第二話
「ただいま~」
気の抜けた声を発しつつ、高村聡史は狭い玄関で靴を脱いだ。
「お帰りなさいなのです!」
画面から一メートルも離れていないところでテレビを視聴しながら、シオが元気よく答えた。
「ほら、そんな近くで見てると目が悪くなるぞ」
ネクタイを外しながら、聡史は何十回となく使ったジョークを口にした。
「はいなのであります」
シオが、大人しく立ち上がると、座っていた座布団をずるずると引き摺りながら部屋の隅まで後退する。
テレビの画面には、外国人の女性テレビリポーターが早口で喋っている映像が映っていた。その背後では、紺色に塗られた警察用装甲車や防弾ベストを着込んだ警察官らが、高い塀に囲まれた建物を取り巻いている。
「ほう、例の人質事件か。進展はあったのか?」
テーブルの上にポケットに入っていた鍵束や財布、携帯電話などを並べながら、聡史は訊いた。
「二時間ほど前に、三回目の人質解放があったのです! これで日本人は、大井全権大使以外全員解放されました! 残っている人質は、推定で三十三名だそうです!」
聡史がサンタ・アナ日本大使館占拠事件の第一報を知ったのは、遅い昼休みでコンビニ弁当を掻き込んでいた時であった。あれから六時間ほど経っているが、どうやら解決の糸口はつかめていないらしい。
冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出した聡史は、シオの隣に腰を下ろしながら言った。
「俺がガキのときにも、似たような事件があったんだよな。あれは、ペルーだったけど。詳しいことは覚えてないけど、テレビに映ってた静止画像みたいな大使公邸の屋上の映像は、よく覚えてんだよな」
聡史は、発泡酒の缶のプルトップを開けた。よく冷えている中身を、ひと口飲み下す。
「早めに人質の数を減らしたところをみると、連中長期化を覚悟してるんだな」
「そうなのでありますか?」
「あまり価値のない人質を大勢抱えていても、管理が大変なだけだからな。トラブルも起きやすいし。こりゃ、ペルーの時みたいに長引くぞ」
テレビの画面では、サンタ・アナ共和国の地図が映し出されていた。北側をホンジュラス共和国、南側をニカラグア共和国、そして東側をカリブ海に挟まれた中米の国家だ。海岸沿いのほぼ中央部にある、国名と同じ名を持つ首都サンタ・アナ市で発生した日本大使館襲撃占拠事件。こんな事態にならなければ、日本人の大半が生涯その正確な位置すら知らずに過ごしたであろう目立たぬ小国である。
画面が切り替わり、見慣れたニュースキャスターの顔が大写しとなった。やや沈痛な面持ちで、手にした紙片に眼を落とす。
「では、現在までに判明している人質となっている方々のお名前をお伝えします。まず日本を含む各国大使館関係者ですが、在サンタ・アナ共和国日本大使、大井修二氏。同じくイギリス大使、ギルバート・ヤング氏。同じくスペイン大使、ベルナルド・ガラン氏。同じくメキシコ大使、ファン・オロスコ氏。同じくブラジル大使、ルイス・サビーノ氏。同じくドス・エルマナス大使、エミリオ・オルバレス氏。同じくアルゼンチン大使、セベリアノ……」
と、テーブルの上の聡史の携帯が鳴り出した。
「あたいが出るのです!」
シオが素早く立ち上がり、携帯を手にした。
「高村聡史の携帯なのです! どなたですか? はい。シオ本人なのです! いつぞやはお世話になったのです! はい、問題ないのです! もちろんマスターはいらっしゃいます!」
携帯に向かって喋るシオを眺めながら、聡史は少々奇妙に思った。会話の内容からすると、掛けてきた相手はシオとは馴染みのようだ。だが、聡史の友人や親戚からの電話にしては、シオの口調が固すぎる。
シオが、聡史に携帯を差し出した。
「マスター、アサカ電子の深町さんからお電話なのです! あたいを、何日か貸して欲しいそうです」
「お前を貸す?」
「粗茶ですが!」
シオがそう言いつつ、来客二名の前に湯飲みを置く。
聡史は先ほどもらった名刺をもう一度じっくりと見た。
『アサカ電子ロボット事業本部技術研究センター 主任研究員 深町 譲』
電話の翌日である。
「単刀直入に申しあげます。アサカ電子に、シオさんをしばらく預けて欲しいのです」
深町氏が切り出した。黒縁の眼鏡を掛けた、いかにも白衣が似合いそうな学究肌の男性だ。
「シオさんは、先の自衛隊徴用で大変ユニークな経験を積まれました。その経験を、アサカ電子が今後行うロボットの開発や改良に、役立てたいのです。高村さんもご承知のとおり、AI‐10は学習や経験の内容を自ら整理してパーソナルデータに組み込み、いわば成長することができます。そしてそれは、単に他者にコピーしただけでは活かす事のできない複雑な構造を持った、個体に固有のデータとなります。ですから、シオさんをしばらくお借りして、その行動や会話内容を分析し、パーソナルデータ解析に役立てる必要があるのです」
「はあ、おっしゃりたいことはよくわかりましたが……」
聡史は困惑した。家に居るときは常にシオと一緒なので、シオのパーソナルデータ内には聡史のプライベートな事柄が一杯詰まっているはずだ。もちろん、家庭用ロボットの常として、事前にオーナーが設定した、あるいはメーカーで設定した仕様に従って、他者に知られたくない部分にはプロテクトが掛かっており、単にデータをダンプしただけではその内容が他人に漏れることはない。だが、専門家が分析するとなると、すべてばれてしまうのではないだろうか。例えば、エッチなDVDのしまってある場所とか、そのタイトルとか……。
聡史がその心配を遠まわしに口にすると、深町氏が深くうなずいた。
「その心配はごもっともです。しかし、我々が興味があるのはシオさんの経験から得られた成長ぶりであり、オーナーの私生活ではありません。プロテクトの掛かったデータには手を付けませんよ。それは、お約束します」
「しかし、シオがいなくなるのは不便ですね……」
聡史は渋った。自衛隊に徴用されているあいだも、相当不便かつ寂しい思いをしたのだ。
「もちろん、只でとは申しません。貴重なデータを提供していただくのですから」
深町が、控えていた部下の方を見た。部下がブリーフケースを開け、電卓を取り出す。
「一日あたり、これだけお支払いいたします」
五桁の数字を叩き込んだ深町が、電卓を聡史に向け差し出す。
聡史は固まった。シオを貸すだけで、一日にこれだけ儲かるのか……。
「貸していただく日数は、確定はできませんが七日以上になると思われます」
深町が言う。聡史は電卓の数字に頭の中で七を掛けた。結構な額になる。
「その……まさか、何ヶ月も預けっぱなしということにはなりませんよね」
「大丈夫です。長引くようならば、いったんお返ししますし。最大でも、二週間でしょう」
深町が請合う。
聡史の肚は決まった。何しろ、安月給で苦労している身である。だが、その前に確かめることがある。
「なあ、シオ。お前はどう思う?」
「ロボットとしては、他のロボットの性能向上に役立てるのは嬉しい事なのです! マスターのお許しが出れば、行ってみたいのです! お金が貰えるのも、嬉しいのです! マスターが潤うのは、良いことなのです! これはいわば、あたいがアルバイトするみたいなことなのですね?」
元気よく、シオが言う。
「まあ、そんな感じかな」
「では、決まりですね」
深町の合図を受けて、部下がブリーフケースから書類の束を取り出した。
第二話をお届けします。




