第二十五話
「お勧めできません、殿下」
護衛役のバドゥルが、強い口調でラシードに迫る。
「わたしはもう『終わった』人間だよ。命を狙う奴などいない」
寛げるカンドゥーラ姿になったラシードは、そう言って冷笑を浮かべた。
ハリム国王が刺客を差し向けることなどあり得ない。殺すのならば、国内で密かに行ったはずだ。わざわざ外交問題に発展しかねない外国で暗殺を行うわけがない。恨みを買った相手は多いが、追放され無害な存在となったラシードを、大金を掛けてまで殺そうと考える酔狂な人物はまずいないであろう。
「ですが、テラスでのお食事はあまりにも無防備です」
バドゥルが食い下がる。
「わかった」
ラシードは折衷案を思いついた。通りかかった管理人女性を呼び止める。
「ソニア。済まんが朝食は二人分用意してくれ。彼も同席する」
パリのホテルで朝食を頼むと、卵料理、生ハム、チーズなどを食べさせてもらえるが、それはあくまで観光客向けの『フランス風』朝食である。
日本人の多くが、和風旅館で出されるようなきちんとした朝食膳のような朝飯を毎日食べていないのと同様、実際のフランス一般市民の朝食はきわめてシンプルである。
テラスのテーブルに並べられた朝食も、典型的なフランス流の朝食であった。
籠に山盛りになっているパンは、クロワッサンとスライスしたバゲット、それにチョコ入りのクロワッサンと言えるパン・オ・ショコラ。バターと数種類のジャム。ヨーグルト。若干のカットフルーツ。飲み物は、カフェオレとオレンジジュースが用意されている。
バドゥルは訓練された軍人の眼で周囲を観察した。あまりにも、開け過ぎている。東側は海。南側は松林、西側は別荘本体によってカバーされているが、北側はまったくの無防備だ。北に見えている東向きに延びる小半島のどこからでも、効果的な狙撃か可能だろう。
テラスの胸壁は低く、小柄な人の腰のあたりまでしかない。座っている者の胸部を狙うのは、簡単だ。
「座りたまえ、バドゥル」
海がよく見えるように、東側を向いた席に座ったラシード王子が命ずる。
素直に席に着こうとしたバドゥルだったが、急に思いついてラシードに断りを入れると、椅子の位置を移動してテーブルの北側に移した。懐に忍ばせているPA15自動拳銃では、狙撃手に対抗するのは無理だが、この位置で食事をすればラシード王子の楯代わりにはなれる。
メイドロボットが水差しから注いでくれる水で、ラシードとバドゥルはそれぞれ手を清めた。
……邪魔だ。
ラモンは心中で罵った。
ラシード王子の会食相手は、周囲を確認したあとに椅子を移動し、そこに座った。明らかに、北側から狙撃されることを懸念しての行動であろう。プロの護衛に違いない。
一発目を護衛にぶち込み、障害を排除してからラシード王子を撃つ、という手が無いわけではない。だが、それが成功する確率はかなり低いだろう。ラモンの腕前を以ってしても、ボルトアクションライフルの二発目を五百メートル以上離れた目標に正確に素早く撃ち込むのは至難の業だ。まして、ラシードは正規の訓練を受けた軍人である。素人ならば、目の前で会食相手の胸板が撃ち抜かれたら、度肝を抜かれて数秒間硬直し、絶好の狙撃目標となってくれるだろうが、ラシードなら即座にテーブルの下に伏せてしまうだろう。やはり、一発目を王子に見舞わねばならない。
テラスの隅に立っているメイドロボットの髪とオレンジ色のリボンが、わずかな海風になびいている。すでに、ラモンは横風を風速1.5メートルと見積もって調整を済ませていた。昨晩携帯電話で確認した天気予報での、朝の風向と風速は東の風5キロメートル……フランスの天気予報では風速は秒速ではなく時速で表記される……となっていたから、ほぼ予報通りである。
携帯電話が振動する。ラモンは、それを耳に当てた。
『着きました』
短く、アントニアの声が聞こえる。
「観察しろ。約五分後、Pが立ち上がったらやれ」
小声でラモンは答え、通話を終えた。
アントニアがルノー・メガーヌを停めたのは、ラモンの潜伏位置からそれほど離れていない農道の中であった。辺りに、人影はない。
