第一話
中央アメリカ サンタ・アナ共和国 サンタ・アナ市
スサナが初めて見る夜の首都は、とってもきらびやかだった。
広い大通りをまばゆい白色で照らし出す街灯。前を行く車のテールランプの赤い列と、対向車の黄色味を帯びたヘッドライト。まるで夜空に行儀よく浮かんでいる矩形の月たちのようにも思える、遠方に見えるオフィスビルの、高層階の窓。
商業地区に入ると、そのきらびやかさはさらに増した。点滅を繰り返す、色とりどりのネオンサイン。ライトアップされたショーウィンドー。ホテルのファサードから漏れる暖かみのある黄色い光は、通りの反対側までをも明るく照らし出している。
スサナが生まれ育った貧しい村に比べれば、首都サンタ・アナ市はまるでお伽の国のようであった。
……スサナの眼に映った限りでは。
闇は多くの醜いものを覆い隠していた。スサナが乗るシボレー・アストロが走る通りから数ブロック北へ離れたところは貧民街で、トタン板と合板、それにビニールシートで形作られた簡易な小屋が建ち並んでいたし、その周囲には悪臭を放つ塵芥と汚物が積み重なった円錐が小山脈を形成している。首都の目抜き通りにも関わらず、街灯は五本に一本くらいの割合で故障しており、暗いままに放置されている。路面も荒れており、ひび割れているくらいはいい方で、たまに浅いが大きな穴が開いているので、運転しているエミディオがそのたびにハンドルを小刻みに動かしてこれを避けている。
この国に慣れているスサナは気付かなかったが、他の安全な国から来た者ならば、すぐにこの都市の治安の悪さを悟ったことだろう。明るい光を歩道に投げかけているショーウィンドーは、いずれも無粋かつ頑丈な鉄格子に守られていたし、商店や雑居ビルの一階部分に設けられた窓も同様に鉄格子に覆われている。通用口は二重構造で、溶断トーチ持参でも容易にこじ開けられないようなごつい錠前が付いている。首都の目抜き通りのひとつであり、そのうえまだ宵の口だというのに、歩道を歩んでいる者はほとんどおらず、たまに見かけてもまず例外なく危なげな雰囲気を発散させている若者グループだけだ。先進国の都市ならば、洒落た制服に身を包んだドアマンが立っているはずのホテルのファサードも、この都市ではショットガンを携えた警備員の姿しかない。
通りを一本隔てた南側には、高級住宅街が広がっているが、広い庭を備えた邸宅のすべてが、刑務所のような高く丈夫なコンクリート塀に囲まれていた。塀の上には、侵入者を防ぐ埋め込みガラス片と有刺鉄線がもれなく付属している。そして庭を徘徊している犬は愛玩用ではなく、訓練されたガードドッグばかりである。
そんな典型的な治安の悪い発展途上国の首都、サンタ・アナ市も、世間知らずのスサナの目には夢のような大都会であった。
「時間は?」
視線を前方に固定し、制限速度を守る慎重な運転を続けたまま、エミディオが訊いた。
「十七分二十秒前」
助手席に座るスサナは、腕にはめた台湾製の安物デジタルウォッチに眼を落とすと、短くそう答えた。
浅黒い肌の丸顔と、黒目黒髪。ここサンタ・アナ共和国では人口のほぼ八割を占める、メスティーソの容貌だ。まだ年齢は十六歳なので、色香には乏しいが、大きな眼と細く形の良い眉が印象的な、かなり整った顔立ちをしている。
「予定通りだな」
エミディオが、髭に覆われた口元を微笑みでわずかにゆがめつつ言った。スサナは、わずかのあいだそのハンサムな横顔に見とれた。ウェーブした長めの黒髪。太く目立つ眉と、鋭さを感じさせるすっきりとした目元。人種的にはメスティーソだが、彫りが深く一見すると生粋のラティーノのようにも見える。
「このまま行くぞ。最終チェックをしておけ」
続けて、エミディオが言う。スサナはうなずくと、ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、電源が入っていることを確かめた。次いで、シャツの胸ポケットに偽造IDカードが入っていることも確かめる。着ている服は、薄手の水色のシャツとズボンで、日本料理店のデリバリースタッフの制服を模倣したものだ。運転するエミディオも、同様の制服を身につけている。乗っているバンの側面には、筆で書いたかのような筆勢のある字体で、『Kamakura』と赤く書いてある。
