第六話
ホテルへ戻るタクシーの中で、畑中二尉はご機嫌だった。多少の紆余曲折はあったものの、あっさりと任務成功の目途を付けたのだから、当然である。
「二尉殿。お喜びのところまことに心苦しいのですが、ちょっとよろしいですか?」
隣に座るスカディは、そう遠慮がちに声を掛けた。
「なんだー?」
「ラザエヴァ大統領の声に、少しばかり違和感がありました」
「違和感?」
「嘘をついているわけではないのですが、なにか隠し事をしているようでしたわ」
スカディはそう告げた。彼女は音声機能関連で改造を受けており、聴取した人の声の音声ストレスを検出することができる。これを発言内容と比較分析することで、簡易ながら嘘発見機能を有しているのだ。
「隠し事? 何を隠していたと言うつもりだー?」
畑中二尉が、訝し気な表情となる。
「政治家だからな。嘘はお家芸だろ」
亞唯が言った。タクシーの運転手が会話を聞いているが、日本語で喋っているからまず心配はない。ちなみに、三鬼士長と他の三体は、もう一台のタクシーに乗っている。
「うーむ。あたしたちを騙すつもりかー? 騙して大統領に何の得があるー? 判らんなー。まあ、いくら趣味に関連する話とは言え、一国の大統領が大した肩書きも持たぬ外交官でもない外国の職員相手の交渉に姿を見せるというのも不自然だなー。気になるから念のため予防措置を講じておくかー」
何しろ大統領権限の強い国である。ラザエヴァ大統領が、『返すとは言っていない』などと発言するようなことがあれば、アバソフ副大臣もその秘書も学芸員のカムランも、拷問にでも掛けない限り大統領の発言を否定することはないだろう。
畑中二尉が、身を乗り出した。タクシーの運転手に、日本大使館の住所を告げて、予定を変更してそこへ向かうように頼む。
大使館はあまり利用しない……より正確に言えば、外務省に迷惑を掛けたくなかった畑中二尉であったが、ラザエヴァ大統領が何か企んでいる可能性がある以上、保身のための手を打たざるを得なかった。
すでに大使館には、外務省を通じて『文化庁の職員石川』がギョルスタン入りすることは伝達済みだし、要請があればできる限り便宜を図るように通達が出されている。AHOの子たちを含む一行は、歓迎されこそしなかったが在スミヤ日本大使館へと丁重に招じ入れられた。畑中二尉がさっそく、通信室の電話を借りて、東京霞が関三丁目にある文化庁に電話し、担当上司……として設定されている人物……に交渉経過と結果を報告する。わざわざ大使館の電話を借りたのは、公的に通信記録を残すためである。
次いで事務室の机とノートパソコンを借りた畑中二尉は、報告書を書き始めた。書き終わるとコピーを二部取り、大使本人に面会して、原本の外交行嚢を使った外務省経由による文化庁への提出と、コピーの保管を依頼する。
もう一通のコピーは、折り畳まれて畑中二尉のポシェットに納まった。防衛駐在官がいれば、もう一通コピーを取って個人的に保管を依頼したいところだが、ギョルスタン程度の規模かつ日本から離れている国家には、防衛駐在官が置かれていないのが普通である。その業務は、アゼルバイジャン、アルメニアなどと同様、モスクワの在ロシア日本大使館に複数配属されている防衛駐在官が兼任している。
「こんなところだなー。スカディ、ホテルへ戻ったら、念のため会見の模様を他の奴のメモリーにもコピーさせとけー」
「承知いたしましたわ、二尉殿」
スカディが、うなずく。
そんなわけで、翌日の『畑中二尉とゆかいな仲間たち』は丸一日暇を持て余すことになった。
「お出かけしたいのであります! ギョルスタン観光するのであります!」
ホテルのロビーからもらってきた観光パンフレットを振り立てながら、シオは畑中二尉に迫った。
