第二話
ギョルスタン共和国の首都、スミヤ市。人口は約四十五万人。同国最大の都市であり、北部地域の政治・経済の中心地となっている。
その官庁街にほど近い大通りに面して建っている十二階建ての巨大なオフィスビルが、チュルトポロフ・グルーッパの本部である。ギョルスタン最大のメディア・グループであり、ギョルスカヤ・ガゼータやヴェチェルニヤヤ・スミヤなどの新聞社、ギョルTV、ギョルスタン1、アンテーンナ3、ラージオ・スミヤなどのテレビ、ラジオ局。さらに出版社、雑誌社、ネット配信企業、芸能プロダクション、映画配給会社などを多数保有する一大メディアコングロマリットだ。
ギョルスカヤ・ガゼータの名物記者、ラヒド・マメドフ記者殺害の報は、当然ここにも届いていた。秘書室長から提出された詳細なレポートを読み終わったチュルトポロフ・グルーッパ総帥兼ギョルスカヤ・ガゼータ社主のヴァディム・カジモフは、すぐに内線電話で側近中の側近である二人の部下に、対応策をまとめたうえで執務室に出頭するように命じた。
「お呼びですか、総帥」
先に現れたのは、マクシム・サマドフだった。父親がロシア人なので、髪は薄茶色をしており、父親ゆずりのがっしりとした体格だ。身長も百九十センチを超えており、厳つい顔立ちをしている。肩書きは、カジモフ総帥の個人秘書の一人、となっているが、実際には『官房長官』的な立場にあり、まだ三十代ながらカジモフ不在の際にはチュルトポロフ・グルーッパの総指揮を任されることもある、スミヤ国立大学を首席で卒業した英才である。
「遅れて申し訳ありません、総帥」
カジモフが呼んだもう一人の側近……ファリド・アミロフが二分遅れで現れる。こちらは身長百七十センチ程度。細身で、眼鏡を掛けた知的な風貌の中年男性だ。地味なスーツ姿なので有能そうな会計士か銀行員にしか見えないが、実はギョルスタン陸軍特殊任務連隊出身の元少佐で、現在はチュルトポロフ・グルーッパの警備総責任者の地位にある。
「まず、君から報告を聞こうか。マメドフに、警護は付けていなかったのだね?」
カジモフは、ファリドに視線を向けた。
「はい。通常の注意喚起に留まっていました。言い訳がましいようですが、チュルトポロフの情報班は、マメドフ記者が狙われていたことに関して、なにも掴んでおりませんでした」
首を振りながら、ファリドが言った。
「君を責めるつもりは無い。警察も内務省もなにも知らなかったようだ。マメドフは人気者だったが、奴くらい書ける記者は他にもいる。損害は、少ないだろう」
そう言いながら、カジモフは紙巻き煙草に火を点けた。吸っているのはダンヒル。ロシアや旧ソ連諸国では人気の英国煙草だ。
「死者は生き返らない。この事件をどうやって我々の利益につなげるかだ。早速明日の朝刊から、マメドフの追悼特集を組み、反『СС』キャンペーンを開始しよう」
「お待ちください総帥。まだ『СС』の犯行と決まったわけではないでしょう」
ファリドが、指摘する。
「そうだったな。警察発表もまだだ。だが、記事を朝刊に間に合わせなければならん」
カジモフが壁の時計を見た。壁には四個のアナログ時計があり、それぞれ中央ヨーロッパ時間、モスクワ時間、中国標準時、アメリカ東部標準時が表示されている。ギョルスタンは、モスクワ時間と同じ時間帯を採用している。ちなみに、南カフカス三カ国……アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアは、経度および周辺諸国との兼ね合いを考えればモスクワと同じUTC(協定世界時)+3を使うべきところを、あえてUTC+4の時間帯を採用している。こんなところでも、反ロシアを貫いているのだ。
「警察に、早めに確定情報を流してもらいましょう」
マクシムが、提案した。
「そうだな」
カジモフが、外線電話を取り上げた。短縮ボタンを押す。
「長官を頼む。ヴァディム・カジモフだ」
電話に出た国家警察長官秘書長に、カジモフは穏やかに告げた。すぐに、警察長官に回線が切り替わる。
