第一話
ギリシャ共和国 ペロポネソス地方 コリントス市
コリントス市の歴史は、古代ギリシャのポリス(都市国家)の時代まで遡ることができる。
当時のコリントスは、今とは違い内陸部に位置していた。現在の市街の南西には、アクロポリス(神殿の丘)があり、そこには遺跡が現存し、観光地となっている。
長い歴史を積み重ねてきたコリントス市だったが、十九世紀半ばに発生した大地震により、市街地は壊滅的な破壊を被った。これにより、旧市街は半ば放棄され、あらたに北東の海……コリンティアコス湾……に面した平地に都市が建設された。これが、現在のコリントス市街である。さして大きくもない都市ではあるが、ギリシャ本土とペロポネソス半島が唯一繋がっている狭い地峡にあるので……2004年に北部のパトラ市付近で本土に繋がるリオン・アンティリオン橋が開通したので、厳密には唯一ではないが……交通の要衝として知られる。
アテネ国際空港……正式名称はアテネ国際空港エレフテリオス・ヴェニゼロスであり、これはギリシャの元首相の名に由来する……は、二十一世紀になってから開港した比較的新しい空港である。位置は、アテネ市街の東約二十キロメートル。市街の南方七キロメートルほどの処にあった旧アテネ国際空港……保安検査が杜撰なことで知られ、ハイジャックを企むテロリストや密輸を行う犯罪者連中には歓迎されていた……に比較すれば、市外からは遠くなったが、その分交通アクセスは充分に考慮されており、高速道路や鉄道でアテネ市街地と直結されている。
カイロ発のエーゲ航空ボーイング737‐800から降り立ったハキムは、通関を済ませるとすぐに空港に併設されているギリシャ国鉄のアテネ国際空港駅に向かった。外国での移動に、レンタカーを使う者も多いが、ハキムは原則として公共交通機関を利用することにしていた。事故や交通違反などで思わぬトラブルに巻き込まれることを考慮するならば、列車やタクシーを使う方がはるかに安全である。
乗り込んだ列車は新しくきれいで、空いていた。空港利用者の多くが、直接アテネ市街へと向かうので、この路線よりも地下鉄や直行バスの方を利用するのだ。座席に腰を下ろしたハキムは、偽装用に持ち歩いている英文の書類の束をブリーフケースから取り出すと、それを熱心に読むふりをした。イタリア製の上物のスーツを着て、いつもはしないネクタイ……あまりにも西欧的すぎる、という理由でノーネクタイを通すムスリムは多い……を締めているとはいえ、ハキムの浅黒い肌とくっきりとした黒眉が目立つ顔は、西アジア系のムスリムだと自己紹介しながら歩いているに等しい。こんなご時世なので、不審の眼を向けられないためには、真面目なビジネスマンだというアピールをしなければならないのだ。
定刻に出発した列車は、高速道路に両側を挟まれた形で田園風景の中を北上した。短い間隔で駅に停車しながら、アテネ市街地を左手に見ながら迂回するようにカーブを描き、西に針路を変える。書類を読むふりに飽きたハキムは、時折窓外を眺めて時間を潰した。遠くに見える山はいずれも低く、樹木が少ないので白っぽい地肌を晒している。アテネの郊外地区に入ったので、周囲はいつの間にか住宅街になっていた。立ち並ぶ家々のあいだに見える背の高い整った形の樹木は、イトスギだろう。
トンネルを抜けると、風景は工業地帯のそれに代わった。大小の工場、倉庫群、石油タンク類などが見えてくる。さらにトンネルを抜けると、線路は海沿いに出た。青い水を湛えたサロニカ湾に、サロニカ諸島の島々が浮かんでいる。ハキムは思わず窓外に見とれた。
短いトンネルを何回も通過しながら、列車は西進してゆく。有名なコリントス運河の上を通り、列車はやがてコリントス駅に滑り込んだ。ハキムはブリーフケースを手に列車を降りた。
周囲にろくに建物が無い殺風景な駅前で、ハキムはタクシーを拾った。目立つ黄色に塗られた、オペル・ベクトラだ。運転手に目的の店の名前……『アエラキ』を告げる。
タクシーは、コリントス市街を右手遠くに見ながら、田舎道を走り出した。窓外を、オリーブの果樹園とブドウ畑が流れてゆく。幹線道路に出て、大きな郊外型ショッピングセンターを通り過ぎたタクシーは、海岸へと向かう狭い脇道に乗り入れた。道の終端には、狭い駐車場があった。立っている看板に、ギリシャ文字とラテン文字で『アエラキ』とある。ハキムはチップを足して料金を支払った。
