第十四話
畑中二尉は、古びた腰掛にひとり腰を下ろしていた。
目の前の低い台の上には、古びた黒い電話機……おそらく前世紀の遺物であろう……が鎮座している。カーテン代わりに吊られた古毛布の向こう側には、このカフェの客用スペースがある。テーブル席が三十ほどあるが、今は昼過ぎなので、客の姿はまばらだ。
とある集落にあるこのカフェは商店も兼ねているようで、店主が陣取るカウンターの横には生鮮品以外の食料品……缶詰、ソフトドリンク、日持ちのする菓子類などが陳列された棚があったが、それほど売れていないのかみなうっすらと埃を被っている。……賞味期限とか、大丈夫なのだろうか。
畑中二尉は腕時計で時刻を確認した。現地時間の十三時四十一分。手紙で指定した時間は日本時間の十九時四十三分なので、あと二分で電話が掛かって来るはずだ。……あの暗号手紙が、無事に長浜一佐の手元に届いていれば、だが。
畑中二尉は、店主が気を利かせて持って来てくれた冷たい紅茶を一口飲むと、心を落ち着けた。目立たないように、この集落へは『СС』メンバーの青年が運転するおんぼろのジグリの助手席に乗って来た。服装も、ズラータが持って来てくれたブラウスとロングスカートに着替え、大きなスカーフで頭部をすっぽりと覆っている。カフカスには土着のモンゴロイド民族はいないので、どう見ても地元民には見えないが、遠目にはチュルク系少数民族で通るはずだ。
電話機が、着信の電子音を鳴らし始めた。畑中二尉は腕時計で時刻を確認した。四十三分を三十秒ほど過ぎている。
「アリョー?」
受話器を取った畑中二尉は、一応ロシア語で話した。
「わたしだ」
声で畑中二尉と識別したのだろう。長浜一佐の日本語が聞こえた。
「どうも。あたしです」
畑中二尉はそう応じた。聞き慣れた上司の声を久しぶりに耳にしたせいで、自然と顔がほころんでしまう。
「無事かね?」
「あたしも相方も無事です。子供たちも、元気ですー」
畑中二尉は答えた。安全な電話だが、会話はどこかの結節点で録音されている可能性がある。遠回しな言い方をするしかなかった。
二人は、即席の隠語を多用しながら会話を続けて行った。『上』が情報本部本部長、『親会社』が日本政府、『保護者』が『CC』、『あの女』がラザエヴァ大統領などなど。『黒松』は『BP』となった。もちろん、ブラック・パインの意味である。
「で、ご指示は?」
一通り報告とAI‐10貸し出しに関する話が終わると、畑中二尉は期待を込めて訊いた。
「選択肢はあまりないな」
電話回線越しでも、長浜一佐がかなり胃を痛めているらしい雰囲気が伝わってくる。
「最良の解決策は、諸君らが『BP』を確保することだ。幸い、『上』も『親会社』も諸君らの現況を知らない。『出先』で多少の『帳簿外の損益』が生じても、問題ないはずだ。『取引先』以外に迷惑が掛かっても、あとあと問題になることは無いだろう」
「現状で、その選択肢は難しそうですねー」
畑中二尉は言った。『BP』……もとい、『黒松』がどこにあるかも定かではないし、使える戦力は女性自衛官二名にロボット五体だけ。『СС』の協力を得たとしても、難しすぎる課題である。
「それが無理ならば、『あの女』と『BP』の繋がりを探り出してくれ。はっきりとした『資料』が手に入れば、『親会社』を通じて『値引き交渉』ができるかもしれない」
「それも難しいですねー。まあ、やってはみますが」
AI‐10を貸し出す代償として、国外脱出の手助けとともに、畑中二尉は『СС』に対し『黒松』の行方について探ってくれ、と依頼してある。だが、確実な情報が入ることはまずない、と畑中二尉は踏んでいた。ラザエヴァ大統領がそんなドジっ子であれば、長期政権など維持できるはずがない。劣勢の反政府組織の情報網では、『黒松』が隠されていそうな場所を探り出せるのが関の山であろう。
「無理を強いるつもりは無い。そちらの判断で、いつでもプロジェクトを畳んでかまわない。『現場』を出て北を目指したまえ。『シーブリーム・オフィサー』はやめておきたまえ。危険すぎる、との情報が入っている」
「しーぶりー……ああ、判りました」
一瞬戸惑った畑中二尉だったが、すぐに理解してそう言った。シーブリームが『鯛』で、オフィサーが『士官』、合わせて『鯛士官(大使館)』という意味だろう。
長浜一佐から、AI‐10貸し出しに関する許可を得た畑中二尉は、隠れている村に戻るとその旨をアスミルとズラータに伝えた。
喜んだ二人は、さっそくダリオを呼びよせて、日本勢に紹介した。
「ダリオと呼んでください。みなさん」
眼鏡姿の、真面目そうな青年が名乗る。
「我々は、スミヤ市内のある事務所を襲撃する計画を立てている。目的は、情報収集だ。作戦が失敗しない限り、人を殺傷することはない。これに、ロボットを参加させてほしい」