同じロゴは、スサナが着ている制服の左胸のあたりにも付いていた。自分の制服姿を意識して、スサナはちょっと誇らしげな気分になった。助手席にスサナを座らせるか、同じ村出身で同い年のルシアを座らせるかで揉めたことがあったが、最終的にリーダーであるエミディオが選んだのは、スサナであったのだ。後日、エミディオがこっそりと告げてくれたその理由は、『お前の方がルシアより品がある。高級レストランのデリバリースタッフらしく見える』と、『お前の方が戦士としては優秀』のふたつだった。
戦士としてエミディオに高く評価されている……そして、おそらくは容姿についても。
スサナは誇らしかった。
エミディオが運転するシボレー・アストロは、トレホン通りに面した小公園の脇にいったん停車した。ここで時間調整を行い、移動中の不測の事態に備えた予備時間を潰す手筈になっている。
三分ほど経ったところで、スサナの制服の胸ポケットの携帯電話が鳴り出した。彼女は素早くそれを取り出し、耳に当てた。
「スィー?」
「こちらクコ。トラブルだ。まだアギラが巣に入らない」
アルゼンチン大使館そばで待機するロレンソの、低い声がそう告げた。スサナはそっくりそのままを口にして、エミディオに伝えた。
「まずいな」
エミディオが、控えめに舌打ちする。
「延期しますか?」
スサナは、遠慮がちにそう問いかけた。平静な声音を保ったつもりだったが、声に不安げな色が混ざってしまう。
「他の大使の状況を訊け」
エミディオが、スサナに命じた。
「他の鳥は?」
「アロントラもパロマもカナリオも入った。グルジャはもちろん巣の中だ。主な鳥はすべて巣に入った。アギラだけは、まだだ」
スサナの問いに、電話の向こうのロレンソが答える。
スサナは落ち着かぬ表情でエミディオの横顔を見上げた。アギラ……鷲は、アメリカ大使に付与された符号だ。一番の大物が人質にできないとなると、この作戦は失敗するかも知れない。
「スサナ、時間は?」
急にエミディオに問われ、スサナは慌てて腕時計に眼をやった。
「あと八分十秒」
「決行する」
数秒のためらいののち、エミディオが緊張を帯びた声で言い切った。
「大丈夫でしょうか?」
「アメリカ人が、なにか感付いたのかもしれん。ならば、突入を遅らせるのは危険だ。強行しよう。スサナ、合図だ」
うなずいたスサナは、繋ぎっぱなしだった携帯電話に呼びかけた。
「クコ、予定通り卵を割れ」
「了解」
通話が、切れた。
「よし、計画通り五分前に車を出すぞ」
エミディオが、ちらりと横に視線を走らせ、スサナに微笑みかけた。
スサナは動悸が高まるのを覚えた。作戦前の緊張のためか、それともエミディオの笑顔のためか。
車内に緊張感を漂わせたまま、シボレー・アストロは光量の足りない街灯に照らされながらアイドリングを続けた。時折、他の車がトレホン通りを駆け抜けてゆくが、公園や歩道にはまったく人影がない。
時刻はサンタ・アナ標準時で午後八時四十八分。日付は十二月二十三日のことであった。
クレト・ロケ警部補はつい三時間ほど前まで機嫌が悪かった。
本来ならば、今日は午後から非番であったのだ。今頃は、家でビール片手にテレビでサッカー観戦をしていられるはずだったのだが、病気になった同僚の代わりに、この任務を押し付けられてしまったのだ。日本大使館の、裏門警備の指揮という面白くもない任務を。
「まだ表門の方がましだったな」
ロケ警部補は、傍らで立つスアレス巡査長にそう愚痴った。日本のエンペラドールの誕生日ということでパーティが開かれており、サンタ・アナ政府要人や財界人、各国の大使などが集まっているのだ。表門の警備であれば、芸能人や有名サッカー選手などがやってくるところを見物できたかもしれない。
「そうですね」
気のない様子で、スアレス巡査長が応じた。水色の半袖シャツに、紺色のズボンという、公安警察官の制服。肩には、M‐16A1突撃銃を掛けている。ここサンタ・アナは気候的には亜熱帯に属しており、北半球の12月後半だというのに日中の気温は軽く三十度を越えてしまう。日が暮れれば気温は下がるが、明け方ですら二十度以下になることは稀だ。今は乾季なので、湿度もほどほどに抑えられており、半袖シャツ姿でも快適である。
裏門は、ごくありきたりの造りであった。門の幅は、約三メートル。左右は、安っぽい鉄筋コンクリート製の四角柱でしかない門柱で、それぞれコンクリート製の、三メートルの高さがある塀に繋がっている。門扉自体は頑丈な鋼鉄製で、大型トレーラーが突っ込んできても阻止できそうなくらいの強度と重量がある。
