第一話
お待たせいたしました。予定通り、Mission14を開始させていただきます。
北カフカス ギョルスタン共和国南部 ウルガリ市
カスピ海。世界最大の湖である。
その面積は実に三十七万四千平方キロメートル。日本の総面積よりもわずかに狭い程度という、とてつもない広さを誇る。塩湖ではあるがその塩分濃度は海水の三分の一程度。北方から流れ込むヴォルガ川が、最大の水量供給源となっており、比較的浅い北部は塩分濃度が低く、南部は濃度が濃いという特徴を持つ。
湖、として紹介したが、今現在のカスピ海は周辺諸国によって『海』であると定義されている。どちらでも構わないではないか、と思われるかも知れないが、複数の国家の領土に跨って存在する水域の場合、『海』と定義するか『湖』と定義するかで、国際法上の取り扱いが大きく異なるのである。
海であれば国際海洋法の定義に基づき、領海と公海が規定されることになり、沿岸国家でなくとも公海で漁業や資源開発が行える権利が生ずる。また、他国海軍による公海の利用も、法的には可能になる。そして海の場合、『水域に接続している海岸』の長さおよび位置関係が領海および排他的経済水域の面積に大きく関わってくることになる。
一方、湖だと沿岸国による共同管理が行われるのが普通である。その場合、より『平等』な管理区域の分割がなされることになる。カスピ海には原油と天然ガスという『おいしい』資源が大量に眠っている。……沿岸国としては、より自国に有利な方を選択したくなるわけである。
最終的に、最大国家であるロシアが『海』を強く主張した結果、沿岸各国により締結された領海協定で、カスピ海は海として定義された。これにより、各国の領海と排他的漁業権が設定され、完全に分割管理されることが決定された。軍事利用に関しても、沿岸国以外の艦艇が侵入することは禁じられている。
ギョルスタン共和国第二の都市であり、南部における政治・経済の中核であるウルガリ市の市街地は、カスピ海に面した港に近い新市街と、やや内陸にある旧市街に分かれている。
旧市街は、白い石造りの低層建築物が無秩序に立ち並んでいる、いかにもイスラム風……ギョルスタン国民の九十パーセント以上が、ムスリムである……の街並みだ。古代からある市場町がそのまま交易都市に発展していったために、計画的な整地がなされておらず、都市計画もないまま街区が需要に応じて次々と付け加えられていったおかげである。石畳の狭い道は坂だらけで、おまけに奇妙な具合に曲がりくねっており、見通しも悪い上に似たような建物ばかりなので、その中に紛れ込んでしまった旅行者は容易に道に迷う羽目になる。大通り以外は自動車の通行はまず不可能だ。自転車での移動も、難しい。進んでいった小路の先が、突然階段になっているなどということがままあるのだ。
面白いのは、多くの家が二階、三階の路地に面した窓を、出窓……というよりも、路上に張り出した窓付きの出っ張り部分、といった方が正しいか……に作り替えていることである。狭い建築面積を、少しでも有効活用しようという工夫である。路地によっては、両側の建物が出窓だらけなので、雨が降ってもほとんど濡れずにすんでしまう。もっとも、この辺りはステップ気候に属するので、一年中雨はめったに降らないが。
一方の新市街は、西欧風のややクラシックな建物と、新たに建築されたモダンな高層建築物が混在する地域である。道路幅も広く、計画的に設けられた緑地帯と公園が鮮やかな緑色を添えて、いかにも新興経済国家の都市といった趣である。
前者の西欧風の建物は、十九世後半から二十世紀初期に建てられたものである。ロシア帝国末期に、カスピ海周辺で油田が発見されると、カスピ海西岸には一気に西欧の資本がなだれ込み、石油バブルが始まったのだ。こうして、石油採掘産業を支える都市のひとつとなったウルガリ市には、多くの富裕な西欧諸国民が居を構えることとなり、当時としてはモダンな西欧風のビルディングや高級アパートメントが続々と建設され、パリやウィーンの街区を思わせるような街並みが形成されたのである。。
