第二十二話
目の前に、アザム皇太子がいた。
解毒剤が利き始め、ラシード王子の眼が徐々に焦点を合わせ始める。ぼやけていたアザム皇太子の顔が、はっきりと見えてきた。
「久しぶりだね、ラシード」
アザム皇太子が、笑顔を見せる。
ラシード王子は、もぞもぞと身体を動かした。椅子に座らされてはいるが、拘束はされていない。テーブルの向かい側には、同じように椅子に座るアザム皇太子。その脇に、小柄なロボット……アスワド基地にラティファ王女と共に現れたのと同じタイプらしい……が、頭部だけが辛うじて見える状態で立っている。
気配に気づき、ラシード王子は自分の左右を見た。こちらにも、小柄なロボットが二体立っている。……抵抗や逃亡を防ぐためだろう。
狭い部屋であった。ありきたりのテーブルがひとつに、ラシードとアザムが腰掛けている椅子がふたつ。家具調度の類は、それだけだ。扉はひとつだけで、窓はない。ラシードは、壁に視線を当てた。壁紙には、見覚えがある。……王宮内の『裏方』の部分でよく使われているものだ。
ラシードは記憶を手繰った。シャイフ・アハマッドと紹介された男が、車椅子からいきなり立ち上がったことは覚えている。その直後に、気を失ったらしい。……と、いうことは……。
「ラティファ王女に謀られたわけか」
ラシードは言った。まだ薬剤の影響が残っているので、いつもより声に張りが無い。
「気分はどうかな?」
アザムが、笑顔のまま問うた。
「良くはないな。頭がぼんやりとしている」
「国王陛下とわたしを殺し、セイフ王子を玉座につける。これが、お前の目的だった。そうだな?」
アザムが、笑顔のままさらに問う。
「そうだ」
完全に自分の負けである、と悟っているラシードは素直に認めた。
「理由は?」
「言わなくても判るだろう。このままでは、この国は滅びる。いや、湾岸産油国すべてが滅びる。わたしは、この国だけでも救いたかった。それだけだよ」
ラシードは、静かに言った。本音であった。
「卑劣な暴力行為の言い訳としては弱いな。それに、ドラハを巻き込んだことに関してはどう弁明する?」
「ドラハからは金を借りただけだ。見返りも約束したがね。わたしが私財を貯め込むことには興味が無いことは知っているだろう? 他に手が無かった」
悪びれる風もなく、ラシードは言い返した。
アザムが次の質問を放たずに、じっとラシードの眼を見つめる。……さらなる弁明を求めているのだ、とラシードは悟った。そのくらい、付き合いは長い。
「我が国の現状は判っているだろ。確かに金はある。だが、その金はどこに注ぎ込まれている? 無駄に消費されているだけだ。先進国から工業製品とブランド品を買い込み、発展途上国から来た連中に給料を払い、豊かな生活を楽しむだけの毎日。国内には、投資すべき産業も、開発すべき技術も、育成せねばならぬ人材も居ない。余った金は、誰も入居しない高層ビル、デカいだけの高級ホテル、自然を破壊するだけの埋め立て地を作るために使われるだけだ。あとは、貴金属の購入と、ヨーロッパや北米、東アジアの金融市場への投資くらいか。ユーロストックスやナスダックにいくら投資しても、一部の金持ちが潤うだけだ。我が国は潤わない」
喋り始めたことで、ラシードの声に張りが戻った。
「原油はいつか枯渇する。それどころか、先進諸国は脱石油の動きを加速させている。北米と南米産原油のマーケット拡大で、中東諸国の原油生産における影響力も低下中だ。このままでは、近い将来我々は誰も買ってくれない原油を抱えたまま、廃墟となった高層ビルで暮らす羽目になるぞ。それとも、砂漠とラクダとテントの暮らしに戻るか。いや、そんなことは百も承知だ、と言いたいのだろう」
アザムが反論しかけたのを見て、ラシードは大げさに首を振ってそれを遮った。
「残念だが、叔父上やお前には改革は無理だ。氏族政治のしがらみに、指先までがっちりと縛られているからな」
農耕社会において最も重要なのは、生産力の根源たる土地であることは言うまでもない。それゆえ、地縁は時として血縁を上回る重要性を持つ。それに対し、土地に縛られない遊牧社会は、主として父系親族による血縁が最重要視され、飼育する家畜の群れを共同管理する組織としての、学術用語で言う『リネージ』……血縁集団を形成する。その延長線上にあるのが、アル・ハリージュにおける有力氏族の存在である。氏族内の血縁による結びつきは、国家への帰属意識や王家への忠誠よりもはるかに強い。
「セイフ王子は、国王になる目がほぼ皆無だったから、まだ氏族政治のしがらみに囚われていない」
ラシードは、続けた。
