第十四話
シオとベルは、その夜も交代で警戒を続けた。感心なことに二匹の犬……サルとボルも、交代で起きていて周囲を見回ってくれる。
とりあえず何事もなく無事に夜は過ぎ、夜明け前に三人の人間がごそごそと起き出す。気を利かせて夜のうちにシオが集めておいた薪に火が点けられ、これも気を利かせてベルが汲んでおいた沢の水が鍋で沸かされ、お茶が淹れられる。
簡単な朝食が済むと、すぐに馬に鞍が置かれた。東側の尾根から太陽が顔を出す前に、一行は出発した。先頭を行くテムレーンが沢筋を逸れ、本格的な『山登り』が始まる。
モンゴル馬が、生えているモンゴルマツを縫うようにしながら、なだらかな斜面をゆっくりと登ってゆく。地面は乾いたミズゴケにみっしりと覆われており、分厚い絨毯の上を歩いているかのようにふわふわとしている。時折生えている低木は、葉の形からするとツツジの一種のようだ。
徐々に高い位置に登ってゆく太陽に励まされるように、一行は着実に斜面を登って行った。数回の休憩を挟んで四時間後に、ようやく尾根の鞍部にたどり着く。
「よくやったぞ。一休みしよう」
鞍を降りたテムレーンが、馬の首を軽く叩いて労う。
馬に水を与え、お茶を沸かして休憩する。シオとベルは薄膜太陽電池シートを広げた。
「ここから先は少し楽ができるぞ。少し下ったら、台地に出る。午後遅くまでそこを進んで、谷筋に降りて寝るところを見つける。今日の行程は、そんなところだな」
慣れない手つきでスマホの地図を調べながら、テムレーンが言う。
「今のところは順調ね」
疲れた表情だが、明るい声でズーメンが言った。
放牧場に、轟音を纏いながらMi‐17が舞い降りた。
アルタグ中尉の部下たちが、あらかじめ家畜たちを遠ざけておいてくれたので、混乱は起きなかった。主脚が設置したのを見届けたアリシアは、コンとツァオを伴ってMi‐17に駆け寄った。無線を通じ、ヘリの搭乗員と簡単な打ち合わせは済ませてある。時間と燃料を節約するためには、すぐに乗り込まねばならない。
後部のクラムシェルドアが開き、ヘリコプターパイロット用のヘルメットを着けた空軍少尉が顔を見せた。アリシアは、機内に乗り込んだ。
「バルドルジ少尉であります。副操縦士です。大尉殿は中国語が苦手なので、わたしが通訳させていただきます」
モンゴル人には珍しい細面の若者が、ほぼ完璧な北京語で言って、奥のコックピットへとアリシアを誘う。
「機長のメンドバヤル大尉です」
操縦士席に座る小太りの中年男を、バルドルジ少尉が紹介する。アリシアは北京語で挨拶した。メンドバヤル大尉が、むっつりとした表情でうなずく。……彼も、中国人はお嫌いのようだ。
アルタグ中尉の部下も、続々とクラムシェルドアから乗り込んできていた。084特殊任務大隊は空挺部隊でもあるから、ヘリボーンの経験も豊富であり、兵士たちはMi‐17にも慣れていた。手早く装備を固定し、キャンバスシートに腰を下ろす。
機内に乗り込んだモンゴル兵は合計で十人だった。アルタグ中尉の命令で、上級伍長と二等兵の一人が、農場に居残ってレンジャー二台の管理を命じられたのだ。ズーハオ一味が戻って来た場合には、彼らと案内役の警察官の計三名が、逮捕に当たることになる。人数は少ないが、武装で勝っているので心配は無いだろう。
装備が固定されたことを確認し、バルドルジ少尉がクラムシェルドアを閉めた。メンドバヤル大尉が、Mi‐17を上昇させる。バルドルジ少尉がコックピットに戻り、操縦を引き継いだところで、アルタグ中尉が地図を手にコックピットに入った。メンドバヤル大尉と、捜索空域についてモンゴル語で手早く打ち合わせる。馬で北上できるルートは限られている。そのどれかに、ズーハオらは居るはずだ。
イフバヤル少尉が、双眼鏡を手に丸窓のひとつに取りついた。他のモンゴル兵も、窓にへばりついて対地目視捜索を開始する。アリシアも、双眼鏡を取り出すと窓に陣取った。
モンゴルマツの森を、五頭の馬が進んでゆく。
足元は相変わらずふわふわしていて頼りなかったが、ほぼ平地なので行程は捗っていた。シオは機嫌よく馬を歩ませた。