アントニアはメガーヌの盗難防止装置をセットすると、車を降りた。小型の双眼鏡を取り出し、テラスを見る。
ラモンは手早く撤収準備を整えた。小物類をすべて身に着けていることを確認する。偽装用のカムフラージュネットや枝を固定しているビニールテープを回収している時間はないので、これらは置いてゆくしかない。『ヴィッテル』と『ベルヴィータ』も置いてゆくしかないが、至る所で売られている商品だし、ロットナンバーも辿られないようにしてあるので問題は無いだろう。
スコープを覗き、ラシードが動いていないことを確認したラモンは、携帯電話を掛け始めた。別荘の固定電話番号は、依頼者から渡された資料の中にあった。
「お食事中失礼いたします、殿下」
ラシードの忠実な召使、ソレーマンがテラスに現れる。
「殿下にお電話が掛かってまいりました。サーヴィス・デ・ラ・プロテクションのカピタン・トマと名乗っております」
「フランス国家警察の要人警護部門です」
フランス語に堪能なバドゥルが、言う。
「早くもわたしのことを嗅ぎ付けたのか。いや、正規ルートで入国したからな」
飲みかけのカフェオレのカップを置きながら、ラシードが苦笑した。
「バドゥル。一緒に来てくれ。通訳を頼む」
早くも腰を上げかけたバドゥルに、ラシードがうなずきかける。
「いえ、殿下。カピタン・トマは英語もお上手でした。通訳は必要ありません」
ソレーマンが、告げる。構わずに、バドゥルは立ち上がった。護衛としては、王子のそばを離れるわけにはいかない。
テーブルの向かい側で、ラシードが立ち上がった。
ラモンは、すでに保留にした携帯電話を置いて、お手製サプレッサー付きのSSG69を構えていた。精神集中モードに入っており、目標以外の事柄……音も空気の動きも、光さえも脳裏から締め出されている。さながら細いトンネルの中に潜り込んでいるかのように、彼はスコープの中に見える映像だけにすべての感覚を集めていた。五百メートル先の情景が、まるで眼の前にあるかのように感じられる。
ラシードが、立ち上がった。
双眼鏡でそれを確認したアントニアは、いきなりメガーヌのボディを蹴りつけた。
ショックセンサーが反応し、盗難防止装置が大音量でアラーム音を鳴り響かせ始める。
ラモンは、集中した精神の隅の方で、アラーム音が鳴り始めたことを知った。
立ち上がったラシード王子の背中に、レティクルを合わせる。
……まだ護衛が邪魔だ。まだだ。もう少し……。
意識しないまま、ラモンは引き金を引いていた。素早くボルトを引き、次弾を装填する。
装填操作でずれてしまったスコープを、目標に戻す。ラシード王子の姿は、既にレンズの中には無かった。
アントニアはメガーヌに乗り込み、アラーム音を止めた。エンジンを掛け、辺りを窺う。
サプレッサーで減音された銃声は、アントニアにもわずかに聞き取れた程度であった。東側にある民家までは、届かなかっただろう。
ラモンは撤収準備を急いだ。SSG69を三脚から外し、三脚を折り畳む。携帯電話を、ポケットに押し込む。隠れ場所から這い出したラモンは、防水シートにSSG69や三脚を包み込むと、腕に抱え込んだ。忘れ物が無いことを確認してから、ブドウ畑の中の小道を足早に登り出す。
アントニアは、すでにメガーヌの運転席で待ち構えていた。開いているトランクに防水シートを中身ごと押し込めると、ラモンはすぐに助手席に乗り込んだ。アントニアが、メガーヌを発進させる。
救命処置技能が標準装備されているメイドロボットが、ラシード王子の手当てを開始する。
だが、PA15片手にテラスの胸壁の下に膝をついているバドゥルの訓練された眼には、すでに手遅れであることは見て取れた。流れ出した大量の鮮血が、テラスに敷き詰められた彩色タイルの上を流れてゆく。駆けつけた管理人のアミンが、SAMU(フランスの救急医療サービス)に携帯電話を掛けているが、結局死体を搬送することになりそうだ。
時間は多少遡る。
無事に日本に帰国したAI‐10たちは、大量のお土産と共に板橋の岡本ビルに帰り着いた。
「これで当分おやつを買いに行かなくてもすみそうね」
山ほどのお菓子を前にして、石野二曹が目を輝かせる。