『アエラキ』はビーチバー兼シーフードレストランといった趣の店であった。大きな平屋建ての建物の奥に、いちじくの樹の木陰に置かれたテーブルが見える。
「ミス・ウェイランドがテーブルを予約してあるはずだが」
出てきたウェイターに、ハキムは完璧なブリティッシュ・で告げた。
「ミス・ウェイランドがお待ちです。どうぞこちらへ」
ウェイターが、笑顔を見せてハキムを案内する。
テーブル席の向こう、もっと海に近い場所には、芝生の上にいくつもの大きなビーチパラソルが開いていた。その下に小さなテーブルとデッキチェアがあり、そこに寝そべって海を眺めながら飲み物を楽しめるようになっている。ハキムは、芝生の中に作られた石畳の小道を、ウェイターのあとに続いて歩んだ。
手で示されたテーブルには、女性が座っていた。目元はサングラスで隠されているので、年齢はよく判らないが、若くはないようだ。三十代後半、とハキムは目星をつけた。ウェーブした黒髪は長く、腰のあたりまで垂れている。背もたれを起こしたデッキチェアにゆったりと座り、赤ワインのグラスを前にして、寛いでいるようだ。テーブルの上には、今時の女性が持ち歩くような小物類……携帯電話、化粧ポーチ、財布、音楽プレーヤー、菓子類……もちろん煙草も……はいっさい置かれていない。
「ザミールだ」
合言葉代わりに、名乗ることになっていた偽名を告げながら、ハキムは腰を下ろした。ウェイターに、冷たいビールを注文する。
「確かにわたしはムスリムだよ。だが、これはビジネスだからね」
意外そうに眉をひそめた女性に向かい、ハキムは英語で言い訳した。実際、欧米人相手のビジネスにかこつけて、飲酒する世俗的なムスリムは多い。
「アントニアです」
女性が、名乗る。ハキムはうなずいた。正しい偽名である。これで、この女性がラモンの代理人であることが証明された。『世界有数の殺し屋』と看做される男の、連絡役を務める女だということが。
ラモンが活動を開始したのはここ数年だが、あっという間にこの業界屈指の凄腕との評判を勝ち取っている。出身がベネズエラらしい、ということで……コロンビア説もあるが……かのカルロス・ザ・ジャッカルの再来とまで言われている男である。
「仕事を一件、依頼したい」
届いたビールを一口飲んだハキムは、そう切り出した。
「どなたを?」
口元に笑みを浮かべ、アントニアが訊く。
「シェイク・アザム・ビン・サッタール・アル・シバーブだ」
「アザム皇太子ですか?」
アントニアの表情に、驚きが浮かぶ。
「そうだ。アル・ハリージュ国王シェイク・ハキム・ビン・ムハンマドの甥。王位継承権第一位、アザムだ」
ハキムは、感情を面に表さないように留意しながら、言った。
「ご冗談を。合衆国大統領よりも難しいターゲットではありませんか。常に、一個中隊の護衛を引き連れていると聞いておりますわ」
驚きの表情を消したアントニアが、薄く微笑む。
「アル・ハリージュ国内ならね。だが、外国では別だ」
「続けてください」
アントニアが、わずかに身を乗り出す。
「近々、アザム皇太子がお忍びで旅行に出かける。行き先は、日本だ。非公式の訪問なので、アル・ハリージュ側の護衛は最小限のはずだ。アザムは過去に何度も日本を訪れているが、その際にも日本の民間企業の護衛を利用しているに過ぎない。難しい仕事ではないと思うが」
「『彼』は日本で仕事の経験がありません」
アントニアが、『彼』がラモンであることを強調したいのか、そこだけスペイン語の単語を使って言う。
「その点は考慮する。日本語に堪能な東洋人助手を複数付ける用意がある。もちろん、彼が同意すればだが」
アントニアに倣って、彼だけスペイン語にして、ハキムは提案した。
「だとしても、簡単な仕事ではありませんね。わたしの一存では決められません」
「それは、承知している」
ハキムはビールをもう一口飲んだ。考え込んでいるアントニアから視線を逸らし、海を眺めやる。丸くすり減った小石からなるビーチは、まるで湖のように穏やかだ。緑色を帯びた海水は透き通っており、浅いところは底まではっきりと見通せる。