先頭を行くテムレーンが、馬を止めた。シオの馬が、指示されていないのにその隣で脚を止める。
森が切れていた。前方には、緑色を帯びた灰色と枯れ藁色と薄い黄緑色の迷彩柄のような平原が広がっている。幅は二キロメートルほど。長さは、五キロメートルはあろうか。
「湿地だ。ハナゴケが生えているだけだな」
テムレーンが、言う。
「迂回するのでありますか?」
「いや。水が溜まっているところを避ければいいだけだ。却って道が捗るよ。犬に案内させればいい」
テムレーンが大きく手を振ると、サルとボルが放たれた矢のように勢いよく飛び出し、湿地に駆け込んだ。二匹同時に止まって振り向き、早く来いと言わんばかりにこちらを見る。
テムレーンの馬を先頭に、一同は湿地へと踏み込んだ。馬の蹄が、湿ったハナゴケを踏む。ちなみに、ハナゴケは地衣類であり、いわゆる普通のコケ植物……蘚苔類とは、別種である。
そこかしこにあるカヤ植物の群落を回り込むようにしながら、隊列はゆっくりと進んでいった。窪んでいる箇所には澄んだ水が溜まっており、そこには鏡のように空と雲が映し出されていた。
不意に、二匹の犬が立ち止まった。何かを探すように、周囲を見回し始める。
『シオちゃん、何か音が聞こえませんかぁ~』
ベルが無線で話し掛けてきた。
『音でありますか?』
無線で返答したシオは頭を左右に振って、集音に努めた。
『はっと! 確かに南の空から異音がするのであります!』
『これは、ヘリコプターのローター音ではないでしょうかぁ~』
のんびりとしたいつもの調子で、ベルが送信してくる。
『あたいたちを探しているのかも知れないのであります!』
シオは急いでテムレーンとマイクにヘリ接近を報告した。
「まずいぞ」
マイクが、慌てたように周囲を見回す。
まことに運が悪いことに、今一行が居るのは湿地のど真ん中であった。身を隠すことが出来る地物や植物はほとんどない。右手の方に森があるが、そこまでの距離はたっぷり八百メートルはあろうか。
「走れ!」
テムレーンが言って、手綱を引き馬首を右に向けた。脇腹を蹴り、馬を走らせる。残りの者も、それに倣った。犬二匹も、主人を守るかのように、テムレーンの馬の左右を並走する。
五頭のモンゴル馬が、湿地を駆ける。だが、ハナゴケに覆われた地表は柔らかく、水に覆われた箇所……単なる水溜まりなら問題ないが、深かった場合は嵌まると身動きが取れなくなる……を迂回しなければならず、なかなか速度は上がらなかった。
イフバヤル少尉が、何事か叫ぶ。
モンゴル語であったが、その中にはアリシアが昨日聞き覚えた単語が混じっていた。
『アドー』……モンゴル語で馬全般のことを指す言葉である。
アリシアはコックピットに顔を突き入れた。
すでに、二人の操縦士は地上の馬列を視認していた。Mi‐17の機首を向け、接近してゆく。森の中にぽっかりと空いた平地に、人を乗せた馬が小さく見えている。アリシアは馬の数を数えた。全部で五頭。ヘリの接近に気付いたのか、列を乱して東側にある森の方へと駆けてゆく。
……逃がさない。
アリシアはキャビンに戻った。すでに、アルタグ中尉がキャビン左前方の乗降用スライドドアを開け、AKMSの銃口を突き出していた。その隣には、RPKを構えた一等兵が陣取っている。
アリシアは一等兵の肩越しに外を見た。操縦士が機体をわずかに横向きにして、アルタグ中尉らの射界を確保する。
「間に合わないのであります!」
シオは喚いた。
森の際までまだたっぷり四百メートルはある。だが、接近するヒップ・ヘリコプターはすでに一キロメートルほどにまで近付いており、なおも近付いてくる。幸いなことに、純然たる輸送型らしく、胴体左右に張り出したハードポイントは無く、ロケットポッドやガンポッドなどは搭載していないようだ。とは言え、こんな開けた処にいては、軽火器で掃射されただけで全滅してしまうだろう。
「反撃するのですぅ~。マイクさん、ライフルを貸してくださいぃ~」
馬を走らせながら、ベルが言う。