「ご苦労だったなー。まさか、アル・ハリージュとドラハが交戦する事態になるとは思ってもみなかったぞー。ま、おまいらが絡むとトラブルが拡大する、というジンクスは今回も生きていたわけだー」
呆れ顔で、畑中二尉が言う。
「ま、それはともかく、おまいらに伝えておきたいことがあるぞー。アサカ電子が、特別措置として一件だけ、AI‐10の少量海外輸出を決めたー。輸出先はアル・ハリージュ。注文先は、シバーブ家だー。どうやら、王宮の警護ロボットとして採用するつもりらしいなー。まあ、警備プログラム無し、改造なしのノーマルタイプだから、おまいらほど役には立たんと思うがー」
「ラティファ王女の発注ですわね」
スカディが、断言する。AI‐10全員が、同意した。……彼女たちをアザム皇太子の護衛に雇えなかったので、代わりのロボットをアサカ電子に注文したのだろう。
「アサカ電子はメンテナンスその他のコスト面からAI‐10の海外展開を予定していないが、外務省筋の口添えもあったらしく、出荷を決めたようだー。ちなみに、三十体輸出の予定だそうだ-」
畑中二尉が、続ける。
「三十体か。凄いな」
亞唯が、感心したように言う。
「AHOの子ロボ分隊やのうて、AHOの子ロボ小隊やな」
雛菊が、笑う。
「おや?」
磯村聡史は、卓袱台の上に見慣れぬマンガ本が載っているのを見て、思わず手に取った。
表紙には、見た覚えのある妖精ブローチのキャラクター……ミエさんだったかサガさんだったか……が描かれていた。……タイトルは、『妖精ブローチ 第12巻』だ。
「買ってやった……覚えはないが」
聡史は、シオが私物入れにしているカラーボックスを調べてみた。乱雑に積まれているマンガ本の中に、『妖精ブローチ』の原作コミックスが次々と見つかる。
「ミリン。これ、シオが買ったのか?」
聡史は、テレビを視聴していたミリンに、マンガ本を示しながら尋ねた。
「はい。先日、最新刊まで大人買いした、とおっしゃってました」
ミリンが、うなずきながらそう返答する。
「ただいまなのであります!」
元気な声と共に、外出して来たシオが戻って来た。卓袱台の上に、近所の書店のロゴ入りポリエチレン袋を置く。
「また何か買ってきたのか?」
聡史は、袋の中を覗いた。なにやら、結構分厚い大判の本が入っている。
「『どうぶつコレクション大図鑑』なのであります!」
シオが、効果音と共に中身を取り出し、両手で持って聡史とミリンに見せびらかした。
「まあ、センパイ! 出版されたばかりの大図鑑ですね!」
ミリンが、はしゃぐ。
「ちょっと貸せ」
聡史は、シオから本を取り上げた。
「……子供向けアニメのグッズなのにこんなに高いのか」
定価を調べた聡史は呻いた。
「版権ものですから! それに、『どうぶつコレクション』は大きいお友達のファンも多いのです!」
聡史から本を取り返しながら、シオが言う。
「しかしシオ。おまえ、最近金遣いが荒くないか?」
聡史はそう言った。かなり額を増やしたとはいえ、贅沢ができるほどお小遣いは与えていないし、シオはもともと無駄遣いしないタイプだったはずだ。
「べ、べつにそんなことはないのであります!」
シオが慌てて言い訳した。だが、最近の彼女の散財の原因はやはり『AHOの子ロボ分隊秘密資金』のせいである。一体当たり二十万ドル……日本円にすれば八桁のお金を『持っている』となれば、多少贅沢をしたくなるものだ。マスター……聡史の貯金がかなり増えたとはいえ、まだ七桁なので、なおさら『お金持ち感』は強くなる。
「怪しいな」
聡史が、シオを疑惑の視線で見つめる。
「ミリンちゃん! まだお夕食の支度には時間があるのであります! 一緒に『どうぶつコレクション大図鑑』を見るのであります!」
シオは聡史の視線から逃げるようにして、部屋の隅にミリンを引っ張っていった。
第二十五話をお届けします。これにてMission12終了です。Mission13は例によって資料収集名目で三回お休みをいただき、6月15日より再開させていただきます。次回のネタと舞台は……言ってしまうとネタバレになりますので控えさせていただきますが、麻薬絡みで当初の舞台は日本となる予定です。