アスミルが、切り出した。
「作戦の詳細が判らないと、決断はできませんね」
畑中二尉が言う。AI‐10たちを一体も失うわけにはいかないし、多少損傷を受けただけでも、帰国計画に大いに狂いが生じることになりかねない。
「では、説明するとしよう。だが、その前に条件を再確認しておきたい。ロシアへの安全な越境と、『クロマツ』の行方に関する情報収集。以上の二点が、そちらの要求でいいのだね?」
アスミルが、念押しするように言う。
「それで結構です」
畑中二尉が、うなずいた。
ズラータに促されたダリオが、テーブルの上に大判の紙を数枚広げる。
「目標はとある事務所です。場所は伏せますが、スミヤ市内某所にある四階建てビルディングの三階にあります。基本的な計画は、こうなります」
ダリオが、簡単な見取り図を指し示す。
「一階部分は商業テナント、二階から四階まではオフィスが入居しています。正面出入り口、あるいは裏の通用口から侵入すると、何枚ものスチールドアとシャッターを突破しなければならず、侵入に時間が掛かります。そこで、外側から壁面を爆破して侵入する計画を立てました。作戦は深夜に行います。まず、この北側の壁を爆破します」
ダリオの指先が、赤いバツ印が付けられた地点を指す。
「一隊はこちらの非常階段に向かいます。もう一隊はこちらの通路を進み、ここにある警備室を制圧します。夜間の常駐警備員は武装していますがわずか二名なので、まず確実に短時間で制圧できるでしょう。ここまで、一分以内に行います」
タイムスケジュール表を合わせて示しながら、ダリオが説明を続ける。
「夜間はエレベーターは停止されており、安全のため電源も落とされているので、三階に上がるには非常階段を使う方が早いです。各階への出入り口は、警備室から遠隔操作される電気錠で施錠されているので、制圧した警備室で操作盤を操作して解錠します。爆破するよりも、こちらの方が早いです。これで、階段前で待機していた一隊が非常階段に侵入し、三階まで駆け上がることができます。三階の目標であるオフィスの扉前まで到達するのに一分。電気錠の解錠に三十秒掛かるとみて、合計でここまで二分半で終わらせます」
「結構時間制限きびしそうやなー」
雛菊が、話の腰を折らない程度に小声で突っ込む。
「事務所のスチール扉は施錠されているので、これを爆破します。掛けられる時間は三十秒。爆破したら侵入し、データ収集を行います。時間は三分間」
「三分。よほど狭いオフィスでない限り、ろくに情報は持ち出せないのでは?」
スカディが、質問口調で訊く。
「その点は大丈夫だ。調べた限りでは、このオフィスにおいて、情報のほとんどがデジタル化され、オフラインのパソコン内に保存されている。そこで、中にあるパソコン本体と外部記憶装置、記録メディアの類を根こそぎ持ちだす計画だ。二十人掛かりで行けば、まず大丈夫だろう」
アスミルが、答える。
「それって、暗号化されていたり厳重なプロテクトが掛かっていたりするんじゃないのか?」
亞唯が、問う。
「その点も大丈夫だ。うちには、コンピューター関連の天才が一人いてね。時間は掛かるだろうが、すべて解読できると豪語している」
にやりと笑いつつ、アスミルが言う。
「撤収には、一分を予定しています。予備に、三十秒を想定。全部で、七分間で作戦を終えます。警察が駆けつけてくるまで早くて五分。同じく内務省公安部隊が八分。警察の方は軽装備なので、威嚇射撃で追い払います。逃走には、車両を使います。内務省の連中が到着した頃には、すでに逃走ずみというプランです」
説明を終えたダリオが、畑中二尉と三鬼士長を見る。
「時間的にぎりぎりですね」
亞唯の同時通訳を聞いていた三鬼士長が、日本語で言った。
「なにかひとつでもトラブルが生じたら、数分の遅れが出る。内務省の部隊と、市街地で銃撃戦、なんて事態になりかねないのでは?」
畑中二尉が、首を傾げて懸念を表しながら尋ねた。
「現状では最良のプランだと、考えている。建物内部の様子など、事前に調べられることは徹底して調べた」
アスミルが、言った。
「ひとつお聞きしますが、何の事務所なのでありますか?」
シオは気になった点を聞いた。事務所と言っても、ピンキリである。官公庁の小規模な拠点から、暴力団事務所とか探偵事務所とか芸能事務所とか、どうみても事務仕事はやってないんじゃないか、という処も事務所を名乗っているのだ。
「まあ、こうなったらそこまで話していいだろう。インガ・ラザエヴァ大統領と近しい立場の弁護士事務所だ。彼女の悪事に関しての記録がある、と我々は確信している」
ズラータと目線で意思を通じ合わせてから、アスミルが思い切ったように言った。
