第十六話
Mi‐17が、高度を落としてゆく。アルタグ中尉らが見つけておいた比較的乾いた平地に、主脚がバウンドしながら接した。枯れたハナゴケの欠片が、ダウンウォッシュで吹き散らされる。
アリシアは腕時計を確認しながらそれに歩み寄った。ヘリが給油のために引き返してから、既に三時間経過している。
全員が乗り込むと、メンドバヤル機長がさっそくMi‐17を離陸させた。コックピットに入ったアルタグ中尉が、次の着陸予定地点を示した地図を、バルドルジ少尉に渡す。
ヘリコプターが戻ってくるあいだに、アリシアとアルタグ中尉が立てた作戦は単純なものであった。Mi‐17でズーハオらを追い越し、待ち伏せするというものだ。山間部なので、馬が通行できるルートは限られている。適切な場所で待ち受けていれば、必ず網に掛かるはずだ。
問題は二つあった。一つは、予想ルートを一本に絞り切れなかったことだ。東側のルートは最短距離に近いが高低差が激しく、西側のルートは遠回りとなるが比較的楽な道となる。ズーハオらがどちらを選択するか、現状では判断が難しい。結果として、アリシアらは戦力を二分することを余儀なくされた。
もう一つの問題は、犬対策であった。駄犬ならともかく、訓練された猟犬なら人間が気付く前に待ち伏せを察知するだろう。これには、遠距離射撃が可能な開けた場所で待ち受けることで対処することになった。
わずか数分の飛行で、Mi‐17は高度を下げた。東側の、待ち伏せ地点近くの谷間に低速で侵入する。着陸できるだけの余地はないので、アルタグ中尉とその部下五名はファストロープで降下した。ロープが回収されると、すぐにMi‐17は谷間を離れた。
二分ほど西へと飛行したMi‐17は、低い尾根にあるバスケットボールコートほどの平地で、超低空ホバリングに入った。飛び降りたアルタグ中尉の部下二名が、素早く地面を調べて着陸に支障がないことを確認し、異常無しのハンドサインを出す。メンドバヤル大尉がふわりとMi‐17を接地させると、すぐにクラッチを切り、次いでターボシャフトエンジンも停止させた。
ここが、西側の待ち伏せ地点対応要員の降機地点兼Mi‐17待機地点となる。イフバヤル少尉と三名の部下が降りると、アリシアもコンとツァオを連れてヘリを降りた。中国人組はさすがにファストロープまでは出来ないので、全員がイフバヤル少尉組に振り分けられている。
イフバヤル少尉が地図を参照し、地形を確認すると一同はすぐに出発した。待ち伏せ地点までは、開けた緩い斜面を下る一キロメートルほどの山歩きとなる。武装はイフバヤル少尉と二名がAKMS、一名がRPK。アリシアとツァオが77式手槍、コンが92式手槍である。
先導するイフバヤル少尉らに追いつくために、アリシアたちは小走りを余儀なくされた。モンゴル人たちはやはりプロであった。急いでいながらも、周囲の警戒は怠っていない。時折一人が立ち止まり、全員を通過させてから背後の気配を探り、追尾されていないことを確認している。……こんな山中に、敵どころか人すら居ないはずだが、無駄と知りつつ基本を崩さず、疎かにしないのがプロなのである。
アリシアはちらりと空を見上げた。相変わらずの好天で、雲はひとつも見えない。さしもの彼女も、この状況が低軌道から盗み見られていることには思いが至らなかった。
デジタルカメラの登場が、スチールカメラに革命をもたらしたことは、よく知られている。
一般的なフィルム式カメラが使用するネガフィルムは、その多くが二十四枚撮り、三十六枚撮り程度であった。つまり、それだけの回数シャッターを押したら、新しいフィルムに交換しない限り、次の写真は撮影できなかったのである。多数の写真を撮ろうとする者は予備のフィルムを何本も持っていなければならなかったし、フィルム代や現像代に使えるお金が制限されている者……例えば、お小遣いを貯めてようやく愛機を手に入れた学生など……は、撮影を失敗しないために何度も絞りやシャッタースピードを確認し、慎重に構図やピントを調整してから、シャッターを押したものだ。
デジタルカメラの普及で、すべてが変わった。バッテリーの状況にもよるが、安物のカメラでさえ数百枚が撮影可能。失敗した画像は、メモリーから随時消去できる。フィルム残数や現像代などいちいち気にせずに、ばしゃばしゃと撮るという、『乱暴』な使い方が可能となったのだ。