「彼が国王になれば、油田権益に胡坐をかいて罵り合っている各氏族を力で抑え込み、アル・ハリージュに真の改革をもたらすことができる。わたしが目指したのは、それだよ。そのためには、叔父上にもお前にも消えてもらう必要があった。……セイフの器量では、叔父上はもちろんお前の足元にも及ばぬからな」
「セイフを傀儡に、アル・ハリージュの実権を握ろうとしたわけかね?」
批判の色を微塵も感じさせない口調で、アザムが穏やかに尋ねる。
「実権を握ろうとしたわけではない。アル・ハリージュが生き残れるように誘導したかっただけだ」
「言いたいことは判ったよ、ラシード」
いきなり扉が開き、恰幅のいいカンドゥーラ姿の男性が姿を見せた。
ハリム・ビン・ムハンマド・アル・シバーブ。アザムの叔父、現アル・ハリージュ国王である。
「国王陛下」
ラシードは急いで椅子から立ち上がろうとした。暗殺を謀った相手ではあるが、ラシード自身はアル・ハリージュの王位に対し敬意を抱いているのだ。単なる謀反人とはわけが違う。
「座っていろ、ラシード」
ハリム国王が、身振りで命ずる。テーブルに両手を突いて前かがみで立っていたラシードは、すぐに腰を下ろした。まだ、脚に力が入らない。
「ご無事でしたか、国王陛下」
心から安堵して、ラシードは言った。計画が失敗に終わった以上、生きていてもらった方がアル・ハリージュのためになる。
「お前の企みの直前に、王宮を脱出したのだ。SISの友人に助けられてな。誰が信用できるか判らなかったので、しばらく彼と一緒に砂漠に隠れていたのだ。良いものだな、テント暮らしというものも。いい骨休めになったよ」
椅子に掛けたままのアザムの背後に立ったハリム国王が、にこやかに言った。
「わが甥よ、そなたの懸念はもっともだ。このままでは、わが国はいずれ衰退することになる。バーレーンの二の舞はごめんだからな」
湾岸産油国の一国として知られるバーレーンだが、佐渡島よりも総面積が小さいという立地、さらにアラビア湾岸でも最も早く油田開発がなされたこともあり、近い将来原油が枯渇するという危機に瀕している。近年、沖合に大規模油田が発見されたが、これはいわゆるシェールオイルであり、海底であることも相まって採掘には高いコストが掛かることは明白である。
この将来への不安と、その他の要因……スンナ派とシーア派の対立、絶対君主である首長への反発などが相まって、同国は豊かでありながら政情不安定な国家であった。その結果、度重なる民主化要求により絶対王政は持ち堪えることができず、今は立憲君主制国家となっている。……このままでは、同様の事態がアル・ハリージュでも生起し、立憲君主制への移行を迫られるかもしれない。いや、バーレーンのハリーファ家が生き延びられたのは、サウジアラビアのサウード家と同族であり、その庇護を受けられたおかげであろう。アル・ハリージュで同様の民主化要求が行われたら、シバーブ家は国外へと追放されかねない。
「残念ながら、我が息子セイフは、それほど優秀な男ではない。少なくとも、政には向いていない」
少しばかり嘆息気味に、ハリム国王が言った。
「わしはあくまで亡き兄上の代理だ。老いたら、王位は兄上の子、すなわちアザムに譲るのは当然。いや、老いなくとも、アザムが望めばいつでも退位するつもりでおるぞ」
ハリムが、アザムの肩に親し気に手を置く。
「まだまだわたしは未熟者です。叔父上が元気なうちは、玉座を守ってもらいますぞ」
笑顔で、アザムがハリム国王を見上げた。
「二人で力を合わせて、この国を改革してみせよう。どうかね?」
ハリムが、ラシードの眼を覗き込むようにして言う。
「お二方を信用するとしましょう」
ラシードは、感情の抜けた声で言った。だが、内心ではこの二人を信じる気になっていた。計画が大失敗に終わった今、アル・ハリージュの未来はこの二人の肩に掛かっていると言っても過言ではない。ラシードの行動は、あくまでアル・ハリージュの未来を憂いてのこと。それが失敗した以上、この二人に協力する……のは無理としても、邪魔しないことがアル・ハリージュのためである。
「……それで、お前の処遇だが」
ハリム国王が、ラシードを見据えた。
「本来ならば、公開処刑とすべきところだが、さすがに王族内から極悪人を出すのは体裁が悪い。それに、今回の一件は『反イスラム系テロリストグループによる国王暗殺計画』と、『同テロリストグループが流布したクーデターとの偽計情報』に踊らされた軍の一部部隊の独断専行行動、という形で幕引きを図りたいと考えている。ドラハ軍一部部隊の越境は、陸軍副総司令官兼南部軍司令官サルミーン・ハムザ少将の誤解による独断要請にドラハ政府が応じてしまったため。南西部で行われた交戦も、空軍がドラハ陸軍部隊をテロリストグループと誤認したため、というシナリオだ」