「だめだー。おまいらの仕事はあたしと三鬼ちゃんの警護だぞー。あたしも三鬼ちゃんも、『黒松』を確保するまではホテルに引き籠るつもりだー。おまいらも付き合えー」
暇つぶしなのか、ミックスナッツをぽりぽりと齧りながら、畑中二尉が言う。……日本で売っているミックスナッツには普通入っていないヒマワリの種が入っているのが、特徴と言えば特徴だろうか。
「だいたい、この国には大した見どころは無いぞー。昔の城塞跡とか、再現した隊商宿とか、イスラム教が入って来る前の教会とか、ゾロアスター教の神殿とか、そんなものしか無いぞー。来る前にネットで調べてきたからなー」
「それだけあれば充分なのであります!」
シオはなおも畑中二尉に迫った。
「確かに暇やな。あの三人は、別なようやけど」
部屋に備え付けの雑誌をぱらぱらとめくっていた雛菊が、リビングルームのテレビにかじりついている一人と二体を見やる。
大画面テレビには、ロシア・プレミアリーグの試合が映っていた。ロシアのテレビ局の放送を、ケーブルテレビを通じて見ることができるのだ。戦っているのは、ソビエト時代から強豪として知られるFCスパルタク・モスクワと、最近めきめきと実力・人気共に上昇して来たFCゼニト・サンクトペテルブルクである。
三鬼士長と、マスターがサッカー好きのスカディ、それにスポーツ全般が好きな亞唯は、とりあえずレベルの高い試合が見れればそれで満足らしい。
「こんなのあるで」
雛菊が、ロシア語クロスワードパズルの雑誌をシオに差し出す。
「クロスワードは苦手なのであります!」
シオは受け取りを拒否した。……マスターの聡史がやらないから、シオもやる気がないだけで本当は苦手なわけではない。
「こんなものがありますがぁ~」
ベルが、チェスのセットを引っ張り出してくる。
「ベルちゃん、チェスのルールを知っているのでありますか?」
「知りませんですぅ~」
ベルが、首を振る。人間相手に『遊ぶ』機能を付与されているAI‐10だが、日本において競技人口が数万名程度、と言われているチェスのルールはメモリーに標準装備されていない。ちなみに、数百万名単位で競技人口が存在する囲碁や将棋に関しては、ルールはもちろん基本戦術までメモリーの中に入っている。
「チェスも将棋の一種! ルールはたいして変わらないはずなのです!」
シオはチェス盤に駒をぶちまけた。
「この数の多いのが、たぶん『歩』なのであります! 前線に並べるのであります!」
ポーンを選り分けたシオは、これを三段目に並べた。
「このお馬さんは、やはり『馬』なのでしょうかぁ~」
ベルが、ナイトをつまみ上げて訊く。
「はっと! 『馬』が黒白合わせて四個もあるのです! これは『金将』ではないでしょうか! 王将の直衛である騎馬武者を表しているのでは?」
「なるほどぉ~。旗本と言うわけですねぇ~。では、この側防塔みたいなのはなんでしょうかぁ~」
今度はベルが、ルークを取り上げる。
「これも四個! 塔なら駒として動けないはず! ……訳が判らないのであります!」
シオは首を捻った。
「よせよせ。面白いからこのまま見ていろ」
シオとベルの頓珍漢なやり取りを聞いて、見かねて口を挟もうとしたスカディ……マスターの相手として、チェスを指したことがあるのでルールは知っている……を、畑中二尉がにやにやしながら止める。
シオが白、ベルが黒を取り、間違ったやり方で駒を並べた二体が、将棋を参考にしながら駒を適当に動かし、勝負を開始する。一見出鱈目なプレイだが、双方とも同一なルール……もちろん独自ルールだが……に則って行われているので、それなりにまともなゲームとなる。
「王手ですぅ~」