「今晩は、長官。ああ、マメドフは気の毒な事をした。いやいや、警察に落ち度はないと、わたしは確信していますよ。紙面でも、その点を追及するつもりはありません。なあに、我々は対テロに関しては同志じゃないですか。そうです。それで、犯行グループの目星はつきましかたな? 犯行声明が出されていないのは知っています。そう、紙面作りの都合がありましてな。早めに警察発表があると助かるのですよ。確証がないのは承知の上です。ですが、こんなことをやるのは『СС』だけでしょう? 現場の警察の……そう、最低でもウルガリの副署長クラスに、『СС』の犯行の線で捜査を進めている、程度のことを言わせて欲しいのです。そうすれば、こちらもその線で記事が書けますから。はい。ではよろしく」
通話を終えたカジモフが、満足げな表情で受話器を置く。
「よし。言質は取った。カリモフに、『СС』を叩く記事を書かせるんだ」
カジモフが、ギョルスカヤ・ガゼータ主幹の名を出した。
「はい、総帥」
マクシムがうなずき、机上の内線電話に手を伸ばす。
「テレビの方はどうなっている?」
内線電話が終わったところで、カジモフが訊いた。
「1で特別報道番組を流す予定ですね」
社内LANに接続したタブレットを操作したマクシムが、答える。
「担当は?」
「カシモフです」
マクシムが、プロデューサーの名前を挙げる。
「奴なら安心だな。それで、放映時間は?」
「午後九時から三十分の枠を取ってあります」
タブレットに目を落としながら、マクシムが答える。
「三十分か。短いな」
カジモフが、不満顔で言う。事件直後なので、高視聴率は間違いない。せめて一時間は流したいところだ。
「映像資料が乏しいのでは?」
ファリドが、言う。
「たぶんそうでしょう。マメドフ記者に関してはインタビュー映像が残っている模様ですが、さすがにそれだけで一時間持たせるのはきついかと」
なおもタブレットを操作しつつ、マクシムが言う。
「静止画だと視聴者はすぐに飽きるからな。マメドフの近親者のインタビューが欲しいな。未亡人に直撃取材させよう」
「残念ですが、マメドフは独身でした」
首を振りつつ、マクシムが言った。
「婚約者は? 恋人でもいい」
「婚約者もいません。恋人はいたかもしれませんが、いまのところ名乗り出てはいないようですね」
カジモフは思案した。一番視聴率を稼げるのは、やはり子供だ。父親の死を知らされて泣きじゃくる子供。あるいは、その死を理解できなくて戸惑う子供。涙にくれる未亡人を、無邪気に慰める幼い子供ほど、視聴者の同情を買う被写体はない。
「よし。婚約者がいたことにしよう」
カジモフは決断した。子供ほどのインパクトはないが、悲嘆の涙にくれる若い女性も、視聴者の同情を集めることができる。
「うちの傘下の芸能プロダクションから、誰か引っ張ってこい。年齢は二十代後半。あまり美人過ぎない女がいい。家庭的な雰囲気で、視聴者のおばさま方に、『息子の嫁に欲しい』と思われるような奴を探させろ。見た目は、典型的なギョルスタン人にすること。すぐ手配しろ」
「はい、総帥」
マクシムが、急いで内線電話を取り上げる。
「ファリド。くどい様だが、今回の件について君や君の部下を責めるつもりは毛頭ない」
マクシムが早口で喋る声を聞きながら、カジモフはファリドの眼を見据えて言った。
「だが、『СС』のテロが続けて起こるのは防ぎたい。国家警察、内務省と緊密に連絡を取り、テロ警戒に当たってもらいたい。人員、資金が必要ならば言ってくれ。すぐに出す」
「恐れ入ります、総帥」
ファリドが、かしこまって応じる。
ギョルスタン時間の午後九時からギョルスタン1で放映されたラヒド・マメドフ記者殺害に関する一時間の報道特別番組は、ギョルスタン代表のワールドカップ予選並みの驚異的な視聴率を記録した。瞬間最高視聴率を記録したのは、前半二十分過ぎに放映されたマメドフ記者の婚約者、ナターリヤ・サファロヴァ嬢のインタビューであり、テレビの前では多くの女性がもらい泣きすることとなった。
