第七話
スカディが、厚手のダンボール箱を持ち上げて、シオに被せた。
「こんなんで、うまく行くやろか?」
雛菊が、首を傾げる。
エルミタ通りにほど近い倉庫の中である。AI‐10たちと石野二曹は、SISのデニス・シップマンの監督のもと、夜明け前からシオの日本大使館潜入準備を進めていた。
サンタ・アナ内務省と警察は、日本大使館内の状況についてすでにかなりの情報を集めていた。『平和的解決の方法を模索する』のと『人質と共に祈る』ことを目的として、地元の高名な司祭が連日内部を訪問していたし、昨日は人質の健康状態をチェックするために医師と看護婦が中に入っている。司祭は中立的立場を貫くために、ゲリラ側に関する情報を漏らすことを拒否していたが、人質の置かれている環境や待遇については詳細に語ってくれたし、医師は知りえたことをすべて内務省の係官に伝えてくれていた。その中には当然、食事などに関する情報も含まれていた。
『フレンテ』のゲリラたちが、人質の解放と引き換えに要求した事項の中には、食料の供給もあった。それに基き、サンタ・アナ内務省と警察は、毎日早朝におおよそ百二十食分程度の調理済み料理、パンやトルティーヤ、その他加工食品、果物、飲料、菓子などを差し入れていた。
「まず大丈夫だ。食料差し入れに立ち会うゲリラはいつも三名だけ。ほとんどの注意は、運び込まれる食品に電子機器などが隠されていないかに向けられている。手筈通りにやれば、成功するよ」
デニスが、請合った。
「ですが、ダンボール箱を被ってこっそり、などあまりに古典的ですわね」
シオが被っている箱をぽんぽんと叩きながら、スカディが言う。
「古典的だからこそ、失敗が少ないとも言えるんだがな。諜報の世界でも、ハニートラップのような古代から多用されてきた手がいまだに重宝されているし。それはともかく、一応自走式ダンボール箱とか、ハイテクなのも考えたんだがな。スープの寸胴鍋に入れる、なんてアイデアもあった」
「スープはまずいで。塩分過多や」
雛菊が、そう言って笑う。
「高血圧症の人には、お勧めできませんねぇ~」
ベルもそう言って、からからと笑う。
日本語由来のジョークがわからず、怪訝そうな表情のデニスに、スカディが意味を説明してやる。
「そうだったのか。わたしはてっきり、フランス語のchiot(仔犬)から来ているのかと思っていたよ。可愛らしくてぴったりの名前だと思ったが」
「うちのマスターは猫好きなのでその名は付けないと思います!」
ダンボール箱を持ち上げ、シオはそう発言した。
「デニスさん~。ひとつ訊いてよろしいでしょうかぁ~」
ベルが、訊く。
「どうぞなんなりと」
デニスが、慇懃に応じた。
「どうしてイギリス政府は、『キャットニップ』に関する責任をすべて背負い込むことを承諾したのでしょうかぁ~。いわゆる貧乏くじを引いた状態だと思うのですがぁ~」
「表向きの答えは、高度な政治的判断、だね」
やや少年じみたいたずらっぽい笑みを浮かべながら、デニスが答える。
「だが本当の理由は、『従兄弟』に泣きつかれたからだよ。連中、なんとしても三人のアメリカ財界人を無傷で、しかも早期に救出したいらしい。噂だが、大統領はもうすでに期限を切って、C&Sを始めとする三社のCEOに対し救出を確約した、なんて話も伝わってきている。この手の事件で、自らの手を縛るような行為は慎むべきなのにね」
「『従兄弟』とは、CIAのことですね?」
シオは確認した。
「そうだよ、お嬢ちゃん。お互い、池(大西洋の俗称)を挟んで持ちつ持たれつだからね。まあ、この件で大いに恩を売ったわけだから、いずれにせよ元は取るつもりだが。あ、日本にも恩を売った形だから、こちらも後日きっちりと取り立てに伺うので、よろしく」
「ブリテン恐るべしなのですぅ~」
ベルが、笑う。
「たしかに恐ろしいよ、ブリテンは。『キャットニップ』も、ホワイトホールがSISに丸投げし、長官がわが上司に丸投げし、その上官がわたしに丸投げしてきた。もし失敗に終わっても、SISの一部局が勝手にやりました、で済まされてしまう。わたし一人が責任を負えば、首相も長官も知らん振りできるわけだ」