あたりは真昼のように明るかった。破損防止の金網を被せたライトが、死角が生じないような角度に配置され、充分な光量を注いでいたのだ。
「おっと、またあのセニョリータのお出ましですよ」
スアレス巡査長が、ロケ警部補の脇腹を肱でつついた。
女性としては背の高い、二十代半ばくらいの女性が構内から歩み寄ってくるところであった。濃い茶色の長いストレートヘアーと、すらりと長い手足。アフリカ系の血が入っているらしい褐色の肌と、目鼻立ちが整った面長の顔。薄手のビジネススーツの下に着込んでいるブラウスの胸部は、思わず見とれてしまいそうなほどの膨らみ方だ。
ロケ警部補の機嫌の悪さは、彼女のおかげで相当に緩和されていた。日本大使館の現地スタッフである彼女は、先ほどから何かとロケ警部補らに気を遣ってくれていたのだ。何度も不都合はないかと訪ねてきてくれたし、二回もコーヒーと菓子を持ってきてくれた。
「こんばんわ、みなさん」
女性が、にこやかに微笑みつつロケ警部補の前に立った。
「大使館が追加注文した料理と食材が、あと数分で届くそうです。通常の手続きを行って、入構させて下さい」
「お任せ下さい、セニョリータ」
ロケ警部補もにこやかに応じた。
「お客様が予定より多くなって、少し料理が足りなくなってしまったんです。申し訳ありませんが、なるべく早く通してあげてくださいね」
焦げ茶色の眉を少しばかり吊り上げながら、女性が言う。ロケ警部補は、速やかに通すと請合った。安堵した表情を見せた女性が、親しげに小さく手を振って去ってゆく。
「あの娘、警部補に気があるんじゃないですか?」
その後ろ姿を見送りながら、スアレス巡査長がそんなことを言う。
「馬鹿な」
ロケ警部補は笑った。突き出た腹にすっかり広くなってしまった額。こんな中年男に好意を寄せてくれる女性は、同じように腹の突き出た女房か、マリア様のご加護で奇跡的に美人に育ってくれた愛娘くらいしかいない。
ほどなく、裏門のある路地に表通りから一台のバンが入ってきた。一瞬緊張したロケ警部補だったが、バンの側面に見覚えのある日本料理店のロゴが入っているのを見て緊張を緩めた。現地スタッフの女性が言っていた、追加注文の品を運んできた車だろう。同じようなバンは、パーティが始まる前から何回も出入りしている。
門前で、バンが停まった。運転していたのは、髭面の若者だ。その隣には、まだ少女と言えるほどの年齢のスタッフが、ちんまりと座っている。
運転手が、愛想のいい笑みを浮かべて窓から顔を突き出す。
「『カマクラ』です。追加注文の品をお届けにあがりました」
「ごくろうさん。一応、調べさせてもらうぞ。降りてくれ」
ロケ警部補は、控えていた部下に運転手と少女を調べさせた。政府発行のIDをチェックし、さらに武器の有無も調べる。少女のボディチェックは、女性巡査が行った。
「異常無しです」
見守っていたスアレス巡査長が、そう報告する。
「よし。荷物室を開けろ」
ロケ警部補は、運転手の青年に命じた。運転席のチェックをスアレス巡査長に任せ、巡査一人を引き連れてバンの後部にまわる。
運転手が、観音開きの後部ドアを開けた。ロケ警部補は、中に頭を突っ込んだ。ハンドライトを点灯し、調べ始める。
大きな金属のバットには、寿司が行儀よく並べられていた。プラスチックのケースには、緑色をしたライスワインの瓶が六本入っている。別のバットの中には、生魚が数匹。車内には、生臭い匂いと、酢の匂いが濃厚にこもっていた。
片隅には、大きな業務用の缶詰が二個あった。ラベルには、羊歯植物のような葉の絵と、日本の文字が書かれている。
「なんだ、これは?」
「海草の缶詰ですよ」
肩越しに覗き込んできた運転手が、言った。
「日本人はこれが大好きですからね。スープに入れたり、寿司の付け合せに使うんです」
一声唸ると……海の中でゆらゆらと揺れているぬめぬめとした海草を好んで食べるなんて、酔狂な連中だ……ロケ警部補は車内のチェックを続けた。重い缶詰もいちいち手に取り、開封した跡がないかを確かめる。……問題なし。
ロケ警部補は天井や床にもライトの光を当てた。人間が隠れられるような隙間はなさそうだ。爆発物や軽火器くらいなら、隠せるかもしれないが、そこまで詳しく調べるには解体業者が必要だろう。念のため、拳で叩いてみたが、異常はなさそうだった。