ベルが飛車に見立てたクイーンを、シオ陣営の奥にまで突っ込ませて、側面からシオのキングを脅かす。
「そうはさせないのであります!」
シオが、七手ほど前に取った黒のポーンを、ナイトの直下に『打って』飛車筋を封じ、王を守る。いわゆる、『金底の歩』である。
「白黒駒が入り混じるとややこしいのですぅ~」
ベルが、愚痴る。
「駒の色分けはいいアイデアと思いましたが、そうでもないのであります!」
シオはそう言いながら、ベルが『垂らした』ポーンを受けるために『銀将』に見立てたビショップを左斜め前に動かした。
どーん。
深夜三時過ぎ、闇に包まれたスミヤ市に遠雷を思わせる音が響き渡った。
見張り役として、一体だけ省電力モードに入らずに『起きて』いた亞唯は、すぐに窓際に駆け寄った。カーテンをちょっとだけ開けて、ガラス越しに外の様子を窺う。
「爆発音みたいだったけどな」
独り言を言いつつ、亞唯は外を見回した。とりあえず、街中に炎や煙が上がっているようには見えない。だが、ほどなくして複数個所からサイレンの音が聞こえ出した。テロか、あるいは事故か。
『みんな起きろー』
亞唯は無線で仲間に呼びかけた。省電力モードでも、緊急の呼び出し通信なら、受信は可能である。
「どうしましたの、亞唯」
すぐさま『起きて』きたスカディが、訊く。
「遠方だけど、爆発があったみたいだ。一応、警戒しておいた方がいい」
大通りの方でたまに見える回転赤色灯のきらめきを眼で追いながら、亞唯は言った。
「雛菊、シオ。テレビとラジオで情報収集を。わたくしは念のためエントランスホールで警戒待機します」
遅れて『起きて』きた二体にスカディがてきぱきと命じた。無線でベルとも連絡を取り、三鬼士長に張り付いているように命ずる。
シオはリモコン片手にテレビにかじりついた。深夜でも放送を続けているケーブルテレビ以外は、砂の嵐状態だったが、しばらくすると地上派のギョルスタン1(アジン)が電波受信状態となる。さらに待つと、誰も居ないニューススタジオの画像が現れた。やがてあたふたと出てきた男性アナウンサー……焦っていたのかネクタイが曲がっている……が、内務省発表と前置きしてから、スミヤ市街北部のスミヤ国際空港で爆発があったことを伝える。事件なのか事故なのかは今のところ不明。死傷者、被害などについても不明。
「こんな夜中に事故とは思えんー。テロだろー」
いつの間にか起き出して来た畑中二尉が、眠そうな声で言う。
「国際空港でテロ。明日、やばいんちゃうか?」
ラジオをモニターしている雛菊が、言う。
「そうだなー。やばいかも知れんなー」
畑中二尉が、眉をひそめる。
『黒松』の返却は明日の予定である。畑中二尉一行は、返してもらったらすぐに出国するつもりで、文部科学省を通じて明日チャーター機を寄越してもらうように連絡済みである。スミヤ国際空港がテロ被害で閉鎖、などということになれば、出国計画が狂いかねない。
「二尉殿、コーヒーでもいかがでありますか?」
あまりにも眠そうなので、気を利かせてシオはそう勧めた。
「いや、大したことがなければまた寝るから、コーヒーはいらんー。でも喉乾いてるから、冷蔵庫から何かジュースでも持って来てくれー」
畑中二尉にそう言われ、シオは冷蔵庫へと向かった。よく冷えた瓶入りのザクロジュースとグラス一個を持って戻る。日本ではあまりお目に掛かれないザクロジュースだが、カフカスあたりではごく一般的な飲み物である。
待つうちに、続報がニュースで流され始めた。内務省により爆弾テロと断定。現在のところ死傷者なし。火災の発生もなし。警察と内務省により空港閉鎖中。航空機の被害なし。
