第二十話
「次の任務を与える」
新しい『中華』を箱から抜き出しながら、デスクに座るカオ少将が告げた。
中国人民解放軍参謀部第二部本部の、部長執務室である。いつも通り紫煙が立ち込めるその部屋に、一週間の休暇から戻って来たアリシアは呼び出されていた。
「任地はキファリア共和国だ」
中華に火を点しつつ、カオ少将が続けた。
「キファリアですか」
アリシアは無感動に応じた。東アフリカにある、中国の主要な同盟国のひとつである。
「キファリア政府と交渉し、我が国は沿岸部にある小さな島を借りている。そこに、科学技術部と中国科学院、人民解放軍科学技術委員会が協力してある研究施設を建設中だ」
中華人民共和国科学技術部は国務院に属する省庁であり、その名の通り科学技術分野を統括する行政機関である。中国科学院も国務院に属する研究機関で、数学を含む人文・社会科学系、工業系技術以外の研究を行っている。人民解放軍科学技術委員会は、中央軍事委員会に属している機関のひとつである。
……なぜ国内ではなく外国に。しかもアフリカに。
アリシアはとっさに疑問に感じたが、それを押し隠して上司の次の言葉を待った。
「最近、キファリアは物騒だ。この前は海軍が洋上で大打撃を受けたうえに、海軍基地が襲撃された。我が国との関係強化を望んでいない連中がキファリアを狙っている。そこで、警備を強化したい」
アリシアは上司の言葉を聞きながら、考えを巡らせた。最初に浮かんだのは、宇宙関係の研究施設ではないか、という推測であった。キファリアは赤道直下ではないが、かなり低緯度にあるので、軌道上へペイロードを打ち上げるには都合がいい。さらに、東側は広漠たるインド洋なので、これも発射基地を造るには適している。
……だが、宇宙関連だとしたら、国家航天局や航天工業公司、人民解放軍火箭軍(ロケット軍/旧称第二砲兵)が関わっていなければおかしい。
「当施設を視察し、警備計画を詳細に検討して改善案を出してほしい。二週間あれば、充分だろう。報告は、直接わたしにしてくれ。細かいことは、スー大佐が手配する。以上だ」
「承知いたしました」
……生物・化学兵器の研究施設だろうか。それは、あり得そうだ。万が一事故が発生しても、キファリアなら隠蔽も楽だろうし、中国人民への被害もない。実験動物などの調達も楽だろう。
ま、行ってみれば判ることだ。
アリシアは一礼すると退出しようとした。
「そうそう、前回の任務に関して、ちょっと話しておこうか」
カオ少将が、立ち去りかけたアリシアの背中に声を掛ける。
「前回の任務ですか」
アリシアはその場で振り返った。
「色々不審に思っているはずだからな。あの作戦、君の知名度が必要だったのだよ」
吸い終わった中華を瑪瑙の灰皿でもみ消しながら、カオ少将が言った。
……知名度。やはり、何らかの囮だったのか。
カオ少将のデスクに正対しながら、アリシアは自分の推測が当たっていたことを悟った。
「公安部が、ワン・ズーハオの正体を暴き、手配したのは知っているな。その後、WZは行方をくらました。しばらくして、自由天使がWZの日本への亡命を画策しているという情報が入った。その直後、連雲港市公安局が当地で麻薬取り締まりを行った際、他の容疑者と共に一人の女性を拘束した。尋問の結果、これがワン・ズーハオを名乗っていた人物だと判明した」
……WZをすでに拘束していた?