翌日のギョルスカヤ・ガゼータも一面に黒枠で囲まれたラヒド・マメドフ記者の写真を掲載し、追悼特集を組んだ。マメドフの履歴紹介、近親者のインタビュー記事、過去に書いた署名記事の再掲載などにも、多くの紙面が割かれる。
売れ行きを見越して増刷対応したにもかかわらず、当日のギョルスカヤ・ガゼータは全国どこのキオスクでもすぐに売り切れとなった。姉妹紙である夕刊のヴェチェルニヤヤ・スミヤでも、特集記事が載せられ、こちらも売り切れ続出となる。
「南部の馬鹿どもが!」
四十がらみの長身の男が、ギョルスカヤ・ガゼータを板張りの床に叩き付ける。
「新聞記者など、代わりはいくらでもいる! こいつを殺しても、何の役にもたたん!」
「同感だね。だが、ここで喚いても問題は解決しない。まあ、座れ」
古びた木のテーブルに座る初老の男が、長身の男に座るように身振りで促す。長身の男が、不承不承腰を下ろした。初老の男が、冷たい紅茶が入ったグラスを、長身の男の方へと押しやる。
初老の男の名は、イルキン。反政府組織『スヴァボーダ イー スプラヴェドリーヴォスチ』の指導者である。そのイルキンの前で紅茶を一気飲みした男は、ウルファン。副指導者の立場にある。
『СС』は、元々北部を地盤として活動して来た組織と、南部を中心に活動して来た組織が、政治的思惑の一致から合併してできたものである。その名称も、北部の『自由連盟』と南部の『正義党』の名を繋ぎ合わせたものに過ぎない。名目上は対等合併だが、北部の方が構成員が多かったので、実質的には北部側による吸収合併であり、指揮系統に関しても『正義党』が南部支部となる形で、『自由連盟』の下に付く、となっている。
そのような経緯なので、南部支部が指導部の承認を得ずに、独自の作戦行動を行うことは以前から何度もあった。しかしながら、今回のように組織全体に大きな影響を与えかねない作戦を、指導部に何の連絡もなしに強行したのは、初めてのことである。
「これでまた、一般大衆を敵に回すことになる」
空になったグラスを叩き付けるようにテーブルに置いたウルファンが、立ち上がって窓辺に歩み寄った。窓外には、畑が広がっている。栽培されているのは、キャベツ、テンサイ、ジャガイモなど。その向こうには、ブドウ畑が広がっている。さらに奥の山裾は放牧地で、白っぽい点にしか見えない羊たちが、大人しく草を食んでいるのが見える。
ギョルスタン北西部の、カフカス山脈のふもとにあるこの小さな目立たない村に、『СС』の司令部は置かれていた。石を積み上げた土台に、板葺きの壁。急傾斜のスレート葺き屋根と、そこを貫くように伸びている細い煙突。装飾的に枠を白く塗られた、桟の多いガラス窓。この地方の、典型的な田舎家の一軒である。
「いっそのこと、南部の連中を切り捨てるか」
窓から振り返りつつ、ウルファンが言った。イルキンが、首を振る。
「『ザポール』のためには、南部の連中の戦力が必要だ」
ザポール……ロシア語で『便秘』の意味……という奇妙な暗号名を付与された作戦を、『СС』指導部は密かに温めていた。ギョルスタン共和国の女性大統領、インガ・ラザエヴァの所有する壮麗な別荘を襲撃する、という大胆な計画である。
『СС』が集めた情報によれば、別荘にはラザエヴァの不正蓄財その他の悪行の証拠となる資料物品の類が大量に保管されてるという。これを奪取し、世間に公表できれば、ラザエヴァ政権は揺らぎ、『СС』に対する弾圧も緩むに違いない。
宣伝戦において、『СС』は政府側に大きく遅れを取っていた。ギョルスタンのメディアを牛耳っているチュルトポロフ・グルーッパは政府べったりの存在だし、内務省はその他のメディアについても厳しい規制を行い、反政府的言論を完全に封じ込めている。『СС』も情報の発信に努めているものの、インターネットですら政府による検閲の網に捕らえられており、まともに広報活動には使えないのが現状だ。外国のジャーナリストも、政府のプレスリリースを流すだけか、チュルトポロフ・グルーッパ傘下の通信社、GA提供の記事を転載するのが関の山だ。仮に国内に取材に入っても、『СС』の支持者に接触することはない。