ソビエト連邦支配下では、これら油田は国営となり、西欧人は去って行ったが、建物は残り、かつては石油企業が入居していたビルディングは党や市や軍の施設に転用され、アパートメントは改装されて一般市民が住むことになる。その後、ソビエト連邦崩壊でギョルスタン共和国が独立し、再び外国資本が流入するようになると、新市街ではオイルマネーにものを言わせたモダンな高層建築物が立ち並ぶようになる。……こうして、イスラム教徒ばかりの都市に中欧かどこかの地方都市のような街並みと、アラビア湾岸国家やアジアの新興経済国家の首都を思わせるガラス張りの高層ビルが組み合わさった、ある種奇妙な景観の都市が出来上がったのである。
その新市街から南へと伸びている湖岸道路……といっても、カスピ海の際を走っているのではなく、木々のあいだからたまに湖面がちらりと見える程度であるが……を、一台のメルセデスSクラスが走っていた。乗っているのは、ハンドルを握る男一人だけ。年齢は三十代の半ば。ネクタイを緩めたスーツ姿で、ハンサムと言っていい顔をしかめ気味にして、煙草を咥えている。速度は、制限速度の時速九十キロぎりぎり。人種的には、生粋のギョルスタン人で、やや浅黒い肌に黒髪と焦げ茶色の眼をしている。
片側二車線幹線道路を軽快に飛ばすSクラスは、空荷のGAZ‐3307中型トラックをあいだに挟んで、一台のラーダ・プリオラに追跡されていた。こちらに乗るのは、二人の男。二十代の男がハンドルを握り、四十代の男が助手席に座っている。こちらもスーツ姿だが、ノーネクタイである。どちらもギョルスタン人らしい顔立ちだが、やや肌の色が白っぽく、眼も薄茶色だ。髪も、二十代の方は黒髪だが、四十代の方は……かなり額が広くなり始めてはいたが……薄い褐色である。
後部座席には、薄手の毛布が広げてあった。その下には、二丁のAKM突撃銃とスペア弾倉二本が隠れている。AKMにはすでに弾倉が押し込まれており、いつでも撃てる状態である。
男二人のベルトには、サイドアームとして拳銃も差し込んであった。若い方がマカロフ自動拳銃。中年男の方は、チェコ製のCz52自動拳銃だ。
二人の武装した男は、ギョルスタン共和国の反政府政治組織、『スヴァボーダ イー スプラヴェドリーヴォスチ』(自由と正義)の南部支部のメンバーであった。Sクラスに乗る男は、ギョルスタン一の発行部数を持つ、政府べったりの御用新聞、『ギョルスカヤ・ガゼータ』の名物記者、ラヒド・マメドフである。
以前より、『СС』(スヴァボーダ イー スプラヴェドリーヴォスチの略称/Сはキリル文字で、ラテン文字だと『S』にあたる。発音は『エス・エス』だが、繋げて読むと『エッセス』に近い発音となる)は『ギョルスカヤ・ガゼータ』の捏造記事によって激しく攻撃されていた。単なる失火による火災が、『СС』の放火のせいだと報道される。地方議員の交通事故死が、『СС』のテロだと糾弾される。在りもしないレイプ事件や集団暴行事件をでっち上げられる。さらに、外国の凶悪なテロ組織とのつながりを捏造される……。
とくに最近では、ウルガリ支局の名物記者、ラヒド・マメドフ記者による署名記事が、ひどさを増していた。週一で掲載される特集記事が、歪曲と虚言と改竄と偏向の盛り合わせ状態だったのだ。存在しない『СС』からの転向者のインタビュー。これも存在しない『СС』協力者への突撃取材。『СС』幹部ですら誰も見たことがない『СС』内部秘密文書の紙上公開。捏造写真の数々……ありふれた結婚式の会場風景が、酒瓶を描き加えられて『ムスリムにあるまじき酒宴』となり、ごく普通の用水路堀りの作業が『処刑用の穴を掘らされる捕虜』となり、よくある集合記念写真が死体と銃が付け加えられて『虐殺された住民を前にした記念写真』となる。