アリシアは少しばかり混乱したままカオ少将の顔を見つめた。
「WZは合衆国への亡命を意図して、すでにCIAとインターネットを通じて接触を図っていた。公安に嗅ぎ付けられることを警戒し、自由天使との連絡は極力行っていないことも判った。公安部は賢明にも、WZ逮捕を公表せずに国家安全部、中央統一戦線工作部、それに我が部に連絡して来た。わたしはすぐに、この件を我々が管理できるように手配した。利用できる、と踏んでね」
「利用ですか」
「ワン・ズーハオは謎の人物だ。素顔を知る者は、自由天使内部でも数名しかいないと言われている。この時点では、CIAも顔はもちろん本名さえ知らなかったのだ」
アリシアは卒然と理解した。
「替え玉ですか?」
「そうだ。都合の良いことに、合衆国への潜入を目的として若い工作員を何人か集中訓練中だったのだが、そのうちの一人が、ワン・ズーハオに年齢、体格、容姿などがよく似ていたのだ。彼女をWZの尋問に参加させ、さらに同房で起居させて、その特徴を掴むように命じた。処刑の脅しが効いたのか、ズーハオは協力的だったよ。その後、彼女を連雲港市に派遣してCIAとの接触を再開させた。自由天使にこの作戦を悟られないためには、こちらがWZをいまだに追っていることを強調する必要があった。そこで、知名度のある君を起用し、自由天使が放った日本亡命を意図していると称している囮に喰らい付かせたわけだ」
……監視に留めて、逮捕に踏み切らせなかった理由はこれか。ウランバートルで派手に動いて各国の情報機関に存在を見せつけるように命じられたのも、これが理由なのだ。こちらが囮に喰い付いていることをCIAに見せつければ、替え玉の正体もばれにくくなるし、日本の情報当局や自由天使も騙せる。
「すでに、ワン・ズーハオに成りすました工作員はは合衆国本土入りしている。所在は不明だが、いずれ連絡があるだろう」
カオ少将が、中華の箱に手を伸ばした。
「彼女が上手く立ち回れば、自由天使の組織に関する情報が手に入る。CIAと合衆国政府の信頼を勝ち取れれば、合衆国の対中政策に影響力を及ぼすことも可能だろう。今の処、作戦は大成功と言える。君は損な役回りだったが、よくやってくれた」
「それは、間違いないようですね」
アリシアは無感動に言った。
銀行から出てきたマイクは、近くにあったカフェに入った。
ササキは後金一万五千USドルと、追加料金一万USドルをきっちりと振り込んでくれていた。さらに、必要経費名目で要求していた五千ドルも振り込んでくれた。マイクはこの五千ドルを、そっくりそのままテムレーンの息子がウランバートルに開設してあるハーン銀行の口座に振り込んでおいた。師匠の案内と馬がなければ、とても国境までたどり着けなかっただろう。このくらいの礼は、当然である。
……俺でなければ、達成できなかった困難な任務だったな。
コーヒーを楽しみながら、マイクは自画自賛した。
連絡係に使っている男から、すでに次のオファーが来ているという報せも入っている。優秀な傭兵は、休息とは無縁なのだ。
今回も、俺は上手くやった。それは、間違いない。
マイクはコーヒーを飲み干すと、香港の雑踏の中に消えた。
「いやぁ、楽しかったよ」
ゲルの外に出した椅子に座り、のんびりとバター入りのツァイを飲みながら、テムレーンは妻に語った。
農場に戻ったあと、テムレーンはモンゴル警察の事情聴取を受けた。テムレーンは、『金を貰って、馬のレンタルと案内を頼まれた。中国人は観光客だと名乗っていた。目的は乗馬による小旅行で、国境付近まで行くとは聞いていなかった』と主張し、証拠としてあらかじめ用意してあった百万トゥグルグの札束……モンゴルでは、約一か月分の収入に相当する……を差し出した。
リュイ……偽物ワン・ズーメンが、ウランバートル国際空港で短時間行われたモンゴル側の簡易な取り調べの際に、同様の 作り話をしてくれたこともあり、テムレーンの一連の行為は犯罪とは看做されず、厳重注意だけで解放された。この処置には、モンゴル人の中国人嫌いも多分に影響していた。つまり、中国人に騙されたうえに中国人らの追跡に巻き込まれた気の毒なモンゴルの老人、と思われて同情されたわけである。同様に、テムレーンの妻も無関係として一切お咎めはなかった。ただし、礼金の百万トゥグルグ……元はテムレーンのへそくりだったが……はモンゴル警察に『証拠品』名目で没収された。
「お前らもよくやったぞ」
テムレーンは、サルとボルの頭を交互に撫でた。
すでに、ウランバートルに住む息子から、銀行口座に謎の入金があったという報せは受けていた。もちろん、マイクが気を遣って送金してくれたのであろう。これでへそくりは元通りになるし、農場運営のための資金も潤沢となった。
「マイクには感謝しなければならんな。まあ、自分で言うのもなんだがうまくやったよ。それは、間違いない」
テムレーンは、妻が注ぎ足してくれたバター茶を、満足げに啜った。
