第七話
「二尉、あんまり飲み過ぎるとトイレが近くなりますよ」
三鬼士長が、二本目の缶コーヒーを開けた畑中二尉にやんわりと忠告を行う。
「眠いから仕方ないだろー。三鬼ちゃんと運転交代した途端に居眠りしたらシャレにならないからなー」
ずるずると缶の中身を啜りながら、畑中二尉が答えた。
二人は『アランチャ』の近所にある時間貸駐車場に停めたトヨタ・アクアの運転席と助手席に納まっていた。時刻は午前六時三十分過ぎ。梶原友洋が何時に自宅を出るのかが不明なので、こんな朝早くから尾行に備えて待機させられているのだ。近くのコンビニ駐車場には、ホンダのバイク、CBR400Rに跨った越川一尉も待機中だ。梶原友洋が愛車ではなく、鉄道を使った場合は、畑中二尉と三鬼士長が最寄り駅のJR初富駅前駐車場にアクアを乗り捨て、尾行することとなる。
「じゃあ、あとはよろしく頼んだよ」
従業員用出入り口兼搬入口のスチール扉を鍵で開け、カードキーで警備会社の夜間警戒セットを解除した梶原店長……これを速やかにやらないと警備会社の緊急対処員がすっ飛んでくることになる……が、スカディとシオを店舗内に残して出てゆく。
『全員へ。店長が出掛けるわ。各自窓に張り付いて』
スカディが、さっそく電波を飛ばした。店内に残っていた亞唯、雛菊、ベルがそれぞれ別方向にある窓に向かった。シオは二階に駆け上がり、個室の出窓から外を見た。
『こちら亞唯。店長は愛車に乗り込んでエンジンを掛けた。車で出かけるぞ』
駐車場が見える位置に陣取った亞唯から、連絡が入る。
『こちらベルですぅ~。国道が見える位置に移動しますですぅ~』
ベルから、そう通信が入る。シオは出窓から降りた。梶原店長が車で出かけることが判った以上、店舗の裏側しか見張れないここに居ても役には立たない。
スカディがスマホを出し、畑中二尉に梶原店長出発に関する情報を伝える。
『こちらベルですぅ~。店長の車は左折して国道へ出ましたぁ~。松戸方面へ向かう模様ですぅ~』
再び、ベルから通信が入る。
梶原店長の愛車は、スズキ・ハスラーだった。ボディが黄色、ルーフが黒という目立つ色なので、尾行するには都合がいい。三鬼士長の運転するアクアは、たっぷりと車間距離を置いて尾行を続けた。念のため、畑中二尉は双眼鏡を持参していたが、その出番は無さそうだった。相手は素人だから、近距離で尾行してもそうそう気付かれるとは思えない。
松戸市内で、ハスラーは東京外環自動車道に乗った。畑中二尉がスマホで連絡し、ハンズフリーイヤホンマイク内蔵のフルフェイスヘルメットを被っている越川一尉と尾行を交代する。川口ジャンクションで東北自動車道に乗り換えたハスラーは、そのまま北上を続けた。
「どこへ行くつもりだー」
古いロードマップを膝の上に広げ、カーナビの画面と見比べながら、畑中二尉がぶつぶつと呟く。
「車で日帰り、なら関東から外へ出るつもりはないですよね」
のんびりと運転を続けながら、三鬼士長が言う。
加須インターチェンジを超えた辺りで、アクアは尾行をCBR400Rと交代した。ハスラーは尾行に気付いた様子は全くなく、安定した走行を続けている。
だが、羽生インターチェンジが近付いたところで、ハスラーが減速して車線変更を始めた。
「降りる気かー」
畑中二尉が、急いで越川一尉にスマホを掛ける。一尉はアクアの動きを後方から注視しているはずなので、本来は連絡する必要はないのだが、念のためである。
ハスラーに続き、三鬼士長のアクアと越川一尉のCBR400Rも羽生インターチェンジを降りた。ハスラーが県道84号線に右折して入ったので、三鬼士長はわざと左折した。もちろん、梶原友洋が尾行を警戒していた場合に備えたのだ。あいだに二台置いて、越川一尉がハスラーの追尾を継続する。三鬼士長は畑中二尉のナビゲートに従い、すぐに脇道にアクアを乗り入れて、農地のあいだを爆走して県道に戻り、ハスラーと越川一尉のあとを追った。
ハスラーが国道125号線……熊谷バイパスに乗るころには、アクアはハスラーの五台後ろまで追いついていた。念のため越川一尉と連絡を取り、尾行を交代する。ハスラーが国道を外れて右折したところで、三鬼士長はアクアをそのまま直進させ、再び越川一尉と尾行を交代した。例によって裏道を急ぎ、越川一尉のあとを追う。
ハスラーが減速したのは、それから間もなくだった。右折して、両側を杉の木に挟まれた私道らしいところに乗り入れる。越川一尉がスマホで状況を伝えながらその前を通過し、三鬼士長はカーナビを見ていた畑中二尉のナビゲートに従って、手前の脇道に入った。畑の中の農道を低速で走りながら、ハスラーの動きを見守る。