写真偵察衛星の運用も、デジタル化で大きく変わった。以前の衛星は、撮影に写真フィルムを使っており、撮影枚数も有限であり、しかもフィルムは再突入カプセルを用いて地上で回収する必要があった。かつて合衆国が運用していた『ヘキサゴン』……KH‐9の名でも知られている……の場合、標準的再突入カプセルの数はわずか四機である。数か月に及ぶ運用期間中、たったの四回しか撮影済みフィルムを回収できなかったのだ。
しかし、デジタル化ですべてが変わった。撮影枚数は実質的に無限大。軌道上の通信衛星を介してデジタルデータを送信することにより、撮影直後の写真を管制センターで入手することが可能だ。フィルム式なら大惨事となる撮影失敗も、デジタルならあっさりと撮り直すだけでいい。以前のフィルム式ならば、最重要な対象しか撮影できなかったが、今はたいして価値のない目標でも、念のために撮影しておくことが可能だ。
そんなわけで、モンゴル上空を通過したNROの写真偵察衛星……KH‐12と世間では呼ばれている……が撮影した写真は、実に数百枚に及んだ。優先度の低い要請だったので、分析は一人の下級分析官の仕事となった。彼はすべてのデータをフィルタリングプログラムにぶち込んだ。これは、写真を解析して、その中から人工物や異常な現象……例えば、上がっている煙や砂埃、船舶などの航跡などを検出し、写真(といっても液晶ディスプレイ上に映し出されるだけだが)にマークをつけるというプログラムである。同時に赤外画像を参照させることで……可視光では見分けのつかない自然物と人工物も、赤外領域だとはっきりと区別できることが多い……かなりの精度をもってえり分けることが可能になり、分析官の負担を減らすことが出来る。
分析が終了すると、下級分析官はプログラムがマークした部分を自動拡大にセットして、一つずつチェックしていった。AIを使っても、多数の誤検知があった。真円に近い池、白っぽい直線に見える崖、カムフラージュした戦闘車両に見える長方形の藪などなど。
作業が終わると、下級分析官の手元には八枚の画像が残った。正体不明の煙が二か所。歩行中の人物……いずれも単独……が二人。馬に乗った人物が一人。
「こいつらは怪しいな」
残りの三枚を、下級分析官はディスプレイに表示させた。一目で駐機中のヒップ・ヘリコプターだと判る物体が映っている一枚。そこから五百メートルと離れていない処を一列となって歩んでいる、おそらく七名と思われる人々。その南方で、馬に乗って移動中の二人。こちらはずいぶんと小柄に見えるので、子供かもしれない。
下級分析官は、八枚の写真に簡単な説明を付けると、メモを添付して上司のパソコンに転送した。
待ち伏せ予定地点に到着したアルタグ中尉は、まず地形を確認した。
地図を取り出し、現実の地形と頭の中に描いていたイメージを一致させ、作戦計画に微調整を加える。
「よし。曹長、ツェレンバトを連れてこの位置に隠れろ。目標の退路を断つんだ。軍曹、アナールと尾根に登れ。狙撃できる位置を確保しろ。ムンフバタールと俺はここで待機」
アルタグ中尉は、地図と実際の地形を指し示しながら、部下に命じた。
待ち伏せ地点は、ほぼ南北方向に延びている長さ五百メートルほどの谷間であった。東側は急斜面で、そちらに逃げ場はない。西側もモンゴルマツに覆われた斜面で、人間は登れるが馬は無理だ。尾根の上には、ウルスボルド軍曹とアナール二等兵が待ち受けるので、こちらにも逃げ場はない。
南側は、ジャルガル曹長と、RPK射手のツェレンバト一等兵が塞ぐ。北側は、アルタグ中尉とムンフバタール伍長の担当である。囲まれた目標は、西側にあるモンゴルマツ林の中に入って抵抗するしか手はない。火力で劣る上に、逃げ場がないと知れば、降伏するだろう。
前方の茂みが、がさごそと揺れる。
「おっ!」
シオは馬を止めると、マカロフ自動拳銃を抜いた。後続するベルも馬を止め、モシン・ナガンを構える。
茂みからひょっこりと顔を覗かせたのは、犬であった。銀色の毛並み。サルだ。
「迎えに来てくれたのでありますか?」
マカロフをポーチに仕舞ったシオは、そう呼び掛けた。茂みからごそごそと這い出して来たサルが、それに応えずにモンゴル馬に歩み寄り、脚の臭いをくんくんと嗅ぐ。
ベルの乗る馬の臭いも嗅いだサルが、シオをじっと見つめてから、すたすたと歩きだした。十メートルほど行ったところで立ち止まり、こちらを振り返る。
「テムレーンさんの処に、案内してくれるようですねぇ~」
ベルが嬉しそうに言う。
「では、案内を頼むのであります!」
シオはそう言って、手綱を引いて馬に合図を送った。
サルの案内のおかげで、約二十分後にシオとベルはテムレーンたちと再会合流した。
「皆さんお怪我も無いようで、良かったのであります!」
シオは元気よく言った。
「お前たちもな」