「報酬は?」
受ける気になったらしく、唐突にアントニアが訊いた。
「五百万ドル。諸経費は別だ。助手も付けるし、装備などの日本への運び込みに関しても便宜を図ろう」
ハキムはそう答えた。……依頼主からは、一千万ドルまでは譲歩してよい、と言われている。
「何か条件はありますか?」
「特にない。日本旅行中に確実に仕留めて欲しいだけだ。方法は問わない。狙撃が得意と聞いているから、できればそれでひっそりとやって欲しいがね」
ハキムは言った。
「結構です。彼が拒否しない限り、お受けする方向で調整しましょう。……諸経費込みで前金百万ドル、任務完了後に後金四百万ドルと諸経費、という形でいかがですか?」
「問題ない。支払方法は?」
「ヴァイセンベルク公国のある銀行へ振り込みを。安全な電話番号をお持ちですか?」
ハキムはカイロにある固定電話の番号を告げた。アントニアが、メモも取らずにそれを頭の中にしまい込む。
「彼が承諾したら連絡します。指定された口座に百万ドル振り込んで下さい。細かい打ち合わせが必要な場合は、またお会いしましょう」
アントニアが言って、にこりと微笑んだ。
「よろしく頼む」
ハキムは五十ユーロ紙幣を一枚取り出すと、テーブルに置いてデッキチェアを立った。
カリュイール・エ・キュイール。フランスの都市、リヨン市の北に隣接する『コミュヌ』(フランスの行政区。他国の市町村に当たる)である。
ラモンは、この街にヨーロッパにおける活動拠点を置いていた。緑豊かな住宅街、マルニョル通りに面した赤屋根の二階建て一軒家だ。
「よろしい。受けるとしよう」
アントニアから詳しい話を聞いたラモンは、アザム皇太子暗殺の仕事を引き受けることにした。色々と不安材料は多いが、やはり五百万ドルの報酬は見過ごせない。
ラモンの風貌は、凡庸である。身長は百七十五センチ程度。イタリア系の父親とスペイン系の母親から生まれたので黒髪で、肌の色はラテン系はもちろん、ロンドンやベルリンの街を歩いてもまったく目立たない程度に白い。特にハンサムでなければ、不細工でもない。ヨーロッパのどこの都市に居ても、目立つことのない男である。……暗殺者としては、最適な見た目である。
だが、この『普通』の見た目も、アジアでは……シンガポールや香港ならば別だろうが……立っているだけで目立つことだろう。観光客にでも偽装して、上手く立ち回らなければならない。
「装備がいるな。日本では、闇で手に入れるのは難しいだろう……」
独り言を言いながら、ラモンは窓外に視線を転じた。二階の窓からは、東側を流れるローヌ川を、ちらりとだが見ることができる。対岸は、リヨン市に属している6区で、テットドール公園の緑色が美しい。
風景を眺めながら、ラモンは微笑んだ。東側の景色を眺めるたびに、皮肉な笑みが浮かんでくる。彼がここに拠点を置いているのは、かのインターポール(国際刑事警察機構)が本部を置いているのも、この都市だからである。この家からインターポール本部まで、ローヌ川の流れを挟んで直線距離は一キロメートルもないのだ。世界中の警察から追われている最重要人物が、まさかこんな近所に家を構えていようとは、誰も思うまい。
ラモンの指示を受けて、アントニアはTGVでパリへと向かい、そこでオランジュのスマートフォンでカイロに電話して、ヴァイセンベルクのクレーマン・バンクにある口座に振り込みを依頼した。クレーマン・バンクはいわゆるプライベート・バンキングのひとつであり、ナンバード・アカウント(番号だけの匿名講座)を簡単に作れることをサービスのひとつとしている。簡単、とはいっても、それは手続きが簡単、という意味である。来店の必要もなく、身分証明書も、サインすら必要とはされず、電話、メール、あるいはファックス一枚だけで口座を開設できるが、最低でも百万ユーロ相当の初期振り込みがなければ口座を持つことはできない。そのようなわけで、クレーマン・バンクの従業員はたったの二十数名、顧客数もわずかに三桁だが、預金総額はなんと三百億ユーロに達する。これは、日本で言えば大手の地方銀行に匹敵する預金量である。
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