「でかい家だなー」
畑中二尉が、言った。二階建ての日本家屋で、ざっと見たところ建坪は五百坪以上はあるだろう。全周が瓦屋根の付いた築地塀風の塀で囲われているのでよく判らないが、枝ぶりのいい松の木やささやかな竹林などが見えているので、広い庭も付いているようだ。ハスラーが停まったのは、これまた立派な瓦屋根付きの門……棟門、というやつだろうか……の前にある砂利敷きのスペースだった。梶原友洋が降り立ち、憶する様子もなくすたすたと門の内側へと歩みを進める。……以前にも来たことがあるのだろう。
「まるで武家屋敷ですね」
横目で見ながら、三鬼士長が言う。
監視を越川一尉に任せると、畑中二尉は少し離れたところに駐車したアクアの車内でスマホを使い、板橋で待機する長浜一佐に状況を報告した。長浜一佐が、同じく待機していた石野二曹に、関連情報の収集を命ずる。
「世帯主は小橋昭一。七十五歳。小橋グループの元総帥です」
情報本部のデータベースとインターネット情報を漁った石野二曹が、長浜一佐にそう報告する。
「小橋グループ?」
「埼玉県北部と群馬県で手広く事業を手掛けている企業グループだそうです。……わたしも初めて聞きましたけど。ゴルフ場、パチンコ店、結婚式場、CDショップ、携帯電話販売代理店などを経営しています」
「……見事に成長の見込めない業種ばかりだな」
長浜一佐が、苦笑する。
「現在、グループの総帥は娘婿の小橋雄太に譲り、昭一の方は名目上の相談役に退き隠居状態です。個人資産は相当あるようです」
「だろうな」
畑中二尉からメールに添付されて送られてきた豪邸の映像を見ながら、長浜一佐がうなずいた。
「それで、小橋昭一と梶原友洋の関係は?」
「それが、まったく」
石野二曹が首を振る。
「出生地、居住地、出身校、職歴など、どれを当たっても重なりません。昭一の娘や娘婿と梶原友洋は同年代なので、そちらに接点があるかと思って探ってみましたが、こちらも無関係に思えます」
「ステーキハウス時代の常連客だった、などというオチじゃないだろうな」
長浜一佐が、冗談口調で言う。
「ひょっとすると、オフ会かもしれませんね」
石野二曹が、冗談に付き合って言う。
「ネット情報と情報本部のデータベースではこれくらいが限度だな。上に掛け合って、警察庁、公調、内調あたりに問い合わせてみよう。ひょっとすると、この小橋昭一が黒幕かもしれん」
長浜一佐が、机上の秘話電話に手を伸ばす。
「腹が減ったぞー」
畑中二尉が、呟きにしては大きすぎる声で言う。
「そうですね」
三鬼士長が応じた。朝早くから待機していたから、当然朝食も早い時間に済ませている。そろそろ正午近く。腹が減るのは無理もない。
梶原友洋に、動きはない。豪邸に入ったままだ。
「よし、三鬼ちゃん。昼食を買ってくるのだー」
畑中二尉が、千円札を出すと三鬼士長の手に押し付けた。
「判りました。何がいいですか?」
「うむ。アンパンと牛乳だー」
「アンパン?」
「そうだー。張り込み中の食事と言えば、アンパンと牛乳に決まってるだろー」
しごく真面目な表情で、畑中二尉が答える。
「あー、古い刑事ドラマにあるシーンですね。でも、なんでアンパンと牛乳なんでしょう?」
苦笑しながら、三鬼士長が訊く。
「三鬼ちゃんのような若い子は知らないだろうが、昔はコンビニも持ち帰り弁当屋も無かったのだー。ただし、今のコンビニに相当する小さな商店はたくさんあったー。飲料も売っていたが、まだ缶飲料はマイナーで、紙パック飲料も普及していない時代で、もちろんペットボトルも無かったから、基本的にガラス瓶入りの飲料だけだったのだー。しかも、スクリューキャップも使われておらず、栓は王冠で、栓抜きが無ければ飲めなかったのだー。さすがに張り込みに備えて栓抜きを携帯している刑事は居ないだろうしなー。そんな中で唯一、紙蓋だけで栓抜き無しで飲める飲料が、牛乳だったのだー。普通の白牛乳なら、どこの店でも売ってたしなー」
「なるほど。で、アンパンは?」
納得顔の三鬼士長が、続けて訊く。
「小さな商店で商っている食品で、調理無しで食べれる物といえば、お菓子か缶詰かパンくらいしかないー。お菓子じゃ物足りないし、缶詰もイージーオープン缶がなくて缶切り無しじゃ食べられない時代だー。選択肢はパンしかないー。と言っても、今みたいに多彩な調理パンやデニッシュがあったわけじゃないからなー。いくらなんでも食パンをかじるわけにもいかず、数少ない種類の菓子パンの中から選ぶしかないー。結局、昔ながらの王道菓子パンたるアンパンにたどり着くわけだー」
「そうなんですか。じゃあ、電柱の陰でアンパンかじりながら牛乳飲んでる刑事さんは、あれはあれでリアルな描写だったんですね」