マイクが、嬉しそうに言う。
「彼らのおかげで助かったわね」
ズーメンが手を伸ばし、自分の馬の首を撫でた。
「お馬さんが活躍したのですかぁ~?」
ベルが、訊く。
「いや、活躍した訳じゃない。むしろ、盾になってくれた、というところだな」
マイクが、なぜモンゴル兵士が積極的に撃ってこなかったかを、説明する。
「なるほど! 馬を愛するあまり撃てなかったわけですね! これは覚えておきましょう!」
シオは喜んだ。これを上手く利用すれば、武器が心許なくとも切り抜けてゆけるかもしれない。
「マイクさん、これをお返ししますぅ~」
ベルが、背負っていたモシン・ナガンをマイクに渡そうとした。
「いや、それはお前さんが持っていろ。俺よりも、射撃は上手そうだからな」
マイクが受け取りを拒否し、ライフルをベルに押し返す。
「そうですかぁ~。ならば、わたくしが持ちますですぅ~」
ベルが、モシン・ナガンを背中に戻した。
「皆さん、これから先は敵の待ち伏せを警戒しなければいけないと思うのであります! 馬が通れるルートは限られているのであります! こちらの位置がばれてしまった以上、敵も進路を読んでくるはずなのであります!」
シオはそう主張した。
「でしょうね」
顔をしかめて、ズーメンが同意する。
「どうですか、師匠」
マイクが、地図を表示させたスマホをテムレーンに渡しながら訊く。
「この先、通れるルートは二通りしかないな。他のルートを辿れば、一日は余分に時間が掛かるぞ」
「……時間は掛けたくないですね」
マイクが、言う。
「犬に先導させて、警戒しながら行くしかないな。西回りで、ちょっと距離があるが平坦なルートにするか、東回りで斜面を登るが近道を行くか」
スマホの画面を皆に見せながら、テムレーンが説明した。
「西回りはどの程度遠回りなの?」
ズーメンが、訊いた。
「四時間は余分に掛かるな。暗くなる前に、平坦地に出れないかも知れない」
「そいつはまずいな」
マイクが、空を見上げた。まだ太陽は高い位置にいるが、そろそろ夜営のことも考慮して行動しなければいけない時間帯である。
「よし。東回りで行こう」
テムレーンが、決断した。
「中尉。こちらウルスボルドです。目標接近中」
アルタグ中尉の無線機に、尾根上で待機するウルスボルド軍曹からの通信が入る。
「来たか。送れ」
アルタグ中尉は、トランシーバー型の無線機のボリュームを絞り、耳に当てた。
「馬五頭。その前方に、犬がいます。アナールが双眼鏡で見ていますが、ろくな火器はないようです」
「よし、監視継続。曹長、傍受しているか?」
「はい。犬を避けて移動中です。通過後、待機位置に戻ります」
南側担当のジャルガル曹長から、即座に応答がある。
「よろしい」
「中尉、少尉が出ました」
ムンフバタール伍長が、小隊無線機の送受話器を差し出す。
「イフバヤル。目標はこちらに来た。ヘリに戻ってくれ。離陸はこちらの合図を待て。以上だ」
アルタグ中尉は、手短に告げて通話を一方的に切った。
サルとボルは、ジャルガル曹長とツェレンバト一等兵の臭いを嗅ぎ付けなかった。
モンゴル馬を連ねた一行は、モンゴル兵たちの待ち伏せに気付かぬまま南北に真っすぐ伸びる谷間に入った。ごろごろと転がる大小の石のあいだに丈の短い草が生えている。樹が生えていないのは、ろくに表土がないせいだろう。雨が降ると水が流れるので、表土を運び去ってしまうようだ。
「そろそろ罠を閉じるぞ。曹長?」
「待機位置に戻りました。目標は視界に入っています」
アルタグ中尉の問いかけに、ジャルガル曹長が即答する。
「軍曹?」
「こちらも目標を視界に捉えました。準備よし」
西側の尾根上に待機するウルスボルド軍曹が応じる。
「アルタグだ。少尉、ヘリを離陸させろ」
小隊無線機を通じ、アルタグ中尉はそう命じた。送受話器をムンフバタール伍長に返し、自分のAKMSをチェックする。弾倉はしっかりと嵌まっているし、セレクター兼ダストカバー兼安全装置も、『安全』の位置にある。
「各局へ。最初は降伏勧告を行う。抵抗された場合は射撃を許可するが、馬には当てるなよ」
携帯無線機でそう命じたアルタグ中尉は、ムンフバタール伍長に目を当てた。伍長が、うなずいて準備ができたことを告げる。
「援護しろ」
そう言い置いて、アルタグ中尉は立ち上がった。AKMSのセレクターを単射の位置に下げ、隠れ場所から小走りに出て、谷間の北側に向かい、南側に向き直る。
「モンゴル陸軍だ! そこで止まれ! 武器を捨てろ!」
AKMSを腰だめに構え、大声でアルタグ中尉は告げた。
第十六話をお届けします。




