえず安全だから」
マットレスに腰を下ろしたズラータが、座るように畑中二尉と三鬼士長に座るように身振りで勧める。
「明日の朝、この近くを長距離トラックが通る。それに乗り込んで大人しくしていれば、あっというまにアストラハンだ。今夜は、良く寝といてくれよ」
「さすがに寝るのは早いなー」
腰を下ろした畑中二尉が言う。
AI‐10たちはさっそく順番に充電を開始した。
しばらく雑談したのち、何か飲み物を貰ってくる、と言ってズラータが小屋を出た。すかさず、スカディが畑中二尉と三鬼士長の元へと歩み寄って来る。
「ところで二尉殿。ロシア入りした後はどうなさるおつもりですか?」
「あたしだけなら、偽物パスポートでロシアから出国可能だが、おまいらはもちろん三鬼ちゃんも無理だからなー。ヨーロッパ・ロシアには日本の公館が少ないー。アストラハンから一番近いのが、在モスクワ日本大使館だー。そこを目指すのが現実的だろうなー。金は銀行から下ろせばいいー。おまいらじゃ飛行機や列車移動は難しいから、レンタカー移動になるなー。モスクワに着いたら長浜一佐に連絡して、迎えを寄越してもらうことになるー」
「では、『黒松』は諦めるのでありますか?」
シオは顔をしかめつつ訊いた。
「現状でまったく手掛かりがないからなー。いくらなんでも、大統領官邸に殴り込んで『あの女』を拉致し、拷問に掛けるというわけにはいくまいー。真相は伏せて、『テロリストに襲撃されて奪われました』と言い訳するしかあるまいー。幸い、ギョルスタンの政府の公式見解と一致するし、マスコミの報道とも矛盾しないからなー。立派な申し立てだー」
苦笑しながら、畑中二尉が言う。
「悔しいですね」
三鬼士長が、ぼそっと言う。
「悔しいがこれが我々の実力だー。尻尾巻いて逃げるしかないー」
「尻尾か。どうせならスカンクみたいに尻尾を高く上げて、『あの女』に最後っ屁のひとつも浴びせてやりたいところだけどな」
畑中二尉の発言を受けて、亞唯が下品なことを言う。
「それはいいですわね。機会があったら、ぜひ浴びせてやりたいものですわ」
スカディが言って、にやりと笑った。
スミヤ国立美術館の閉館時間は、午後六時である。
部外者が誰も残っていないことを確認した学芸員カムラン・ユシフォフは、陶器展示区画の扉を閉じた。警備員には、これから数時間展示品のメンテナンス作業をするので邪魔しないで欲しい、とすでに伝えてある。
三人の助手に手伝わせて、カムランはさっそく作業を開始した。大量に持ち込んだ梱包用資材を使って、価値の高い収蔵品を包み、段ボール箱の中へと詰め込んでゆく。その中には、今回の東洋陶器展に際して中国や韓国の博物館や美術館から借りた貴重な焼き物も含まれていた。
作業にはたっぷり五時間掛かった。台車に乗せた何箱もの段ボール箱を、エレベーターを使って一階まで運び、待っていたトラックの荷台に積み込む。
トラックが走り去るのを見届けたカムランは、助手たちに作業室に保管してあった段ボール箱を運ばせた。展示室で箱を開け、中から丁寧に梱包された品々を取り出す。
カムランは時計を見た。午後十一時二十七分。
ほぼ同じころ、インガ・ラザエヴァ大統領は別荘の一室でワイングラスを傾けていた。
ギョルスタンはイスラム教徒が大半を占める国家であるが、旧ソ連圏なので飲酒に関しては寛容である。さすがに人前でウォッカをがぶ飲みするのはまずいが、自宅でこっそりと低アルコール飲料を嗜むくらいなら、問題視されることはない。
ラザエヴァ大統領が楽しんでいるのは、ジョージア産のアンバー・ワインだった。白ブドウの種や皮を取り除かずに、発酵させて作られたワイン……製法は、原料が白ブドウなだけで、普通の赤ワインと同じである……だ。製法からスキンコンタクトワイン、あるいは色からオレンジワインとも言われる、琥珀色のワインである。
酒のつまみは、古びた茶碗であった。今から三百数十年前に、日本の京都で焼かれた、赤茶色の焼き物。
言わずと知れた、『黒松』……の本物、である。
ラザエヴァは、日本人でも明確に理解しているとは言い難い『侘び・寂び』をほぼ完璧に会得している稀有な外国人の一人であった。昔は、現代の陶芸家が作った安価だが優れた作品を合法的に買って楽しむだけで、満足できた。だが、趣味にのめり込むに従い、さらに優れた作品を手に入れたいという欲求が募って来る。幸か不幸か、ラザエヴァは政界で順調に出世を遂げ、徐々にではあるが自由になるお金……これは、自分のお金と同義ではない……と、揮える権力の幅が大きくなってゆく。
欲求には抗えず、ラザエヴァは不正流用したカネと、自己の政治力を利用して、コレクションを増やし始めた。日本の古い陶器だけではなく、同じように侘び寂びを感じられる中国や朝鮮の陶器にも手を伸ばし、買い集めてゆく。
欲求は止まるところを知らなかった。ぜひ、国宝級の陶器も所有したい……。
ラザエヴァは『黒松』を恭しく手に取った。図らずも、予定より早まってしまったが、こうして『黒松』も手に入った。明日の午前中には、『黒松』と同等の、あるいはそれ以上の価値のある名器が多数、手元に届く。中国国家博物館ですら羨むほどの逸品が、手に入るのだ。
第十六話をお届けします。とうとう二百万字超えてしまいました。とんでもなく長いお話にお付き合いいただきましてまことにありがとうございます。