確かに『СС』は反政府武装組織ではあるが、いわゆるテロ組織ではない。テロに近い武装襲撃を行うことはあるが、一般のギョルスタン国民や外国人は対象外であり、攻撃目標は『СС』に敵対する政府や軍、警察、内務省部隊、それに悪辣な宣伝戦を仕掛けてくるマスコミだけである。
ラザエヴァ政権は、国内の治安維持を名目に、ヤヴァーム人を始めとする少数民族の自治権拡大運動を弾圧して来た。これに対抗するために生まれたのが、北部の『自由連盟』と南部の『正義党』である。両者はやがて合併し、『СС』となる。
苦しい戦いが、続いていた。政府側は親ロシア政策を取っており、ロシアから兵器の供給、要員の訓練に関する助言、対武装組織戦術の供与などが行われている。対する『СС』は、政府とマスコミが一体となった巧妙な宣伝戦のおかげで、一般のギョルスタン人からは単なるテロ組織と看做され、活動に理解も同情も得られぬまま、徐々に追い詰められつつある。
この状況を一挙に打破するために立案されたのが、『ザポール』であった。だが、その実現の目途はいまだ立っていない。だが、マメドフ記者殺害のせいで、『ザポール』決行の日がまた遠のいたことは、事実であった。
鄭州市は、中華人民共和国河南省の省都である。いわゆる中原に位置する歴史ある都市で、今から三千五百年前の殷の時代にすでに都会であったという。
その南部に位置する鄭州新鄭国際空港に、北京国際空港発の中国国際航空のボーイング737‐800が着陸した。飛行時間は、約二時間。
アナール・ラヒモフはターミナルビルを出ると、タクシーを捉まえた。空港近くにあるホテルまで乗せてもらい、とりあえずチェックインしてスーツケースを預ける。
ホテルのレストランで軽く食事を済ませたラヒモフは、フロントに依頼して長距離になる、とあらかじめ告げてからタクシーを呼んでもらった。やって来たタクシーに乗り込んだラヒモフは、スマホに地名を表示させると、運転手に見せた。中国語はまったく喋れないし、漢字も読めないから、これが目的地を告げる確実な方法なのである。
「ユイチョウシー、シェンホーチェン。これでいいかね」
ラヒモフが中国語を話せないと知った運転手が、ゆっくりと地名を発音してから、英語で付け加える。
「それでいい」
ラヒモフは英語で答えた。聞き覚えのある地名なので、間違いないだろう。
「お客さん、バイヤーかい?」
タクシーを発進させながら、運転手が達者な英語で訊いて来た。
ラヒモフは困惑した。英語が話せないふりをしたいところだが、今更遅いだろう。作業進捗の状況を確認しに来ただけとは言え、一応極秘の任務である。よけいな詮索はされたくない。
「まあ、そんなところだ」
ラヒモフは曖昧な返答をすると、ポケットからスマホを取り出し、いじり始めた。
運転手はそれを見て、客の意図を察し、運転に専念することに決めた。省級高速公路を使っても、一時間半以上かかる長距離の客だ。機嫌を損ねてチップを貰い損ねるのは嬉しくない。
運転を続けながら、運転手はバックミラー越しに客を観察した。スーツは安物だが、なんとなく役人臭い雰囲気の外国人だ。人種的には、西アジアか中央アジアのどこかの出身だろう。アラビア湾岸諸国の金持ち相手の商売をしている男で、買い付けに来たところ、と運転手は見当を付けた。ならば、金はたっぷり持っているはずだ。
禹州市神垕鎮には、世界中のあちこちから『特産品』を買い付けに怪しげな客が訪れる。運転手も、さまざまな胡散臭い客を乗せた経験がある。やたらと貴金属を身に着けたロシアのマフィア。目的地に着くまでずっとこちらを睨んでいた得体の知れないアラブ人。全身黒ずくめの、寡黙な日本のヤクザ。
そいつらに比べれば、今日の客はまともな商人のようだ。
……チップは百元くらいかな。
そんなことを考えながら、運転手はタクシーを京珠高速公路に乗り入れ、南下を開始した。
第二話をお届けします。