アメリカ合衆国モンタナ州。
州名の語源はスペイン語の『山』に由来する。その名の通り、全体の約四割はロッキーを始めとする山地山脈が占めており、全米五十州の中でもはっきりと『田舎』呼ばわりされる州である。面積は日本よりも若干広いほどだが、その人口は百万人をわずかに超える程度である。
その西部、アイダホ州との州境に近いミズーラ郡に、フレンチタウンという小さな町がある。
町名は、最初の入植者がフランス系カナダ人であったことに由来する。マサチューセッツ州ボストンから、ワシントン州シアトルまでという、大西洋から太平洋まで北米大陸を横に貫く州間高速道路90……全長は実に三千マイルを超える……沿いにあり、南東すぐ近くにミズーラ国際空港があるので、交通の便は良い。
町の北側には、ベイマツやカラマツ、トウヒなどが密生している山地が広がっている。何本かの細い道路が、山腹を曲がりくねりながら、あるいはつづら折りを描きながら町から伸びており、その先には山荘風の建物が散在していた。東部や中西部で財を成した人々が、リタイヤ後に購入して住むのに適した不動産である。
そんな道路のひとつ、クラリッサ・レーンと名付けられた一本の道は、途中から大きくカーブを描き、釣り針のような形となっていた。チモト……釣り糸を結ぶ部分……には、道路を挟むように二軒の山荘があり、『かえし』の部分にも大きな山荘風建物が二軒建っている。その奥には、散策路じみた小道が迷路のように伸びており、小さなロッジ風の建物が数軒散らばっている。
一見、何の変哲もない別荘地か山間の住宅地だが、ここは周辺の土地も含め、CIAのダミー会社が所有している。いわゆる、セーフハウスなのだ。チモトにある建物は、いわばゲートハウスであり、警備要員と警備ロボットが詰めている。『かえし』にある一棟は管理棟で、警備本部が置かれているのもここだ。もう一棟はメインのセーフハウスで、極秘会談や新人研修などに利用される。奥にあるロッジ群は各戸が孤立しており、主に保護が必要な人物を匿うために使われている。
警備は厳重を極める。敷地は三重のセンサー・ラインに囲まれており、地上からの侵入はまず不可能だ。武装要員は十名が詰めているだけだが、M240汎用機関銃で武装したヘルソン・ロボティクスのHR‐2000四体がおり、常に二体が山林に潜んで警戒に当たっている。まず使う機会は訪れないはずだが、ゲートハウスの武器庫にはM136(AT‐4)無反動砲やFIM‐92スティンガー地対空ミサイルが収まっている。
コリン・ヘイルはCIAの元現場工作員である。
二十年以上に渡って、東アジアで極秘任務に携わっていたが、数年前についに中国当局に正体がばれてしまい、アジアを追われることになった。すでに五十歳近かったし、いまさらスペイン語を覚えて中南米で働く、という気にもなれなかったので、上司の勧めもあり新人教育係兼通訳、という閑職に就いている。
山荘の一軒で、コリンは相棒のロニーと一緒に昼食を採っていた。山荘には、最近中国本土から亡命してきた若い女性がおり、コリンはその通訳としてここに相棒と一緒に住み込んでいるのだ。一応護衛も兼ねているので、ショルダーホルスターには愛用のブローニング・ハイパワーが収まっている。一方、ロニーが携行しているのは、支給品のグロック22…….40S&Wモデル……だ。
相棒のロニーはまだ若く、語学力も実力も現場工作員として働くには未熟なので、コリンの助手を務めながら教育を受けている最中である。ちょっと人が好過ぎる嫌いがあるが、物覚えの速いこの若者を、コリンは気に入っていた。将来台湾か韓国で経験を積ませれば、いずれ中国本土で活動できるくらいにはなるだろう。そうコリンは確信していた。
昼食のメニューは、白飯に掛けたチャプスイ(中華餡かけ)、春巻、小籠包であった。料理人兼世話係の女性が作れる中華料理は、パンダエクスプレス(米国の中華ファミレスチェーン)で出されるアメリカン・チャイニーズと似たようなレベルなので、今日の昼食も手作りはチャプスイだけで、春巻と小籠包は中国製の冷凍食品を用いている。ロニーは食べながら、その冷凍食品が入っていたパッケージを中国語の勉強のために読んでいた。いささか行儀が悪いが、勉強熱心なのは良いことである。
「ねえ、コリン。これ、なんて読むんでしたっけ」
パッケージの『成份』の処を読んでいたロニーが、訊く。
「『インセクト』に『アンダー』です」
「『虾』(シァ)だな」
「何の意味でしたっけ?」
「シュリンプだな」
春巻をかじりながら、コリンは答えた。
「……シュリンプって。たしか、シュリンプとクラブは……」
唖然とした表情で、ロニーが言う。
コリンの顔色がさっと変わった。
「まずい! ヘスターを呼べ! ホロウェイにも連絡だ!」
コリンは箸を放り出すと立ち上がった。
第二十話をお届けします。