「いやー、リアルではないと思うぞー。あんなところで菓子パン喰ってるやつがいたら、怪しいだけだからなー。まあ、テレビドラマとしての演出だろー。食事シーンを挟むと、短いシーンでも長時間の粘り強い張り込みを行っている、という描写が可能だからなー」
「あ、後輩の刑事がアンパンと牛乳を買ってきて、交代します、とか言うといかにもそんな雰囲気ですもんね」
三鬼士長が、嬉しそうに言う。
「やはりマルーア絡みだったか」
長浜一佐が、ディスプレイに表示されたモノクロ写真……シオが梶原友洋の寝室で見つけた、二人の若い男性が映っていたもの……を見つめながら言った。
梶原友洋の父親、梶原拓洋にも小橋昭一との接点は見いだせなかった。だが、祖父の梶原貞蔵……南洋興発社員……にまで遡ると、極めて濃い接点が見つかった。
小橋昭一の父親、小橋清一郎は帝国海軍主計士官だったのだ。海軍経理学校卒業後、主計少尉候補生として内地で勤務したのち、晴れて主計少尉に任じられて赴任した先は南洋諸島マルーア支庁フリダ島。
防衛研究所戦史研究センターには、中尉時代の小橋清一郎の写真が残されていた。その風貌は、シオが見つけた写真に写っていた防暑衣姿の男性と完全に一致した。
「フリダ島はマルーア支庁の主島で海軍基地があり、南洋興発の拠点のひとつも置かれていた。この写真は、その頃に撮られたものだろう。梶原貞蔵と小橋清一郎は親しい間柄だったことは、まず間違いない」
「その孫と息子が、今現在熊谷で会っているわけですね」
石野二曹が、言う。
「そうだ。警察庁にも公調にも内調にも問い合わせたが、小橋昭一に政治的背景はないようだ。右でも左でもなく、いままで目立った政治的活動、思想的活動は確認されていない。……地元の保守系政治家とは懇意だがな。彼が、武器商人から大量の兵器を買い入れ、テロを行うとは思えない。あくまで、スポンサー的な立場なのではないかな」
長浜一佐が、考えつつゆっくりとした口調で言った。
「梶原友洋と小橋昭一の目的は何なのでしょうか?」
石野二曹が、訊く。
「まあ、常識的に考えればマルーア共和国に対する何らかの軍事的行動、だろうな。軍事行動の目的ははっきりしないが。……ひとつ不可解なのは、梶原友洋と小橋昭一には、いずれもマルーアへの渡航歴がないことだ。これだけ大それたことを企んでいる以上、現地協力者がいるはずだ。接触がないとは思えんのだが……」
「マルーア人の方が、日本に入国しているのでは?」
石野二曹が、誰でも思いつく推測を述べる。
「良い方法ではないな。マルーアは人口が少ない。たびたび日本を訪れていれば、目立つはずだ。日本人が観光客に紛れてマルーアに行く方が、合理的だ」
長浜一佐が、首を振る。
「では、今回の件マルーアは無関係なのでは?」
「あり得ない話じゃないな。マルーアはあくまで梶原貞蔵と小橋清一郎が親交を結んだ土地。その付き合いは孫子の代まで続き、今現在手を組んで武器を入手し、何かを企んでいる……。だが、もしそうだとすればどこで何をやろうというのだろう?」
「小橋グループが海外進出を目論んでるとか? どこかの国家で、事業に邪魔な政府を転覆させるために、反政府勢力に武器を援助するという契約を結んだのかもしれませんよ」
石野二曹が、そう推測する。
「小橋グループにそれだけのカネと勢いはないだろう。わたしの勘では、やはりマルーア絡みだと思う。確たる証拠はないがな。とりあえず、ジョーに連絡を取って、集めた情報を渡し、マルーアでの調査を依頼しよう。CIAが掘ってくれれば、何か出てくるかもしれない」
長浜一佐が、そう決断した。
梶原店長が小橋昭一邸から出てきたのは、午後四時過ぎであった。
怪しまれないように何度も駐車場所を変えたうえ、遠方からの双眼鏡監視を続けていた畑中二尉と三鬼士長のコンビは、越川一尉に連絡すると、すぐにアクアを発進させた。
予想通り、梶原店長のハスラーは来た道を戻り始めた。アクアとCBR400Rは、ゆったりとした尾行を続けた。余裕ができたので、東北自動車道に入る前に、三鬼士長は畑中二尉とアクアの運転を交代した。ハスラーは夕方の渋滞に短時間巻き込まれたものの、午後六時半前に『アランチャ』の駐車場へと帰り着いた。三鬼士長が徒歩で接近し、梶原友洋が『アランチャ』の客用出入口から店内へと入ったことを確認する。約十分後、畑中二尉のスマホにスカディからの連絡が入った。梶原友洋は従業員に留守中異常が無かったことを確認すると、すぐに通用口から出て自宅に戻ったという。
かくして、梶原友洋尾行作戦はつつがなく終了した。
第七話をお届けします。