さらにニュースを見続けていると、現場からの生中継が始まった。内務省公安部隊の灰色のBTR‐80装輪装甲車が一瞬映ってから、カメラが空港ターミナルの様子を映し出す。眩いばかりのフラッドライトに照らされた滑走路と、その手前を赤色回転灯を光らせながら走り抜ける緊急車両。それらを背景にしながら、若い男性レポーターがマイク片手に早口で喋り出す。
「これ以上見ていても仕方ないなー。寝るぞー」
ザクロジュースを飲み干した畑中二尉が、宣言した。
「みんなも一体を残して警戒解除だー。三鬼ちゃんにも寝るように伝えてくれー」
シオは無線でベルを呼び出し、三鬼士長への畑中二尉の伝言を送った。スカディが、次の不寝番に雛菊を指名する。
翌朝のテレビニュースは、スミヤ国際空港がテロ警戒のために閉鎖されていることを伝えた。再開の目途は立っていないという。
「まいったなー。チャーター機は他の空港に降りてもらうしかないぞー。そこまでギョルスタン国内を移動せねばならないー」
ダイニングルームで、三鬼士長と差し向かいで朝食を採りながら、畑中二尉がぼやいた。ちなみにメニューは、スライスしたパンにハム、ソーセージ、オムレツ、チーズ、ヨーグルト、生野菜、茹でジャガイモとキャベツ、オリーブといったところで、やや素朴な感はあるが普通に『ホテルの朝食』している。
朝食後しばらくすると、ホテルの交換台を通じて文化教育省から電話が掛かって来た。おととい会った文化教育省副大臣マヒル・アバソフ氏からで、本日の日程についての連絡である。正午過ぎに『黒松』の引き渡しを行うので、午前十一時にホテルに迎えに行く車に乗って欲しいという。
「あー、スミヤ国際空港から出国する予定だったんですが、どうしましょう」
電話に出た畑中二尉は、そう問いかけた。
「こちらに入っている情報では、閉鎖は保安上の理由で数日間続く可能性が高い、とのことです。国際便は、チャーター機を含め南部のウルガリ国際空港を利用することになります。ウルガリまで、移動していだだくことになりますね」
アバソフ副大臣が、言う。
「……それは、困りましたね」
「ご安心ください。大統領からお電話があり、文化教育省が責任をもってウルガリまでのご移動をお世話します。午後一時半にスミヤ中央駅を発車する列車に、特別車両を連結する手配を整えました。これで、ウルガリ駅まで行っていただきます。駅から空港までの車も、手配済みです。もしご要望があれば、ウルガリでホテルをご用意しますから、翌日チャーター機に搭乗するかたちでも構いません」
「ご配慮、ありがとうございます。ですが、列車なのですか……?」
畑中二尉は戸惑った。スミヤ市とウルガリ市のあいだは、百五十キロメートル程度である。特別車両など手配するよりも、車でそのまま走った方が簡単なのではないだろうか。
「実は列車を使うように、というのは大統領のご指示です。スミヤ‐ウルガリ間はカスピ海の湖岸を走る箇所が多く、風光明媚です。我が国自慢のひとつなのですよ。せっかくですから、ぜひ乗っていただきたい。きっと、お気に召すはずです」
「はあ。それでしたら、ご厚意に甘えさせていただきます」
畑中二尉は承諾した。今は文部科学省文化庁のさして地位の高くない職員が偽装身分なのだ。一国の省庁の副大臣相手に、無理を言える立場ではない。
「おおっ! 列車の旅でありますか! 楽しそうなのであります!」
電話を切った畑中二尉から説明を受けたシオは盛り上がった。マスターの聡史がそれなりに鉄道好きなので、シオも『鉄分』は多めである。
「ちゃんと電化されていますでしょうかぁ~」
ベルが、無粋な心配をする。
「その辺は大丈夫やろ」
雛菊が、上機嫌で言う。虎〇チゆえに、電車は嫌いではないのだ。
第六話をお届けします。