「……MBTと自走榴弾砲を装備したテロリストですか。空軍同士の交戦はどう言い繕うつもりですか? まさか、テロリストがF‐16戦闘機を持っていたとでも?」
一連の交戦の概要は、ハムザ少将を通じてラシードも把握している。
「それは……混乱した状態で我が国を支援しようとしたドラハ空軍一部部隊が、あやまって領空を侵犯。哨戒行動中の我が空軍と不幸にも交戦してしまった、とでもごまかすしか無いな」
ハリム国王が、苦笑する。
「いずれにしても、ハムザ少将を始め処分しなければならない奴が大勢出ることは避けられないな。空軍のハリド少将。海軍のオマル准将にも、灸を据えてやらねばならん」
「では、わたしはどうなりますか?」
ラシードは、訊いた。公にできない処分。つまりは、非公開処刑ではないのか。事故死か病死に見せかけて殺すくらい、情報省の一部局なら簡単にやってのけるだろう。
「追放だ。二度と、我が国に足を踏み入れてはならん。いや、中東に姿を見せるな」
強い口調で、ハリム国王が告げた。
「あらゆる通信も禁ずる。アル・ハリージュ国内の者と連絡を取るな。絵葉書一枚送るな。受信も禁止だ。我が国のテレビ放送やラジオ放送の視聴も禁ずる」
「寛大なお申し出ですな」
いささか皮肉っぽい口調で、ラシードは言った。……処刑を覚悟していただけに、少しばかり拍子抜けした気分であった。
「南フランスに、王家が所有している物件がある。それを、譲ろう」
アザムが、言った。
「フランス語は苦手なんだがね」
「学ぶ時間は、いくらでもあるさ」
アザムが、笑う。
「今日付けで陸軍大佐に昇進。今回の一件との関連を疑われないように、日付の上では約半年後に退役。理由は……健康上の理由、でいいだろう。軍人恩給は払ってやるし、個人的な召使などは連れて行っていい。そこで静かに暮らすんだな。暇だからといって、回顧録など書くなよ。言うまでもないが、口は噤んでいてくれ」
アザムが、念押しするように言う。
「どうかね? この条件を受け入れて、フランスに行ってくれるかね?」
ハリム国王が、訊いてくる。
……とりあえず、命拾いしたか。
どのような条件が提示されても受容する覚悟であったラシードにとって、返事の文句はひとつしかなかった。
「イン・シャー・アッラー」
「色々と世話になったね」
アル・ハリージュ王族の護衛任務から解放されたAI‐10たち一体一体と、デニスが握手を交わす。
「すぐロンドンに帰るんか、おっちゃん?」
雛菊が、訊いた。
「こちらは中東課の連中に任せて帰るよ。では、またいつか会おう」
白髪のSIS上級職員が、にこやかな笑みを見せて小部屋を去ってゆく。
入れ違うように現れたのは、ラティファ王女だった。王宮内なので、ヒジャブを被って髪を隠しただけのラフな姿である。
「みなさんに折り入ってご相談があるのですが」
「何でしょうか、王女殿下」
リーダーであるスカディが、恭しい調子で応じる。
「みなさんの能力の高さは、一連の騒動で証明されましたわ。そこで、これからも国王陛下とお兄様のために働いていただけませんこと?」
大きな眼をきらきらと輝かせながら、ラティファ王女がそう提案してくる。
「……それって、移籍しろってことかい?」
困惑顔で、亞唯が訊く。
「これからも、陛下やお兄様が敵対勢力に狙われることはあるでしょう。国内改革を進める以上、国外の勢力だけでなく、内部からも刺客を送られる可能性があります。ぜひとも、力を借りたいのです。お手当ははずませていただきますわ」
ラティファが、畳みかける。
「……そう言えばわたくしたち、無給で働いておりますねぇ~」
ベルが、言った。
「確かにそうなのであります! マスターはお金を貰っていますが、あたいたちはタダ働きなのであります!」
シオはそう言い放った。
「それはロボットだから仕方ないでしょう」
スカディが、冷静に突っ込む。
「一応自衛隊の所属やから、勝手に移籍はまずいやろ」
雛菊が、言う。
「王女殿下。高く評価していただいたことにはお礼申し上げますわ。ですが、わたくしたちはロボットです。自分の意志で勝手にマスターを変更するわけには参りません。殿下の、国王陛下と皇太子殿下をお守りしたいというお気持ちは十二分に理解しておりますが……」
スカディが、やんわりと拒絶する。
「そうですか。仕方ありませんわ」
ラティファ王女が、しぶしぶ提案を引っ込める。しばらく彼女は、諦めきれない様子でAI‐10たちを見つめていたが、急にその眼がぴかりと光った。
「そうだわ! ロボットなんだから……」
何かを思いついた調子で口走ったラティファが、踵を返すと、小部屋を走って出て行った。
「なんだ、あれ」
呆れたように、亞唯が言う。
第二十二話をお届けします。