「あたいたちで時間を稼ぐのであります!」
シオも言った。他に方法はない。ボルトアクション・ライフルでヘリコプターを撃墜するのは、奇跡でも起きない限り無理だが、撃てばそれなりの牽制にはなるだろう。もちろん、反撃されればシオとベルの方もただでは済まないのだが。
馬の足を緩めたマイクが、ベルにモシン・ナガンを放った。シオには、予備弾薬が入った布袋を放る。
「頼んだぞ!」
それだけ言い残して、マイクがテムレーンとズーメンの後を追った。
ベルが馬を降り、モシン・ナガンを構えた。シオも馬を降り、ベルの前に立った。姿勢を低くしたベルが、シオの肩にライフルを載せて安定させる。
「ベルちゃん、覚悟を決めるのであります! 人間よりも、あたいたちは被弾に強いのであります!」
シオは強がりだと承知の上で言い放った。
「とにかく、皆さんのために時間を稼ぐのですぅ~。シオちゃんが、わたくしの楯になってしまったようで心苦しいのですぅ~」
狙いを付けながら、ベルがシオのことを気遣う。
「気にしないでいいのであります! ベルちゃんのために、立派な楯となってあげるのであります!」
シオは無い胸を張って言い放った。
目標が、二手に分かれた。
どちらも、距離は五百メートル程度。充分に狙える距離である。
「中尉、撃って! 射殺しても構いません」
アリシアは指示した。Mi‐17はホバリング状態にあった。機体はぶるぶると振動しているが、精鋭部隊なら地上の目標に命中させることは難しくないはずだ。
「だめです」
アリシアが驚いたことに、アルタグ中尉がかぶりを振る。
「撃ったら、馬に当たってしまいます」
「はぁ?」
さしものアリシアも、当惑が表情に出た。
「イフバヤル少尉?」
後ろを振り返ったアリシアは、副指揮官を見た。だが、こちらもかぶりを振っている。
……この馬フェチ民族が。
アリシアは諦めてコックピットに呼びかけた。
「バルドルジ少尉! もっと接近して!」
馬上の人間だけを狙撃できる位置まで接近すれば、アルタグ中尉も躊躇せずに撃ってくれるだろう。
「判りました!」
コックピットから、応諾する中国語が聞こえる。
Mi‐17がホバリング姿勢から、機首を下げた前進姿勢となった。その途端、機内にぎゅんという異音が響く。
Mi‐17が機体を傾かせた。機首上げの姿勢で、旋回を始める。
「どうしたの?」
ふたたび、ぎゅんという異音が聞こえた。キャビン内を見ると、アルタグ中尉の部下たちが身を縮めていた。装備を頭部や胸部に宛がっている者もいる。
「狙撃されています、中校」
自分のAKMSを胸に抱くようにしながら、イフバヤル少尉が説明してくれる。
「二発目も命中したのであります! ベルちゃん、凄いのであります」
シオはベルの腕前を褒めた。
「ちゃんと規正してあったようですねぇ~。標的が大きいから、よく当たりますですぅ~」
喋りながら、ベルが三発目を撃った。人間と違い、発声に筋肉を使わない……そもそも筋肉が無いが……から、喋りながら撃っても照準がずれることはない。
「でも、何で撃ってこないのでしょうか?」
シオはベルのために標準的感情表現動作としてプログラムされている『疑問を発した時に同時に行う首傾げ』をキャンセルしつつそう言った。
「不用意に近づけません!」
コックピットから、バルドルジ少尉が叫ぶ。
……中国人のために、怪我をしたくないのか。
アリシアは呆れた。機関銃で撃たれているならともかく、小口径の銃で単射されているだけなら、強引に突っ込んで狙撃すればいいだけだ。Mi‐8/17系列のヘリコプターは、タフな機体として知られている。多少被弾したくらいでは、びくともしないだろう。
……仕方がない。方針を変えよう。
「中尉、あなた方ならファストロープできるでしょう。先回りして森の中に数名降ろして」
「判りました」
馬を撃てと言われなかったことに安堵したのか、ほっとした表情でアルタグ中尉が言って、部下に命令を始める。イフバヤル少尉が、メンドバヤル大尉に作戦を説明するためにコックピットに入った。