「蜥蜴の尻尾切りですわね。組織防衛の基本ですが、当事者には非情過ぎますわ」
スカディが、珍しく憤然とした口調で言う。
「ま、諜報関係は組織防衛に長けていないとやっていけないからね。では、そろそろ時間だから、もう一度おさらいしておくぞ。現在のところゲリラ側は一階正面訪問者用出入口以外の出入り口をすべて閉鎖している。したがって食料の搬入もそこから行われている。六時きっかりにバンが正門に着く。待機していたゲリラ一名が開門し、バンは出入り口まで自走。ゲリラが正門を閉めて戻ってきたところで、待機していたゲリラ二名が運転手と助手を降ろし、ボディチェック。サクラが館内から運んできた台車やサービスワゴンに、運転手と助手が食料を載せ替えるのと同時に、ゲリラ二名が不審物がないかをチェック。もう一名が、少し離れた位置で監視。チェックが終わった食料は、サクラが館内へと運び込む。そういう段取りだ」
「あたいは隙を見て姿を現し、サクラの振りをして堂々と館内へと入っていけばいいのですね?」
段ボール箱を大きすぎる帽子のように頭の上で支えながら、シオは確認した。
「そうだ。昨日の段階で、サクラには潜入手段その他の情報の入ったRAMをこっそり渡してある。段取りは把握しているはずだ。ゲリラに対し、パコがドジだという印象も与えておいたから、芝居も上手くいくはずだ」
デニスが、壁際の椅子に座って待機している運転手とその助手……ふたりとも内務省の職員で、そのことはゲリラ側も承知している……を見やる。パコ……小太りで、似合わぬ口髭を蓄えている善人面の男が、にやりと笑って小さく手を振った。
「この時間帯、夜間当直のゲリラは任を解かれて、すでに寝ているころだ。人質の監視は最低でも二人。裏口側の外部監視に一人。ゆえに、ゲリラ側に人員のゆとりはないと思われる。加えて、六時過ぎにフォンセカ局長が、電話を掛けることになっている。これで、確実に一人はその対応に貼り付けられることになる。シオの潜入を見咎めるゲリラは、まずいないだろう」
「上手くいきそうですわね」
スカディが、言った。
「よし。そろそろ行こうか」
腕時計に眼を落としたデニスが、シオの被っている段ボール箱をそっと叩いて行くように促した。
「はいなのです!」
シオは歩き出した。すでに、サクラの着用しているメイド服とそっくり同じものを着込んでいる。毛先も石野二曹に切り揃えてもらったから、見た目はサクラと瓜二つになっている。
「シオ、忘れ物はないわね?」
登校する小学生を気遣う母親のような口調で、石野二曹が確認する。
「ないのであります!」
シオは元気よく返答した。封筒、小道具のハンドタオル、サクラに渡すRAMカード、外部連絡用の偽装RAMカード十枚。すべて揃っている。
シオは仲間たちに向かい手を振ると、ダンボール箱を被ったまま後部の観音開きドアから車に乗り込んだ。すでに、フォードEシリーズ・フルサイズバンの車内には、いくつものプラスチックケースや蓋付きのバット類、フードストッカー、鍋、段ボール箱、ペットボトル、果物が入った籠などが詰め込まれていた。シオがうずくまった姿勢を取ると、ごく自然にその中に溶け込んでしまう。
「では、よろしく頼む」
デニスがスペイン語に切り替え、運転手とパコに握手を求めた。笑顔で応じた二人が、表情を引き締めると運転台に乗り込んだ。
石野二曹の指示を受けて、ベルと雛菊が倉庫のシャッターを開ける。デニスが、最後に一度車内の様子を眼でチェックしてから、後部ドアを閉めた。
スサナは顔の下半分を隠す覆面の下であくびをかみ殺した。
肉体的な疲労は、それほどでもなかった。『当直』は、食事休憩などを挟みつつ十二時間。あとは、食事、武器の手入れ、その他の雑用に二時間ほど取られるが、睡眠時間を含め十時間は自由に使える。食事は故郷の村に居たときよりも上質で美味いし、『当直』も激しい運動を伴うようなものではない。十六歳という若さで、しかも健康に育った田舎娘にとっては、農作業よりもはるかに楽チンだった。