「いいだろう、行っていいぞ」
ロケ警部補は、運転手にそう告げた。
スサナは感謝の笑みを、中年の警部補に向けた。
運転席に乗り込んだエミディオが、アクセルをゆっくりと踏み込む。シボレー・アストロは、静かに日本大使館構内に入った。
「第一段階は成功だな。予定通りいくぞ」
エミディオが、言う。
バンは日本大使館本棟の北側中央あたりにある通用口までの短い距離を低速で走った。右手には、隣地との境界である高いコンクリート塀が聳え立っている。
ヘッドライトの中に、ビジネススーツを着た長い髪の美女の姿が浮かび上がった。イネスだ。
エミディオが通用口前で車を停める。スサナは素早く降りた。後部にまわり、バンから海草の缶詰二つと大きな缶切りを持ち出す。
缶切りをポケットに入れ、重い缶詰を身体の左右に抱え込んだスサナは、姿を消すタイミングを図った。イネスが通用口の警備……日本大使館が雇っている現地人の警備員……の注意を引いているあいだに、通用口西側の塀際にある茂みの中に潜り込む。エミディオが荷降ろしの振りをしながらわざと立てている大きな音を聞きながら、スサナは一つ目の缶を缶切りで開け始めた。通用口の外には照明灯が設置されているので、細かい作業を行うには困らない程度の明るさはある。スサナは缶蓋を押し上げると、中から詰め物と『品物』をすべて取り出した。
ルーマニア製M74自動拳銃四丁と、予備弾倉四個。ビニール袋に入った32口径拳銃弾四十八発。さらに、RGD‐5破片手榴弾二個。もうひとつの缶も開け、同じ『品物』を取り出す。
すべてを芝草の上に並べたスサナは、弾倉に実弾を込め始めた。
いきなり、爆発が起こった。
ロケ警部補は反射的にホルスターから拳銃……かなりガタが来ている愛用のオフィシャル・ポリスを抜いた。部下たちも、M‐16を構え、爆発が起こった方向に銃口を向けている。
爆発は、路地を挟んで北側にあるアルゼンチン大使館で起きたようだった。おそらく、正門の方だろう。怒号に混じって、小火器の発砲音もする。
と、北から路地を走ってくる数名の姿が、ロケ警部補の眼に入った。いったんはそれら人影に拳銃の狙いをつけたロケ警部補だったが、武装していないことを見て取ると銃口を逸らした。部下にも、発砲するなと命ずる。
走ってきたのは五人だった。スーツ姿が一人、武官の制服のようなものを着た者が一人。ワイシャツ姿が二人。残る一人は、ミニドレスを着た少女だった。……頭部を負傷したのか、顔の半分が血だらけで、制服姿の若い男性に半ば抱えられるようにして走っている。
「助けてくれ! ゲリラに襲撃された!」
スーツ姿が、叫んだ。
……アルゼンチン人か。
ロケ警部補は、そう確信した。中南米広しといえども、これほど無駄な抑揚の多い、珍妙なスペイン語を話す連中は、他にいない。
「中に入れ!」
ロケ警部補は、手招いた。同時に、傍らに立つスアレス巡査長にささやく。
「油断するな。ボディチェックは怠るなよ」
今日のロケ警部補の任務は、この裏門の警備なのだ。日本大使館内に怪しげな人物を入れるわけにはいかない。
スアレス巡査長と部下が、門内で保護した五人を詳しく調べる。全員、危ないものは一切所持していなかった。ロケ警部補は、安堵しつつ無線で警備本部に事の顛末を報告した。怪我をしている少女のために、救急車も要請する。
「大使閣下はここのパーティに出席されている。報告しなければ」
スーツ姿のアルゼンチン人が、そう言って大使館の建物の方へと走り出す。
「待って下さい!」
スアレス巡査長が止めようとしたが、間に合わなかった。アルゼンチン人が、闇の中へと消える。
ロレンソが走ってくるのを見つけたスサナは、ひゅっと鋭く口笛を吹いた。
すぐに、ロレンソが茂みの中に潜り込んできた。芝草の上に並べられているM74自動拳銃と予備弾倉、それに手榴弾を見て、細面の顔に冷たい感じの笑みを浮かべる。
「よくやった、スサナ」
ロレンソが、スーツとズボンのポケットに拳銃と予備弾倉を詰め込み始めた。スサナも、自分の制服のポケットに三丁の拳銃と三個の予備弾倉を詰め込む。スサナ自身と、エミディオ、イネスの分だ。二個の手榴弾は、小さな紙袋に突っ込む。
八人の同志が、無事に日本大使館内に侵入した。あと数分で、全員が武装することになる。
mission02第一話をお届けします。