『СС』南部支部が、報復にマメドフ記者殺害を決定したのが五日前。今日が、決行の日となる。すでに、下調べは済んでいた。マメドフ記者は、このまま内陸部の山裾にある自宅に帰るはずである。さして大きくはない山荘風の平屋の建物だが、地所自体は大きく、隣戸まではたっぷり五十メートルは離れている。
ガレージはなく、マメドフ記者は常に通用口の脇の空きスペースにバックで車を入れて停める。すでに、『СС』のメンバーであるアラズが近くに車を隠し、徒歩でマメドフの自宅に接近し、AKMを手に待ち伏せている。プリオラに乗る二人……中年の方がエミン、運転している若い方がスラヴィクという名だったが……はこのまま追跡を続け、道路から少し引っ込んだところにあるマメドフの自宅そばで車を停める。エミンがAKMを手に降りて、アラズの援護に向かう。エミンが現場に到着した頃には、マメドフ記者がSクラスからキーを手に降りているはずだ。そこを、アラズが射殺する。死亡を確認したら、エミンはプリオラに戻り、アラズは自分の車……中古のトヨタ……に戻って、そのまま逃走する。そのような段取りである。
これがハリウッド映画なら、追い越しざまにSクラスにむけてAKMを乱射するところだが、『プロ』であるエミンたちは無論そんな荒っぽい手を使うつもりはなかった。目的地が判っているなら、そこで撃つ方がはるかに成功率が高くなる。舗装道路を走る自動車というものは、ある程度安定したプラットフォームではあるが、やはりそこからの射撃は正確性を欠く。まして、標的が移動目標であればなおさらである。さらに、薄いとはいえ鋼板によって『守られている』標的は、生身よりもはるかに仕留めにくい。加えて、わざわざ自動車という便利な逃走手段に乗っている相手を襲撃してやるなど、馬鹿の極みと言える。映画で車両からの銃撃シーンが多いのは、『車』と『銃器』という暴力的アクション映画における二大アイテムが活躍するシーンを観客に無理なく自然に提供できるうえに、襲われた主人公サイドがそこから無事に逃げおおせることができる……つまり襲撃自体が難しく、悪人側が失敗してもご都合主義シナリオに見えない……という脚本上の都合によるものなのだ。
Sクラスが、右折して幹線道路を外れ、山道に入ってゆく。GAZ‐3307トラックはそのまま直進したので、スラヴィクが尾行に気付かれないように速度を落としつつ、右折した。折よく、後方にステーションワゴンのラーダ・ヴェスタが付いて来たので、さらに速度を落として追い越してもらう。南カフカス諸国……アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアなどでは、反ロシア感情が強いので、ロシア車はまったく人気が無いが、ここギョルスタンは親ロシア派が多いので、ロシア車は結構多く走っている。
プリオラは、カスピ海から吹き上がって来る冷涼な風に背を押されるようにしながら、片側一車線の緩い坂道を登って行った。エミンはファーウェイのスマホを取り出すと……ここでも中国製の安いスマホは良く出回っている……アラズに掛け、標的の接近を告げた。身体を捻って後部座席に手を伸ばし、スペアの弾倉二本をスーツのポケットに押し込む。銃撃戦になるとこは予想していないが、用心に越したことはない。
次いでAKMを手にし、コッキングハンドルを引いて薬室に初弾を装填する。エミンは、ベルトからCz52も抜くと、チェックした。こちらはスライドを引かず、薬室は空にしたままにしておく。……身体の前でベルトに拳銃を差した状態で暴発した場合、男性の一番大切な部分を失う可能性がある(笑)からだ。
「まずいぞ、エミン」
ハンドルを握るスラヴィクが、硬い声で告げた。
自宅へ通じる小道が見えてきたにも関わらず、Sクラスがまったく速度を落とさなかったのだ。唖然として見守るうちに、マメドフ記者の乗るSクラスは自宅前を通過した。