しかし……精神的な疲労は別であった。わずか十人の同志と共に、数百名に上るサンタ・アナ陸軍兵士、内務省治安部隊、首都警察によって包囲されているのだ。何十台もの車両、数両の装甲車。何丁もの機関銃と、グレネードランチャー。さらには、軍用ロボットまで。彼らがその気になれば、数分でスサナらは殲滅させられるだろう。しかも、人質の中にはアメリカ人とイギリス人がいる。アメリカやイギリスの特殊部隊が極めて優秀なのは、スサナのような田舎者でも知っている。そんな連中が突入してきたら、あっさり殺されてしまうにちがいない。カトリックとはいえ、まだ十六歳である。死への恐れは、強い。
デジタルウォッチに眼を落とし、時刻を確認したスサナは、紺色のキャップを浅めに被り直すと、ゆっくりと正門へ向け歩み出した。外部の目に晒される場所では、全員が覆面とキャップの着用が義務付けられており、その場合キャップは可能な限り目深に被ることを推奨されていたが、スサナの場合はエミディオ直々の指示で浅めに被るように指示されていた。エミディオいわく、『お前は見栄えがするから』だそうだ。実際、毎朝六時前に日本大使館正門に現れる覆面美少女の姿は、テレビ局のカメラによって多くの国に生中継されており、『朝六時の少女』として話題となっていた。スサナには知るよしもなかったが、艶やかな黒髪と滑らかな肌、それに幼いながらに魅惑的な眼に惚れ込んだ人々により、すでにネット上ではいくつものファンサイトが立ち上がっており、六時(seis)にちなんで仮称として付けられた『セイナ』という名前も、一部ではすっかり定着していた。
スサナは見られていることを意識しつつ歩んだ。歩幅はごく普通。歩くペースも一定。銃はいつでも使えるように両手で捧げ持つようにしているが、腕にはあまり力を入れず、使い慣れているように見せかけている。視線は頭ごとゆっくりと動かし、周囲を見渡して、油断はしていないように振舞う。
正門までたどり着いたスサナは、ぴたっと動きを止めると、脚を肩幅まで開いて、包囲しているサンタ・アナ国軍や公安部隊と正対した。内心の不安を押し隠し、たった一人で何百人もの兵士や警察官に対し一歩も引かない、というポーズを取る。
すでに、食料搬入準備は整っていた。相棒の少女、ルシアは大使館訪問者用出入り口前に立っている。その後ろには、何台もの台車とサービスワゴンを並べたサクラが待機している。出入り口から少し引っ込んだところには、すでに『フレンテ』戦士として十年以上の経験を持つアルトゥロが、表側監視役兼指揮役として立っていた。手には、大きな四倍光学スコープを付けたFPK狙撃銃がある。
ほどなく、低速で走ってきた一台のバンが門前に停まった。助手席の男が降り、ドアを開け放って運転台に運転手しか残っていないことを示す。
スサナは確認してうなずいた。うなずき返した男が、ドアを閉めると運転手に腕を振って合図する。運転手がギアを操作し、バンが方向転換してリアをこちらに向けた。歩み寄った男が後部ドアを開け、中に荷物しか載せていないことを示す。
スサナはアルトゥロとルシアに向け、安全であるとのハンドサインを送ると、門扉のロックを解除した。AIM突撃銃を肩に掛け、門扉を車一台通れるだけ開く。すぐに、バンがバックで入ってきた。そのまま左に尻を振り、いったん大使館専用駐車場の方へ乗り入れてから、前進に切り替えて訪問者用出入り口へと乗りつける。
スサナは門扉を閉めてロックすると、小走りにそのあとを追いかけた。バンから降りた運転手と助手が、ルシアによってボディチェックを受ける。
「よし。始めろ」
出入り口から姿を現したアルトゥロが、命じた。男二人が、バンの後部ドアを開け、中の食料を台車やサービスワゴンに載せ始める。
スサナとルシアは、それを片端から点検した。もっとも、量が多いからそれほど詳しく調べるわけにはいかない。果物などは外観をざっと見るだけ。箱に入った菓子類などは、数個に一個くらいの割合で、パッケージを開いて中を覗く程度。鍋に入った料理は、おたまでざっとかき混ぜてみるくらい。料理が入ったフードストッカーも、蓋を開けて中を確認するだけだ。