「お、諦めたのでしょうか?」
五発を撃ち尽くしたベルに新しいクリップを渡しながら、シオは言った。
「だといいのですがぁ~」
クリップを押し込みながら、ベルが言った。
Mi‐17は、森へ向けてひた走る三頭の馬を大きく迂回するように機動していた。森の上空へ達すると、そこでホバリングを開始する。一本のロープが投げ出され、機体の下でくねるのが見えた。
「兵員を降ろすつもりのようですねぇ~」
「まずいのであります! マイクたちと合流するのであります!」
シオとベルは馬に跨った。
ジャルガル曹長が三名の部下を率いて、まず降下する。
北へ向けて飛行したMi‐17が再びホバリングし、垂らしたままのロープにアルタグ中尉が三名の部下を連れて降下する。
機内には、イフバヤル少尉とRPK射手、それにアリシアら三人の中国人が残っていた。このうち四人……イフバヤル少尉と中国人三人が、森の際に降りて、三つのグループによって形作られる三角形の中にズーハオらを閉じ込めようという作戦である。RPK射手は、ヘリに残って上空から支援を行う手筈だ。
だが、この作戦は失敗した。
モンゴル人にとって、馬は大事な動物である。その次くらいに大切な動物が、犬である。狩猟/牧畜の民にとって犬がどれほど身近で、かつ役立つ動物であるかは、言うまでもない。
テムレーンらは、無事に森の中に分け入った。ヘリコプターからロープで兵員が降下したのは目撃しているので、待ち伏せされているのは承知しているが、引き返して開けている湿地に戻るわけにはいかない。ここは強引に突破し、森の中に紛れてしまうしか手は無かった。
「行け」
テムレーンが、犬二匹を叱咤する。
森の中を駆けだしたサルとボルは、兵士たちの至近に迫ると吠え立てた。吠え声を浴びせられたジャルカル曹長たちは困惑した。犬は撃ちたくないし、そもそも森の中で見通しが悪く、姿が見えないので撃ちようがない。それに、射撃すればこちらの位置を暴露することになる。完全包囲できるほどの人数がいないのだ。目標にこちらの位置がばれれば、その間をすり抜けられてしまう。
吠えていたボルが、急に口をつぐんだ。サルに鼻面をこすりつけてから、駆け出す。……アルタグ中尉らの存在を『嗅ぎ付け』たのだ。すぐに至近に迫り、吠え掛かる。
テムレーンは、犬の吠え声で敵の位置を知り、その間を抜けようと馬を進めた。マイクとズーメンが、続く。
「無理するな」
目標の位置がつかめないまま、いきり立って前進しようとした一等兵を、アルタグ中尉は制した。……敵も武装しているのだ。こんな作戦で部下を失うわけにはいかない。大隊長からも、作戦の成功よりも部下の命が優先だ、と言い含められているのだ。
「敵の位置が掴めません。犬の吠え声からして、遠くには行っていないはずですが……」
小型無線機を傍受していたイフバヤル少尉が、すまなさそうな表情で告げる。
アリシアらは、森の際に固まって身を隠していた。目標の気配は無いが、軽武装……突撃銃を持っているのはイフバヤル少尉だけで、あとの三人は官給拳銃だけである……なので、不用意に森の中へは踏み込めない。
アリシアの隣では、ツァオがぶつぶつと文句を言いながら靴下を絞っていた。Mi‐17は接地せず、超低空でホバリングした状態でアリシアらが飛び降りたので……地面の様子が詳らかでない状況下での、常識的な手順である……その際にツァオは誤って水溜まりに踏み込んでしまったのだ。
「中校。バルドルジ少尉です」
モンゴル語でやり取りしていたイフバヤル少尉が、無線機をアリシアに差し出した。
「ウーです」
「中校。燃料がそろそろ危ない状態です。帰還する必要があります」
空軍少尉が無線を通じて報告する。
「すぐに帰還を。給油次第、ここに飛来して全員を拾って。捜索を続けます」
アリシアはすぐに決断した。給油時間を含めても、二時間あればMi‐17は戻ってこれるだろう。ズーハオらが馬で移動できる距離は限られている。色々と不手際はあったが、位置は特定できた。次こそは、捕捉できるはずだ。
第十四話をお届けします。