「追跡を続けろ」
エミンはスラヴィクにそう命じると、急いでスマホをアラズに掛けた。車を回収し、こちらに付いてくるように指示を出す。
「どうする?」
スラヴィクが、不安げな視線をエミンに向ける。
この先には、ギンタという小さな町がある。マメドフ記者は、そこに用事があるのかもしれない。ちょっとした取材、会食の約束、あるいは友人宅の訪問。しかし、尾行に勘付かれた可能性もある。もしそうであれば、今後は警察か内務省の警護が付くだろう。そうなれば、襲撃は不可能となる。それどころか、すでに警察に通報されて、ウルガリ警察署から何台もの車両がサイレンを鳴らしながら、こちらに急行している最中かもしれない。
「ギンタの手前で襲撃しよう」
エミンは決断した。再びアラズに電話し、中古のトヨタ・チェイサーで遅れずに付いてきていることを確認してから、スラヴィクに襲撃方法を説明する。
都合よく、前を走っていたラーダ・ヴェスタは脇の農道へと曲がり、プリオラとSクラスのあいだに邪魔者はいなくなっていた。エミンの指示により、スラヴィクがアクセルを踏み込み、Sクラスとの車間を詰める。
「行け!」
エミンはAKMのセイフティ兼セレクターを連射に入れると、サイドウィンドウを開けた。
スラヴィクが、ハンドルを切って反対車線に乗り入れた。そのまま加速し、Sクラスに並ぼうとする。
カフカス諸国も、周辺のロシアや西アジア諸国と同様、右側通行である。ハンドルも、日本の中古車を別にすれば、左側にある。
エミンは助手席の窓から銃口を突き出すと、Sクラスの運転席に斜め後方から連射を浴びせた。充分に手ごたえを感じつつ、三十発を撃ち尽くす。
Sクラスの速度がみるみる落ちる。追い越したプリオラは、右車線に戻るとこちらも速度を緩めた。エミンは、素早く弾倉交換を行うと、後ろを向いてSクラスの様子を見た。
Sクラスが、右に車首を向ける。そのまま路肩に乗り上げ、道路脇のコーカサストウヒの樹にぶつかって停止する。
スラヴィクが、ブレーキを踏んだ。すぐにバックに入れ、後退する。
追いついたアラズのチェイサーが、急ブレーキを掛けてSクラスのそばに止まった。AKMを手にしたアラズが飛び降り、Sクラスに駆け寄る。
プリオラから降りたエミンも、AKMを腰だめに構えつつ走り寄った。臭いを嗅いでガソリンが漏れていないことを確認してから……これを怠ると、突然の爆発的燃焼に巻き込まれて大火傷するはめになりかねない……Sクラスの運転席に銃口を突き入れる。
ラヒド・マメドフ記者はぴくりとも動かず、シートベルトを締めたまま座席に座っていた。エアバッグはすでにしぼんでおり、ハンドルの中央部から巨大な使用済みコンドームのように垂れ下がっている。
マメドフ記者の頭部に、銃弾が掠った跡が見受けられた。シート越しに背中からも銃弾を喰らったようで、胸部からの出血でワイシャツが赤く染まっている。
マメドフはまだ死んでいなかった。浅く苦し気な呼吸をしながら、眼玉だけ動かしてエミンを見る。視線には、哀し気な色が見受けられた。哀願することにより、死を免れようとしているのか。あるいは死を悟り、自らを哀れんでいるのか。
エミンは、AKMの銃口をマメドフの胸に向けた。
「自分の死亡記事を書けなくて、残念だな」
エミンは軽く引き金を絞った。腕の中でAKMが跳ね、五発ほどの銃弾がマメドフの胸に注ぎ込まれる。マメドフの身体が被弾の衝撃で、シートベルトに捕らわれたままがくがくと揺れた。
「引き上げるぞ」
エミンはAKMのセイフティを掛けると、プリオラに駆け戻った。アラズも同様に、チェイサーに戻る。
第一話をお届けします。タイトルにある国宝『黒松』は架空の陶磁器です。……と書いただけで、古参の読者様には『たぶんAHOの子が割っちゃうんだろ?』と突っ込まれそうですが。さてどうなりますか(笑)