点検が終わった食料が載った台車やサービスワゴンは、サクラによって大使館内へと運ばれてゆく。スサナは空腹を我慢しつつ、確認作業を続けた。大量の目玉焼きが入ったアルミパンを調べ、ジンジャエールの600ml入りペットボトルが納まった箱を調べ、トストーネ(揚げ食用バナナ)が入ったフードストッカーを調べ……。
「きゃ」
いきなり、ルシアが悲鳴をあげた。
スサナは調べていたトルティーヤを放り出すと、肩に掛けていたAIMを素早く構えた。
「撃つな!」
アルトゥロの声が、響く。
状況を眼で把握したスサナは、驚きに眼を見開いたままAIMの銃口を下げた。下半身を深紫に染めたルシアが立ち尽くす前で、小太りの男が盛んに謝っている。地面には、鍋と赤紫の水溜り。どうやら、男が誤って鍋の中身をルシアのズボンにぶちまけてしまったらしい。色からすると、黒えんどう豆のスープだろう。幸い冷製スープなので、火傷のおそれはない。
「この間抜けが。昨日のセビチェ(魚介のマリネ)に続き、今日もドジりやがって!」
アルトゥロが、小太りの男を罵る。
「落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて」
もう一人の男……運転手が、宥めるようなしぐさをしながらアルトゥロに近付く。アルトゥロが、威嚇するように銃口を運転手に向けた。
スサナはAIMを肩に戻すと、ルシアに歩み寄った。
バンの側面、ゲリラから死角になる位置で、シオは待機していた。
隙を見てダンボールから這い出し、運転台に潜り込み、さらに開け放したままのドアから出て、足音を忍ばせつつそこまで移動したのである。
シオは待った。パコの相棒、フリアンが「カルマテ(落ち着いて)」を三回繰り返すのが、誰も見ていないから安全、という合図となっている。
「カルマテ、カルマテ、カルマテ」
合図が聞こえた。声質も、事前に記録したフリアンのものと一致する。
シオはなおも足音を忍ばせつつ、バンの陰から出た。予測通りの光景が見えた。こちらに背を向けているゲリラ三人と、フリアンとパコ。地面に転がっている鍋ひとつ。日本人が見れば、汁粉を連想させる色と粘度の液体が、大量にこぼれている。
シオは大使館の方を確認した。誰もいないし、サクラの姿もない。
手筈どおりだ。
シオはポケットからハンドタオルを出すと、歩み寄った。適当なところで足音を忍ばせるのを止める。気付いたゲリラの一人……男性で、狙撃銃を持っている……が振り向いてシオを見たが、特にリアクションは起こさなかった。
サクラと誤認しているのだ。
シオは素知らぬふりで下半身をスープまみれにしている女性ゲリラに近付いた。覆面とキャップのあいだから見えている顔は浅黒く、眼が東洋的なので、おそらくインディヘナ(原住アジア系)なのだろう。シオは手にしたハンドタオルで、かいがいしくズボンを拭き始めた。
「ロボット。仕事に戻れ」
狙撃銃を持った男が、ぶっきら棒に命令する。
「シィ・セニョール」
シオはサクラの口調を真似て短く答えると、ハンドタオルを仕舞った。何食わぬ顔で食料が載せられたサービスワゴンに近付き、それをごろごろと押して大使館出入口へと向かう。
止めるものはいない。……成功だ。
シオは小躍りしたくなるのを押さえ、いかにもサクラらしい生真面目な表情を保ったまま大使館内へと入った。正面のホールを抜け、開け放したままの大使館職員以外立ち入り禁止の扉を通り、一階のメイン通路に入る。この先、突き当たったところが、キッチンである。手筈どおりなら、そこにサクラが隠れているはずだ。
キッチンにたどり着く寸前、職員用トイレから出てきたゲリラの一人と遭遇したが、シオには一瞥をくれただけであった。夜間当直明けらしく、あくびをひとつ漏らした若い男性が、頭をぼりぼりと掻きながら二階へ通じる階段を上ってゆく。
偽装を見破られなかったことに気を良くしながら、シオはサービスワゴンをキッチンへと運び入れた。
第七話をお届けします。