「ほう。……ひょっとして、そこに『黒松』の行方に関する情報も含まれている可能性が……」
畑中二尉が、期待を込めた視線をアスミルに向ける。
「それに関しては、正直何とも言えない。だが、噂されているラザエヴァの秘密の陶器コレクションのありかに関する記録はありそうだ。『クロマツ』がそこに加えられた確率は、かなり高いのではないかな」
アスミルが、にやりと笑みを浮かべながら言う。
「よし、決まりだー。おまいら、頑張ってこいー」
畑中二尉が日本語で言って、手近にいたスカディとシオの肩を励ますようにぽんぽんと叩く。
「あのぉ~。ちょっとよろしいでしょうかぁ~」
テーブル上に広げられた図面から顔を上げたベルが、遠慮がちにダリオに尋ねる。
「屋上からの侵入はご検討されたのでしょうかぁ~?」
「もちろん、行った。侵入経路の距離は短くなるが、爆破する扉の数は合計四枚になるし、屋上に設置されている防犯センサーの無力化も難しいから、事前爆破準備もできない。却って、時間が掛かると判断されて没案になった」
ダリオが、澱みなく説明する。
「わたくし、天井爆破による侵入を提案しようと思ったのですが、センサーの無力化が無理だとすると時間の節約にはなりませんねぇ~。残念ですぅ~」
「天井の爆破?」
ズラータが、驚いた顔でベルを見る。
「みなさん扉や壁の爆破に拘りますが、爆破自体は壁も床も天井も難しさはそれほど変わらないのですぅ~。建築物によっては、天井をぶち抜いて上から侵入する方が簡単な場合があるのですぅ~。この建物には、通用しそうにないですがぁ~」
アスミルが、ズラータとダリオを見てにやりと笑った。『な、俺の見立てた通り、こいつは優秀だろ?』という自慢げな笑みである。
「では第二案を提案いたしますですぅ~。この建物の、お隣はどうなっていますかぁ~」
再び、ベルが訊いた。
ダリオが、アスミルを見た。周辺の詳しい状況は、目標の所在地の特定に繋がりかねない情報である。
「見せてやれ」
アスミルが、許可を出す。
うなずいたダリオが、目標周辺の見取り図を出した。
「ここが目標が入居する建物です。東側が通りで、片側二車線の道路。北側は約一メートル半の間隔を開けて六階建てのオフィスビル。西側は三メートルほどの間隔を開けて平屋建ての家電量販店。南側は駐車場になっています」
「なるほどぉ~。この北側のビルの夜間の状況はどうなっていますかぁ~。三階の詳細な図面も見たいのですぅ~」
「隣の建物? 何をするつもりだ?」
アスミルが、訝りつつ訊く。
「一階から三階まで非常階段を駆け上がるというのは大変ですぅ~。そこで、北側の建物の三階から、目標の建物の三階にお邪魔するというのはいががでしょうかぁ~」
嬉しそうに、ベルが自分のアイデアを披歴した。
まず北側のオフィスビルに侵入する。
三階にたどり着き、南向きの窓の外に簡易な足場を組み、ビルの三階壁面外側で作業ができるように準備する。足場を使い、両側のビルの三階壁面外側に爆薬設置。
爆破準備が完了したら、二か所の壁面を同時に爆破。開口部に『橋』を掛け、目標ビルの三階に侵入。事務所の扉に取りつき、これを爆破。事務所内に侵入し、パソコンやハードディスク、記録メディア類を根こそぎ持ちだす。
撤収は『橋』を使って北側のオフィスビルから行う。
「『橋』を掛けて侵入するまで三十秒、扉の爆破まで三十秒、事務所内の捜索に三分、撤収に一分、予備に三十秒として、五分半で終わらせることができますですぅ~。もちろん、北側のオフィスビルの警備が厳しかったり、利用できる適当な窓が無かったりすれば、無理ではありますがぁ~」
ベルの説明を聞いたアスミルとズラータとダリオが、唖然とした表情で顔を見合わせた。
「隣の建物を爆破する、という発想はなかったわね」
ズラータが、独り言のように言う。
「どうだ?」
アスミルが、ダリオに問うた。
「警備は厳しくないはずです。武装警備員が何人も常駐していれば、そちらとの戦闘も考慮しなければならないはずですが、そんな情報はありませんでしたから」
メモの束を繰りながら、ダリオが言った。
「もう一度調べ直せ。スミヤの細胞を動員しても構わん。イルキンの許可は、俺が取っておく」
アスミルが、指示する。
「さすがベルちゃんなのであります! 頭いいのであります!」
シオはベルを誉めそやした。
「ダリオさんの計画は常識的かつ堅実な計画でしたが、ひとつだけ気に入らない点があったのですぅ~」
ベルが、日本勢だけに判るように日本語で言った。
「どこが気に入らなかったの?」
スカディが、訊く。
「非常階段を三階まで駆け上る、という処ですぅ~。わたくしたち、短足なので階段を駆け上がるのは苦手ですからぁ~」
ベルが自分の短い脚を見下ろしつつ言った。
第十四話をお届けします。




